70年8月・メッス西部の戦いに至るまで
ここまで独仏開戦から「ボルニー=コロンベイの戦い」に至るおよそ1ヶ月間を見てきましたが、表層上、独軍(ほぼ9割がプロシア軍ですので、以下普軍とします)の「快進撃」と仏軍の呆れるほどのお粗末な「敗退」ばかりが目立つ結果となっています。
しかし、賢明な読者のみなさんはお気付きと思いますが、全てにおいて普軍が仏軍を圧倒していた訳でなく、特に兵士の質(ズアーブなどの植民地兵と長い兵役)や兵器(シャスポーとミトライユーズなど)はむしろ仏軍有利な部分も多くありました。
また通説ともなっている、モルトケ率いる普参謀本部の「すばらしい先進性」により旧弊な軍律と指揮系統を持った仏軍を凌駕した、との感想も又、一部間違っている感があります。
モルトケと普参謀本部は「全て」お見通しで正しかった訳でなく、また、仏大本営と統帥部が「全て」間違っていた訳ではありません。
戦場においては仏軍が普軍に上回る戦力を維持していた例は、この70年8月の盛夏において幾度も訪れ、現場の仏軍下士官兵も奮戦して普軍を窮地に陥れた場面もまた多くありました。
特にこの後、みなさんと推移を見守ることとなる「ヴィオンヴィル/マルス=ラ=トゥールの戦い」は、十四万の仏軍に七万の普軍が立ち向かう、という戦力差が呆れるほど大きな激戦で、「常識」(ランチェスターの法則を思い出してください)で考えるのなら、普は仏の大軍によって擦り潰されるのは必至の状況、絶体絶命の危機にあったのです。
軍事統率部にとって素晴らしいシステムであるはずの「プロシア式」参謀本部と、「委任命令」「共同責任」という指揮官の半独立制と負担軽減により、仏軍より遙かに近代的な軍制を誇った普軍が、なぜメッス要塞の「西側」で本戦争最大の犠牲を伴った会戦を行わねばならなくなったのか。
「マルス=ラ=トゥールの戦い」に至る普仏両軍の行動を見る前に、その点を整理しておきたいと思います。
この「マルス=ラ=トゥール」の戦場において、普軍前線部隊が倍する敵仏軍に向かったのは、またもや現場指揮官の「独断専行」でした。
もし、冒頭の考えのように「モルトケと参謀本部は全てお見通しで正しかった」のであれば、開戦以来戦況が一度も参謀本部の作戦計画通りに進まず、現場指揮官の独断専行で物事が推移したのは何故だったのでしょう?
それを一言で言うなら、「偵察(情報・諜報)の不足と不徹底」であった、と複数の戦史家・戦術家が主張しています。
特に偵察活動の中心となるこの時代の普軍騎兵は、『「ヴルト」「スピシュラン」の意義)』の項で述べた通り「虎の子」と目され、エリートである種優遇された(甘やかされた?)状態であったため、偵察活動にはあまり熱が入らず、また偵察の報告も「近視眼・狭視野」的な内容が多かったように思われます。
もちろん、開戦劈頭の若きツェッペリン伯の敵地偵察行や、名門貴族師弟たちによる目立つ少数長距離偵察はありました。しかしこれらはどちらかと言えば当人の勇気剛胆さと家名に恥じぬ戦功を得たいという「功名・冒険心」の発揮に思えるのであり、偵察によって得た「情報」より、それを行った当人の行為が賞賛された様子がありありと伺えるのです。
また、普参謀本部で重視されていたはずの敵国情報の獲得(諜報・情報分析)も、開戦後は前線指揮に人員が傾注されたためか目立つ活動はありませんでした。
大胆不敵な勇気と冷徹な平常心、という戦士の素養を競うがあまり、偵察・諜報の本質が理解されていなかった(または軽視された)と言うことで、この結果、普大本営(=参謀本部)は敵の配置や状況を見誤り、その結果独の三軍は、敵情の見えぬまま敵がいるであろう「大体の方向」に進み、ほとんど計画にない「遭遇戦」の形となっている、そう主張されているのです。
この批判は、多少当時の状況を加味していないとは言え、軍事上の優劣を考えた場合、もっともな批判だと思います。
スピシュランとヴルト後に仏軍を見失った後、独軍の騎兵たちは仏軍を探し広範囲に偵察行を行いましたが、その多くは空振りに終わり、敵味方が比較的狭い範囲で動いていた北部独第一軍任担のメッス東側の戦線ですら、バゼーヌの軍勢の全体像は見えないまま(メッスよりモーゼル下流域のティオンビル方面にも敵がいると考えていたり、ニエ=アルマンド川の線から仏軍が退いたのをほぼ2日間気付かなかったりしたことなど)、コロンベイ戦に至っているのです。
この偵察不徹底という欠点は、何も普側に限ったことでなく、仏側はもっと惨い有様、何せ参謀総長だったル・ブーフ大将がコロンベイ戦後にバゼーヌに送った書簡(後日詳述します)で、カール親王の「北軍」、シュタインメッツの「中軍」と発言したことはその証拠です。カール王子の独第二軍は開戦以来常に「中軍」であり、シュタインメッツ将軍の独第一軍は「北(右翼)軍」、こんなことは外国報道特派員や従軍記者なら新人でも知っていたことでしょう。
大本営の総参謀長がこの誤認ですから、仏軍情報力の恐ろしい貧弱さは察して有り余るところがあります。
この普軍以上に偵察・諜報力の劣った仏軍のおかげで、普大本営は随分救われたのではないかと思われるのです。
次に、ここまでの仏軍上層部の「指揮権変遷」をまとめてみましょう。
何故ここまでクドく語る?とお思いでしょうが、この呆れる「惨状」を見ないことには、以下記述する戦記が「へたくそ」なファンタジーに見えてしまう、との筆者の危惧からだ、と思ってご辛抱ください。
遡ること7月13日。この日まで(つまりは平時)、ル・ブーフ大将は「フランス陸軍大臣」、バゼーヌ大将は「フランス近衛軍団長」でした。
開戦が決まるとル・ブーフは望んだのか望まぬかは別として、ナポレオン3世皇帝により「ライン軍参謀長」に、バゼーヌはメッス・ロレーヌを中心とする連隊をまとめた「大将指揮軍団(4個師団4個騎兵旅団制)」の「第3軍団長」に任命されました。
7月15日。早速メッス要塞を本営にして着任したバゼーヌに大命が下ります。
「ライン軍総司令官ナポレオン3世皇帝がメッス到着するまで、第3軍団以下、第2、第4、第5軍団も併せて指揮せよ」
ところが翌日16日になると、
「皇帝到着までの間、独仏国境北東部(ロレーヌとザール境界線)の全軍団の指揮をせよ」
と変更されました。この北東部国境の全軍団とは宣戦布告時点の仏野戦軍全体に当たります。つまりバゼーヌはザール前面に展開する主力の動員と集中に責任を負ったのでした。
しかし、その実権は全て大本営のル・ブーフ参謀総長に在ったことは確かなことでした。
先述しました通り仏軍の動員は混乱の極みとなり、その責任の一旦は、実質指揮をさせてもらえなかったのに名目上指揮官とされたバゼーヌにもある、とされてしまい、ここにバゼーヌとル・ブーフの対立が芽生えてしまいます。
7月26日。皇帝はメッスに先着したル・ブーフに「全権」を委任し、バゼーヌは「第3軍団長」に戻ります。
7月28日。ようやくメッスに到着した皇帝は自ら「ライン軍」司令官に就任しますが、ザール川を渡河して独領に侵攻することを決定すると、30日、バゼーヌにその「侵攻軍」の指揮を委ねます。
この任命は、第3軍団の集合と輜重の混乱収拾だけでも大変な思いをしていたバゼーヌにとって「ありがた迷惑」であり、この辺りからル・ブーフだけでなく皇帝とも「ぎくしゃく」した関係が始まります。
バゼーヌから見れば、数日間で指揮権を与えられたり奪われたり、猫の目でコロコロ変えられるのですからたまったものではありません。しかも、指揮権と言ってもお飾りに過ぎず、変わらず「横槍」が入り、それが皇帝だけでなくル・ブーフからもですから、バゼーヌも気の毒に見えてしまいます。
この指揮権の頻繁な交代は、麾下軍団の高級指揮官たちにも混乱と不快感を与え、「一体、誰の命令に服すればいいのか」という「船頭多くして」の例えに陥るのでした。
バゼーヌは8月に入って仏大本営(皇帝とル・ブーフ)から「おまえは黙って従っていればいい」とばかりにザール渡河作戦の詳細計画とかき集めた渡河資材を送られ、しかもこの資材は列車で当時の補給末端、フォルバックへ直接送られたものです。
当時の仏軍は先述通り、兵員のみならず馬匹と運搬任務に服する輜重兵や馬車もほとんど届いていない状態で、そこからスピシュラン高地の脇を抜け、起伏の多いザールブリュッケン南郊外をザール西岸まで運ぶ手段を考えると、途方に暮れるバゼーヌでした。
バゼーヌは麾下軍団長や工兵長、砲兵長官、輜重指揮官たちと協議しますが、皆一様に「ザール地方侵攻は動員未完了の現時点では不可能に近く、ザール渡河すら困難」との見解を持っており、その結果「とにかくザールブリュッケンへの強行偵察だけでも」ということで8月2日の「ザールブリュッケンの戦い」に至ります。
ナポレオン3世はこの戦いの戦勝を大いに喜び、バゼーヌは「お役御免」とばかりに指揮権を皇帝に召し上げられてしまいます。
この時に使われなかった架橋資材は、運ぶ宛のない多くの輜重と共に8月6日、フロッサール将軍の撤退によって普軍の手に落ちます。その結果、バゼーヌはモーゼル渡河の架橋資材を奪われてしまい、間接的にコロンベイの戦いを生んでしまうのでした。
8月5日午後。ナポレオン3世は再びバゼーヌを呼び出すと「第3軍団の他、第2、第4軍団の指揮も委ねる」とし、「第1、第5、第7軍団はマクマオンに、第6は戦略予備、近衛は皇帝直卒とする」と命令したのです。
今までもそうですが、何の予告もない任命には司令部である「軍本営」の設置を含んでおらず、また、呆れてしまったバゼーヌも総参謀長や本営設置の稟議すら行わない、という事態となります。
結局バゼーヌは「皇帝とル・ブーフが命じるままに動かねばならない我が身」を憂いただけで翌日の「スピシュランの戦い」を迎えるのです。
「スピシュラン」でのフロッサールとバゼーヌのかみ合わない電信のやり取りも、この流れで見てみると「さもありなん」と言ったところでしょう。この戦いの最中も仏大本営の皇帝とル・ブーフは無闇に戦況情報を求めたり指示を与え続けたりしており、バゼーヌがフロッサールと大本営の板挟みとなったことは想像に難くありません。
7日、ヴルトとスピシュランの結果を知った皇帝は、近衛軍団の指揮権もバゼーヌに与え、9日にはマクマオン傘下のファイー第5軍団もバゼーヌ指揮下に置かれます。しかし先述通り「朝令暮改」によってファイーは北上出来ず、マクマオンの待つシャロンへ進み続けたのでした。
この状態で8月12日、ナポレオン3世は全軍の総指揮権をバゼーヌに与えるという「とんでもない」命令を発したのでした。
この12日から14日にかけて何が起きたかは既に詳細を述べました。
バゼーヌは指揮権を握ったからには自らの戦略を実施しようとしますが皇帝はそれを妨害し、結局どっちつかずのまま「コロンベイ戦」をみたのです。
この後に仏軍を見舞う「大惨禍」はこうして「なるべくして起こった」のでした。
コロンベイ戦での仏軍戦死者
14日深夜。仏バゼーヌ軍はメッスの南北でモーゼルを渡河します。
バゼーヌは「コロンベイ戦」以前の13日深夜から14日早朝にかけて麾下軍団にモーゼル渡河とベルダンへの後退計画を知らせますが、その一端を「名目上の」参謀長ジャラス少将に任せます。
ジャラスとしては、本来その責務にある「後退計画の作成」には一切関知させられず「蚊帳の外」に置かれていたので面白いわけもなく、またバゼーヌの作戦も気に入らない部分が多かったのか、その実行にあまり熱心ではありませんでした。ただ伝達のみを粛々として行い、その計画を「膨らませ」て実行し易くする、と言った本来なら参謀として行うべき仕事を一切しませんでした。
15万に及ぶ大軍が1ヶ所のゴール目指して行くには、綿密な計画と後退順序やあらゆる意味での「交通整理」が必要です。それを行うべき参謀幕僚を束ねる参謀長が「無言」であったのなら、その行軍がどうなるのかは察しが付くと言うものです。
仏軍のモーゼル渡河は混乱の極みとなります。
特に輜重縦列の渋滞は酷く、兵員の渡河と行軍を大いに苦しめ停滞させてしまうのでした。
この結果、仏軍後退は予定より更に遅れ、「普軍によるマルス=ラ=トゥールの奇跡」が起こる下地が出来上がってしまうのです。
プロシアの偵察隊
敵中を突破する仏軍の伝令兵




