表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
197/534

コロンベイの戦い/戦術的勝利と戦略的勝利

 普参謀本部はこの「コロンベイ=ノイリー(ヌイイ)の戦い(独側呼称)」を「(軍事的に)指揮官の状況判断によって発生した不測の攻撃戦であり、不利であっても究極の目的達成(戦争自体の勝利に向けての戦い)を以て(その損害は)賄う(許容される)に足りる」とし、一時的にグルニー~メに至るメッス要塞前面を占領したことと敵仏軍の後退により「独側の勝利」である、と宣言しています。

 

 逆に仏大本営はこの「ボルニー=コロンベイの戦い(仏側呼称)」を「仏軍の後退に乗じて後衛を攻めた独軍を押し留め、仏軍より多大の犠牲を与え撤退させた」ので「仏側勝利」と宣言し、当時モーゼル川河畔で渡河を待っていたナポレオン3世皇帝をして、総司令官バゼーヌ大将に対し「朕は卿の勝利を祝する」と祝辞を述べさせました。


 しかし、この言に続けてナポレオン3世が「しかし、卿はこれで悪鬼プロシアの束縛を被った」と評した通り、この戦いは「仏の戦術勝利・独の戦略勝利」と呼べる代物です。


 この戦いに至るまで独軍は、多大な犠牲を出しながらも「ヴァイセンブルク」「ヴルト」「スピシュラン」と3つの戦いに勝利し、仏軍は退却に次ぐ退却で独軍の行くところ、放棄された塹壕陣地や避難民の群、抵抗を諦め降伏する落伍兵や包囲された要塞に籠城する護国軍を中心とする守備隊など、明らかに仏側が敗戦への路を転がり落ちていると思わせる情景が至る所で見られたのです。


 当然ながら独側(普軍)は士気旺盛で、特に第一軍では彼らの南側でモーゼルを渡河するカール王子の「敵中に決戦を求め突入する」進軍を容易にするため、メッス要塞付近で「ぐずぐず」する仏本軍を拘束する、という目的が軍団司令官から末端の小隊長にまで十分理解され、また自然と友軍に対する「思いやり」と「協調の心」が出来上がりつつありました。

 これは「明らかに勝っている」軍隊に特有の高揚感による「余裕」から生じるものなのでしょう。あのザール川に至るまでの「いざこざ」による「悪感情とライバル心」はこの時既に独第一軍と第二軍の間では希薄になっていたのです。

 つまりは「ヴルトの戦い」が普墺戦争での敵味方を越えて一致団結させたように、「スピシュランの戦い」がそれまでの「ぎくしゃく」とした第一軍と第二軍の関係・悪感情を「洗い流し昇華」させたのです。

 正に「勝利に勝る妙薬は無し」でした。


 この点から見れば、「コロンベイの戦い」は一見「引き分け」に見えるものの、普軍が「勝利」したのは確実と言えるでしょう。


 何故なら、この日戦いが発生せず、独第一軍が目前を後退して行くバゼーヌの軍勢を眺めているだけだったのであれば、仏の5個(第2、3、4、6、近衛)軍団は無傷でこの14日から15日に掛けて(つまりは史実より半日は早く)モーゼル渡河を終わり、直ちにナポレオン3世を追って西へ、ベルダン方向へと後退したはずだからです。

 こうなってしまうと、この後に推移を見ることとなる「マルス=ラ=トゥールの戦い(別名ヴィオンヴィルの戦い)」において普第3軍団と普騎兵諸部隊は史実より早く(つまりは多く)現れた仏軍と相対せねばならず、史実以上に激しく撃破され戦線は突破されてしまったかも知れませんし、最悪の場合、独第二軍が「網を被せる」前にすり抜けてしまったかも知れません。

 このいずれの場合にせよ、続けて発生するはずの「グラヴロットの戦い(別名サン=プリヴァーの戦い)」は発生せず、仏軍は西方で「バゼーヌ軍」(実際の当時の名称は「ライン軍」ですが、戦争当初の皇帝直卒による「『第一次』ライン軍」と紛らわしいので通称として使われる「バゼーヌ軍」で通します)と「シャロン軍」が合同し、ベルダンかセダンで主力同士がぶつかり合う激しく巨大な決戦が行われたのではないかと想像してしまいます。

 そうなったのであれば、普仏戦争はまた別の歴史を歩んだはずです。「パリ攻囲」(70年9月19日から)すら開始が遅れるか最悪消えてしまいかねず、独勝利は間違いないものの独側に史実より不利な歴史を与えたこととでしょう。


 「歴史IF」好きの筆者の「予想」は置いておくとしても、この戦いは単体ではなく、この後の展開に即して評価すべき戦闘と言えそうです。

 

 この戦いでも普軍指揮官の「独断専行」と「戦友愛」とでも呼ぶべき相互扶助の精神は戦闘の結果に大いに影響しました。

 フォン・マントイフェル将軍とフォン・デア・ゴルツ将軍については、隣接するお互いの部隊が「敵の後退を見逃さず」あの将軍なら「必ずや前進するだろう」との憶測で、「それなら共同して敵の後退を妨害しよう」とばかり部隊を前進させたことは、その典型的な例だと言えそうです。


 それでも、その猪突猛進とも言える普軍前衛の突進は、敵の数分の一の兵力で正面から(ゴルツ将軍なら「後背を襲った」と言いそうですが)ぶつかって行ったのは、ごく普通の他国軍人なら少々危険を無視し過ぎている、とでも評価しそうです。その結果、一時は第1、第7両軍団共に前衛が壊滅する可能性も出て、結局それぞれの本隊も出動することとなりました。

 しかも、軍司令官であるシュタインメッツ大将は配下の高級指揮官たちに「メッス要塞を後背にした敵にはこちらから仕掛けるな」と訓令しており、これは他の国の軍隊では「命令違反」の誹りを免れない行為です。

 

 また、第1、第7の両軍団を統合指揮するシュタインメッツ将軍の本営は戦場から10キロ以上東に離れて、将軍も情報伝達の遅れからか、夕暮れ時まで戦場に現れることはありませんでした。

 ツァストロウ(第7軍団)とマントイフェル(第1軍団)両大将は会戦中対面・会話する機会を得ず、麾下の部隊は別々の指揮系統で動いたとはいえ、それでも各所で独断即決と臨機応変を以て相互に協力し合う姿が見られるのです。


 このように普軍側は、敵仏軍の目的と思われる「西方への全軍後退」を邪魔するため「前衛を擦り潰す覚悟」で数倍の敵に向かいましたが、仏軍側はこれに取り合わず後衛のみで当たればいいものを、後退する軍団まで普軍の「挑発」に対し「まじめ」に応じてしまったのです。


 そもそも仏軍総司令官バゼーヌ大将は、指揮権を得た当初(12日)こそ皇帝の「ベルダンに後退せよ」との命令に難色を示し、メッスの東で戦うつもりでいましたが、皇帝の執拗なまでの後退示唆と独軍の早い進軍で考えを改め、とりあえず「ベルダン」まで退くことを了承しました。その初動が正に「コロンベイの戦い」のタイミングであり、仏軍はようやく西へ後退を始めた矢先に背後から襲撃を食らったのでした。


 とは言え、仏軍の後退は予定の行動であり、第3軍団とその背後に近衛軍団という二段構えでしっかりとした後衛を作っており、第4と第6、そして第2軍団は戦う必要もなく後退出来たはずでした。

 しかし、ちぐはぐなことに、さっさと後退すべき第4軍団のラドミロー将軍は自軍団を転回させ敵と戦うよう命令し、逆に、他軍団の後退する時間稼ぎをするためにボルニー高地の東端(ロヴァリエールからラ=プランシェット、そしてコロンベイに至る主にヴァリエール川の線)に堅い散兵線を敷いていた第3軍団は、旅団クラスの戦力である敵、フォン・デア・ゴルツ将軍の支隊とフォン・メメルティ将軍の支隊(戦力差およそ5対1)により、たったの一撃で渡河点を与えてしまうのです。


 「普軍びいき」で意地悪な筆者などは、仏第3軍団がその後は奮戦して普軍の攻撃を押さえ切ったことは認めるものの、どうもこれは普軍最初の攻撃時には責任ある者が不意を突かれて状況を把握出来ずに前線の指揮を執れず、前線の諸隊は(自主独立の気概がない仏軍のこと)下級指揮官の下で連携もなくばらばらに抵抗すると、それも少しの時間で重要な防衛拠点を放棄し後退してしまい、およそ1時間から2時間後位に上級指揮官が到着したか命令が行き渡るかして、仏軍はようやく効果的で組織的な戦闘を始めたのではないか、などとと推察してしまうのです。


 実際、「南」ヴァリエール川の渡河点(ロヴァリエール、ラ=プランシェット、コロンベイ)に対する仏第3軍団の「奪還攻撃」はコロンベイのみで行われたと言え、結局会戦の最中ではこれら渡河点を奪還出来ずに終わります。

 逆襲しなくても「よかった」仏第4軍団のヌイイ奪還が、一時的とは言え成功したのはなんとも皮肉としか言いようがありません。


 また、この会戦は珍しく午後遅く(午後3時30分過ぎ)に開始され、通常早朝から昼にかけて始まる会戦が、普通なら終了する時間に始まり、残兵狩りや野営地確保の時間帯(午後7時過ぎ・日没時)で最高潮に達するという、当時としては変則的な戦いでした。

 これも双方予期せぬ戦いだったことの証左ですが、このおかげで攻めた普軍がほぼ3個旅団で戦い始め、最後には5個旅団が中心となる戦いとなったのに対し、仏軍はほぼ5個師団が警戒していた陣地線に、後から2個師団が追加されるという兵力差の大きな戦いとなりました。


 戦場の配置を見ても明らかに護る仏軍有利であり、しかももう少し早く会戦が始まれば普第1軍団の残り2個旅団や第18師団、第16師団などの1個旅団も参戦して普軍完勝となったであろうことなどを考えると、普軍の「強さ」と仏軍の「弱さ」が目立つ戦いだった、とも言えるのです。


 特にこの戦いでも際立ったのは普軍砲兵の凄まじい威力で、第1軍団砲兵の86門と第7軍団砲兵の48門のクルップ製後装鋼鉄砲がなければ間違いなくこの会戦は参加兵員数が上の仏軍勝利となったことでしょう。

 この「大きな兵力差を圧倒的砲兵火力で補う」という戦い方は、正にあの「ランチェスターの第2法則」に従ったかのような戦術で、第二次大戦以降のアメリカやソ連の戦闘ドクトリンを先取りしたかのようです。


 逆にここでも仏軍のシャスポー小銃の能力が発揮され、普軍の兵士たちにとって、自分たちの小銃射程外(ドライゼの550mに対しシャスポーは1,200mと倍)から正確な弾道で襲ってくる一斉射撃ほど恐ろしいものはなかったでしょう。

 また、仏軍兵士の質については色々語られるところではありますが、少なくともこの70年8月の時点では下士官兵の個人的能力は普軍と対等かそれ以上で、よく鍛えられた兵員は様々な理由で「足を引っ張られ」つつも粘り強く能力を越えて戦い、普軍に自分たちが被った以上の損害を与えているのです。


 この仏軍の「弱さ」の正体は個人的な理由に起因するのではなく、皇帝を頂点とする仏軍組織自体が抱える致命的欠陥のせいだ、と結論されるでしょう。その「致命的欠陥」なるものはこれまで幾多も取り上げましたので、改めて問うのは止めて置きます(とは言え、バゼーヌ将軍については後述しましょう)。


 会戦の結果としては、仏軍は「予定通り」メッス要塞を抜けてモーゼル河畔で渡河して西岸に移る行軍を再開し、普軍はこの「敵の後退」を以て「勝利」として宣言、仏軍は「予定の後退」が普軍により邪魔されなかったことで「後衛戦闘が成功した」として「勝利」を宣言したのでした。

 バゼーヌ大将はこの夜、打撲傷(どういう経緯か詳細は分かりませんがあわてて転んだのではないか、などと陰口も叩かれたのではないでしょうか?)の痛みに顔をしかめながら「負けなかった」戦いの報告書を認めて皇帝に送付し、ナポレオン3世は強情なバゼーヌに前述の祝辞と「嫌味」を返したのでした。


 このバゼーヌ大将の負傷と、バゼーヌを継いで第3軍団長となり、わずか2日目で致命傷を負ったドカン中将の例を見ても、仏軍の何か「ちぐはぐ」な面が窺えると言うものです。


 確かにこの戦争は、始まって1ヶ月も経ない内に互いの将官が前線で負傷、戦死することが相次ぎました。この8月14日までの1ヶ月で仏軍はアベル・ドゥエー将軍、ラウール将軍、ドカン将軍を失い、独軍はフランソア将軍を失い、ボーズ将軍が再起不能に近い戦傷を受け、キルヒバッハ将軍も負傷しています。これらは砲弾や銃弾が飛んで来る最前線に高級将官がいたことを示しますが、ヴァイセンブルクでのドゥエー将軍やヴルトのラウール将軍、ボーズ将軍、そして「紅山」のフランソア将軍の例に対し、このコロンベイでのドカン将軍の例は少し違うような気がします。


 ドゥエー将軍やラウール将軍は敗れつつある自軍陣頭で、フランソア将軍やボーズ将軍は会戦の正念場で、それぞれ全力をふり縛らねばならない時に前線にあり、陣頭指揮の末に倒されました。正に指揮官の鏡とも言うべき姿であり、また、そのように賞賛されもしています。

 しかし形は同じ陣頭指揮での負傷ですが、ドカン将軍の場合はどうなのでしょう。ましてや、バゼーヌ将軍まで負傷するとは。

挿絵(By みてみん)

負傷するバゼーヌ大将


 仏軍のこの時の目的は「メッスを一旦捨ててベルダンへ退く」だったはずです。一旦退くと決めたのなら、余計なことはせず、さっさと退いてしまう。これは軍事のみならず一般のビジネスでも当たり前に思われます。

 現にヴルトに敗れたマクマオン将軍は独第三軍が慌てるほど見事な「逃げ足」を見せ、「尻尾」を掴ませませんでした。これが独第二軍にも影響し(ビッチュ方面で待ち構えていたのに空振り)、この貴重な2日ほどの足踏みがこの後の戦いにも影響しています。

 「退却」とは、なりふり構わぬ潰走でない限り立派な軍事行動・作戦で、それは「臆病」とか「卑怯」などという感情的な評価とはほど遠いところにあります。


 ところが、このメッス前面でのバゼーヌ大将の作戦は、一言で言えば「攻守どっちつかず」、曖昧な作戦となってしまいました。

 「退くならさっさと」でなく、「後衛戦闘」に重点を置いて、第3軍団と近衛軍団というどちらかと言えば真っ先に後退させるべき「主力」を「後衛」とし、後から駆けつけ戦力の整っていない第6軍団や、未だ戦っていない第4軍団、スピシュランで因縁となった第2軍団を先に後退させる命令を下したのです。

 挙句、単なる足止めを狙った普軍前衛に対し、まるで大会戦を指揮するかのように前線に繰り出したバゼーヌ大将は負傷し、その後任として第3軍団を預かったドカン将軍はバゼーヌ将軍の「熱意」に絆されたのか、はたまた自らもやる気を示そうとしたのか最前線で陣頭指揮を執り、致命傷を負ってしまうのです。バゼーヌ大将にとってこの戦いは、「後衛遅延戦闘」ではなく本格的遭遇戦だったのでは、と疑いたくもなるのです。


 これは戦争全体に影響を与えた仏軍の「欠陥」を浮き彫りにした典型的な例と思われるので、相手側普軍参謀本部ですら仏軍の行動の「意味を解しかねる」とする、「ちぐはぐ」の根本をもう少し探ってみましょう。


 まずはバゼーヌ将軍の経歴から。

 1811年にパリ郊外で生まれ、当時58歳の将軍は軍の最高司令官としては若い部類に入ると思われる軍叩き上げの人物です。アルジェリアでの反乱鎮圧やクリミア戦争、イタリア独立戦争で戦功を挙げたもののメキシコで評判を落とし、先述通りこの将軍は仲間に不人気で、皇帝も信頼はしていなかった様子ですが、民衆や下院では人気があり、無視出来ない存在でした。そのため、皇帝の取り巻きには持ち上げる者もいて、この地位となったようです。

 しかしナポレオン3世自体は(多少は信頼した時期もあったようですが)気に入らなかった様子で、スピシュラン戦以降は特にぎくしゃくした関係にありました。なのに皇帝はこの大将に軍を委ね身を退くのです。

挿絵(By みてみん)

フランソア・アシル・バゼーヌ大将

 バゼーヌ自身、この任命には気が重く、しかも指揮命令権を離したはずの皇帝は相変わらず横槍を入れて来るので、バゼーヌの考える「戦略」を実行しようにもうまく行かなかったようです。


 しかも、この「バゼーヌ軍」の参謀にはジャラス少将が就くのです。

 この将軍はバゼーヌと仲が悪く、参謀長を自ら選ぶ前にジャラスを皇帝から押しつけられたと感じたバゼーヌ将軍は参謀長を避けるように会おうとせず、ベルダンへの後退を促す皇帝に同調したジャラス参謀長が「大軍であるバゼーヌ軍をベルダンに退かせるのなら一刻も早い方が良い」と進言しても全く取り合おうとしませんでした。

挿絵(By みてみん)

 ジャラス

 また、この相互不信とも呼ぶべき状況は各軍団との間も同じで、バゼーヌはその胸に秘めた「戦略」を誰にも明かさず、軍団長たちは、後退なのかその前に戦うのか一切説明がないまま不安な数日を過ごした後、この「コロンベイの戦い」を迎え、早朝にようやく「ベルダンへの後退」を命令され、準備が完了していざ出発した途端、普軍のフォン・デア・ゴルツ少将が突進して来たのでした。


 このように、任命した将軍が気に入らず信を置けないと考えた皇帝がうるさく介入したお陰で、意地にもなったバゼーヌが自ら考えていた「メッスでの会戦」をもてあそんで後退を遅らせ、結果中途半端な状態に置かれた仏各軍団は戦意も上がらず、ラドミロー将軍(仏第4軍団)のようにいらぬ反撃を行う者や、ブルバキ将軍配下の仏近衛軍団のように、数キロという至近距離で死闘を繰り返す友軍(仏第3軍団)に一切手を貸さなかった部隊も現れるのです。


 また、「バゼーヌ戦略」(なるものがあるとして)はメッス要塞を後背として独第一軍と本格的決戦を挑むことだったのかもしれませんが、当時のメッス要塞は要塞司令官が「2週間持つかどうか」と言っている「張り子のトラ」状態で、長期籠城には耐えられないことは確実でした。バゼーヌ将軍は要塞砲の援護射撃とその城塞の防御力に依存したかったのかもしれませんが、メッス要塞の陥落はロレーヌ地方の失落につながり、そのイメージはパリ市民にも不穏な空気を醸し出すはずなので、民衆と議員に人気のあったバゼーヌはそこを考慮していたのかもしれません。


 とはいえ、少し戦って敵を怯ませたら一気に後退、などという「ヒット・エンド・ラン」作戦だった可能性も高く、そんな器用なことがこの時の仏軍に出来たとも思えません。いずれにせよ、この「中途半端なちぐはぐ」さは致命的となったのでした。


 真剣にベルダンへの後退を考えるなら、要塞やその分派堡塁に第2軍団か第4軍団の一部を付け、それ以外は一気にモーゼルを渡河してメッスを顧みないで去れば歴史は確実に変わりました。

 「2週間と持たない」は逆に言えば「2週間は持つ」のです。サン=ジュリアン分派堡塁やベルクロア堡塁、クール分派堡塁は普第1軍団や第7軍団、そして第9軍団の進撃を最低でも2、3日留められる力があり、後衛戦闘だけならその外に野戦軍など必要なかったのです。現実でも南側独第三軍の戦区では、複数の要塞が数日から数ヶ月も籠城に成功しているのです。しかし歴史は違う道を辿り、後知恵はここまでと致しましょう。


 一方、普軍側では再び独断専行が現れ、

 前衛支隊長のフォン・デア・ゴルツ将軍は「敵の退却を妨害するのは道理」とばかり軍命令の「敵にこちらから仕掛けるな」を破って突進し、

 第1軍団長マントイフェル将軍は「敵の後退を追跡するため準備せよ」と命じた後にゴルツ支隊の突進を見て「援護せよ」と自分の前衛を前進させて戦闘を拡大し、

 第7軍団長ツァストロウ将軍は、部下であるゴルツ将軍の独断で既に後戻り出来ぬ段階と見ると、更に援軍を送って本格的会戦へと拡大させ、

 第18師団長のヴランゲル将軍は砲声を聞くと直ちに師団を北上させ、第一軍で戦闘が始まったと聞くや前衛を戦線に送って参戦させ、

 騎兵第1師団長のハルトマン将軍も砲声を聞いて部隊を前進させ、戦場に馳せ参じました。


 これを見ると普軍の高級指揮官たちは全て「砲声(=戦闘開始の合図)」を聞くや取りも直さず「戦場音楽」のする方向へ前進し、そこで戦っているのが「軍」違いであっても助太刀するという考えで統一されているのが分かります。


 逆に仏軍は「ヴァイセンブルク」でデュクロ将軍配下が戦場近くでも参戦しなかったことや、「ヴルト」でのファイー仏第5軍団の行動、「スピシュラン」で仏第3軍団諸師団が見せたお粗末な行動や、今回「コロンベイ」で戦場数キロ後方にいた仏近衛軍団が一歩も動かなかったこと、等々、硬直し融通の利かない命令遵守の態度と状況判断力の欠如、相互扶助の精神が皆無などが大いに浮き彫りとなっているのです。


 この「コロンベイの戦い」は「ヴルトの戦い」や、次に発生する「マルス=ラ=トゥール(ヴィオンヴィル)」「グラヴロット(サン=プリヴァー)」の戦いに比べ衝突した兵力も小さく、また損害も小さく、そして双方共に退くという結果によって、普仏戦争全体では目立たない会戦の一つとなっています。

 しかし歴史上、戦争全体の中で「転機」と呼ばれる戦いは必ず登場し、この「コロンベイの戦い」は次の二つの大きな会戦のお膳立て、「転機」となった戦いとして、普墺戦争の「スカリッツの戦い」に匹敵する重要な戦闘だったと思うのです。

挿絵(By みてみん)

ボルニーの戦い

 そしてこの戦いは、その「スカリッツ」の勝利者であるシュタインメッツという傑出した一代の英雄が、表舞台から去るきっかけともなったのでした。

 多くの軍事評論家や戦史家が語っていることですが、筆者もこの点については大いに頷けるところなので、最後にこの原因について記しましょう。


 8月13日の夜にモルトケ参謀総長がシュタインメッツ大将に下した命令は、「14日第一軍はニエ=フランセーズ川の線で留まり、前衛を出してメッス要塞付近の敵が後退するか攻勢を取るかを監視せよ」と言うものでした。シュタインメッツはこれを文字通りに受け止めて麾下に「攻勢を取るな」と命じたのですが、もし、部下たちがシュタインメッツの命令を仏軍の将軍たちと同じように杓子定規に実行した場合を想像すれば、空恐ろしい結果(前述した仏軍本隊のベルダンへの脱出行成功)となったことでしょう。


 あのゴルツ将軍の「独断専行」とツァストロウ将軍やマントイフェル将軍の「独断支持と戦闘拡大」は「この点」、つまり「改革者」グナイゼナウが規定しモルトケが信奉して推し進め、今や普軍の「ドクトリン」とすら言える「委任命令」と「共同責任」という面から見れば「立派な指揮・行動力」となる訳で、その「視点」がシュタインメッツにはなかった(又は、なくなっていた)と言えるのです。

挿絵(By みてみん)

シュタインメッツ大将

 その証左として、シュタインメッツは会戦後、軍団長と師団長たちに対し、己の命令を遵守せず戦闘を拡大したことを暗に責めるような態度を示した、と言います。

 シュタインメッツとしてはザール地方での進軍中、第二軍との進軍路が重なって揉めた時より、どちらも軍の後輩である参謀本部のモルトケと第二軍のカール王子に対し不快感を抱きつつ、それでも大本営(=参謀本部)の命令に逆らわぬよう慎重に行動したものの、スピシュラン戦の原因となる戦闘部署を配し、モルトケはその結果を称揚したものの、その後は常に第一軍の行動を制御し、時には逸るシュタインメッツの心を無視するかのように細かい指示を出して進軍を差配し、このコロンベイ戦を迎えました。


 シュタインメッツはそれでも何とか大本営の意に添うよう勤めようと努力し、この時も命令通り「監視だけで敵と戦わないよう」部下に命じたのでした。

 しかし、部下の「訓令無視」を咎めようとした矢先、参謀本部はモルトケの名でツァストロウやマントイフェル、そしてグリュマーやカメケ、そして前線3支隊の指揮官たちを誉め称え、「取れる手段を躊躇わずに実行し、倍する仏軍の退却を遅延させた前線指揮官たちの行動は、戦術の原則に従っただけでなく、あの状況では最良の判断と言える。仏軍はこの戦いにより退却を1日遅らせ、これにより、我が第二、第三軍のモーゼル渡河を容易にしたことを思えば、大本営と参謀本部としては前線の将兵に対し大いに謝意を表するものである」(筆者意訳)との謝辞を発したのです。


 これを聞いたシュタインメッツがどのような顔をしたものか、プライドを傷つけられた「猛将」の心情を想像するだけでも、哀れを催すものがあります。


 当然、モルトケや大本営の俊英たちは「スピシュラン」以前から、歳のせいか硬直し頑固になったシュタインメッツの姿に気付いていたことでしょう。「スピシュラン」では冷や汗ものだったものの結果オーライだったため、モルトケはシュタインメッツを庇い、称揚しつつその陰で「走り過ぎるな」と手綱を引き締めましたが、この「コロンベイ」の経緯が伝わるや、参謀本部にとってシュタインメッツは「最早ここまでの人」となったのです。


 このシュタインメッツや第一軍がどうなったのかは、この後徒然に書くこととして、筆者「会戦後恒例」の戯れ言はここまでと致しましょう。



ボルニー=コロンベイの戦い・戦闘序列


ドイツ(プロシア)軍


ドイツ第一軍

司令官 カール・フリードリヒ・フォン・シュタインメッツ歩兵大将

参謀長  オスカー・エルンスト・カール・フォン・スペルリング少将

※軍・軍団本営の詳細は「スピシュランの戦い 戦闘序列」を参照


∴第1軍団(オストプロイセン州) 

司令官 エドウィン・カール・ロチュス・フォン・マントイフェル騎兵大将

参謀長 フォン・デア・ブルク中佐

砲兵部長 リヒャルト・エミール・フォン・ベルグマン少将(砲兵第1旅団長)

工兵部長 ファーランド少佐(工兵第1大隊長)


○第1師団 

師団長 ゲオルグ・フェルディナント・フォン・ベントハイム中将

・前衛支隊 男爵ルドルフ・ルイス・フォン・ファルケンシュタイン少将

☆第2旅団 フォン・ファルケンシュタイン少将

*擲弾兵第3(オストプロイセン第2)連隊 フォン・レーガト大佐

*歩兵第43(オストプロイセン第6)連隊 フォン・ブッセ大佐

☆猟兵第1『オストプロイセン』大隊 フォン・プレッツ中佐

☆竜騎兵第1『リッタウエン』連隊 ルイス・カール・フォン・マッソー中佐

☆野砲兵第1『オストプロイセン』連隊第1大隊 ムンク少佐

*軽砲第1,2中隊(4ポンド12門)

*重砲第1,2中隊(6ポンド12門)

・師団本隊 男爵ヴィルヘルム・カール・フリードリヒ・フォン・ガイル少将

☆第1旅団 フォン・ガイル少将

*擲弾兵第1(オストプロイセン第1『皇太子』)連隊 ヴィルヘルム・フォン・マッソー大佐

*歩兵第41(オストプロイセン第5)連隊 フォン・メアーシャイト=ヒュレッセム中佐

☆第1軍団野戦工兵第2、3中隊/野戦器具縦列 など


○第2師団 

師団長 グスタフ・カール・ルートヴィヒ・レオポルト・フォン・プリッツェルヴィッツ少将

・前衛支隊 アルベルト・アレクサンドル・ギデオン・ヘルムート・フォン・メメルティ少将

☆第3旅団 フォン・メメルティ少将

*擲弾兵第4(オストプロイセン第3)連隊 フォン・ツィーテン大佐

*歩兵第44(オストプロイセン第7)連隊 フォン・ベッキング大佐

☆竜騎兵第10『オストプロイセン』連隊 男爵フォン・デア・ゴルツ大佐

☆野砲兵第1『オストプロイセン』連隊軽砲第5中隊(4ポンド砲6門)

・師団本隊 パウル・フォン・ツグリニツキー少将

☆第4旅団 フォン・ツグリニツキー少将

*擲弾兵第5(オストプロイセン第4)連隊 フォン・アルニム大佐

*歩兵第45(オストプロイセン第8)連隊 フォン・ムッチシェファール大佐

☆野砲兵第1『オストプロイセン』連隊第3大隊 ミュラー少佐

*軽砲第6中隊(4ポンド6門)

*重砲第5,6中隊(6ポンド12門)

☆第1軍団野戦工兵第1中隊/野戦軽架橋縦列 など


∴第7軍団(ハノーファー/ヴェストファーレン州) 

司令官 ハインリッヒ・アドルフ・フォン・ツァストロウ歩兵大将

参謀長 フォン・アンゲル大佐


○第13師団 

師団長 ハインリッヒ・カール・ルートヴィヒ・アドルフ・フォン・グリュマー中将

・前衛支隊 男爵アレクサンダー・エデュアルド・クーノ・フォン・デア・ゴルツ少将

☆第26旅団 フォン・デア・ゴルツ少将

*歩兵第15(ヴェストファーレン第2)連隊 フォン・デーリッツ大佐

*歩兵第55(ヴェストファーレン第6)連隊 フォン・バルビー大佐

☆猟兵第7『ヴェストファーレン』大隊 ライニッケ中佐

☆驃騎兵第8『ヴェストファーレン』連隊 アーレント中佐

☆野砲兵第7『ヴェストファーレン』連隊軽砲第5,6中隊(4ポンド砲12門)

・師団本隊 男爵アルベルト・レオ・オットナー・フォン・デア・オステン=ザッケン少将

☆第25旅団 オステン=ザッケン少将

*歩兵第13(ヴェストファーレン第1)連隊 フォン・フランケンベルク=ルートヴィヒスドルフ大佐

*フュージリア(銃兵)第73(ハノーファー)連隊 フォン・リェーベル中佐

☆野砲兵第7『ヴェストファーレン』連隊重砲第5,6中隊(6ポンド砲12門) ヴェルヘルミ少佐

☆第7軍団野戦工兵第2、3中隊/野戦器具縦列 など


○第14師団

師団長 ゲオルグ・アーノルド・カール・フォン・カメケ中将

・前衛支隊 ヴィルヘルム・フリードリヒ・フォン・ヴォイナ少将

☆第28旅団 フォン・ヴォイナ少将

*歩兵第53(ヴェストファーレン第5)連隊(F大隊欠) フォン・ゲルシュタイン=ホーヘンシュタイン大佐

*歩兵第77(ハノーファー第2)連隊(F大隊・第8中隊欠) フォン・コンラーディ大佐

*驃騎兵第15『ハノーファー』連隊 フォン・コーゼル予備役大佐

*野砲兵第7『ヴェストファーレン』連隊軽砲第1中隊(4ポンド砲6門)


○騎兵第1師団

師団長 フォン・ハルトマン中将

・集成胸甲旅団(臨時編成) フォン・リューデリッツ少将(騎兵第1旅団長)

*胸甲騎兵第2『ポンメルン/皇后』連隊 フォン・ブール大佐(第1旅団所属)

*胸甲騎兵第3『オストプロイセン/男爵ヴランゲル』連隊 フォン・ヴィンターヘルド大佐(第2旅団所属)

*野砲兵第1『オストプロイセン』連隊騎砲兵第1中隊(4ポンド6門) フォン・ブラウニッチェル大尉

☆騎兵第1旅団

*槍騎兵第4『ポンメルン第1』連隊 フォン・ラデッケ中佐

*槍騎兵第9『ポンメルン第2』連隊 フォン・クライスト中佐

☆騎兵第2旅団 バウムガルト少将

*槍騎兵第8『オストプロイセン』連隊 フォン・ベロウ大佐

*槍騎兵第12『リッタウエン』連隊 フォン・ローゼンベルク中佐


ドイツ第二軍

∴第9軍団 

司令官 アルベルト・エーレンライク・グスタフ・フォン・マンシュタイン歩兵大将

参謀長 ブロンサルト・フォン・シュルレンドルフ少佐

砲兵部長 男爵フォン・プットカマー少将(砲兵第9旅団長)

工兵部長 スティール少佐(工兵第9大隊長)


○第18師団

師団長 男爵カール・フォン・ヴランゲル中将

・前衛支隊 ハインリッヒ・カール・エミール・フォン・ブルーメンタール少将(歩兵第35旅団長)

*フュージリア(銃兵)第36(マグデブルク)連隊 男爵フォン・ブランデンシュタイン大佐

*竜騎兵第6『マグデブルク』連隊 男爵フォン・ホウヴァルド大佐

*野砲兵第9『シュレスヴィヒ=ホルシュタイン』連隊軽砲第2中隊(4ポンド6門) フォン・アイナッテン大尉


フランス軍


☆フランス第3軍団

軍団長 クロード・テオドール・ドカン中将

参謀長  クロード・ジュール・イシドロ・マネキュ准将

砲兵部長 ガエタン・ドゥ・グリモデ・ドゥ・ラ・ロシュブエ少将

予備砲兵長 シギスムント・ギョーム・ドゥ・ベルクハイム准将


〇第1師団(ジャン・バプティスト・アレクサンドル・モントードン少将)

☆第1旅団(師団長モントードン少将直卒)

・戦列歩兵第51連隊(アルフォンス・シャルル・ドレベック大佐)

・戦列歩兵第62連隊(ドフィン大佐)

・猟兵第18大隊(リゴー大尉)

☆第2旅団(ジュスタン・クランシャン准将)

・戦列歩兵第81連隊(コラビエ・デアルビキ大佐)

・戦列歩兵第95連隊(レオポール・クロード・エティエンヌ・ジュール・シャルル・ダヴー・ドゥ・オエルスタト大佐)

*師団砲兵隊(フールグ中佐)

・砲兵第4連隊第5、6中隊(4ポンド砲x12)

・砲兵第4連隊第8中隊(ミトライユーズ砲x6)

*工兵第1連隊の1個中隊


〇第2師団(アルマンド・アレクサンドル・ドゥ・カスタニー少将)

☆第1旅団(ネラル准将)

・戦列歩兵第19連隊(男爵ジョルジュ・アレク・ドゥ・ロネイ大佐)

・戦列歩兵第41連隊(フェリクス・ギュスターヴ・ソシエ大佐

・猟兵第15大隊(ラフーグ大尉)

☆第2旅団(デュプレシス准将)

・戦列歩兵第69連隊(ル・トゥルヌー大佐)

・戦列歩兵第90連隊(フィリップ・マリエ・アンリ・ルセル・ドゥ・クルシー大佐)

*師団砲兵隊(ドランジュ中佐)

・砲兵第4連隊第11、12中隊(4ポンド砲x12)

・砲兵第4連隊第9中隊(ミトライユーズ砲x6)

*工兵第1連隊の1個中隊


〇第3師団(ジャン・ルイ・メトマン少将)

☆第1旅団(ドゥ・ポチエ准将)

・戦列歩兵第7連隊(コトレ大佐)

・戦列歩兵第29連隊(ラランヌ大佐)

・猟兵第7大隊(リゴー大尉)

☆第2旅団(アルノード准将)

・戦列歩兵第59連隊(ドュエ大佐)

・戦列歩兵第71連隊(ドゥ・フェルユサック大佐)

*師団砲兵隊(サンペ中佐)

・砲兵第11連隊第6、7中隊(4ポンド砲x12)

・砲兵第11連隊第5中隊(ミトライユーズ砲x6)

*工兵第1連隊の1個中隊


〇第4師団(エドゥアール・エマール少将)

☆第1旅団(ドゥ・ブラウラ准将)

・戦列歩兵第44連隊(フルニエ大佐)

・戦列歩兵第60連隊(ボワシエ大佐)

・猟兵第11大隊(シャルル・アナトール・ドゥ・パイヨ大尉)

☆第2旅団(サングル・フェリエール准将)

・戦列歩兵第80連隊(ジャニ大佐)

・戦列歩兵第85連隊(プランシェット大佐)

*師団砲兵隊(マウクタン中佐)

・砲兵第11連隊第9、10中隊(4ポンド砲x12)

・砲兵第11連隊第8中隊(ミトライユーズ砲x6)

*工兵第1連隊の1個中隊


〇騎兵師団(ドゥ・クレランボー少将)

☆第1旅団(ドゥ・ブリュシャルド准将)

・猟騎兵第2連隊(ペルティエ大佐)

・猟騎兵第3連隊(サンソン・ドゥ・サンサル大佐)

・猟騎兵第10連隊(大佐)

☆第2旅団(ガイヤール・ドゥ・マルブランシュ准将)

・竜騎兵第2連隊(ドゥ・パティ・ドゥ・クラム大佐)

・竜騎兵第4連隊(オーガスティン・ヴィクトール・カシオドール・コルナ大佐)

☆第3旅団(男爵ベグーグネ・ドゥ・ジュニアック准将)

・竜騎兵第5連隊(ジャン・バティスト・ジョセフ・オヘナー大佐)

・竜騎兵第8連隊(ボワイエ・ドゥ・フォンスコロンブ大佐)


○軍団砲兵隊(ドゥ・ラジャイル大佐)

 ・砲兵第4連隊第7、10中隊(4ポンド砲x12)

 ・砲兵第11連隊第11、12中隊(12ポンド砲x12)

 ・騎砲兵第17連隊第1、2、3、4中隊(4ポンド騎砲x24)

○軍団工兵隊

工兵第2中隊の1個中隊半と工兵資材輸送隊


☆フランス第4軍団

軍団長 ルイ・ルネ・ポール・ドゥ・ラドミロー中将

参謀長 オーギュスト・アドルフ・オスモン准将

砲兵部長 ラファイル准将

軍団付 プリュドン准将


〇第1師団(エルネスト・ルイ・オクターヴ・クルト・ドゥ・シッセ少将)

☆第1旅団(ミシェル・シルベストル・フィリップ・アミルカー・ブライエ准将)

・戦列歩兵第1連隊(フレモン大佐)

・戦列歩兵第6連隊(ラバルト大佐)

・猟兵第20大隊(ドゥ・ラバリエール大尉)

☆第2旅団(ドゥ・ゴルトバーグ准将)

・戦列歩兵第57連隊(ギラウド大佐)

・戦列歩兵第73連隊(シュペルヴィエ大佐)

*師団砲兵隊(ドゥ・ナルプ中佐)

・砲兵第15連隊第5、9中隊(4ポンド砲x12)

・砲兵第4連隊第12中隊(ミトライユーズ砲x6)

*工兵第2連隊の1個中隊


〇第2師団(フランソア・グルニエ少将)

☆第1旅団(ベロン・ベルクール准将)

・戦列歩兵第13連隊(リオン大佐)

・戦列歩兵第43連隊(ヴィヴィル大佐)

・猟兵第5大隊(カレ大尉)

☆第2旅団(エルネスト・エマニュエル・プラディエ准将)

・戦列歩兵第64連隊(レジェ大佐)

・戦列歩兵第98連隊(レシェーヌ大佐)

*師団砲兵隊(ドゥ・ラルミナ中佐)

・砲兵第1連隊第6、7中隊(4ポンド砲x12)

・砲兵第1連隊第5中隊(ミトライユーズ砲x6)

*工兵第2連隊の1個中隊


〇第3師団(シャルル・フェルディナン・ラトリル『ロロンセ伯爵』少将)

☆第1旅団(シャルル・ピエール・ヴィクトール『パジョル伯爵』准将)

・戦列歩兵第15連隊(フラブール・ドゥ・ケルレアデック大佐)

・戦列歩兵第33連隊(ピエール・ジャン・マリエ・バティスト・ブーネット大佐)

・猟兵第2大隊(ル・タヌア大尉)

☆第2旅団(ベルジュ准将)

・戦列歩兵第54連隊(エデュアール・カイヨー大佐)

・戦列歩兵第65連隊(レオポルド・セイ大佐)

*師団砲兵隊(ルガルドゥール中佐)

・砲兵第1連隊第9、10中隊(4ポンド砲x12)

・砲兵第1連隊第8中隊(ミトライユーズ砲x6)

*工兵第2連隊の1個中隊


〇騎兵師団(フレデリック・ルグラン少将)

☆第1旅団(ドゥ・モンタギュー准将)

・驃騎兵第2連隊(カルレ大佐)

・驃騎兵第7連隊(ショシー大佐)

☆第2旅団(アンリ・アリスティド・ドゥ・ゴンドルクール准将)

・竜騎兵第3連隊(ビオー大佐)

・竜騎兵第11連隊(ユン・ドゥ・ヴェルネヴィル大佐)


○軍団砲兵隊(ドゥ・ソレイユ大佐)

 ・砲兵第1連隊第11、12中隊(4ポンド砲x12)

 ・砲兵第8連隊第6、7中隊(12ポンド砲x12)

 ・騎砲兵第17連隊第5、6中隊(4ポンド騎砲x12)

○軍団工兵隊

工兵第2連隊の1個中隊半と工兵資材輸送隊


挿絵(By みてみん)

ボルニー=コロンベイの戦い

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ