コロンベイの戦い/ドカン将軍の死
この14日、ロヴァリエールからグピヨン水車場にかけての戦線では、午後5時頃から同8時過ぎまで休みなしで激戦が繰り広げられました。
ここで戦った普軍(第1軍団の第43、4、44、3の各連隊諸隊)は多くが中堅指揮官を失い(戦死か負傷後送)、戦場が夕暮れ時となり薄暮で見通しが悪くなって来ると、疲れ切った兵士を抱える部隊では前線を離れ自然とヴァリエール川の渓谷に降り、川を渡って東岸の斜面を登り、街道に向かって後退する者が出始め、この流れは完全な夕闇迫る頃となれば次第に戦線全体へと広がって、全面的な後退へと移行してしまったのでした。
もし仏軍でこの機会を逃さず反撃に転じる鋭敏な指揮官がいたら、普第1軍団は潰走するところだったでしょう。しかし、仏軍もまた疲れ果て、また本来ならとっくに後退していたところだったので、この機に乗じて独断で進撃する部隊など皆無だったのです。
逆にこの普軍の危機に素早く対処したのは、やはりと言うべきか普軍指揮官の方でした。
普第1師団長フォン・ベントハイム中将は第1軍団の砲兵列線で指揮を執っていましたが、正面ロヴァリエールの戦線が後退し始めた、との報告に接するや馬に飛び乗り前線へ疾駆し、引き上げる疲弊した隊列の脇を行き来しながら声を張り上げ将兵を叱咤激励し、その後退運動を自ら身体を張って押し留めたのです。
ベントハイム将軍は、長時間の戦闘で疲弊し指揮官を失って散ってしまった兵士を整列させ、臨機に二つの混成集団にまとめるとその先頭に立ち、剣を抜いて振り挙げると「前進!前進せよ!」と叫び、再びヴァリエール渓谷西岸斜面上にいるはずの仏軍散兵線へ突進したのでした。
しかし、師団長将軍が先頭に立つと言う必死の攻撃も、大山鳴動して鼠一匹、空振りに終わります。ほぼ1個旅団に上る普軍諸隊が、あれだけがんばっても抜くことが適わなかったロヴァリエールの対岸、ベルクロア交差点を中心とした強力な仏軍散兵線からは僅かな応射があるだけで、普軍の前進は嘘のように捗ります。
既に仏第3軍団の諸兵が本格的に退却を始めていたのでした。
午後9時を迎えて夜闇はますます深くなります。仏第3と第4軍団は、南はグリジーから北はブゾンヴィル街道沿いのヴァニーまで、一斉に総退却へと移ったのです。
その隊列は長々と続いてメッス要塞とモーゼル河畔に向かい、未だ追撃する気力を見せる普軍部隊に対してはメッス要塞の各分派堡塁、特に北のサン=ジュリアン分派堡塁から大口径の要塞砲が火を吹いて砲撃を繰り返しました。
普軍左翼、騎兵第1師団ではフォン・ブラウニッチェル大尉率いる騎砲兵中隊が陣地転換を繰り返し、敵の後退に合わせて前進してグリジーやボルニー周辺からメッス要塞へ退却する仏軍に砲撃を繰り返し、それは夜の闇に閉ざされた後も敵の砲火が瞬くのを視認するやその方向に砲撃するという「しつこさ」でした。
この「グリジー攻防戦」は午後9時に自然終結し、第二軍第18師団と騎兵第1師団の諸隊は順次後退して、元々予定された本日(14日)の野営地へと帰って行ったのです。この方面ではこの夜、ジュリー周辺に集合した槍騎兵第4「ポンメルン第1」連隊がメッス要塞に対する警戒前哨任務に就いたのでした。
ほぼ戦闘が終結した午後9時前後であっても、第1軍団の戦場正面では更に戦闘が続いた地点もありました。
この「コロンベイの戦い」は普第1軍団と第7軍団にとって全力を挙げた戦いと見えましたが、結果的には砲兵部隊以外、各師団の1個旅団を中心とした前衛が仏軍の散兵陣地に突進し戦った「限定的」な戦闘でした。
そのため、前衛の奮戦を援護するために後方から、その部隊の本隊が続々と進み始めていたのです。
第1軍団では第1旅団が午後5時30分、命令によりクールセル=ショシー付近の野営地から出発してモントワ付近まで前進後、旅団長の男爵ヴィルヘルム・カール・フリードリヒ・フォン・ガイル少将は旅団前衛の第41連隊から第1大隊を先行部隊として苦戦が続くロヴァリエールまで前進させました。
また、擲弾兵第1「オストプロイセン第1『皇太子』」連隊と第41「オストプロイセン第5」連隊の両F大隊(第1連隊の大隊は2個中隊のみ)をノワスヴィル方面へ派遣し、右翼側の第二線を構成させました。
ガイル将軍は旅団残りを率い、ノワスヴィル南方のビール醸造場周辺に師団予備として待機しました。
第1師団長のベントハイム将軍が後退した部隊を反転させ、自ら先頭に立って出撃した時、将軍はガイル旅団長へ伝令を走らせ、自分に続いてロヴァリエールの渓谷へ進むよう命令しますが、直ぐにその必要がなくなり(敵が後退を始めたため)、最前線に展開する第1師団砲兵(4個中隊)の護衛任務として、第41連隊第2大隊のみがロヴァリエールを越えてヴァリエール川西岸へ進出するのです。
先にロヴァリエールへ進出していた第41連隊の第1大隊は、連隊長男爵グスタフ・アドルフ・オスカー・ヴィルヘルム・フォン・メアーシャイト=ヒュレッセム中佐が直卒していましたが、この大隊はロヴァリエールから渓谷に沿って北上すると、ちょうどメ高地へ攻撃を仕掛けたレーガト大佐の部隊左翼後方に付き、大佐の攻撃が功を奏すると西へ転向し、敵の去ったヴァントゥー部落を抜くとそのまま西のヴァリエール部落へ突入し、この渓谷の部落から北側斜面を登り、ブゾンヴィル街道の南道路肩まで達すると、なんと退却中の仏第4軍団の本隊の行軍列に行き当たってしまったのです。
この邂逅には双方共に驚いたことでしょうが、さすが普軍と言うか、ヒュレッセム連隊長は数倍の敵に対し、大隊に攻撃陣形を作らせ、敵の隊列に側面から猛射撃を浴びせたのでした。
しかし仏軍も落ち着いて対応し、ちょうど行軍列に加わっていた砲兵隊のうち1個中隊が隊列を離れて、直ちに砲口を普軍に向けると速射を始めるのです。
明らかに不利な状況で、またこの地はメッス要塞の北東方を護るサン=ジュリアン分派堡塁の直下であり、この稜角からも砲火を浴びるに及んで普軍大隊は先頭中隊のみ敵の後続部隊にわずかの間射撃を浴びせた後、一気にヴァリエール部落に下り、更に東方味方の前線へと撤退するのでした。
フォン・メアーシャイト=ヒュレッセム(大佐時代・71年の肖像)
ノワスヴィルに向かった第1と第41連隊のF大隊のうち、第1連隊の第10、12中隊(大隊残り2個中隊はクールセル=ショシー防衛のため残留しています)はノワスヴィルの南へ向かい、ベントハイム師団長の「突撃」の際に急進してヴァリエール川を渡河、攻撃の右翼側に続いて突撃を援護しました。
第41連隊のF大隊中、第10中隊はノワスヴィルを西へ迂回し渓谷を越えて日没時にヴィレ・ロルムへ進出し、他の3個中隊は逆側の東側を迂回してセルヴィニー南のブドウ畑に進出し、予備部隊として待機するのでした。
第1軍団予備となった第4旅団は、第1旅団に遅れてクールセル=ショシー付近からグラ城館付近まで前進した後、ノワスヴィル付近への前進を命令されますが午後7時になって軍団長マントイフェル将軍の命令により2個大隊をヌイイに進め、残り部隊はセルヴィニーへ進んだ後、西から普第1軍団を包囲に掛かる仏軍部隊に対抗することとなりました。
ヌイイへ向かう2個大隊は擲弾兵第5「オストプロイセン第4」連隊の第1、2大隊となり、この2個大隊はノワスヴィルの北を迂回してヌイイへ入りますが、この時にはメ高地が第44と第3連隊により陥落しており、この2個大隊はヌイイ北西方のブドウ畑で待機することとしました。
この第4旅団を率いるフォン・ツグリニツキー少将は、更にマントイフェル将軍の命令を実行して、第45「オストプロイセン第8」連隊第1、2大隊をセルヴィニーへ進め、部落の西をヴィレ・ロルムへと進ませると、将軍自らは第5と第45連隊のF大隊を直卒して第二線としてヴィレ・ロルムへ進みました。
しかし既に戦闘は収束し、各地における小さな遭遇戦のみとなっており、ツグリニツキー将軍は旅団の前進を止め、4個の大隊をヌイイからヴィレ・ロルムに至る高地上で留めたのでした。
歩兵大将フォン・シュタインメッツ独第一軍司令官は、これまでも幾度か記述しましたが仏軍をメッス要塞の庇護下で攻撃する意図は「全く」なく、この8月14日の午後早くにヴァリーズ(クールセル=ショシー北東5キロ)在の本営に到着した諸報告でも、別段仏軍と衝突する気配は感じられませんでした。
しかし、午後5時頃に相次いで到着した第1と第7軍団の報告は、本営の雰囲気を一変させることとなります。
シュタインメッツ大将は、麾下軍団が正に戦闘に直面、否、既に仏軍と衝突したかもしれないと危惧し、直ちに副官たちを各軍団本営に派遣し、もし戦闘に突入していた場合には「直ちに戦闘を中止させよ」と命じ、自らは騎乗してザールルイ街道を西へ騎行しました。
この短い道中でも将軍の下には続々と報告が入り、それによれば既に前衛部隊は敵と本格的に戦い始めてしまっており、将軍は仕方なくヴァリーズ周辺に軍の予備として待機していた第8軍団第16師団所属の第32旅団(ルドルフ・フランツ・クルト・フォン・レックス大佐指揮)に対しレ・ゼタンへ前進するよう命じ、残りの第8軍団(第15師団など)に対してもビオンヴィル(=シュル=ニエ)周辺からヴァリーズまで前進するよう命じるのでした。
ところで、当時は第一軍の予備とされていた第8軍団については、以下のような話もあります。
シュタインメッツ大将による前進命令の少し前、第2師団長フォン・プリッツェルヴィッツ中将は自身師団を率いてポン=ア=ショシーを出立する際、ヴァリーズのフォン・レックス大佐に対し副官を送り、「この後強大と思われる仏軍と戦うにあたり、ぜひ貴隊の援助を」と要請しました。対するレックス大佐は「軍団長に確認する」として即答せず、第8軍団長フォン・ゲーベン大将にこの要請を知らせ、如何したものか、と可否を求めたのです。
ビオンヴィルにいたゲーベン将軍は、要請を聞き及ぶと副官に対し自らの考えを示し、「この後に起こるであろう戦闘は敵が求めて起こしたものではない。敢えて戦いを求め拡大すべきではないだろう。また、我が軍団は軍の予備とされており、軍司令官の命令に従うものだ。緊急を要する以外、部隊を割くことは出来かねる」と答え、第2師団長の要請をきっぱり断ったのでした。
しかし、その一方でゲーベン将軍はヴァリーズのシュタインメッツ大将に対し、第32旅団の前進の可否を裁可願う、と申し出ており、軍司令官に対し決断を促しているのです。
シュタインメッツ将軍はこの「要請」もあってレックス旅団の前進を命じたのですが、これがゲーベン将軍の下に達した時には午後9時となっており、既に戦闘が下火となったことを聞き及んでいたゲーベン将軍は、「わざわざ危険な夜間行軍をするために軍団を動かす必要のある事態ではない」、として「明払暁に前進を準備せよ」と麾下部隊に命じ、またこれをシュタインメッツ将軍に知らせます。軍司令官はこれを了承、前進命令自体が取り消されたのでした。
このゲーベン将軍による一連の行動は、一見独善にも見えますが、その結果は以降の状況から照らし合わせても全て正しい判断と言え、この「眼鏡の将軍」がいかに冷静で己の信念に従って行動していたのかが伺えるエピソードと言えそうです。
午後8時。シュタインメッツ将軍はマントイフェル将軍とノワスヴィルの南郊外、ビール醸造場付近で出会い、暫し会談しました。この時間、戦場では一部未だに激戦が続く地区もありましたが、仏軍は全般に退却を始めており、殆ど会戦は終盤となっていました。
このビール醸造場での二将軍の会談から1時間後、戦闘は完全に終了するのです。ただ、メッス要塞の分派堡塁や砲台から、普軍に向けて発射される要塞砲の砲火だけが暗闇に瞬き、その砲声がほぼ深夜まで響いていたのでした。
この午後9時、ビール醸造場で待機していた第1連隊の所属軍楽隊は勝利の凱歌を演奏し、普軍の「勝利」を祝うのでした。
しかし、この「勝利」を拡大し利用することは普軍には出来ませんでした。
それは夜に入って闇に閉ざされた戦場という悪条件もありますが、普軍はメッス要塞に近付き過ぎており、攻城資材の準備もしていない軽装備の野戦軍ではこれ以上の前進は危険極まりないこと、そして普第一軍に倍する兵力と推定される仏「バゼーヌ軍」は、メッス要塞の分派堡塁やその周辺に未だ健在であり、夜が明けたならば、敵中に突出した形の普第1と第7軍団に対し、反転攻勢を掛けることも十分に考えられたからでした。
午後9時過ぎ。フォン・シュタインメッツ将軍は第1と第7軍団に対し、「全軍、当初の野営地に後退せよ」と命令します。しかし、戦場に点在する負傷者の捜索と救出、そして命を賭して戦った諸隊に「勝利の余韻」を与えるため、あと数時間は占領地に留まってもよろしい、とするのです。
同時に午後8時15分頃に野営地へ帰着した騎兵第3師団に対し、「再度戦場に前進し、傷者運搬中の部隊を掩護し敵の奇襲を警戒せよ」と命令を下すのでした。
第1軍団の諸隊はシュタインメッツ将軍の命令を受け、深夜夜半まで戦場に留まると負傷者救助に尽力し、その殆どを救い出すとクールセル=ショシー周辺の野営地まで引き返したのでした。
しかし、第7軍団長のフォン・ツァストロウ大将には別の考えがありました。この夜、将軍が軍団に与えた命令にこうあります。
「軍団は戦傷者を全て救助し、一人といえども負傷者を敵に渡してはならない。また、今夜は敵地を奪いそれを死守した名誉を全うするため、軍団は鮮血を流して獲得した土地において銃を抱き仮眠し、明日黎明を待って従前の野営地へ引き上げる」
これはシュタインメッツ将軍が発した命令が届く以前に軍団諸隊に発したもので、その後深夜に「当初の野営地へ後退せよ」との軍命令がツァストロウ将軍の下に届きました。しかし将軍は「もう遅い」として命令を変更せず、南はグリジーからボルニー前面の森を経てコロンベイに至り、更にここからポプラ並木道を辿ってザールブリュッケン街道に至るその長い前線上で将兵は勝利の余韻を噛みしめ、失った戦友を思い一夜を明かしたのでした。
戦場の第一軍首脳(左からツァストロウ,シュタインメッツ,ゲーベン)
この「コロンベイの戦い」では、その戦いの時間(午後3時30分から午後10時頃まで)と規模からすると驚くほど多くの損害が双方に発生しました。
普軍の損害(戦死・戦傷・行方不明)は以下の通りです。
第1師団・第1旅団/62名
同・第2旅団/1,672名
第2師団・第3旅団/987名
同・第4旅団/10名
第13師団・第25旅団/767名
同・第26旅団/1,087名
第14師団・第28旅団/128名
第18師団・第35旅団/35名
各砲兵隊合計/122名
騎兵合計/2名
この内、士官は222名、下士官兵は4,684名となります。
将官の損害は2名。第1師団長ベントハイム中将が最後の突撃で、第25旅団長オスケン=ザッケン少将もコロンベイ周辺で、いずれも命に別状はありませんでしたが負傷しています。
ちなみに「ヴルトの戦い」で千名以上の損害を出した旅団は3個(第18、19、20。それぞれ1,177、1,923、1,625名)で、「スピシュランの戦い」では第27旅団1個(1,352名)でした。
「コロンベイの戦い」が激戦だったことが伺えます。
仏軍の損害は、戦死が士官42名、下士官兵335名。負傷が士官157名、下士官兵2,484名。行方不明(捕虜含む)が士官1名、下士官兵589名。
合計、士官200名、下士官兵3,408名となります。この内の士官146名、下士官兵2,702名がドカン将軍の仏第3軍団の損害で、残りがラドミロー将軍の第4軍団の損害となります。
そのクロード・テオドール・ドカン将軍は北部戦線ロヴァリエールの西、ベルクロア交差点付近の戦いで陣頭指揮の最中に重傷を負い、メッス要塞へ運び込まれましたが3日後の17日、苦痛の中で死去しています。
また、バゼーヌ大将も前線で督戦中、ひどい打撲傷を負ってしまったのでした。
負傷し後送されるドカン中将。倒れてもなお部下に指さし指示しています。
「ドカン将軍は致命傷を負います」と題された当時のポストカードで、多分に戦意高揚の意味があります。
クロード・テオドール・ドカン中将




