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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
195/534

コロンベイの戦い/グリジー攻防戦とメ高地攻略戦

 独第二軍最右翼となる第9軍団所属の第18師団は、8月13日夜の大本営命令により、普大本営がこの日到着したエルニー(アン=シュル=ニエ東2キロ)からビュシー(アン=シュル=ニエ西12キロ。交差点の西側)を目指して翌14日早朝野営を発し、午後にメッス~ストラスブール街道(現国道D955号線)と、それまで彼らが行軍して来たポンタ=ムッソン街道(現国道D910号線)との交差点付近に到達、前衛部隊(第36連隊主幹)をオルニー(ビュシーの北北西4キロ)に送って北のメッス方面を警戒させ、本隊は予定通りストラスブール街道西側1キロ付近のビュシー部落周辺で野営の準備に取り掛かります。この時(午後3時過ぎ)、師団長の男爵カール・フォン・ヴランゲル中将はこの前衛に向かい、前線の状況を把握しようとしますがその途中、正にその前哨から伝令がやって来て「北方から砲声が聞こえる」との報告を受けたのです。


 ヴランゲル将軍はこの時57歳。士官学校卒業後18歳で入隊し、陸軍大学校を28歳で卒業しています。彼が有名となるのは1849年の第一次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争における「コリングの戦い」で、所属部隊がデンマーク軍との不利な市街戦を余儀なくされた時に、急きょ鼓手となって部隊の先頭に立ち、危険を顧みずに急連打を叩いて部隊を鼓舞し、勝利に貢献したおかげで「コリングの鼓手」との渾名を頂戴し、新聞紙上に登場したのです。普墺戦争を少将、ゲッペン将軍の第13師団麾下・ミュンスター在の第26旅団長として迎え、マイン軍で活躍しプール・ル・メリットを獲得しています。

挿絵(By みてみん)

 ヴランゲル将軍

 ヴランゲル将軍は更に、フルーリー(オルニー北西4キロ)方面を将校偵察し帰隊中の槍騎兵第15「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊長、ヘルマン・フォン・アルヴェンスレーヴェン大佐と出会いました。

 大佐も砲声を聞いており、急ぎアル=ラクネイー近郊に来て見れば「第一軍の前衛が仏軍と衝突しており、戦闘は苛烈を極めて形勢は未だ明らかではない」とのことで、ヴランゲル将軍は「貴隊(第18師団)が南から進撃してこの戦いに参加すれば効果は絶大なはず」との「進言」を受けるのです。

 この会合中にも前衛部隊長のハンス・フリードリヒ・フォン・ブランデンシュタイン大佐から同様の報告と、第一軍に「助太刀」するため前進したい旨の要望が届きました。


 ヴランゲル将軍は最初に「砲声届く」との伝令を受けるや、師団本隊に「行軍準備を成せ」との命令を発していましたが、大佐らの報告を加味して「師団本隊は北方前衛方面へ急行せよ」との命令をビュシーに走らせ、同時に現状とこの進撃命令を下したことをリュピー在の第9軍団本営へ伝えるため副官を派遣するのでした。

 ヴランゲル師団長は軍団と師団に伝令を送ると前衛部隊のいるオルニー部落へ駆け付け、前衛部隊を直卒してストラスブール街道の西側をまずはペルトル目指し北上したのです。

 

 この第18師団前衛支隊は竜騎兵第6「マグデブルク」連隊の2個中隊を先頭に、フュージリア(銃兵)第36「マグデブルク」連隊の2個(第2、3)大隊、砲兵第9「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊軽砲第2中隊で構成されていましたが、ヴランゲル師団長の命令により竜騎兵連隊残りの2個中隊も本隊から先行して駆け付けて前衛に加わるのでした。


 ブランデンシュタイン大佐は先を行く竜騎兵2個中隊に加わってペルトルに至りますが、この時仏軍は既にペルトルから撤退しており、大佐は追って来た軽砲第2中隊に竜騎兵1個中隊を護衛として加えると直卒し、ペルトル北1.5キロのメルシー=ル=メッス(メルシー=ル=オーとも呼ばれ、領主の城館がその東側高台上にありました)に向かって進撃しました。


 午後6時30分、軽砲第2中隊を率いるフォン・アイナッテン大尉は、ストラスブール街道からメルシー=ル=メッスの城館に通じる小道の分岐点西に砲列を展開させ、北のグリジー付近の敵砲兵部隊や敵戦列歩兵の縦隊列に向け砲撃を開始し、第18師団前衛の「コロンベイの戦い」が始まりました。


 さてここで、シュタインメッツ大将の独第一軍の最左翼部隊として軍正面の南側から仏軍を監視していた普騎兵第1師団の動きを見てみましょう。この騎兵師団が仏軍の大掛かりな後退を確認情報として軍本営に報告したのは14日の午後1時45分のことでした。


 斥候から続々と寄せられる「敵後退開始す」の報告と午後3時30分頃に始まった連続する砲声を聞き及んだことで、騎兵師団長のフォン・ハルトマン中将は情報を得るため、槍騎兵第4「ポンメルン第1」連隊をジュリー方面へ進ませ、ザールブリュッケン~メッス鉄道の線路堤を越えて前進させようと試みます。しかし槍騎兵たちは敵の後衛が頑強に抵抗したため、ジュリーを通過することが適わず任務を果たすことが出来ませんでした。そこにフォン・デア・ゴルツ将軍の例の「応援要請」が届き、第7軍団が本格的戦闘を開始したことを知ったハルトマン師団長は、騎兵師団全体をメクルーヴ周辺に緊急集合させ、まずは前衛として麾下2個ある胸甲騎兵連隊(第2「ポンメルン」と第3「オストプロイセン」)を併せ臨時の「胸甲旅団」に仕立てると、これを騎兵第1旅団長フォン・リューデリッツ少将に託して出立させたのです。


 「リューデリッツ」胸甲旅団は午後6時30分、ちょうどペルトルからブランデンシュタイン支隊が砲撃と前進を始めた際、合わせて師団に属する砲兵第1連隊騎砲兵第1中隊と共に前進を始めます。

 普軍の胸甲騎兵たちは左翼側(西)に第二軍歩兵の前進を見ながら列を正しフロンティニー部落の東側で鉄道堤を越え、胸甲騎兵第2連隊の2個中隊はアル=ラクネイーの西側まで進んで第7軍団(第28旅団)と連絡を通しました。


 騎砲兵中隊はフォン・ブラウニッチェル大尉が率いて胸甲騎兵第3連隊第4中隊の援護により鉄道に沿ってペルトルの北へ進出し、先に砲撃を始めていたフォン・アイナッテン大尉の軽砲部隊と連絡、その砲列左翼(西)前方に進むと砲列を敷き、グリジーへの砲撃に加わったのでした。


 こうして独第一軍の「臨時」胸甲騎兵旅団と第二軍右翼前衛歩兵は、ストラスブール街道沿いに展開し、第28旅団によるグリジーの戦いに参戦するのです。


 この6時過ぎ辺りで第18師団の半分、第35旅団を率いるハインリッヒ・カール・エミール・フォン・ブルーメンタール少将はヴランゲル師団長より、戦線に広がり始めた師団前衛の指揮を執るよう仰せつかりました。

 フォン・ブルーメンタール少将はペルトルに到着した第36連隊第2、3大隊のうち、第6と第7中隊を守備として部落に残し、他の6個(第5、8~12)中隊を直卒して前進します。先に戦い始めた砲兵陣地の横を過ぎ、メルシー=ル=メッスの小部落を経て、その北東側でグリジーへ向かう第28旅団の兵士たちと連絡し共に前進しましたが、既にグリジーからは仏軍が撤退しており、共に進んだヴォイナ支隊(第28旅団)の第77連隊第2大隊がグリジーを占領しました。

 この方面の仏軍(第3軍団モントードン師団)は「マカベの森」南端の散兵線からも撤退し、入れ替わりに北東から転進した第53連隊諸中隊と第7猟兵大隊の兵士が森に侵入するのでした。


 その頃ペルトルには、ブルーメンタール旅団長を追って第35旅団所属の第84「シュレスヴィヒ」連隊が到着し、部落の守備に付いていた第36連隊の2個中隊は入れ替わりに街道に沿って本隊に加わるべく前進して行きました。

 午後8時過ぎ。第18師団砲兵の重砲第2中隊も18師団本隊の先陣としてペルトルにやって来ると騎砲兵の砲列に並び展開し、グルジー及びボルニー周辺の森林から急速に撤退する仏軍に対し砲撃を加えるのでした。


 一方、砲兵の援護と増援旅団の前進により仏第4軍団の猛攻を防ごうとした第一軍右翼、マントイフェル大将麾下の第1軍団はどうなったのでしょうか。


 マントイフェル将軍は仏第4軍団の逆襲に対し、優勢な砲兵力で歩兵の劣勢を補おうと考え、砲撃によって仏軍の片面包囲行動を阻止し、その隙に第1旅団をヌイイ付近の渓谷後方に進ませて守備を固め、後続する第4旅団で突出する敵の左翼を突こうと考えていました。

挿絵(By みてみん)

 マントイフェル将軍

 普第1軍団の歩兵は4個旅団25個の大隊から成り立っていましたが、この時(午後7時)まで戦闘に従事していたのはわずか7個大隊でした。


 このうち第2旅団の第43「オストプロイセン第6」連隊と猟兵第1「オストプロイセン」大隊の半分、そして第3旅団の擲弾兵第4「オストプロイセン第3」連隊の大部分は、第7軍団の第13師団前衛右翼に協力し、ロヴァリエールからラ=プランシェットにかけて、仏軍の重要拠点であるベルクロア交差点に対する攻撃に参加しています。

 一方、ヌイイやメ高地に向け進撃したのは第3旅団の第44「オストプロイセン第7」連隊の半分に当たる6個(第1~4、6、7)中隊で、第4連隊F大隊はセルヴィニーに向かいました。


 これら前線で戦う部隊に対し、午後6時を回った頃から第二線で控えていた前衛支隊残りの部隊も戦闘に参加して行きます。

 午後7時頃、メ北高地やヌイイからノワスヴィル北部に後退した攻撃部隊の収容を完了した第44連隊残りの6個(第5、8~12)中隊に対し、第2師団前衛支隊長メメルティ少将は反撃に移るよう命令します。


 第44連隊のF大隊を中心とする半個連隊のうち、第2大隊の2個(5、8)中隊は先行して撤退した同僚が通った道を逆に進み、ヌイイ南西の高地を目指しました。F大隊(残りの4個中隊)は大隊長ダルマー少佐が率いてヌイイとその北高地を目指し、先兵として散兵を広く横長に展開しながら左翼をカラント川峡谷、右翼をヌイイの北に進めました。

 部隊にとって幸いにもヌイイ部落には仏軍が到達しておらず、大隊はヌイイの周囲カラント川の北に広がるブドウ畑に展開し、メ北高地から進撃して来た仏第4軍団兵と戦闘を開始したのです。この時、同連隊の5、8中隊もヌイイ南西のブドウ畑で戦い始めたのでした。


 普仏開戦時、普王国成立時から歴史を築いて来た伝統の第1師団長はゲオルグ・フェルディナント・フォン・ベントハイム中将でした。

 この日ベントハイム将軍はロヴァリエールまで前進し、ベルクロア交差点の攻防を直接指揮していましたが、師団本隊の擲弾兵第3「オストプロイセン第2」連隊が東より前進するのを視認すると「師団右翼側のモントワへ転進し北西に進撃せよ」と命じます。ベルクロア交差点を南東側ロヴァリエールから攻める第1師団と、メ部落を攻略すべく奮戦する第2師団との間が開いていることを気にしての命令でした。

挿絵(By みてみん)

 ベントハイム将軍

 第3連隊長エアハルト・ヴィルヘルム・エクベルト・フォン・レーガト大佐は、連隊を直卒してザールブリュッケン街道を進みフランヴィルに達する直前にこの師団命令を受け、部隊を北へ転進させるとモントワを抜けてヌイイ方向へ進みます。

 第1大隊を前に進む連隊の先頭に立った大佐がモントワ部落の高地に至ると、ロヴァリエールからヌイイにかけての戦闘が明瞭に確認出来ました。夕暮れに差し掛かるこの時間、大佐が北方の戦線を観察するに、仏軍はヌイイ北方のブドウ畑まで進出し第2師団の攻撃隊(第44連隊)を正に包囲しようとしていたのです。


 レーガト大佐は直ちに部隊を二分する決心をして、第1大隊に対し「ロヴァリエールを抜け北西友軍の戦線に加入せよ」と命じ、第2大隊にはその右翼(北)に進んで北へ斜行し、その後左旋回してヌイイ北の仏軍に対し側面から攻撃をするよう命じるのです。また、後衛のF大隊には「第2大隊に続行し第二線と成せ」と命じます。

 しかし、第1大隊の右翼を進んでいた第1、2中隊はこの命令を受領出来ず、そのままヌイイ方面に進み続けてしまいました。よって第3、4中隊のみロヴァリエールへ進むことになるのです。

 図らずも前衛の形となった第1、2中隊を追って第2大隊は命令通り斜行して後左旋回、ヌイイ部落の南西角に向かい、その後方からはF大隊が進んで左翼となり、グピヨン水車場へ進み出ました。

 この普軍増援に対し、仏軍はカラント川渓谷の北高地線から盛んに射撃を浴びせるのです。


 この頃、ベルクロア交差点をめぐる戦いもクライマックスを迎えていました。

 最初にロヴァリエールからヴァリエール川を渡河し、西岸の高地端に突進した普軍は、第1師団前衛の第43連隊F大隊と猟兵第1大隊の2個中隊でしたが、後に第2師団の44連隊から2個中隊も加わり突撃しますが跳ね返され、後退を余儀なくされていました。

 ここに第43連隊の第2大隊も攻撃列線に加わり、一時撤退した部隊も息を吹き返して戦線に戻るのでした。

 頑強な仏第3軍団第4師団の散兵線に対し、普軍は粘り強く死傷者を無視して戦い続け、午後4時過ぎから3時間以上掛けて確実に歩を西へ進めて行きました。この前進により、前述通り第1師団砲兵4個中隊の前進が可能となり、この砲兵の出現により普軍は次第に有利となって戦いの主導権を握るのでした。この砲兵の出現後に、第3連隊の第3中隊もロヴァリエールから進み出て戦闘に参加しました。


 この午後7時から8時までの戦闘でラ=プランシェットの西側、ボルニー高地のザールブリュケン街道に沿った戦線の普軍は、コロンベイからベルクロア交差点の東側まで続く例の「ポプラ並木道」まで前進し、戦いながら北上して来た第13師団右翼の先鋒と連絡を通すことが出来たのです。この13師団右翼部隊は第55連隊のF大隊で、ザールブリュッケン街道の北側にまで進み出て、ポプラ並木道に沿い強力な散兵線を築くのでした。


 この右翼北側、ザールルイ街道の戦線では、一時半個大隊に分かれ、ロヴァリエールとその北ザールルイ街道で戦っていた第4連隊第1大隊が再び合流しました。先述通りこの第4連隊長フォン・ツィーテン大佐はロヴァリエールの北でボルニー高地に取り付こうと、ザールルイ街道とラ・トゥール水車場(当時ベルクロア交差点の北1キロ付近のヴァリエール川にあった水車小屋)との間で激戦を繰り広げ、フォン・ブッセ大佐の第43連隊第1、2大隊が順次加わったことでこの戦線もわずかですが普軍が前進することとなります。

 更にここへ第4連隊の第2大隊も到着し加わりました。大隊長のフォン・コンリング少佐は第6中隊を予備に指定し渓谷後方に留めると、第7中隊をグピヨン水車場へ送り、水車場で警戒する第44連隊第4中隊と連絡させ、第5、8中隊を直卒してベルクロア交差点攻撃の右翼へ参加しますが、この程度の増援ではこのベルクロア交差点からヴァントゥーに至る仏軍の重層散兵線を抜くことは適わないのでした。

 また、メ北高地から第44連隊の諸中隊が撤退した後では、ラ・トゥール水車場方面(北側)からいつ仏軍が普軍のベルクロア交差点戦線右翼に側面攻撃を仕掛けるか、分からないという危険な状態になったのです。


 これにより、ラ・トゥール水車場付近で戦う第4連隊第1大隊の存在がにわかに重要となりました。フォン・ツィーテン第4連隊長は大隊を直卒し、決死の覚悟でこの攻防戦に飛び込んだのです。

 この大隊に続き、今までベルクロア交差点に面して戦った同連隊第2大隊もこの地に集合し戦います。この後方に第43連隊の2個(1、4)中隊が続き、第二線となり、また、第3連隊第4中隊もやって来ると戦線に加わるのでした。

 これら雑多な部隊の進軍方向はヴァントゥーからメとなりますが、この地はヴァリエール川渓谷から急激に斜面となる険しい地形で、その斜面と森林のため視界は遮られ、普軍の攻撃もまた統制が希薄となってその損害も無視出来ない大きなものとなるのでした。この方面からの大部隊による攻撃は難しいものがありました。ツィーテン大佐らはこのヴァリエール川の渓谷でまたもや膠着状態に陥り掛けたのでした。

 そしてこの天然の要害に保護された仏軍散兵線に対し、戦況を好転させる活躍を成したのがフォン・レーガト大佐率いる第3連隊の本隊だったのです。


 前述通りレーガト大佐はベントハイム第1師団長の命を受けてロヴァリエールとヴァントゥー方面へ進みますが、第1大隊をロヴァリエール、第2とF大隊をヴァントゥーからメへ進ませるつもりが命令の行き違いで第3、4中隊のみロヴァリエールの戦線へ(その後第4中隊がベルクロア交差点の戦線へ前進)、残り10個中隊がヴェントゥー方面へ進みました。

 変更命令が届かず、当初の予定通りロヴァリエールの北側を北上した第1と第2中隊の半個大隊が先鋒となり、第44連隊がヌイイ周辺のブドウ畑を激戦の末再占領した午後7時30分前後、第3連隊はグピヨン水車場付近から一気に北斜面を駆け上がり、ヌイイ北西高地上のブドウ畑に入ると、右翼を第44連隊と連絡し、共にメ北高地へ突進したのです。その後方からはツィーテン大佐が別動させた第4連隊の第6、7中隊が第二線となって続行しました。


 この併せて16個中隊が生み出す攻撃力は、それまでの普軍の攻撃より数倍強力で、仏第4軍団の散兵たちはたまらず後退を始めるのです。

 仏軍はメ部落とその東側の林に逃げ込み、これを普第3連隊第2大隊が

追撃しました。この大隊長フォン・アルニム少佐は大隊を例の普軍基本攻撃隊形、第5、8と第6、7の2個中隊ずつ2つの半個大隊に分け、5、8中隊が南西から、6、7中隊が北東から、それぞれ敵が潜む林を包囲し、四周からの集中攻撃で敵を撃破し林を攻略しました。

 同時に第3連隊12中隊と後方から馳せ散じた第4連隊6、7中隊はメ部落に突入し、短時間で占領したのです。

 既に雲の多い一日は暮れて、辺りは暗闇に閉ざされていました。


 この第4連隊と第44連隊のメ攻撃中も、ロヴァリエールからノワスヴィルの間に展開した普軍砲兵も激しい砲撃で歩兵を大いに援護しました。

 この会戦末期には第7軍団砲兵隊から2個の騎砲兵中隊もやって来て、ノワスヴィルの第1軍団騎砲兵2個中隊と並んで砲列を敷き、メ高地に向けて砲撃を繰り返したのです。

 これらの砲兵に対し、仏軍砲兵もヴィレ・ロルム付近の高地に陣取って対抗砲撃を繰り返していました。

 午後7時45分、メ高地から仏軍が後退を始めた頃、普軍砲列の北側セルヴィニー付近に控えていた第4連隊F大隊に、このヴィレ・ロルムの仏軍に対し攻撃命令が下されます。

 大隊長フォン・パルメンシュタイン中佐は第12中隊を先頭に立て、第9中隊をブゾンヴィル街道(現国道D3号線)に沿って進ませ右翼警戒とし、大隊を前進させました。

 黄昏時にメとヴィレ・ロルムの間に着いた大隊は、既に仏軍砲兵は撤退していることを知ります。しかし銃撃は周囲から盛んに彼らに浴びせられ、中佐は応戦を命じてしばらくは激しい銃撃戦が繰り広げられました。

 フォン・シュルツェンドルフ大尉は戦死、エルドマン中尉は重傷と中隊長2人を失う激戦は、仏軍散兵が撤退し銃撃が止むまで続いたのです。

 こうしてヌイイからメに掛けての普軍最右翼の戦いも終盤を迎えました。

 ところがその左翼側、ロヴァリエールからグピヨン、ラ・トゥール2つの水車場付近で普軍は危険な状態に陥っていたのです。


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