コロンベイの戦い/普軍砲兵の展開とグリジー攻防戦
8月14日の午後のこと。仏第4軍団長ルイ・ルネ・ポール・ドゥ・ラドミロー中将はメッス要塞北西部、ヴァリエール川のモーゼル合流点付近に架かるシャンビエール島の橋梁(現アバトワール通りミクスト橋と思われます)より第4軍団のモーゼル西岸渡河を指揮していました。
中将はフランソア・グルニエ少将師団をメ部落高地に展開させ、至近に迫った独軍に対する後衛となっていましたが、その警戒前哨部隊は午後4時頃、ヌイイで独軍(第1軍団第44連隊)により撃破され、「普軍来る」の至急報は短時間でラドミロー将軍の耳に達しました。
ラドミロー将軍は直ちに渡河中の2個師団と軍団砲兵隊のモーゼル渡河を中止させ、百八十度転回して敵の進軍を阻止せよ、と命じたのです。
グルニエ師団は最初の敵の攻撃で動揺し、前衛旅団が後退したものの、幸いにも旅団に満たない数の敵に対し全力で立ち向かったお陰で、メ北部高地で敵の進撃を食い止めることに成功しました。
ラドミロー将軍はこのグルニエ師団に対する直接の援軍としてエルネスト・ルイ・オクターヴ・クルト・ドゥ・シッセ少将の師団を指名、シッセ将軍は師団全力でメ方面へ急進しました。
また、残ったシャルル・フェルディナン・ラトリル『ロロンセ伯爵』少将師団をザールルイ街道の北からサント=バルブ方向へ突進させ、独軍の「攻撃陣先端」を包囲することで敵の進軍を挫折させるべく動き始めるのです。
この仏軍ラドミロー将軍の素早い対応により、普第1軍団の前衛支隊2個の戦線は、一時崩壊寸前にまで追い込まれるのです。
ラドミロー将軍
普第1軍団第1師団所属、第44「オストプロイセン第7」連隊第1大隊と第2大隊半個(6、7中隊)のメ部落北部高地に対する攻撃は、いたずらに損害だけの多い消耗戦に陥ります。
最初の突撃で先鋒中隊長のフォン・プットカマー大尉が戦死し、突撃先端の兵士たちが次々に撃ち倒されるのを目の当たりにして唇を噛んでいた第1大隊長フォン・ツィングラー少佐は、敵の増援が北方より急進するのを発見するや「このままでは全滅してしまう」と考え、直ちに部隊(第1,2,3中隊。第4中隊は既にグピヨン水車場へ向かいました)を率いてヌイイ部落方向へ急速撤退しました。同時に第2大隊の兵士にも危険が迫ったため、少佐はラッパ手に命じ「総退却」の号令を吹奏させ、残余の兵士も即座に退却へと移ったのでした。
これを聞き及んだ第2師団前衛支隊長、フォン・メメルティ少将は右翼防衛のために控えさせていた擲弾兵第4「オストプロイセン第3」連隊F大隊をセルヴィニへ北上させ、第44連隊F大隊をノワスヴィル部落の北へ送り、退却して来る「メ」攻撃部隊を収容させました。
この時点で午後6時30分を過ぎ、戦場は次第に夕暮れの薄暮時となります。
第1師団の本隊、第1旅団はフランヴィルの東をモントワ方向に行軍中で、同じく第2師団本隊の第4旅団は未だグラ高地東側を西へ進んでいました。騎兵第3師団は午後5時に至って砲声が激しくなるのを聞き及び、緊急集合が掛けられたところでした。この騎兵師団は歩兵第2師団長フォン・プリッツェルヴィッツ中将の要請でサント=バルブへ前進後、戦線右翼(北)に展開しようとし、まずは前衛後方のルトンフェ部落北へ進み出て、その前衛の槍騎兵第7「ライン」連隊は1個中隊を右翼警戒として北西方へ進めたのでした。
敵仏軍による、ブゾンヴィル街道(現国道D3号線)の北側を突破して包囲に掛かる運動を危険と見たプリッツェルヴィッツ第2師団長は、軽砲第5中隊をビール醸造場西の砲列から引き上げさせ、ノワスヴィルの北東、カラント川渓谷の南斜面際に再展開させます。これにより、北からの脅威に対して進み出たセルヴィニ部落の擲弾兵第4連隊F大隊を援護することが可能となります。
時を置かずに新たな砲兵3個中隊も軽砲第5中隊の砲列に続きました。
騎兵第3師団砲兵の騎砲兵第1中隊は、槍騎兵第7連隊から1個中隊の護衛を得ると北上を開始、ノワスヴィルの東に到着すると第1軍団砲兵に続いて砲列を敷き、この直後に第1軍団砲兵隊からも重砲第5、6中隊が到着して第7軍団騎砲兵の北側、セルヴィニとポワックスの間に西へ指向し砲列を敷きました。
この時、仏軍も砲兵隊が前進し、ヴィレ・ロレム(メの北)の高地線に1個中隊が布陣しますが、対するノワスヴィル周辺の普軍砲兵陣地からは距離があり、普軍砲兵は有効な砲撃を加えることが出来ません。そこで第1軍団砲兵部長のフォン・ベルクマン少将はノワスヴィル北とセルヴィニの砲兵に対し更に有利な陣地を占めるよう命令し、重砲第5中隊はセルヴィニの南西側へ、軽砲第5中隊は同部落北で重砲第6中隊の左翼に、騎兵師団の騎砲兵はポワックスの西、ブゾンヴィル街道脇に、それぞれ展開し直したのです。
こうして、ようやく有利な場所を得たと信じた普軍砲兵の4個中隊24門は、独軍戦線の最右翼側砲兵隊として、その火力を存分に発揮するのです。
また、ノワスヴィルの南西側、ビール醸造場西の砲兵陣地には、少なくなった戦力を補って余りある増援が到着し始めていました。
これは第1軍団砲兵の残余部隊で、騎砲兵第2、3中隊、軽砲第3、4中隊、重砲3、4中隊の計6個中隊36門の砲兵でした。
この砲兵隊は午後5時にクールセル=ショシー付近の野営地を出立し進んで来たもので、午後6時15分頃に同地に到着、騎砲兵2個中隊はビール醸造場西で砲撃中の軽砲第6中隊の左翼に連なり砲撃を開始しました。
残りの4個中隊の内、重砲2個中隊はモントワの南に一旦到着しましたが、ここでは既に砲兵が5個中隊も活動中で砲列を敷く余地がなく、ようやく重砲第3中隊だけを砲撃中の砲兵隊最左翼に押し込むことが出来たのです。
この砲兵を率いていたのは野戦砲兵第1連隊第1大隊長のグレゴロビウス中佐で、中佐は重砲第4中隊を直卒するとモントワ北のヴァリエール川を渡河し、対岸のブドウ畑北西隅に砲列を敷かせるのでした。この位置は前述のビール醸造場西に展開した騎砲兵2個中隊の左翼側となり、この重砲中隊はこの後、第1軍団歩兵の増援に対して大変有効な援護を行うこととなるのです。
さて、コロンベイ集落付近においてはコワンシー西に展開した第1師団砲兵隊による効果的な砲撃もあって、普軍は午後7時頃には戦線を安定させることが出来ました。
この殊勲の砲列を指揮していた代理指揮官のフォン・ホルン大尉は、自身の隊が布陣するザールブリュッケン街道南側は安定したものの、北側(ラ=プランシェットから北)の戦線は未だ戦況不利と見ていました。そこで大尉は配下の砲兵4個中隊をモントワ西のフォセ・ド・レタン川を渡河して前進させ、重砲と軽砲それぞれの第1中隊を直卒し先行させるとラ=プランシェットのヴァリエール渓谷に架かる橋を渡ってボルニー高地端で普軍の前線直後に達し、ザールブリュッケン街道を挟んで仏軍散兵線からわずか900mの地点に砲列を敷いたのでした。
更に後方から追いかけた重軽砲2個中隊が到着するや、直ちに右翼と間に挟んで展開させたのです(2本のヴァリエール川合流点の西に軽砲第2、その南に重砲第1、街道を挟んで重砲第2、その南に軽砲第1各中隊の順)。この4個中隊は、この会戦が完全に終了するまでこの前進陣地を離れず、普軍がメ北部高地やヴァントゥ部落へ突進した時には、大いに頼られる存在となったのです。
この砲兵隊に対して仏軍(第3軍団メトマン師団)はシャスポー銃で間断なく弾雨を浴びせ、普砲兵の多くは小銃弾に傷付き倒れますが、仏軍砲兵の方は砲撃を加えたものの射程が及ばず、効果的な砲撃を遂に成し得ませんでした。
午後7時前。普第1軍団長フォン・マントイフェル大将はノワスヴィルの高地より観察し、仏軍(ラドミロー将軍の第4軍団)がメの北から左翼を北へ延伸し、片翼包囲を狙っていることを認めると、麾下の部隊に次の命令を発しました。
「フォン・メメルティ少将は自部隊をして如何なる理由があっても、ノワスヴィル周辺陣地やヌイイのヴァリエール渓谷から撤退させてはならない。メメルティ支隊に協力するため、軍団砲兵は全てがノワスヴィル周辺に集中し布陣せよ。ザールブリュッケン街道を西進中の第1旅団(第1師団)はノワスヴィル到着後、ビール醸造場付近において軍団予備として待機せよ。同じく前進中の第4旅団(第2師団)はノワスヴィルの北を迂回し、2個大隊を選び予備としてノワスヴィルのカラント河畔に留め、残り主力は敵の北翼包囲運動に対抗し、敵左翼を攻撃して敵の意図を挫折させよ」
この命令を受け取った第1軍団砲兵は直ちに陣地転換を開始し、それは現在地からノワスヴィルを軸にほぼ右旋回をなして、ロヴァリエール部落から北東へ一直線の形を作るのです。
その右翼は騎砲兵2個中隊で、ノワスヴィル部落の南西角に砲列を敷き、その南西に軽砲第6中隊、重砲2個中隊、軽砲2個中隊と続くのです。この最後の軽砲2個中隊は午後7時30分、現地に到着したばかりでした。
これで第1軍団の砲兵(野戦砲兵第1「オストプロイセン」連隊)は全てが「コロンベイの戦い」に参戦することとなりました。
戦線最右翼を進む普騎兵第3師団からは、既に前述通り所属の騎砲兵中隊(第7連隊騎砲兵第1中隊)が、ポワックスの北を走るブゾンヴィル街道の南脇に展開しており、この「北部戦線」の普軍砲数は合計90門となったのでした。
その内訳はロヴァリエールの西でベルクロア交差点の敵に接近して奮戦する第1大隊の24門(軽12、重12)、ロヴァリエールからノワスヴィルまで隙間なく展開する第2大隊ほか42門(騎12、軽18、重12)、セルヴィニとポワックス周辺とブゾンヴィル街道沿いに第3大隊と騎兵師団砲兵が24門(騎6、軽6、重12)と、見事に「ヴルトの戦い」での第5軍団砲兵同様の強力な砲列が展開されたのです。
コロンベイ戦の普軍砲兵(北部)
コロンベイ戦の普軍砲兵(南部)
さて、コロンベイ周辺の「南部戦線」では、第13師団の猟兵部隊である猟兵第7「ヴェストファーレン」大隊(ライニッケ中佐指揮)がフォン・デア・ゴルツ少将支隊に加わって、午後4時頃の戦闘開始から3時間に渡り戦い続けていました。
この中で第4中隊は、第15連隊に協力してコロンベイの「南」ヴァリエール川河畔で仏軍散兵と戦い、この領主の庭園や林に築かれた散兵壕を奪取します。
他の3個中隊は大隊長が率いて更に南方の戦線最左翼で仏軍(カスタニー師団)と戦いますが、一向に前進することが適わないまま時間だけが過ぎて行きました。この先、西のボルニー方面にある「マカベの森(ボア・ラ・マカベ)」との間は、散兵壕や樹林に潜む数万の敵から丸見えの、遮蔽物の少ない開墾地だったからです。
やがて薄暮時となった頃、第2中隊はこのボルニー高地の東端にある「ダムの森(ボア・ドゥ・ラ・ダム)」へ進入することに成功しました。彼らはこの森を足場として仏軍右翼に対し猛射撃を続けます。大隊長のライニッケ中佐は残った第1と第3中隊を率いて、第2中隊の援護射撃の下、わずかに窪地となった開墾地の緩斜面を前進しました。猟兵たちは多少の危険には目をつぶり、緩斜面上部からわずかな大地の畝に身を寄せつつ「マカベの森」の仏軍に対し、沈着冷静で正確な射撃を加えるのでした。
このライニッケ隊長率いる、わずか700名程度の猟兵たちの活躍は特筆に値します。なぜなら、第7軍団の戦線最南端における彼らの存在は、彼らに側面を晒すこととなる仏第3軍団第2「カスタニー」師団右翼を悩ませ、本来ならコロンベイへの攻撃に加わるはずの兵力を引き付けていたからで、更にはカスタニー師団の南西、ボルニー部落の南東からグリジーにかけて、南方の普第二軍を警戒して斜めに布陣する仏第3軍団第1「モントードン」師団の左翼に対し、コロンベイへの援軍として進ませることを妨害し続けていたからでした。
その彼らの孤独な戦いも午後7時をもって終了します。ツァストロウ軍団長が緊急手配した第14師団から、第28旅団の前衛大隊が彼らの戦場に到着したからでした。
第14師団長のゲオルグ・アーノルド・カール・フォン・カメケ中将は、8日前の「スピシュランの戦い」の火蓋を切った張本人として、参謀連中からは眉を顰められ、血気に逸る若い士官たちからは崇められる、という「目立つ存在」になりつつありました。その何かと騒がしい周辺の状況も、この割合と静かな8日間で落ち着きを取り戻したのではないかと思われます。
そんなカメケ将軍に第13師団前衛を率いるフォン・デア・ゴルツ将軍から至急報が届いたのはこの14日午後3時30分過ぎのことでした。
敵が後退し始めたので追撃する、従って援助をお願いしたい、との趣旨を伝令から聞いたカメケ師団長は、シュタインメッツ「親父」から聞かされていた「二度とこちらから仕掛けてはならぬ」という「縛り」を一瞬で破り、独断により援助を決めるのです。
このゴルツ将軍からの最初の要請により、ドマンジュヴィル(パンジュ南南西2キロ)周辺に野営した第14師団には直ちに緊急集合令が掛かり、カメケ将軍は師団を率いて午後4時に出発し、まずはヴィレ=ラクネイーに進みます。この地に再び第13師団前衛より伝令が来てコロンベイ付近での戦いを知らせ、この方面の左翼側から援助願うとのゴルツ将軍の要請を伝えるのでした。
カメケ将軍はそのまま師団をアル=ラクネイーまで進め、午後5時を迎えると前述の通り、第7軍団長ツァストロウ大将から「27旅団を軍団予備として留め、28旅団を左翼に進ませる」という命令を受領するのです。
カメケ将軍は28旅団長ヴィルヘルム・フリードリヒ・フォン・ヴォイナ少将に前進を命じ、ヴォイナ将軍は28旅団を率いて午後7時、コロンベイの南西方、猟兵第7大隊が戦う開墾地の南へ進み出るのです。
この、「スピシュランの戦い」でも活躍した第28旅団からは、既に第53「ヴェストファーレン第5」連隊F大隊がクールセル=シュル=ニエに派遣されて重要な停車場の守備を行っており、また第77「ハノーファー第2」連隊F大隊は第7軍団砲兵隊の護衛として、第8中隊(第2大隊所属)は第14師団砲兵隊の護衛としてヴォイナ将軍には同道しませんでした。従って28旅団は普段の三分の一以上の戦力を当初から奪われていたのです。カメケ師団長は旅団が前衛として前進するに当たり、少しでも戦力になれば、と師団の野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊軽砲第1中隊と、同じく師団騎兵隊の驃騎兵第15「ハノーファー」連隊をヴォイナ将軍に与えるのでした。
ヴォィナ将軍は早速この騎兵を使い、左翼側援護のためグリジー方向に進ませますが、この地は仏兵で溢れており、騎兵は街道途中で留まりました。
歩兵部隊の方はアル=ラクネイーを抜けて前進し、右翼をオービニー城館付近まで延伸してゴルツ支隊と連絡しました。
前衛となったのは第53「ヴェストファーレン第5」連隊で、仏軍シャスポー銃の射程内(およそ1,100m)に入ると連隊長フォン・ゲルシュタイン・ゲナント・フォン・(=)ホーヘンシュタイン大佐は第2大隊を縦列横隊に展開させ、この大隊は前述通り猟兵第7大隊の戦場に加わり、ヴェストファーレン猟兵たちと肩を並べてボルニー前面の森に展開する仏軍に対し猛射撃を開始するのです。
この第2大隊に続いて第1大隊が戦場に登場します。この大隊は半個大隊(2個中隊)に分かれて前進しました。第1、4中隊は第2大隊の右翼後方からオービニー城館へ進み、仏軍右翼を包囲しようと画策し、猟兵第2中隊が陣取り戦う「ダムの森」後方を仏軍に気付かれないよう南西へ進みました。
まず第4中隊がグリジーに延びるポプラ並木の街道に到達、続いて第1中隊がその左翼へ進んで街道を占拠し、ボルニー前面の「マカベの森」南部に対して銃撃戦を開始するのでした。
第2、3中隊の半個大隊は第2大隊の左翼後方からラ・グランジュ・オー・ボワ(アル=ラクネイー西2キロ)に達し、既に激戦中の第1、4中隊と第2大隊、猟兵第7大隊が構成する戦線南部で第二線となりました。
普第28旅団の半分を構成する第77「ハノーファー第2」連隊は前述通り5個中隊を護衛任務などに派出し、連隊長フォン・コンラーディ大佐が戦場に進ませることが出来たのは7個(1~7)中隊だけでした。大佐はヴォイナ旅団長から旅団左翼を延伸する命令を受け、53連隊の第1、4中隊が進んだポプラ並木街道に到着、ここから第1大隊の2個中隊は「マカベの森」の南西端向かって旋回し、53連隊の左翼と協力して「マカベの森」南から南西端の仏軍散兵と戦い、残った5個中隊はポプラ並木街道に沿ってグリジーへ向かいました。
軽砲第1中隊はアル=ラクネイー西側の森林最北端に陣取って間断なく砲撃を繰り返し、ヴォイナ旅団や第7猟兵大隊の右翼側戦闘に大いに寄与するのです。
ライニッケ中佐率いる猟兵第7大隊とヒンペ少佐率いる第53連隊第2大隊はヴォイナ旅団の本格的参戦により敵の「圧力」が分散されたお陰で前進することが可能となります。午後8時過ぎには「ダムの森」を回って「マカベの森」北東端に向かい突進し、仏軍散兵線に対し新たな方角からの脅威を与えるのです。
この頃、グリジーの南東方で足踏みしていた第14師団の騎兵、驃騎兵第15連隊は南から接近する軍勢を発見、一瞬緊張が走りましたがそれは直ぐに安堵と歓喜に変わります。
ヴォイナ支隊を援助しようと、第一軍の最左翼部隊である騎兵第1師団の一部、そしてカール王子の第二軍最右翼第9軍団の第18師団前衛支隊がグリジー目指して北上して来たのでした。




