コロンベイの戦い/普第一軍前衛三支隊の前進
独第13師団前衛支隊を率いるフォン・デア・ゴルツ少将は8月14日午後3時過ぎ、ラクネイーの高台で敵の後退運動を確認すると、独断で「前進」を決し、午後3時30分、麾下の前衛(第26旅団、猟兵第7大隊、驃騎兵第8連隊、軽砲第5、6中隊。合計・歩兵7個大隊、騎兵4個中隊、砲12門)を率いラクネイー周辺の野営を発しました。
同時に第7軍団本営と第13、第14師団本営に自らの行動を通報、また、北隣で動き出した第1軍団と南隣にいるはずの騎兵第1師団に対しても、自らの前進を出来るなら援助して欲しい、と伝令を送るのでした。
このフォン・デア・ゴルツ将軍の前進を発端とする戦いを、「ボルニー=コロンベイの戦い」、別名「コロンベイ=ノイリー(仏・ヌイイ)の戦い」と呼びます。この章では短く「コロンベイの戦い」と記します。
この戦いの戦場は、セイユ川(モーゼル支流)東側に続く「メッス高原」一帯で、この高原は南側からサント=バルブ部落に向かってなだらかに隆起して、この部落にある教会の尖塔は遠方からも望見出来るランドマークでした。
この「メッス高原」の地形は広く緩やかに隆起する丘陵を多く持ち、森林が多く、その間に麦やブドウ畑が存在する田園風景がどこまでも広がっていました。
アル=ラクネイー部落の南とファイイ部落の北に面した2つの森林は目立つ障害で、その周囲にも小さな林が点在しており、その間に平均十数件の家屋が小道沿いに列を成す形で部落が点在していました。
この部落は大きくても50戸を越えない小部落で、500mから2キロ以内の間隔で点在し、家屋は多くが「ロレーヌ」風のしっかりした造りでした。
この戦場で目立つ「障害」は森以外にもあり、それは深い渓谷でした。
ヴァリエールの名を持つ川は2本あり、「南」ヴァリエール川はマルシリーやラクネイー方面を水源にコロンベイ付近へ流れ、ここから次第に深い渓谷状となり、オジー~コワンシーを経て流れる小河川ダム・ジャネット川と合流してラ=プランシェット(コロンベイの北1.2キロ)付近で東から流れてきた「北」ヴァリエール川と合流します。この「北」ヴァリエール川はルトンフェ付近を水源にし、フランヴィル~モントワと流れて流域はここでも渓谷状となっていました。
また、サント=バルブ付近を水源とする小河川、カラント川も小さな渓谷を作っており、この川はセルヴィニー(=レ=サント=バルブ)~ノワスヴィルと流れてヌイイの西でヴァリエール川と合流し、合流した下流のヴァリエール川は深い渓谷を作ってサン=ジュリアンの南で川の名前となったヴァリエールを通り、メッス要塞の北で平野に出てモーゼル川に注ぐのでした。
このヴァリエール川による渓谷はコロンベイ~ヌイイの線で「メッス高原」を北東側、南西側二つに分断し、南西側の方が小さく、北東側は大きい形となっていました。独軍はこの南西側を「ボルニー高地」、北東側を「サント=バルブ高地」と呼んでおり、ここでもそれに習って呼ぶことにします。
カラント河畔の北崖上にはワイン用のブドウ園が「北」ヴァリエール川北岸まで点在して、この川はサント=バルブ高地を更に北西と南東側二つに分断していました。
仏軍はこのサント=バルブ「北西」高地から南へ、ボルニー高地を占領する形で展開し、普第1軍団前衛はサント=バルブ「南西」高地から西へ、普第7軍団前衛はその南、「南」ヴァリエール川沿いにコロンベイ付近へ、それぞれ進むこととなります。
14日午後3時30分、このメッス高原南側でコロンベイを目指すフォン・デア・ゴルツ少将は驃騎兵第8「ヴェストファーレン」連隊の先鋒数個小隊をオービニーからコアンシーの間に先行させると、第15「ヴェストファーレン第2」連隊長オイゲン・ルートヴィヒ・ハンニバル・フォン・デーリッツ大佐に命じ、15連隊第1、2大隊に野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊軽砲第6中隊を率いてマルシリーの西側からオービニーの城館を第一目標に進ませ、その左翼に猟兵第7「ヴェストファーレン」大隊を置いてアル=ラクネイーからコロンベイへ、右翼には驃騎兵第8連隊主力を進ませて北側を警戒させました。前衛残りは少将自身が直卒してマルシリーからデーリッツ隊に後続します。
前方を行く驃騎兵小隊はオービニー城館手前で中隊規模の仏軍騎兵と遭遇しますが、仏騎兵は銃撃を加えた後に仏軍陣地のある西方の小さな林(現プティ・ボア)へ退却しました。
午後4時になると普第15連隊第1大隊はこの林とオービニー城館に対し攻撃を開始、緩慢な銃撃戦の後、普軍第4中隊が林を迂回し城館の南へ回り込むと包囲を恐れた仏兵はコロンベイに向けて退却して行きました。
オービニー城館とその周辺の散兵塹壕は第2、3中隊が占領し、第1中隊と後方から到着した第6、7中隊(第2大隊半個)は北の南北ラヴィエール川合流点・ラ=プランシェット方向へ前進し、第4中隊は南のアル=ラクネイーへ進んだ後、北のコロンベイへ前進する猟兵第7大隊に合流するのでした。
この猟兵大隊は仏軍砲兵に狙われ、アル=ラクネイーの西へ出ると榴弾砲撃を喰らって付近の窪地に避難します。そのうち猟兵第2中隊はコロンベイの南西側森に潜む仏軍に向かって前進し、この敵と激しい銃撃戦を始めました。
この間に猟兵の第1と第3中隊も第2中隊後方に前進し、コロンベイとオービニー間の林内小道に展開しました。猟兵第4中隊と第15連隊歩兵第4中隊は勇躍コロンベイ南の高地を攻撃して仏兵を撃退し、仏軍が設営した散兵壕を奪取、コロンベイの農家を接収しました。
普第15連隊第2大隊の残り半個(第5、8中隊)は猟兵大隊のコロンベイ攻略に遅れて参加し、軽砲第5中隊はマルシリーの北、同第6中隊はオービニー城館の北にそれぞれ砲列を敷き、猟兵と15連隊の攻撃を援護、仏軍によるコロンベイ奪還の攻撃を歩兵たちと共に幾度も失敗させるのでした。
会戦後(1870年冬)のコロンベイ領主館
こうして午後4時過ぎにはゴルツ支隊の前衛はコロンベイとその西に続く渓谷の斜面まで進みました。しかし、この先へは全く進むことが適わなくなるのです。何故ならば、ゴルツ支隊の数倍にも及ぶ仏軍がコロンベイの西側を流れる「南」ヴァリエール川を挟んで展開し、そのボルニー高地一帯は仏軍が正にひしめく状況にあったからでした。
ラ=プランシェットの南側に接近した15連隊の3個(第1、6、7)中隊も部落南の谷地で反対岸から猛射撃を被り、前進を阻止されてしまうのです。
また、オービニー城館の北に展開していた軽砲第6中隊もボルニー高地の仏軍砲兵2個中隊から執拗に対抗砲撃を受け、また前進してその南西側から砲撃を始めた仏砲兵1個中隊により側面を脅かされたため、普軽砲中隊はおよそ700m東へ後退、既にコワンシーの南西へ進んでいた同僚の第5中隊砲列の左翼(南)へ展開し直すのでした。
フォン・デア・ゴルツ少将は前衛の進撃が阻止され、次第に危険な状況になるのを見ると、直ちに後続部隊を前線に進め、支隊全部がコロンベイの戦場に展開することとなりました。
既に第15連隊の前進後、ゴルツ将軍は第55「ヴェストファーレン第6」連隊フュージリア(以下、Fとします)大隊をコアンシーから北へザールブリュッケン~メッス街道(クールセル=ショシーを東西に抜ける現サルブリュック道路です)まで進ませ、敵がラ=プランシェットを抜いて来た場合に備えていました。将軍はこの大隊を苦戦する15連隊3個中隊の戦線へ進ませます。F大隊はラ=プランシェット周辺に広がるブドウ畑に突入し、ここで部落北に展開する仏軍散兵と至近距離で激しい銃撃戦となりました。
この、独軍のドライゼ銃でも十分に戦える近距離での銃撃戦で、F大隊は中隊長2名の戦傷死を始め多くの犠牲を被りましたが、この間に普15連隊の兵士たちがラ=プランシェット部落を占領し、側面を脅かされた仏軍部隊はブドウ畑の散兵線を放棄して西へ撤退、第55連隊F大隊は前進することが可能となるのでした。
このラ=プランシェットを占領したのが第15連隊の第1中隊とF大隊の一部でした。15連隊F大隊はコロンベイの東側を抜けて北上し、同僚の3個中隊と合流し、その内の第11中隊が第1中隊と共にラ=プランシェットの家屋群に突入してこれを占拠します。これに第10中隊半個も加わってラ=プランシェットは完全に普軍の手に落ちたのでした。
この第10中隊残部と第9中隊は、第15連隊F大隊長フォン・カベティンスキー中佐が直卒し、第6、7中隊が苦戦するヴァリエール川渓谷斜面での戦いに加わりますが、この激しい銃撃戦で大隊長は負傷し、第9中隊長は戦死してしまうのでした。
なお、15連隊第12中隊はF大隊を離れて南下し、コロンベイ付近で居座る仏兵の掃討戦を行う猟兵大隊と15連隊3個(4、5、8)中隊に加わりました。
ゴルツ支隊残部の第55連隊第1、2大隊はこのコロンベイ部落に向けて前進し、この内第1、4中隊はコワンシーから進んでコロンベイのサント=ナボル教会の南でヴァリエール川に架かる橋を占領、ここを固めました。第2、3中隊はコロンベイ北の高台に登って陣地を構え、第2大隊はヴァリエール川を橋の南で渡河し、街道の南側一帯(コロンベイの領主館に付属する庭園や旅荘などがありました)を占領したのでした。
会戦後のコロンベイ・サント=ナボル教会
この時点で午後5時を過ぎました。
ゴルツ支隊は最初の攻撃(午後4時まで)により北はラ=プランシェットからヴァリエール川の東岸を経てコロンベイ~オービニー~アル=ラクネイーの東郊外までを占領しました。しかし、この線で仏軍は猛烈な抵抗をして、およそ1時間余り、延々と続くかとも思えるような銃撃戦が行われていたのです。
当然、死傷者も多く出始めています。特に北部のラ=プランシェット付近が危険でした。
この付近に陣取っていたのは仏第3軍団第3師団(ジャン・ルイ・メトマン少将指揮)と第2師団(アルマンド・アレクサンドル・ドゥ・カスタニー少将指揮)、その後方に近衛軍団という仏軍の主力であり、1個旅団程度の戦闘団であるゴルツ支隊が適う相手ではありませんでした。
この午後5時頃ともなると、仏第3軍団の新しい軍団長、クロード・テオドール・ドカン中将はこの「南」ヴァリエール川に突出した敵を包囲すべく命令を下し、増援が続々とボルニー高地東端に向かって進んでいたのです。
そして増援が到着した地域から強引な包囲運動が始まり、シャスポー銃の射撃は途切れなく普軍を襲い、数にものを言わせて普軍を攻撃発起点まで押し戻し、上手く行けば包囲しようとするのでした。
ドカン将軍
このように形勢は全く不利となったことはゴルツ少将にも分かりましたが、始めた以上は退くことなど考えないのが普軍魂といったところです。
ゴルツ少将が犠牲をものともせず、前線に踏み留まろうと決死の覚悟を成した頃。独第一軍もまたゴルツ支隊の窮地に対し手を差し伸べるのでした。
それはまず普第13師団の片割れ、第25旅団を中心としたオステン=ザッケン少将支隊で、東より急進撃すると前衛に随時加わって敵の射撃に対抗し、また北部では第1軍団の前衛が2つ、急速に西へ突進すると戦闘に加わったのでした。
第1軍団長フォン・マントイフェル大将は午後4時過ぎにフォン・デア・ゴルツ少将が走らせた伝令が差し出す「救援要請」を受け取るや、既に前進を命じていた両師団に対し「果敢に戦闘に参加して敵を撃退せよ」と重ねて命令するのでした。
その師団本体の先、シリー(=シュル=ニエ)とレ・ゼタンに居る二つの前衛支隊には直接副官を送り、「勇敢に戦って敵に肉薄するのに気を取られ、勢い余ってメッス大要塞の分派堡塁に近付き過ぎて砲撃を喰わぬよう」念を押すのでした。
軍団長から直接命令を受けたフリードリヒ・フォン・ファルケンシュタイン少将とヘルムート・フォン・メメルティ少将はほぼ同時にそれぞれの前に続く街道を進んで、メッス要塞ベルクロアの堡塁目指し進むのでした。
つまり、第1師団前衛のファルケンシュタイン支隊はシリー(=シュル=ニエ)からザールブリュッケン街道(現国道D603号線)を西へ、歩兵に先行し先頭を行く野戦砲兵第1「オストプロイセン」連隊軽砲第1中隊と数個の竜騎兵小隊はメゾン・イゾレーを通過して、午後4時45分、コワンシーにてダム・ジャネット川の南岸に沿い砲列を敷き、コロンベイ北西方高地を目標に砲撃を開始し、フォン・デア・ゴルツ少将の救援要請に応える文字通り第一弾となったのです。
この後軽砲第1中隊は第13師団長フォン・グリュマー中将の要請でモントワの南西方向へ前進し、ザールブリュッケン街道の脇でコロンベイ付近で戦う歩兵への効果的な援護砲撃を続けることとなりましたが、この配置転換中、砲兵中隊長のホッフバウワー大尉は仏軍のシャスポー銃弾を受け重傷を負い後送されてしまいました。
一方、普第2師団前衛支隊も素早い反応で西へと出撃しました。
このフォン・メメルティ少将率いる支隊は、既述通り13日夜にレ・ゼタンまで戻りましたが14日午前中に、前日兵力不足で前進が適わなかったこともあって増援を受けました。新たにメメルティ少将の下に加わったのは、歩兵の擲弾兵第4「オストプロイセン第3」連隊と野戦砲兵第1「オストプロイセン」連隊軽砲第6中隊で、これでメメルティ支隊は南側ポン・ア・ショシー付近にいた第1師団前衛ファルケンシュタイン支隊と同規模、「強化」旅団クラスとなります(第3旅団の全てと竜騎兵第10「オストプロイセン」連隊、野戦砲兵第1連隊軽砲第5、6中隊。合計・歩兵6個大隊、騎兵4個中隊、砲12門)。
軍団長フォン・マントイフェル大将からの前述の命令(最初の緊急集合命令)を午後3時過ぎに受領したメメルティ将軍はこの時、前哨の竜騎兵中隊を交代させ、グラテニーからリバヴィルの森付近に警戒線を敷いていた第44「オストプロイセン第7」連隊F大隊より西、サント=バルブからルトンフェの線へ同連隊第1大隊を送った直後でした。
そこでメメルティ将軍は即座に出撃準備の成っていた竜騎兵の2個中隊に砲兵2個中隊を直卒してレ・ゼタンを発ち、ノワスヴィルまで前進するのです。同時にレ・ゼタンに待機していた全歩兵部隊へ命令を出し「出来る限り早急迅速に我に続け」と発破をかけたのでした。
この軽砲2個中隊は同僚第1師団の野戦砲兵第1連隊軽砲第1中隊がモントワに前進した時を合わせたかのように同時刻(午後5時30分頃)、ノワスヴィルとモントワのほぼ中間にあったビール醸造場の西、ザールルイ街道(現国道D954号線。別名ブレ道路)の両側に1個中隊6門ずつ砲列を敷きました。同時に竜騎兵第10連隊はこの付近に展開し、砲兵が仏軍歩騎兵から襲撃を受けないよう援護に回ります。
他方、この砲兵を追った歩兵部隊は、まずサント=バルブへ先行していた第44連隊第1大隊が間隔を空けた横列縦隊で行軍し戦線右翼(北側)を構成します。この大隊は第4中隊を予備としてビール醸造場に置くと、残り3個中隊は大隊長フォン・ツィングラー少佐が率いて前進します。
第1中隊はノワスヴィルのカラント川渓谷北斜面を登って河畔のブドウ園に入り、第2、3中隊は大隊長が率いて渓谷の南岸沿いを西へ、西のボルニー高地から敵の猛射撃を受けつつ前進し、ヌイイを目指しました。
この44連隊第1中隊(普連隊の1から4中隊は第1大隊所属です)はヌイイ郊外に展開していた仏軍散兵を少時の交戦で撃退するとそのまま部落の北をメ(Mey)北の林東側高地に達するなり前方から猛烈なシャスポー銃の射撃を浴び、前進を阻止されてしまいました。このメ部落から林には仏軍がしっかりとした散兵壕を築いていて、ここに籠もった仏軍も頑強に抵抗するのです。
ヌイイ部落を抜いた44連隊第2、3中隊は第1中隊が猛烈な銃撃戦を始めるやその南側でメ部落を攻撃し、一部は未だ占領していない部落を駆け抜け、一部は部落を迂回してメ北部高地に取り付きました。
また、普軍戦線後方では第44連隊第2大隊が第1大隊を追って進撃し、その第6、7中隊はヌイイ北方を通過して第1中隊の戦線に増援として加わり、第5、8中隊は一時予備としてノワスヴィルに留まりました。
これで独軍戦線最右翼ではメ北部高地を焦点にドライゼ銃の射程内(400m前後)で激戦が始まりましたが、独軍は当初わずか44連隊の5個(第1、2、3、6、7)中隊の兵力だったのに対し、相手仏軍は第4軍団の第2師団(フランソア・グルニエ少将指揮)の前衛1個旅団クラスで、その西からは増援が次々に駆け付けることとなったのです。
この第2師団前衛の南側では、第1師団前衛フォン・ファルケンシュタイン少将の支隊がモントア方向に前進するため、先鋒として第43「オストプロイセン第6」連隊F大隊と猟兵第1「オストプロイセン」大隊の半分(第1、2中隊)を急進させ、苦戦するゴルツ支隊を北側から援助しました。
この内猟兵2個中隊はフランヴィルを経てモントワ部落北側の高地に迫り、この後方に第43連隊が連隊長カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フランツ・アレクサンドル・フォン・ブッセ大佐に率いられてザールブリュッケン街道を西へ進み、連隊は午後5時頃モントワの東高地に到着しました。
ブッセ大佐はここで斥候から「敵がロヴァリエールを通過して東進する」と聞き及び、連隊を各半大隊ずつに分けると前進を再開します。
この時、F大隊2個(第9と12、第10と11中隊の組み合わせ)半大隊は横列でモントワ部落とその東側を通過し、部落西のフォセ・ド・レタン川を渡河して対岸(北)側高地に登り、左翼側(南西)に進みます。
第2大隊2個(第5と8、第6と7中隊の組み合わせ)半大隊はF大隊に続いて川を渡るとその右翼側(北)へ出て、F大隊と協調してロヴァリエールからラ=プランシェットにかけて戦線を構築するのです。
第1大隊はこの第2大隊に続きましたが、不幸にもモントワ部落を通過する際に敵の狙撃を受けた大隊長フォン・ヴーテノウ少佐が戦死してしまい、指揮官を失った大隊は2個中隊ずつの半大隊(第1と4、第2と3中隊の組み合わせ)となって、それぞれ第2とF大隊の予備として後続したのでした。
猟兵大隊は43連隊の左翼を進み、モントワ部落を過ぎてヴァリエール川渓谷に沿って進み、ラ=プランシェットの北でゴルツ支隊の戦線北部に連絡し、43連隊F大隊は南側を守られてロヴァリエールの小部落に入るのでした。




