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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・メッス周辺三会戦
190/534

コロンベイ戦前日8月13日の独軍

 明けて8月13日。独軍は各地で敵に接触しつつ、その行動を監視する展開となりました。

 独第二軍の左翼側(南)では第10軍団が強行軍でモーゼル河畔に向かい、その左翼後方では第二軍最左翼の第4軍団がナンシーまでおよそ30キロのシャトー=サラン付近に達しました。

 第二軍の騎兵は大本営の指示によりモーゼル川を越えて西岸地域を偵察するため、第4軍団に差配されていたブレドウ騎兵旅団は本隊の騎兵第5師団への復帰を命じられ、第4軍団の前方、ジャロクール(シャトー=サラン西10キロ)で集合しました。

 近衛軍団はオロン(シャトー=サラン北10キロ)からルモンクール(デルム南2キロ)の間に進み、近衛竜騎兵旅団は騎砲兵1個中隊を従えて軍団に先行し、渡河点を確保するためモーゼル河畔のデュールアールへ進撃しました。

 

 この戦争では多くの王家一族や名門貴族の子弟などが従軍していましたが、ヴュルテンブルク王国に囲まれた普王国飛び地のホーエンツォレルン州に領地のある王家の本家筋、ジグマリンゲン家の四男、フリードリヒ・ユージン・ヨハン・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン候子は普軍騎兵大尉として近衛竜騎兵第1連隊第4中隊長を拝命していました。彼の兄は今回の戦争のきっかけとなったあのレオポルト候です。

 フリードリヒ候はこの13日、旅団前衛として自身の中隊を率い、25キロ余りを急行軍した後にモーゼル川を渡河してデュールアールに達し、街に本隊を残して数十騎を率いると更に西へ偵察騎行します。この時、残った中隊の兵士はデュールアール停車場の破壊に従事しますが、そこへ南より軍用列車が次々と到着(最終的に4編成)、乗車していた仏兵は普近衛の竜騎兵に対し銃撃を加えましたが、普騎兵が反撃すると汽車は逆走し始め、列車は次々に後退して南へ去りました。前衛を追って到着したばかりの騎砲兵中隊はすぐさま去って行く仏軍用列車に対し数発の榴弾を発射しましたが、効果のほどは不明でした。


 挿絵(By みてみん)

ユージン・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン騎兵大尉


 レーデルンとバルビーの両騎兵旅団は13日朝、ポンタ=ムッソンの東郊外(モーゼル川東岸)に到達しますが、市街地の東に広がるブドウ畑には未だに仏軍残留兵の小部隊がおり、驃騎兵第17連隊の1個中隊が下馬してブドウ園を攻撃、仏兵を掃討しました。別の1個中隊はポンタ=ムッソン停車場を攻撃しましたが、この数十分前の午前9時、仏軍歩兵1個大隊を乗せた最後の列車が北へ、メッスへと去っています。

 午後になると第19師団(フェルディナント・エミール・カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュヴァルツコッペン中将指揮)がポンタ=ムッソンへ到着し始め、師団は直ちに市街を本格占領し、モーゼルの両岸に前哨を派遣、そのままメッス方面へ進ませました。また、第57「ヴェストファーレン第8」連隊の2個大隊を南方のデュールアールへ向け出発させ、部隊は夕刻目的地に到着しました。


挿絵(By みてみん)

ポンタ=ムッソンの奇襲


 レーデルン旅団はモーゼル両岸で警戒しましたが、驃騎兵第17連隊のみ前進して夕刻にはティオークール(=ルニエヴィル。ポンタ=ムッソン北西13キロ)付近まで到着、斥候は仏軍竜騎兵の斥候に遭遇しますがお互い交戦せず引き揚げます。

 なお、バルビー旅団はポンタ=ムッソンの東、モーゼル川東岸で野営し、第20師団(フリードリヒ・ヴィルヘルム・アレクサンダー・フォン・クラーツ=コシュラウ中将指揮)はデルムからオルノワ=シュル=セイユ(デルム西南西6キロ)にかけて展開しました。


 第二軍右翼側(北)では第3軍団の師団(第5、6)に属していた2個のブランデンブルク州竜騎兵連隊(第2と第12)は13日黎明、命令により軍の最先端に展開していた騎兵第6師団と交代するため、ニエ・フランセーズ河畔パンジュへと向かいます。交代した騎兵第6師団は別命を帯び、ニエ・フランセーズ川とモーゼル川の間、ソルベ(クールセル=シュル=ニエ南南東2キロ)からコルニー(=シュル=モーゼル。メッス南西12キロ。モーゼル河畔)までを占領して独第二軍左翼の行動(ポンタ=ムッソン周辺でモーゼル渡河)をメッスから「遮蔽」することとなりました。これで師団は左に旋回しますが、その際無防備となる右翼から後方にかけては、驃騎兵第16連隊が後衛として援護することになりました。

 シュレスヴィヒ=ホルシュタインの驃騎兵連隊はこの任務中、メッス~ナンシー街道(現在の国道D913号線)上のフルーリー付近で糧食を徴発中の仏竜騎兵1個中隊と遭遇し、仏竜騎兵は戦わずマニー方面へ去りました。これを追った連隊の前衛は、メッス南郊外のマニーからマルリーにかけて多くの仏軍陣地を望見し、マルリーを流れるモーゼル支流セイユ川の西高地上にも仏軍野営を発見したのでした。


 驃騎兵第16連隊の親部隊、ラウフ騎兵旅団はクールセル=シュル=ニエからプイイ(マニーの南2.5キロ)を経てコルニーに至るまでの線上に展開しました。これは軍本営が命じた線より前(北)で、騎兵師団の旋回が終わったため後衛任務から解放された驃騎兵第16連隊が左翼(西)へ転進し、斥候にモーゼルを渡河させて西岸を偵察させ、驃騎兵第3連隊は右翼(東)として、メッスへの前哨任務を代わった第3軍団の竜騎兵と連絡を通すのでした。

 なお、グリューター騎兵旅団はラウフ旅団の南へ出てヴェルニー付近を中心に東西に展開して宿営、その左翼(西)はポンタ=ムッソンにいる騎兵第5師団と連絡を通しました。


 これら騎兵第6師団と第3軍団の師団騎兵隊はこの日の偵察で、オニー(メッス南西郊外)には仏軍がいないものの、アル=ラクネイー、ラ・グランジュ=オー=ボア(メッス南東郊外アル=ラクネイーの西)やマニー、ペルトル、ジュリー、メルシー=レ=メッス(別名メルシー=ル=オー。メッス南東郊外にあった部落で、現メッス=ティオンヴィル病院北西角付近)などの部落周辺には2から3個軍団が野営しており、これら部落では家屋が接収され防御拠点が設けられ、散兵塹壕が部落周辺に掘られて、前哨が出されているのが観察されます。その他、モンテニー(=レ=メッス。メッス南西市街地)地区の西部、モーゼル河畔にも若干の野営が発見されるのでした。


 13日、独第二軍の右翼はこれら騎兵部隊が作ったいわゆる「騎幕」の後背地に進出し、第3軍団はベシーからリュピー(アン=シュル=ニエの西4~6キロ)へ、第9軍団はエルニー(アン=シュル=ニエの東2キロ)を先頭にその東側マニーへ、第12軍団はティクール(アン=シュル=ニエの東9キロ)付近へ、それぞれ行軍しました。この3個軍団は、第一軍の戦線に戦闘が発生したならば直ちに北へ救援進撃することを命じられます。

 後方では第2軍団が全て軍用列車から下車して、そのうち3個旅団がこの日サン=タヴォルへ到着しました。なお、第二軍本営はデルム(シャトー=サラン北西11キロ)まで前進しています。


 同じく13日、独第一軍は12日午後に大本営から受けた命令に従い、全部隊がニエ・フランセーズ川に向け前進を始めました。第1と第7の2軍団は接近した形でニエ・フランセーズ川東岸へ前進し、その後ろ、ニエ・アルマンド川西岸に予備として第8軍団が続きます。

 その両翼前方に騎兵師団が進み、騎兵第3師団は右翼北へ、騎兵第1師団は左翼南へ前進しました。


 騎兵第1師団は13日早朝、前夜宿営したポン=ア=ショシーとクールセル=ショシーから南西へ行軍し、まずはパンジュ部落に達します。するとここで第3軍団のブランデンブルク竜騎兵2個連隊(既述)と遭遇しました。元よりこの竜騎兵たちは第一軍が前進して来たら陣地を明け渡し原隊に復帰する予定でしたので、騎兵連隊長たちは騎兵第1師団長のユリウス・ハーツゥング・フリードリヒ・フォン・ハルトマン中将と引継ぎをしますが、ここでハルトマン将軍は竜騎兵がニエ・フランセーズ川の西岸で敵騎兵斥候と接触したことを知るのです。将軍は直ちに麾下の槍騎兵第8「オストプロイセン」連隊に川を渡河させて前進させました。

 槍騎兵連隊は西岸で仏軍猟騎兵数個中隊と遭遇しますが、敵騎兵はどれも戦わず直ぐに離れて北西のコリニー方面へ逃走しました。

 騎兵第1師団は槍騎兵第8連隊に続いて渡河し、ヴィレ=ラクネイーからクールセル=シュル=ニエを通過しメクルーヴ(クールセル=シュル=ニエ南西4キロ)に到着、この周辺にまだ展開していた騎兵第6師団の前哨と任務を交代しました。ハルトマン師団長は槍騎兵第4「ポンメルン第1」連隊に命じて、騎兵第6師団斥候が目撃したというジュリーやペルトル方面へ前進させます。この槍騎兵連隊の先頭中隊である第2中隊は、ジェリー部落手前で鉄道堤の陰に潜んでいた仏軍散兵から猛烈な銃撃を浴びて後退しました。また、メクレーヴから街道を挟んだシニー(メクレーヴ北西2.5キロ)やその西の森林にも仏兵が散見され、ジェリー北のメルシー=レ=メッスにある野営からは仏軍騎兵部隊が出撃するのが目撃されたため、普槍騎兵第4連隊は前哨をジュリー南東の鉄道を臨むフロンティニーに置くと、本隊は徐々にメクレーヴまで後退し、およそ6個中隊と見積もられた仏軍騎兵隊も、ジュリーの鉄道線路で停止するのが認められたのでした。

 なお、先発していた槍騎兵第8連隊はヴィレ=ラクネイーから召喚され、この日の午後師団本隊の南側、ポントア周辺に野営したのでした。


 その頃、騎兵第1師団に続行した第7軍団はニエ・フランセーズ川河畔に到着し、麾下部隊でスピシュランの「勝者」第14師団はドマンジュヴィル(パンジュ南南西2キロ)に到達し、前衛として第53「ヴェストファーレン第5」連隊フュージリア大隊を西2キロのクールセル=シュル=ニエへ進ませ、大隊は同地の停車場やニエ・フランセーズ川の渡河点を占領しました。

 第13師団の第25旅団は、野砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊重砲第5、6中隊と驃騎兵第8「ヴェストファーレン」連隊の1個中隊を加えてパンジュ東郊外に野営します。第7軍団砲兵隊は両師団の南後方バゾンクール(パンジュ南南東3.5キロ)に進みました。


 この第7軍団の前衛は第13師団の第26旅団を中核としたフォン・デア・ゴルツ少将支隊(歩兵第26旅団、猟兵第7「ヴェストファーレン」大隊、驃騎兵第8連隊の3個中隊、野砲兵第7連隊軽砲第5、6中隊)でした。この13日、ゴルツ支隊はニエ・フランセーズ川をパンジュで渡河すると西へ行軍しようとしましたが、前進方向のアル=ラクネイーには強大な仏軍がおり、その北、コワンシーやコロンベイにも敵がいました。そのため前哨を予定地のジュリーからマルシリーまで進めることが適いません。フォン・デア・ゴルツ少将は先鋒の第7猟兵大隊をラクネイー部落西の林で留め、本隊を800m後方(東)のヴィレ=ラクネイー西方に野営させるのでした。


 この日午後、第一軍の前線における敵情を探り、馬匹用の飼料を徴発収集するため、ゴルツ支隊より第15「ヴェストファーレン第2」連隊の2個中隊がアル=ラクネイー方向へ、猟兵第7大隊から1個中隊がジュリー方向へとそれぞれ進発しました。15連隊の歩兵たちはコワンシーとアル=ラクネイーの中間にあるシャトー・オービニー付近から猛烈な銃撃を浴びますが、構わずに付近の田園から燕麦などを収集し、猟兵たちはジュリー部落に侵入、敵兵は既に去った後でしたが、周囲の森林やストラスブールへ至る街道と国際鉄道との踏切付近(西方)には未だ仏軍が居座り、彼らを駆逐しようと歩兵2個大隊と騎兵1個中隊がメルシー=レ=メッス方面から出撃したのを認めたため、猟兵中隊は捕捉される前に撤退したのでした。


 第一軍の右翼となる第1軍団は命令通りレ・ゼタンとポン・ア・ショシー付近でニエ・フランセーズ川の線に達すると、このブレ=モゼルからメッスへ通じる街道と、サン=タヴォルからメッスへ通じる街道の間に展開し、軍団長のマントイフェル大将は2個の前衛支隊をそれぞれの街道西側へ進ませました。


 第1師団前衛支隊はルドルフ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ファルケンシュタイン少将が率い、少将が旅団長の第2旅団を中核に猟兵第1「オストプロイセン」大隊、竜騎兵第1「リッタウエン(リトアニア)」連隊、そして師団砲兵隊(4個中隊)で編成されていました。

 ファルケンシュタイン支隊はポン・ア・ショシーから渡河して西へ進み、騎兵前哨は1個中隊ずつルトンフェ(レ・ゼタン西5キロ)とオジー(パンジェ北西3.5キロ)まで前進、猟兵たちはルトンフェの後方ヴォドゥヴィルの森に展開し、歩兵の第43「オストプロイセン第6」連隊は2個中隊がメーズリー(オジーの東北東2キロ)とサン=タヴォル街道の間に、同連隊の5個中隊と騎兵1中隊、そして砲兵1個中隊がランドルモン(メーズリー北東1.5キロ、街道南脇)に、残りの前衛本隊はポン・ア・ショシーの西側に、それぞれ野営しました。

挿絵(By みてみん)

フォン・ファルケンシュタイン将軍

 また、第1師団本隊と第1軍団砲兵隊はクールセル=ショシー北郊外森林に沿って野営地を作るのでした。

 この方面では13日、斥候が南方でいくつかの敵との接触を伝聞した以外異常はなく、ルトンフェとオジーの騎兵は夜間孤立する恐れがあるため、夕刻歩兵3個中隊が師団より派遣され交代しました。

 なお、オジーとラクネイー西の森林の間に部隊が存在しなかったため、このギャップを埋めるため第一軍本営は同日夕刻、第13師団に命じて第13「ヴェストファーレン第1」連隊第1大隊をコリニー(オジー南東1キロ)の南へ展開させました。


 第2師団前衛支隊はアルベルト・アレクサンドル・ギデオン・ヘルムート・フォン・メメルティ少将が率い、歩兵第44「オストプロイセン第7」連隊、竜騎兵第10「オストプロイセン」連隊(1個中隊欠)、そして野砲兵第1「オストプロイセン」連隊軽砲第5中隊で編成された第1師団より小規模の師団前衛でした。

 メメルティ支隊はレ・ゼタンから進発して、グラテニーを経て街道の北側を進み、サント=バルブ南方を過ぎてセルヴィニー(=レ=サント=バルブ。ヌイイ北東2キロ)付近で初めて仏軍前哨と接触、竜騎兵はこの敵と戦いヌイイへ追い払いました。ヌイイやメ、ボルニー方面には騎兵たちの報告通り仏軍の大きな野営が見えましたが、彼ら普軍に対し進撃する素振りは見えませんでした。メメルティ支隊本隊はこの日午後プティ・マレー(サント=バルブ南1.5キロ、街道沿い)まで進みますが、メメルティ少将はサント=バルブからルトンフェまで騎兵1個中隊を薄く警戒幕として展開させ、その応援として後方グラテニーからリバヴィルの森(ボワ・ドゥ・リバヴィル)間に44連隊フュージリア大隊を展開させると、本隊はレ・ゼタンに帰しました。

 この日、第2師団本隊はランドンヴィエ(クールセル=ショシー東市街地別称)に宿営します。

挿絵(By みてみん)

フォン・メメルティ将軍

 この第1軍団の更に右翼(北)ではこの日、騎兵第3師団がブゾンヴィル~メッス街道を南西へ、メッス北郊外へと進撃しましたが、その前衛槍騎兵第7「ライン」連隊がヴレミ(ファイイ東郊外)に接近すると敵の陣地から猛射撃を受け、連隊はアヴァンシー(サント=バルブ北北東1.5キロ)で停止しました。これを受け、ちょうど南側を進撃した後に後退した第2師団前衛のメメルティ支隊から歩兵前哨が派遣され、前哨線をサンリー(=レ=ヴィジー。ファイイ北北東2.5キロ)まで延伸します。

 この地区はモーゼル川下流に沿ってティオンヴィルまで兵力の空白地帯となっていました。第一軍本営はやがて前進する右翼側面警戒のため、槍騎兵第7連隊から第2中隊を抽出してこれをヴィジー(サント=バルブ北5キロ)に派出しました。騎兵第3師団はこの日ヴリ(サント=バルブ北東3キロ)周辺に野営します。


 この、ティオンヴィルからメッスまでの地方の様子は第一軍も気になるところでした。

 槍騎兵第7連隊のフォン・ミュラー中尉は斥候を率いこの日午後ティオンヴィルに接近します。中尉が要塞の4キロ東に近付くと哨戒中の敵前哨と遭遇し、しばしの銃撃戦となった後、中尉の斥候隊は脱出に成功しました。

 また、別の斥候隊はオーコンクール(ヴィジーの西北西7キロでメッス北モーゼル河畔)付近で渡し船を捕まえ、モーゼルを渡河し西岸に上陸すると周辺一帯を捜索しましたが敵の姿はありませんでした。

 この1件以外、普大本営が第一軍の騎兵に命じていた「モーゼル西岸の偵察」は、仏側がほとんどの渡船を没収し西岸へ隠すか破壊したため、この日は不発に終わるのです。


 第8軍団は前述通り第一軍の総予備としてニエ・アルマンド川河畔に到達し、第15師団はビオンヴィル(=シュル=ニエ)付近、第16師団はヴァリーズとエルストロフに、軍団砲兵隊はブルック(ビオンヴィル北東3キロ)へそれぞれ進出しました。


 第一軍司令官シュタインメッツ大将は、前日12日にフォン・フォークツ=レッツ少尉が行った強行偵察や、この13日午後にフォン・ミュラー中尉が経験した前哨戦により、ティオンヴィル要塞が手薄であるとの情勢を知ると、強力な支隊により「一撃で要塞を抜く」ことを構想し、第8軍団長フォン・ゲーベン大将を通じて普仏初戦「ザールブリュッケンの戦い」の当事者である伯爵ブルノ・フォン・グナイゼナウ少将に対し、「一支隊を率いてディーデンホーフェン(ティオンヴィル)を占領せよ」と命じました。グナイゼナウ将軍は自身率いる第31旅団に驃騎兵1個中隊、砲兵1個中隊、そして攻城の「専門家」、軍団工兵の「対壕(ついごう。敵要塞に接近するための通路壕)」中隊を加えてこの日夕刻、エルストロフを発ってベッタンジュ(プレ=モゼル北)へ進みます。少将の支隊は翌14日早朝にベッタンジュを発ち、夕刻までにティオンヴィル要塞近郊まで隠密に接近し、15日未明に要塞を攻撃して陥落させることを命じられるのでした。

 ちなみにこの13日、第一軍本営はブシュボルヌからヴァリーズに前進しています。

 

 こうして13日、独第一軍と第二軍右翼は仏軍主力である「バゼーヌ軍」に急接近しましたが、仏軍は独軍の斥候に対しても大概が守りに徹し、攻撃的には見えませんでした。

 仏軍はニエ・フランセーズ川西岸に一旦築いた野営や防衛線を放棄、または破壊・撤去し、更にメッス近郊まで退いたものと思われました。このことは多くの斥候や前衛部隊が撤去の後も生々しい野営跡や陣地跡を発見し、多くの仏民間人が部落を捨てて去り、無人地帯となっていることからも明らかでした。

 第一軍参謀長、オスカー・エルンスト・カール・フォン・スペルリング少将は、これらの情報をもっと詳細に知りたいと考え、この日午後遅く自ら前線へ出動し、ラクネイーからルトンフェに至る前線を巡察しました。その結果、仏軍は攻勢を企てている風には見えず積極性に欠けており、ヌイイ方面を流れるカラント川西には強大な陣地を築き、これを維持しようと考えているのではないか、と考えます。

 第一軍本営は夕刻、この主旨に沿ったこの日の敵情報告を大本営に送付したのでした。

挿絵(By みてみん)

フォン・スペルリング将軍

 なお、普大本営は13日、サン=タヴォルよりエルニー(アン=シュル=ニエ東北東3キロ)へ移動しています。


 普大本営は、仏軍がモーゼル西岸へ渡河せず、メッスの東で「ぐずぐずしている」ことを「敵本軍の殲滅のチャンス」と喜びました。しかしまた、これによって問題となる面もあり、その一番大きな問題は、敵が退くものと考えて前進させたシュタインメッツ第一軍が、敵からわずか数キロ隔てただけで対峙してしまったことでした。同時進行で第二軍左翼はモーゼル川をナンシーの北で渡河しようと機動しており、右翼は第一軍の左翼から援護する必要性が生じるので、戦力が分散されつつあることも問題となりました。

 モルトケはこの状況を見極めて、第二軍が分割された状態に陥るのを「可」とします。何故なら、例の「メッスを包囲するための右大旋回作戦」を行うにはいずれにせよ第二軍右翼をメッスの南で「抑留」することが必要だからで、この第一軍3個(第1、7、8)軍団と第二軍右翼3個(第3、9、2)軍団でメッス東の「20万の敵」と対峙、敵を引き留めることを決するのです。


 在エルニーの普大本営は13日午後9時、次の命令を発信しました。

「現在まで得た情報により、敵の本軍は本日13日午前に至ってもメッス東方セルヴィニー(=レ=サント=バルブ)からボルニー付近で留まっている。国王陛下は次の命令を発せられた。

第一軍は明日14日ニエ・フランセーズ川河畔の陣地を維持して駐留し、前衛は敵が退却するのか攻勢を採るのかを見極めるため、監視観察せよ。

もし、敵が攻勢に転じた場合を考え、第二軍第3軍団は明日14日、まずはパニー(=シュル=モゼル。ポンタ=ムッソンの北9キロ)に面したモーゼル川東岸まで前進し、同軍第9軍団はビュシー(アン=シュル=ニエ西12キロ、街道交差点西)方面へ前進して、両軍団は4キロ間隔で並列して待機、もしメッス東で本格的な会戦が発生したならば機を逸せずこれに参戦すること。また、敵が南下してこの2軍団(第3と9)を攻撃した場合は、第一軍は直ちに敵本軍の側面(左翼。東)を攻撃して敵の動きを妨害すること。

第二軍に属する残りの部隊はポンタ=ムッソンよりマルバッシュ(ナンシー北北西フルアール北)間のモーゼル流域に進撃継続し、第10軍団はポンタ=ムッソンの西に陣地(橋頭堡)を構築せよ。

第一、第二両軍の騎兵は本軍よりなるべく遠方まで進出し、敵がもしメッスからベルダン方面へ後退を始めた場合、敵の行軍を妨害し騒擾を起こせ」


 この命令が電信や伝令によって送付された時、時刻はすでに14日午前となっていました。第3軍団と第9軍団に関する命令は大本営より伝令士官がこれを運び、直接軍団長に手渡しました。

 なお、第二軍左翼に関する命令ですが、これを司令官のカール王子が受領する前に、既に第二軍本営は独断によって大本営命令と全く相違ない進軍を決定し実行していたのでした。



ボルニー=コロンベイ戦場地図・北

挿絵(By みてみん)

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