開戦前夜~普墺対立激化とナポレオン3世の暗躍
1865年9月15日。ビスマルクはヴィルヘルム1世から伯爵位を授けられて正式に貴族となり「ビスマルク=シェーンハウゼン伯爵」を名乗ります。
得意絶頂のビスマルクはプロシア王国内の世論を「近い将来にオーストリアと開戦してもやむを得ない」との風潮へ駆り立てると共に、得意の外交攻勢を仕掛けました。
ガスタイン協定は諸外国から表向き「潜在的に対立するドイツの両雄である普墺が今後も手を結んで協調路線を歩む」ように写り、これは利害が対立する諸国でかなり大きな反応を引き起こします。
ドイツがデンマークを弱体化させたことで、北海と北欧に大きな利害があるイギリスでは、それまで「ヴィッキーの嫁ぎ先」という事もあって反普反独の声は控えめだったものが、次第にプロシアを警戒せよという声が目立ち始めました。
ロシア帝国は、バルカン半島で対立するオーストリアの弱体化を促進するためにもプロシアがオーストリアと争い「ロシアに対抗するに至らない程度にまで」国力を上げることには大賛成で、プロシアの外交努力を賞賛していました。
このヨーロッパ列強の中で最も大きな反応を示したのがフランス帝国で、皇帝ナポレオン3世は益々権勢盛んとなるビスマルクを苦々しげに眺めていたのです。
ナポレオン3世は以前より比較的親普の傾向がありましたが、それも当座イタリアを介して敵となったオーストリアと比較してと言うだけで、実際皇帝の取り巻き、特にスペイン出身で敬虔なカトリック教徒のウジェニー皇后と、ビスマルクを毛嫌いしていた外相のエドゥアール・ドルアン・ドゥ・リュイスは親墺の傾向を見せていました。
一見普墺が協調路線を取るガスタイン協定はフランス帝国とナポレオン3世にとっても気持ちの良いものではなく、イタリア統一に軍を派遣し血を流した皇帝は、エルベ公国を独立させず併合したプロシアとビスマルクに不快の念を覚えました。このままでは普墺が西を向いてフランスとの対立を先鋭化しかねないとも考えていたのです。
これは、小ドイツ成立の道程で何時かはフランスと対決しなくてはならないものの順番はオーストリアが先、と考えていたビスマルクにとっても大きな問題で、まずはオーストリアとの対決前にフランスとの対立を解消しようと動きました。
65年の8月下旬、ベルリン駐在仏代理公使のエドゥアール・ルフェーヴル・ドゥ・ベエーンはビスマルクに呼ばれ会見します。席上ビスマルクは「ガスタイン協定は暫定的なものに過ぎず、協定は普墺の協調を曖昧な表現でごまかしており、近い内に必ず普墺の対立が発生するので安心してもらいたい」と語りました。更に皇帝と近々直接会談したい旨希望を述べると「プロシアが小ドイツを完成した折には、フランス帝国が人種や言語のルーツを同じくする地域(ベネルクス地域でしょうか)に勢力を拡大しても我々は黙認するでしょう」とかなり踏み込んだ発言もするのでした。
そのナポレオン3世とビスマルクの会談はこの年の秋(10月)、スペイン国境に近い大西洋に面した保養地ビアリッツ(ウジェニー皇后の別荘があり皇帝一家の保養地となっていました)で行われ、ビスマルクは皇帝に対し「ガスタイン協定は一時的なものに過ぎない」ことを再び強調し「ホルシュタインもプロシア領となることで(フランスがこれに反対せず黙認すれば)終世フランスとプロシアが友好関係を続けることになるでしょう」と語り、皇帝が心配していた普墺間の密約の中に「イタリアに残る墺領ヴェネトを保持する保証」があるか、については「そのような約束はございません」と否定するのでした。
そしてここで、歴史家の中で度々論争となる「ビアリッツの密約」なるものが結ばれた、と言われます。
この密約なるものとしてまことしやかに伝わるのは、「普墺がもし戦争となった場合にフランス帝国は中立を守り、その見返りとしてプロシア王国はライン川左岸(西岸)をフランスに割譲する」というものでした。
しかしこの「密約」は一切文書として残っておらず、「ライン左岸の割譲」という空約束が本当にあったのか否か証明出来ませんが、後にフランス・ナポレオン3世側から「ビスマルクに嘘を吐かれた」と非難があったと言われることから「何かナポレオン3世が飛びつきそうな口約束がされたのは本当」と言われています。この「ライン左岸」については、また「戦争後」にお話ししましょう。
ビアリッツ ウジェニー皇后の別荘(現在のオテル・デュ・パレ)
この65年から66年前半に掛けて諸列強を宥めて「ドイツ問題」に勤しむプロシア王国(と言うよりビスマルク政権)に対し、オーストリア帝国内ではドイツ人とハンガリー人を代表とする非支配民族双方で「反普」感情が高まって行きました。
こうなるとビスマルクに押しまくられていたウィーン政府も動き出し、ガスタイン協定を結んだことで毀損したドイツ連邦加盟の中小領邦への求心力を取り戻そうと「反普」色を見せ始めるのでした。
これらの動きはガスタイン協定が実際プロシア有利となっている事実のみならず、何かにつけドイツ連邦とオーストリアの意向をを無視して自国有利に物事を進めるビスマルクの豪腕に反感を持つ者が多かった、という事でしょうが、それよりも大きな問題がオーストリアにはありました。
この時代、オーストリアは既に別の面でプロシアに敗北していました。 それは、貿易です。
プロシアはクリミア戦争を機として急速に工業生産力を増大して行き、その商品の販売先を拡大するため自由貿易主義を推奨していたのに対し、保守優勢で旧弊・工業生産力も伸び悩むオーストリアは保護貿易主義を押し通しており、従来のドイツ関税同盟を自由貿易寄りに変革しようとするプロシアと衝突していました(結果、高関税は英仏など諸外国に掛けられ同盟内では低関税となります)。
しかし商工業の貿易は圧倒的にプロシア有利となりつつあり、これはオーストリアの財政に危機的状況を招き始めています。
不況は国を痛め付け、その最大の原因であるライバル国に対し利害関係にある商工業者ばかりでなく国民全体が悪感情を持つに至るものです。
戦争発生の条件で経済悪化は必ず登場します。
この雲行きの怪しさが表に出る事態が1866年1月下旬、自由都市ハンブルクとの国境にあるオーストリアが支配するホルシュタイン州の街・アルトナで発生します。この地でホルシュタイン州総督ガブレンツ将軍が許可したアウグステンブルク公を支持する大規模な「民衆集会」が開かれたのでした。
この集会にはホルシュタインの住民ばかりでなくシュレスヴィヒやドイツの各地から民主主義者や自由主義者多数が集まり、ガスタイン協定破棄を求めアウグステンブルク家の追放を非難したのです。
小ドイツ完成のためオーストリアを叩きたいビスマルクはこれを機会と捉え、殊更声を大にして「オーストリアはアウグステンブルク家と連んでガスタイン協定を破棄する運動を支援した」と騒ぎ、「オーストリアがアウグステンブルク家擁護の態度を続けるのなら、プロシアはありとあらゆる手段を講じて対抗する用意がある」と「数歩も先に出る」威嚇を行うのでした。
今までであれば緊張緩和に動いていたオーストリア政府も帝国内の反普感情に影響され、2月21日の閣議で「プロシアの脅しに屈せず一切譲歩しない」ことを決定し、皇帝もこれを承認するのでした。
プロシア側も負けじと同月28日に御前会議を開催し、席上自由主義に理解を示すフリードリヒ王太子がオーストリアとの対立を解消したい旨発言しますが、ヴィルヘルム1世始め残り全員が「オーストリアに対する宣戦布告も辞さない」との意志を示しました。
席上ビスマルクは「ドイツ民族統一を目指すためオーストリアを打倒する必要がある」旨発言し、会議は対墺対策のためイタリアと出来ればフランスとの協定を結ぶ権限をビスマルクに与えるのでした。
それまではカマリラ(王を取り巻く極右派)を中心とした「プロシアだけが甘い汁を吸う支配権の伸張」が主流(そのため同じ王権死守のオーストリアとは手を結ぶ)だったプロシア王国の外交が、表立って「オーストリアを排除した小ドイツの成立」を目指す外交に転換した瞬間でした。
普墺共に「戦争」が有力な解決手段の俎上に上がったのは正にこの時点で、両国は動員を視野に入れた軍備増強を目立つ形で開始するのです。
この頃、普墺の不仲に注目していたのが誕生間もないイタリア王国です。
イタリア王国はサルディニア=ピエモンテ王国が中心となり、二度の統一戦争の果て、共和派との諍いを経て成立しましたが、この時点でローマとその近郊の教皇領と墺領ヴェネト州が「未回収」として残されていました。
ビスマルクはこのイタリア王国の悲願である「完全なるイタリアの完成」を刺激し、「ビアリッツの密約」で宥めたナポレオン3世による黙認の下、イタリアと「プロシアがオーストリアと開戦した折にはイタリアも参戦する」との主旨の秘密軍事協定を締結するのでした(66年4月8日)。これは北のプロシア、南のイタリアと二正面作戦となればさすがのオーストリアも南部戦線に割ける兵力は前回の戦争(第二次イタリア統一戦争)より激減しヴェネト州奪取が容易となる、との狸の皮算用をビスマルクが強調した結果と思われます。
イタリア王国はビスマルクから秘密協定の交渉を持ち掛けられた3月下旬・26日、既に動員準備令を発しており、4月6日には海軍も帰休将兵を招集、10日に新兵徴兵を開始すると陸軍は軍制で定められた最大兵員数185,000名を招集するのでした。
ビスマルクによる「墺の孤立」作戦は手を緩めることなく実施され、イタリアとの秘密協定締結翌日の9日、ドイツ連邦議会に「男子普通選挙によるドイツ国民議会創設」の提案を行います。
これはガチガチの君主制擁護を隠さない彼らしからぬ大胆な自由主義的提案です。あの政友ローンも「ビスマルクは保守主義者と話す時は保守として、自由主義者と話す時は自由主義者として話す」と嘆いたと伝えられます。
しかし、これは巧妙な作戦でした。
この提案は、たとえ多数の小邦がビスマルク案に賛成しても、ある大国だけは絶対に賛成しません。そう、オーストリア帝国です。
オーストリアはドイツ人ばかりでなくチェコ人、スラブ人、ハンガリー人、クロアチア人、ルーマニア人、ポーランド人など非ドイツ系民族が多数を占める多民族国家です。プロシアのような八割以上がドイツ人の国家とは違い、王制の多民族国家では普通選挙など危険過ぎます。しかも、ドイツ連邦はオーストリア主導の緩い協力体であり、普通選挙など実施すればその体制を根本から変えてしまいかねません。
元よりオーストリアの根幹を揺るがすため、オーストリアから反逆者として手配され亡命中のハンガリー人革命家と密かに会談していたビスマルクでした。
これには当然のようにオーストリアが俄然拒否し、提案は葬り去られました。するとさぞ憤慨したかの様にビスマルクは演説します。「民族主義に反対するオーストリア」「ドイツ民族のために尽力するプロシア」と。
ビスマルクはヴィルヘルム1世ですら道具として使い「オーストリアの狙いは、ドイツ統一を進めようとするプロシアの妨害にある」との主張を行わせ、国民のナショナリズムを煽ります。
ビスマルクも鉄血演説を焼き直した様な演説を繰り返し、「演説や会議でなく、剣で統一運動を指導するのならより良い結果が出るはずだ」と軍事的手段でオーストリアとの覇権争いに決着を付けることを事ある毎に示唆して行きました。
こうした揺さ振りは自由主義者たちにオーストリアを敵視させるため積極的に行われました。
同じ頃、墺領ホルシュタイン州でもプロシアを逆撫でするような出来事が連続しました。
ホルシュタイン総督ガブレンツ将軍は本国からの訓令に従い、アウグステンブルク家支持派や州議会がガスタイン協定に抗議する運動を行うことを黙認し、主邑キールに残っていたフリードリヒ8世の政府を認知して行政を委任し、シュレスヴィヒ州にくすぶるアウグステンブルク家支持派との共同議会創設運動さえ黙認するのでした。
プロシアはドイツ連邦議会において、これらガブレンツ将軍の施策をガスタイン協定違反だと騒ぎますが、オーストリア政府は4月25日、プロシア政府に対し「ガスタイン協定を破棄しシュレスヴィヒ=ホルシュタイン問題*はドイツ連邦議会に図る」ことを提案します。オーストリアはプロシアの回答を待たず翌26日、ドイツ連邦議会に対し「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン問題をドイツ連邦議会で討議するよう」提案するのでした。
前述通りドイツ連邦加盟の親墺国はアウグステンブルク家に同情的で、プロシアが黙っていれば必ずアウグステンブルク家が復活し、普墺から独立したシュレスヴィヒ=ホルシュタイン公国が出現するはずでした。
当然ながらプロシアは猛烈に反対しドイツ連邦議会は少数派の親普と多数派の反普に割れて紛糾するのです。
※旧ザクセン=ラウエンブルク公国はアウグステンブルク家との縁は薄く既にプロシア領として確定しており問題には含まれませんでした。
ドイツ連邦議会議事堂のツーン・ウント・タクシス宮殿
実はこの時点で「普墺戦争」は不可避に近い状態になりました。
2月以来、普墺だけでなくプロシアと国境を接する親墺国のザクセン王国でも動員を視野に入れた軍備増強や予備役の部分招集などが始まっており、これを非難しつつ「祖国防衛」を口実にプロシア軍も動員準備態勢にありましたが、5月3日、遂にプロシア軍が動員令を発したのです。
ドイツ連邦では各国軍の平時定員を厳格に定めており、連邦議会の承認を得ない増員は即連邦規約違反となります。プロシアはこれを完全に反故にする形で動員を始めました。プロシア軍は同月12日迄に各駐屯地への予備役召集令発布を完了し、帰休将兵も続々と原隊に復帰しています。
これに敏感に反応したのはザクセン王国で、早くも5月6日に動員令が発せられました。
もちろんオーストリアでも追って本格動員が始まりましたがプロシア王国と比べ遅々として進まず、この遅れは後々戦争の行く末にも影響しました。
ドイツ連邦議会はプロシアがオーストリアやザクセンの軍備増強と動員に抗議し、また抗議された両国もプロシアを非難し動員解除を求める、という泥仕合に陥ります。
こうしてオーストリアとの覇権争いに日夜奮闘するビスマルクはドイツ連邦議会が荒れるのを見てほくそ笑んでいました。すると彼にとって危険だが何ともタイミングのいい事件が発生するのです。
1866年5月7日。ビスマルクは王宮からの帰り道、ベルリンの街路ウンターリンデンはロシア大使館付近で、48年の革命にも関係していた自由主義革命家カール・ブリントの養子でチューリンゲン大学の学生フェルディナント・コーエン・ブリント(当時22歳)により至近距離からリボルバーで合計五発の銃撃を浴びます。最初の三発は身体を掠めただけで外れ、コーエン青年は驚き振り向いたビスマルクにより腕を掴まれると更に二発発射し、こちらは命中させたものの肋骨にヒビを入れただけの軽傷を負わせただけに終わりました。
コーエン・ブリント
コーエンはビスマルクともみ合いになっていた所を、たまたま隊列を組んで通り掛かった近衛歩兵第2連隊第1大隊の兵士たちに取り押さえられます。ビスマルクは暴漢が逮捕され連行されるのを見届けると銃撃を受けた身体で徒歩で帰宅し、それから王の主治医ラウアー博士により手当されます。
ところが犯人のコーエンは警察の取り調べ中、隙を見て隠し持ったナイフで首を切り自殺してしまいました。ビスマルクは失態に恐縮する警察の尻を叩いて徹底的に捜査させますが結局動機は不明のまま、単独犯か背後に何かの「組織」があるのかについても全く分からず仕舞に終わります。
暗殺者を阻止するビスマルク
とはいえ、これをプロシア・オーストリア双方が利用しないはずはありません。
オーストリア系の新聞各社が暗殺未遂犯を英雄に祭り上げて世論の反普心情を煽り、ビスマルクは駐ロシア大使を通じて、ビスマルクは熱心な国王擁護派なので革命派から命を狙われた、との報告をロシア皇帝に上奏しました。これはドイツ連邦議会に普通選挙を提案したビスマルクが「隠れ自由主義者」ではないのかと疑っていたロシア皇室の誤解を解き、暗殺の裏にオーストリアの意向があったのでは?との疑念を植え付けようと狙ったものでした。
これで戦争は一触即発です。
6月1日。オーストリアはドイツ連邦議会で公使を通じて「最早プロシア王国と協調してシュレスヴィヒ=ホルシュタインの統治問題を解決することが能わず、これを連邦議会の議決に委ね、同時にホルシュタイン総督に同公国国会の召集を付与する」と宣言しました。
当然プロシアは「協定違反」と猛反発しビスマルクはプロシア議会で「この度のオーストリアの行動は協定違反で挑発行動に当たるものだ」と非難しました。
ビスマルクは国王と軍部に謀って「ガスタイン協定が一方的に破棄されたため権利を行使する」として「ホルシュタインの保護占領」を決定し、軍部はシュレスヴィヒ総督マントイフェル将軍にホルシュタイン進駐を命じました。
6月5日にはガブレンツ将軍が本国の司令に則して6月11日、イツェホー(ハンブルクの北西52キロ)で公国国会を開催するとして、ホルシュタイン州議会の議員に召集状を送達しました。
これを聞いたマントイフェル将軍は翌6日、ガブレンツ将軍に対し書簡を送ります。
「閣下が公国国会召集を発令したと聞き及び、(ホルシュタイン)公国領内にある貴国駐屯兵が配置されていない地域で我が国の権利(ホルシュタインにある通行権や港湾使用権などの利権)が侵される恐れが生じることを憂慮し、本官はやむを得ず貴公国に入領し防衛を行おうと考えます」(筆者意訳)
6月7日。マントイフェル中将率いるシュレスヴィヒ駐屯軍(およそ12,000名の師団級)はホルシュタイン州に侵入を開始しました。
対するホルシュタイン総督ガブレンツ中将は本国より「普軍が越境して来た場合はエルベ(ラベ)川を越えて(ハノーファー王国領内へ)後退せよ」との訓令を受けていたため、将軍は墺軍ホルシュタイン駐屯軍(7,000名前後の強化旅団級)に対し、反撃せず直ちに国境を接する親墺国のハノーファー王国へ後退せよと命じます。
10日には墺軍が集合していたアルトナに普軍が迫ったため、墺軍は命令通り対抗せずエルベを渡河し始めました。同日イエッホーを占領したマントイフェル将軍はオーストリアの政務委員を逮捕し集会を禁じました。
墺軍ホルシュタイン駐屯軍は12日までに全てハノーファー領へ脱出し、ガブレンツ将軍自らもハノーファーへ逃れたため、この時は普墺間に戦闘は発生しませんでした。マントイフェル将軍はこの6月12日までにホルシュタイン州全域を掌握します。
オーストリア政府は6月9日、プロシア政府に対し「詰問」する書簡を首相名で送りました。
「墺普両国の意見一致は最早不可能といえども、この不仲のためにドイツ連邦の権利を変更することは出来ないし我が国は変更する意思もない。我が国はドイツ連邦議会の決議に従うと宣言(シュレスヴィヒ=ホルシュタイン問題の連邦への付託)しており、貴国との友誼を失うことを恐れて他の領邦の権利を侵害することは出来ない。
貴国は長い間一切協調する言動を行わず、自らドイツの大国としての義務を軽視して実行していない。そのことを以てしても我が国が(ガスタイン協定の)義務を履行していないと責めることは出来ないはずだ。
ホルシュタインに貴国の兵を入領させたことはドイツ連邦規約第11条(加盟国同士の戦闘行為)違反の行いにして、我が国は(デンマークとの講和条約である)ウィーン条約第19条(連盟内でシュレスヴィヒ=ホルシュタインに対し条約違反で横暴な行為があった場合はドイツ連邦議会に訴え横暴な行為に対抗することが出来る、との主旨)を実行することにする」(筆者意訳)
6月11日。オーストリア代表はドイツ連邦議会に「ドイツ連邦加盟諸国の安全と権利を護るため」として、「プロシアへの懲罰のために」連邦軍の動員を要請し、修正協議を経て過半数の領邦の賛成を得て6月14日に連邦軍の動員が決定しました。
これは完全に普・墺どちらを選ぶのかの「踏み絵」となり、反対したプロシアに同調したのはプロシア王家と血縁深いメクレンブルク=シュヴェリーン大公国以外はプロシア領に周囲を囲まれ反対したくても出来ないチューリンゲン地方の小領邦や元より親普国のオルデンブルク大公国など小国ばかりで、オーストリア側、即ち連邦側にはバイエルン、ザクセン、ヴュルテンベルク、ハノーファーの各王国やヘッセン大公国など格と力のある諸国が付きました。
ドイツ連邦(1815~1866)
※1866年6月14日のドイツ連邦議会での連邦軍動員議決の賛否
*対プロシア制裁のための連邦軍動員に賛成(8票)
◯オーストリア帝国(連邦第1区)
◯バイエルン王国(連邦第3区)
◯ザクセン王国(連邦第4区)
◯ハノーファー王国(連邦第5区)
◯ヴュルテンベルク王国(連邦第6区)
◯ヘッセン選帝侯国(ヘッセン=カッセル/連邦第8区)
◯ヘッセン大公国(連邦第9区)
◯連邦第16区
リヒテンシュタイン公国
ヴァルデック侯国
ロイス=グライツ(兄系)侯国
ロイス=ゲーラ(弟系)侯国
リッペ侯国
シャウムブルク=リッペ侯国
ヘッセン=ホンブルク方伯
△連邦第12区・一部
ザクセン=マイニンゲン公国
△連邦第13区・一部*
ナッサウ公国
△連邦第17区・一部
自由都市フランクフルト
*対プロシア制裁のための連邦軍動員に反対(6票)
◯バーデン大公国(連邦第7区)
◯連邦第14区
メクレンブルク=シュヴェリーン大公国
メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国
◯連邦第15区
オルデンブルク大公国
アンハルト公国
シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国
シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国
◯連邦第12区・一部
ザクセン=ワイマール=アイゼナハ公国
ザクセン=アルテンブルク公国
ザクセン=コーブルク=ゴータ公国
△連邦第13区・一部*
ブラウンシュヴァイク公国
◯連邦第17区・一部
自由都市ハンブルク
自由都市ブレーメン
自由都市リューベック
◯ルクセンブルク大公国(連邦第11区/連邦に加盟していますが君主はオランダ国王で軍はありません)
*投票自体に反対したため棄権(1票)
◯プロシア王国(連邦第2区)
*オーストリア領有のため代議士不在(1票)
△ホルシュタイン公国(連邦第10区)
*票が割れたため無効
△連邦第13区
ブラウンシュヴァイク公国
ナッサウ公国
この結果、オーストリアの建議に反対6票となり、有効総数15票から差し引き9票とされて連邦軍動員が決定するのでした。
ドイツ連邦加盟国の君主たち(1863年)
連邦軍動員の議決を受け、連邦議会派遣プロシア王国全権大使のカール・フリードリヒ・フォン・サヴィニーはビスマルクから「動員が議決された場合に読み上げるよう」指示されていた文面を読み上げます。その主旨は「本議決は連邦内各国における非戦の規約に違反しプロシアに対する宣戦布告に等しく」「本議決によって連邦は最早消滅してその義務も無くなった」として、「プロシア王国は提案し否決されていた連邦改革案に賛成した各領邦と手を携えて新しい連邦を創設する」ことを発表すると「本日を以てドイツ連邦議会を脱会する」と席を立ったのでした。
普墺対立激化の裏で虎視眈々と機会を窺っていたフランス皇帝ナポレオン3世は、プロシア軍がホルシュタインに侵入したと聞くやオーストリア政府に声を掛け、6月12日に秘密協定を締結します。フランスはドイツ連邦内の紛争に中立で臨み、オーストリアは勝利の暁に墺領ヴェネト州をフランスに割譲し、フランスは同地をイタリアに譲り渡すというものでした。
一見「誰得」な協定ですが、これはイタリア統一戦争以来敵となっていてどちらかと言えば親普、ビスマルクとも上手く付き合っているように見えるナポレオン3世がプロシアに肩入れしない保証が欲しいオーストリアと、ヴェネトを渡すことでイタリア王国に貸しを作り、逆に実質支配下にある教皇領の現状維持を謀りたいフランスの思惑が一致したものと言えます。
ナポレオン3世は自ら体験した墺軍の力を信じ、またドイツ連邦内でも小邦以外有力国が全てオーストリア側に付いたことでオーストリア勝利を確信したのです。逆にフランスがプロシア側に付くことで勝利が危うくなるオーストリアはバイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン、2つのヘッセンなどライン流域の諸国がナポレオン1世支配下で「ライン連邦」を作っていたことに鑑み、これら諸国が戦後新たな連邦を作ることを許し、この「新・ライン連邦」にフランスが影響力を及ぼすことを黙認する事すら約束するのでした。
ナポレオン3世はプロシアが「万が一」勝利してもビスマルクに「ビアリッツ会談」を思い起こさせてライン左岸を得ればよい、と考えていたのかこれ以上プロシアに接近することはありませんでした。
どちらに転んだにせよドイツ連邦の力は衰えフランスに不利なことは起こらない。ナポレオン3世は一人ほくそ笑んでいたことでしょう。
1866年6月15日。
プロシア王国は連邦軍動員により王国存亡の危機に陥ったとして「首謀者」オーストリア帝国に対する宣戦布告を行います。
既にマントイフェル将軍麾下によるホルシュタイン侵入・占領で戦争は始まったと言え、ガブレンツ将軍と墺軍ホルシュタイン駐屯軍は宣戦布告前にハノーファー~ザクセン~ボヘミア経由で帰国しており、ドイツ連邦内各国は軍の動員を急ぐのでした。
ここに普墺戦争の幕が切って落とされたのです。
※1866年6月7日 墺領ホルシュタイン州へ侵入した普王国シュレスヴィヒ州駐屯軍
指揮官 エドウィン・フォン・マントイフェル少将(シュレスヴィヒ州総督)
◯擲弾兵第11「シュレジエン第2/国王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世」連隊(ツィヒリン・フォン・ツィヒリンスキー大佐)
◯歩兵第25「ライン第1/フォン・リュッツォウ」連隊(エドムンド・フォン・ハンシュタイン大佐)
◯フュージリア第36「マグデブルク」連隊(フーゴ・フォン・ティーレ大佐)
以上3個連隊は3個大隊制・1個大隊は将兵約1,000名
◯竜騎兵第5「ライン」連隊(ヘルマン・フォン・ヴェーデル中佐)
◯竜騎兵第6「マグデブルク」連隊(タシーロ・クルーグ・フォン・ニッダ大佐)
以上2個騎兵連隊は4個中隊制・1個中隊は150騎前後
◯砲兵4個中隊(24門)
※1866年6月7日における墺帝国ホルシュタイン州駐屯軍
指揮官 アントン・リッター・フォン・カリク少将(ホルシュタイン州総督ガブレンツ中将)
◯猟兵第22大隊(約900名)
◯歩兵第35「伯爵ケーベンフューラー」連隊(2,800名前後)
◯歩兵第72「男爵ラミンク」連隊(2,800名前後)
◯砲兵第1連隊・第3中隊(4ポンド歩兵砲8門)
◯竜騎兵第2「公爵ヴィンディッシュグレーツ」連隊・第5,6中隊(300騎前後)
*ホルシュタイン州駐屯軍はハノーファー王国へ撤退後、期日を以て墺北軍の第1軍団に編入されます。




