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独第一・第二軍8月11日から12日

 ようやく見えて来た仏軍の全容に則して、8月11日の午後、第一軍と第二軍の首脳と参謀は翌12日の行動方針を大本営に報告しています。


 第二軍参謀長のフリードリヒ・ヴィルヘルム・グスタフ・フォン・スティール少将は、「昨日(10日)の偵察により、敵はニエ・フランセーズ川に沿って停止し、また増援がメッスより前進している様子なので、その正面に当たる第一軍には守勢を取って頂き、我が第二軍はフォルクモンの第3軍団を軸として右旋回を行い、敵の右翼南側を攻撃したい」として、「この事前運動を明日12日に実行するが、大本営の作戦によるモーゼル川への前進はこれを必要以上に変更することはない」との報告をしています。

挿絵(By みてみん)

フォン・スティール将軍

 また、第一軍のシュタインメッツ大将は、「我が軍は明日12日ニエ・アルマンド川の線へ前進し、この際、前進正面を拡張して両翼端に第1、第3の騎兵師団を一個ずつ置き、前衛はメッス方向へ進ませたい」と報告しました。


 これらの報告を受けた大本営は、まずは第一軍に対して「騎兵師団は(両端ではなく)前方に展開させて積極的に偵察行動を行い、未だ不確実な敵の情勢を確実に掴むこと」と命じました。

 モルトケは両軍の積極的な行動はこれを評価しましたが、両軍の状況は未だ兵力の集中と共同作戦を行う態勢にはなく、彼らの望む作戦を実施するには情報不足と断じます。また、開戦以来の大本営の意図と相反する「独断専行」による戦闘は、今回のような巨大な敵に対しては危険と考えるモルトケは、両軍麾下各軍団の情勢を確実に掌握し、会戦に至ればこれを直接指導し事に当たりたいと考えていました。


 11日、サン=タヴォルに移動していた大本営は午後7時、第一、第二両軍本営に対し次の命令を発信しています。

「敵の大軍がメッス前面ニエ・フランセーズ川西岸に展開しているのは確実と思われる。そのため、第一軍と第二軍は今まで以上に緊密な連携を以て集中し、協力して敵に対抗しなくてはならない。従って国王陛下は以下の命令を発せられた。

第3軍団はフォルクモンに駐留し軍の集合運動の基点となること。第一軍は明朝2個軍団を以てブレ=モゼルからマランジュ(=ゾンドゥランジュ。ブレ=モゼル南南東9キロ)の線まで前進し、1個軍団をブシュボルヌ(ブレ=モゼル南東10キロ)へ進めること。

第二軍は第9軍団をサン=タヴォル西方郊外のロンジュヴィルへ進め、第2軍団をサン=タヴォルまで進めよ。第10軍団は南方を行く第3軍団の後方東側へ進むこと。近衛軍団と第4軍団、そして第12軍団は右翼隊(3、9、2、10軍団)の左翼に並ぶ行動を発起し、(敵との交戦などの)必要があれば右翼隊に合流し、何事もなければナンシー方面への前進を継続することとする」

 同時に第3軍団と第9軍団にはそれぞれ直接、同軍団への命令を通達しました。

 カール王子はこの命令を受領後、大方は自身の考える行動方針に合致していたので満足でしたが一点、第10軍団の「第3軍団後方へ」の行軍が納得いかず、大本営に対し「第10軍団は第3軍団の東ではなく左翼南方へ進みランドロフ(フォルクモン南9キロ)へ向かわせたいが如何か」と提案します。モルトケもこれを許し、12日の第二軍の行動は概ねカール王子ら第二軍本営の考えに沿ったものとなりました。


 これにより翌12日、ブレ=モゼルからモランジュ(フォルクモン南14キロ)までのおよそ30キロの前線に、北から第1、7、3、10、近衛の5個軍団が並び、その後方ブシュボルヌからミュンスター(サール=ユニオン西南西13キロ)には第8、9、12、4の4個軍団が連ねて並ぶという形が出来上がります。

 特に敵が集中していると思われたニエ・フランセーズ川に対する右翼側では、各軍団は近接して展開しており、いざとなったら集中協力して敵と交戦する態勢が出来上がりつつありました。また、左翼端では第4軍団が皇太子の第三軍右翼(第12師団)と連絡を通すのでした。


 この12日には第一軍本営はブシュボルヌに、第二軍本営はグロストンキンに前進しました。


 後方では輜重縦列が次第に敵地深く侵入する本軍を追って前進しますが、やはり本国からの輸送では最前線への迅速な補給が間に合わないため、この日辺りから敵地での徴発を実施することが増えて行きました。

 占領地での住民との摩擦も自然と増え、また、後方では前線に展開する規律正しい正規兵ではなく苦役に従事する雑役夫や、最前線勤務に耐えないと失格になった者たちからの徴兵による後備兵などが敵地に入り始めたので、敵性住民の監視だけでなく後方連絡線上の規律を保つために、憲兵たちは大わらわとなるのでした。


 8月12日、各軍団や騎兵部隊の位置は以下のようになります。


○騎兵第3師団 本隊をベッタンジュ(ブレ=モゼル北6キロ)、前衛はゴンドルヴィル(ブレ=モゼル西北西10キロ)。

○第1軍団 第2師団は本隊をブレ=モゼル、一部がエブランジュ(ブレ=モゼル北4キロ)とブルクランジュ(プレ=モゼル西3キロ)。第1師団は本隊がアルラン(ブレ=モゼル南東8キロ)、前衛がヴォルメランジュ=レ=ブレ(ブレ=モゼル南西4キロ)。

○第8軍団 第16師団はニエデルヴィス(ブシュボルヌ北西4キロ)、第15師団はブシュボルヌ。

○第7軍団 マランジュ(=ゾンドゥランジュ)付近。

○第9軍団 第18師団はロンジュヴィル(=レ=サン=タヴォル)。第25師団はサン=タヴォル。

○騎兵第1師団 本隊はラヴィル(ビオンヴィル=シュル=ニエ南1キロ)周辺。前衛はクールセル=ショシーの南郊外まで進出。

○第3軍団 フォルクモンに駐留。

○第12軍団 ピュトランジュ(=オー=ラック)から街道を西へ、オスト~バルストを経て先頭前衛はリックサン(=レ=サン=タヴォル。サン=タヴォル南南東8キロ)へ。

○近衛騎兵師団 本隊はアリアンス(フォルクモン西南西8キロ)からシャンヴィル(フォルクモン西12キロ)へ、斥候はパンジュまで接近。

○騎兵第11(バルビー)旅団 ルミリー(フォルクモン西南西15キロ)付近。

○騎兵第13(レーデルン)旅団 ノムニー(ポンタ=ムッソン東12キロ)からロクール(ノムニー北4キロ)に展開。

○第10軍団 第19師団はデルム(ノムニーの東12キロ)付近。第20師団はランドロフ付近。

○近衛竜騎兵旅団 オロン(デルムの東北東7キロ)周辺。

○近衛軍団 モランジュ(フォルクモン南)周辺。

○第4軍団 ミュンスター(サール=ユニオン西)周辺。

○騎兵第12(ブレドウ)旅団 ブルガルトロフ(モランジュ南東10キロ)周辺。


 この8月12日。騎兵たちはここ連日で最大となった敵前偵察斥候を決行し、その結果は大本営にとって少々意外なものとなります。


 10日にニエ・フランセーズ川の線で踏み留まるかに見えた仏軍は翌11日においてメッス方面への後退運動を再開し、12日午前に昨日11日の偵察結果を受け取った普大本営は、「迷える」仏軍がこのままメッス要塞を通過して西へと後退するのか、それともメッスで留まるのかを注目していました。

 12日、普軍の騎兵たちが敵地から持ち帰った状況報告をまとめると、どうやら一部をメッス前面に展開し、本隊は更に西へと後退するのでは、と思わせる兆候が現れるのです。


 独軍の最外右翼となる第一軍右翼端では騎兵第3師団から斥候が出て、ティオンヴィル(独名ディーデンホーフェン)地方・仏領の北東端を探りました。

 12日、名門軍人一家の若き騎兵士官、フォン・フォークツ=レッツ少尉は胸甲騎兵第8「ライン」連隊の小隊を率いて、ティオンヴィル近郊まで侵入します。

 普軍胸甲騎兵たちは要塞の南東5キロのストゥカンジュ部落周辺で、資材食糧の徴発を行っていた仏軍竜騎兵の一隊と遭遇、これを襲って敵を遁走させると残された燕麦を満載した馬車数輌を捕獲しました。

 これで大胆になった少尉は、更にティオンヴィル市街地を囲む城壁の開いていた門に接近し、ちょうどそこへ通りかかった、捕虜にした普軍予備役兵を護送中の仏兵一人を捕らえ、味方予備役兵と敵兵1名ずつを連れ帰りました。彼らの証言や、騎兵斥候の偵察報告により、ティオンヴィル要塞の守備隊はほとんどが護国軍部隊所属の最近まで民間人だった者たちで、この北部モーゼル川とニエ川流域周辺に正規の仏軍部隊は全く存在していないことが判明したのでした。


 11日にメッス要塞の東壁直下、ベルクロア部落を望む原野で仏軍の監視を続けた騎兵第3師団のフォン・ヒンメン大尉は、そのまま現地で部下と共に夜を明かし、12日早朝、この40騎を以てベルクロアまで前進し、油断した仏軍の輜重隊を襲って馬匹用の燕麦を積んだ馬車を奪取します。この時、部落の西3キロほどのメッス要塞市街におよそ1個師団と見積もった仏軍の野営を望見しますが、その警戒態勢は全く弛緩しており、大尉らを攻撃する者はありませんでした。その他、ベルクロアから見えるメッス郊外全域には多くの野営炊事の煙が認められ、要塞や派出堡塁の城壁際にまで野営のテントが見られるのでした。


 ヒンメン大尉の親部隊、騎兵第3師団の前衛はフォン・リューデリッツ大佐に率いられた槍騎兵第14「ハノーファー第2」連隊でしたが、大佐はこの12日午後、3個小隊を直卒してゴンドルヴィルから前進、サント=バルブ(ファイイ東2キロ)を通過してファイイの街道を隔てた南隣の小部落ポワックスに達しましたが、ここで強大な敵の野営に直面し、猛烈な射撃を被って後退します。大佐はその際に、西側メッス郊外に広大な野営地があるのを認めました。

 この他にも、騎兵第1師団の前衛が達したポン・ア・ショシー(クールセル=ショシーの西1.5キロ、ニエ=フランセーズ西河畔)の西側や、槍騎兵第15連隊がにらみ合いを続けるオジーの北、ピュシュ丘陵の西側など、独第一軍前衛は、すぐ西側に強大な敵が陣を張るのを観察し続けたのでした。


 12日には仏軍前衛と普軍騎兵の小戦も発生しています。

 第3軍団に属した騎兵第6師団は、フォルクモン駐留を命じられて動けない本隊に代わって、この日旅団単位の威力偵察を行います。

 グスタフ・ワルデマー・フォン・ラウフ少将の騎兵旅団は午前8時に騎砲兵1個中隊を加えてアリアンスを発し、パンジュに向かいます。後方にはグリューター旅団が続き、もしラウフ旅団が敵と遭遇し後退した時の援護・収容のため、ニエ=フランセーズ川東岸まで前進すると待機に入りました。

 ラウフ旅団はパンジュに敵がいないことを再確認すると、ニエ=フランセーズ川を渡河して西へ進みます。すると前方に見えてきたアル=ラクネイーやその北東のコワンシー部落に敵の大軍が野営しているのが見え、また南方のラクネイー部落にも敵がいて猛烈なシャスポー銃の射撃を仕掛けて来ました。ラウフ旅団長は直ちに騎砲兵に命じてその6門の4ポンドクルップ騎砲でラクネイーを砲撃させ、見事に正確な榴弾砲撃数射で敵を沈黙させ、部落からは逃走する仏兵の姿が見えるのでした。

 これを見た驃騎兵第3「ブランデンブルク」連隊のフォン・グリム大尉が自身の中隊を率いて真っ先にアル=ラクネイーの東側まで追撃しますが、驃騎兵中隊はアル=ラクネイーの仏兵から猛射撃を受け、ラクネイーの東へ撃退されてしまうのです。

(注・このコロンベイの戦場付近には東からヴィレ=ラクネイー、ラクネイー、アル=ラクネイーと似た名前の部落が3つありますが、すべて数キロ離れた場所にある別の小村落です。同じくショシーやクールセルの名を持った複数の部落が点在しており、混乱しやすいのでお気を付け下さい。これらの地名は拙作では現在の地図に併せて表記しています。当時と変わらぬ位置に確認可能ですので、ネットの地図などを参照願います)


 しかし粘り強いラウフ少将はなおも威力偵察を続け、今度は驃騎兵第16「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊を先頭に北西へと進み、マルシリー及びコワンシー(どちらもメッス東郊外)部落へ接近すると、こちらには敵の姿が見えなかったため更に街道を西へと進み、メッス市街の郊外ボルニーとその南、グリジー(=テクノボル・ラ・グランジュ=オー=ボワ)に敵の大軍を発見してから引き返したのでした。

 また、フォン・グリムの同僚、クレル大尉は驃騎兵中隊を率いてオジー部落からコワンシーを迂回して北上、ヌイイ東のノワスヴィルに接近するとここで敵の大部隊に遭遇し射撃を浴びて撤退します。

 同じく驃騎兵第3連隊のフォン・ブッゲンハーゲン大尉の中隊はクールセル=シュル=ニエで敵騎兵を発見、また槍騎兵第3「ブランデンブルク第1」連隊の伯爵ハイデンベルク大尉もオルニー(クールセル=シュル=ニエ南西6キロ)で敵騎兵と遭遇しますが、どちらも戦うことなく仏騎兵が退却しています。

挿絵(By みてみん)

フォン・ラウフ将軍

 一方、独第二軍の左翼では第10軍団に属したバルビー、レーデルンの両騎兵旅団がザールブリュッケンからメッスへ至る国際鉄道以南で行動しました。


 驃騎兵第11「ヴェストファーレン第2」連隊のフォン・フェルスト大尉の中隊と槍騎兵第13「ハノーファー第1」連隊のフォン・ローゼンベルク大尉の中隊はこの12日、合同して前進し、シャトー・サラン(ナンシー北東27キロ)~デルム~メッスへ至る街道に行き当たると北上してシニー(クールセル=シュル=ニエ西南西5キロ)からジュリー(同西4キロ)へと前進、ここで仏猟騎兵1個中隊と遭遇、戦わず逃げる敵騎兵を追ってペルトル(ジュリー西北西2キロ)部落に至りますが、ここには仏軍が陣地を構えており、その北メッスの南東郊外には一大野営地が見えたため普騎兵たちは踵を返したのです。

 更にその西側では「サルグミーヌ一番乗り」の驃騎兵第17「ブラウンシュヴァイク」連隊(1個中隊欠)がリュピー(ノムニー北東13キロ)からナンシー~メッス街道に進んで北上し、フルーリー及びマニー(街道沿いメッス南)を通過して要塞の南側1キロ付近まで迫ります。ここで初めて街道を挟んだ市街地両側に仏軍の一大野営地が広がっているのを視認したのでした。


 同じく第二軍左翼で先頭を切って進む第10軍団本隊は、メッスとナンシーの中間付近で一気にモーゼル川へ突進する態勢にありました。

 普墺戦争ではカール王子の参謀長を勤め才気あるところを遺憾なく発揮した名門軍人貴族の出世頭、軍団長のコンスタンティン・フォン・フォークツ=レッツ大将は、ナンシーとメッスを結ぶ「動脈」である鉄道を遮断しようと、本隊の前を進む騎兵に活発な行動を要求し実行させます。


 驃騎兵第10「マグデブルク」連隊のフォン・コッチュ大尉は前日11日の夜に軍の工兵隊から一分隊を借り受け、自身の中隊から志願兵を選ぶと自ら先頭に立ってオルノア=シュル=セイユ(ノムニー東南東7キロ)から出撃、ノムニーを経て西へ進み、遂にポンタ=ムッソンの南側でモーゼル川に達すると東沿岸を捜索し、デュールアール(ポンタ=ムッソン南6キロ)付近で真新しい仏軍の仮設軍橋を発見します。

 部隊はこれを渡ると、多分独軍としては初めてモーゼル川西岸に達しました。大尉は、デュールアールの鉄道停車場と線路を破壊しようと準備し、線路の一部を破壊したところ、運悪く歩兵を満載した軍用列車がナンシーより到着し、発見された大尉たちは慌てた仏軍兵から銃撃を浴び、捕まる前に撤退しました。諦め切れない大尉は、12日午前中にも将校斥候を複数デュールアールとポンタ=ムッソンへ派遣し、斥候は午後になって戻ると、ポンタ=ムッソン市街には敵兵の姿はないものの、鉄道は既に修理され、何本もの軍用列車が行き来している、と報告したのでした。


 フランス人ユグノー亡命者の子孫で第10軍団司令部付きの騎兵大尉、ペリネ・フォン・トーヴネは驃騎兵と竜騎兵をそれぞれ20騎借り受けると、12日深夜ポンタ=ムッソンへ潜入しました。すると数ヶ所で銃撃を受けますが、反撃すると潜んでいた仏兵はたちまち逃走します。どうやら駐留していたのではなく、部隊から遅れた落伍者だった様子で、大尉は竜騎兵を下馬させ町の橋を渡ってモーゼル川西岸に渡り鉄道と電線を切断し、驃騎兵は東岸市街地で下馬すると付近を捜索しました。すると突然仏軍騎兵が来襲し、混乱の内に普軍驃騎兵(17連隊のブラウンシュヴァイク公国騎兵でした)の多くは戦死、残った士官2名と幾人かは捕虜となってしまいました。

 普騎兵を襲撃したのは、仏マルグリット騎兵旅団のアフリカ猟騎兵連隊の部隊で、勇猛果敢な植民地人からなる百戦錬磨の強豪騎兵だったのです。

 西岸の竜騎兵もほぼ同時に同じアフリカ騎兵に襲撃されて逃走し、増水したモーゼルを渡河しようとして数人が乗馬と共に流され溺死しますが、残りは何とか追撃を振り切ってノムニー付近で味方戦線にたどり着くのでした。


挿絵(By みてみん)

ポンタ=ムッソン8月12日


 ノムニーには12日にレーデルン旅団の2個中隊が到着しており、また竜騎兵(第19連隊オルデンブルク大公国騎兵でした)が逃げ帰って幾ばくもない黎明時、レーデルン旅団本隊もこの部落に到着したのでした。

 この他、ナンシーの北フルアールの部落にある重要な鉄道分岐点(パリとメッスに分かれる)でも驃騎兵第17連隊の小部隊による破壊工作が実施されましたが、これも仏軍が駆けつけて不十分な成果に終わってしまいました。


 普大本営はこれら12日の遠距離騎兵偵察によって、仏軍の動きを掴み始めました。


 まず、シャロンにいると思われたカンロベル将軍の部隊がメッスに向かって鉄道輸送され、その主力がメッスに到着しているものと判明します。

 続いて、仏軍はこの2日ほど駐留したニエ・フランセーズ川の線に防護工事を行って塹壕や障害物を置いたにも関わらず、この線から後退しメッス要塞の東側に展開していることがはっきりしました。ところがメッスの南方となるとほとんど敵の姿がなく、ナンシーを含めてそこに至るまでのモーゼル川の重要な渡河点にも守備隊が存在しないことも見えて来ました。

 このことはかなり大きな問題で、11日から12日にかけて普騎兵がナンシーからポンタ=ムッソンにかけて破壊工作を行ったため、現時点では仏軍がいなくとも、危険に気付いた仏大本営が差配して、やがて守備隊が現れるのではないかという危惧が生じたのです。

 このため、至急モーゼル河畔の渡河点を押さえ橋頭堡を築くため、カール王子は12日午後に第10軍団の第19師団を選んで、行軍予定地を過ぎても止まらずに、一気にモーゼル河畔方面へ向かうよう命令を下しました。第19師団はこの命令に従って12日夜半にデルムまで進出し、13日にはモーゼル河畔へ到達するために野外で短い仮眠を取るのでした。


 在サン=タヴォルの普大本営は、この日の情報が集まり始めた12日午後、現在の状況(敵の後退)を利用して進撃することを決断し、午後4時30分、モルトケ参謀総長の名で以下の命令を各軍に発しました。


「今日知り得た情報を総合すると、敵主力はメッス要塞を通過してモーゼル西岸への退却を行っている模様である。ここに国王陛下は以下の命令を発せられた。

 第一軍は明13日、ニエ・フランセーズ川に向かい前進し、主力を以てレ・ゼタン~パンジュの線を占領、クールセル=シュル=ニエの停車場を占領せよ。騎兵はメッス要塞市街に対する偵察を続行し、また下流(北)においてモーゼルを渡河し西岸へ渡れ。第一軍の任務は、第二軍の右翼側面を援護することも含んでいる事を忘れてはならない。

 第二軍は明13日、ビュシー(ノムニー北北東ソルニュ北方の街道交差点西)~シャトー=サランの線まで到達し、前衛をセイユ川まで進めよ。出来るならポンタ=ムッソン、デュールアール、マルバッシュ(フルアール北北西)などのモーゼル川渡河点を占領せよ。騎兵はモーゼルを渡河して西岸一帯を偵察すること。

 第三軍は明13日、ナンシー~リュネヴィルの線へ向かって前進を続行せよ」(*以下、後書きをお読み下さい)


挿絵(By みてみん)


モルトケという将軍


 普仏戦争後に普参謀本部戦史課が記した公式戦史では、8月12日午後4時30分に発せられた大本営命令の裏には、次のようなモルトケの思慮があった、としています。


・1

 この命令を実行しニエ・フランセーズ川沿岸に展開するシュタインメッツ将軍の第一軍は、わずか数キロを隔てて敵の主力と思われる5個軍団およそ20万の軍と対面することになります。当然ながら3個軍団で兵力9万程度の第一軍は、倍する敵からの攻撃も予測しなくてはなりません。この時、ニエ・フランセーズ川は第一軍にとって都合の良い防護線となります。また敵の攻撃により第一軍が後退した場合でも、第二軍が右へ転向して敵右翼側面に攻撃を掛けることが出来ます。

・2

 もし仏軍が第一軍の直前を南下してモーゼル川の東岸で第二軍を攻撃した場合、第一軍は敵の左翼側面に対して攻撃を加えて第二軍がを援護する事が出来ます。

・3

 もし仏軍がメッスを通過してモーゼル西岸に渡り、西岸を南へ下ってから第二軍に正対し攻撃を企てた場合、第二軍は先行した前衛が撃破され、やむを得ず後退する可能性もあり、この場合は無理をせず第二軍は南東側で並進中の第三軍に合流することも考えられます。この時、第一軍はメッス要塞守備隊に対し監視を置いた後、主力は要塞のすぐ南側のモーゼル川上流で渡河して敵の背後に進出することとします。


 ここまでの想定は公式戦史にありますが、旧日本陸軍少将で軍事戦史研究の大家、伊藤政之助氏は世界大戦の最中、昭和15年に発刊した著書に第4の想定を記しています。即ち、


・4

 もし仏軍が第二軍主力のモーゼル渡河完了を(敢えて)待ち、その一部で西岸に渡った第二軍に対し(引き付け)、(その隙に)主力でメッス前面の第一軍を攻撃するとしたらどうなるのか。


 この想定で伊藤氏は、

「この場合、第一軍は兵力差により撃破されるか、また甚だしい損害を受けるかして、既にモーゼルを渡河した第二と第三軍も(後方連絡・補給線を遮断されるので)程なく再び川を渡って退却するしかなくなるだろう。この第二と第三軍の退却までの間に、モーゼル川東岸にある独軍の輜重縦列や食糧等の集積地は仏軍に鹵獲されるか、あるいは本軍との連絡を遮断されてしまい、西岸の独軍は(孤立して)糧食不足に陥り、(後方連絡線を確保するため)更に遠距離への後退となってしまうだろう」との趣旨を書いています。

 これを知った上でモルトケは、

「仏軍の指揮官たちは到底この(4の)ような巧妙な作戦を計画し指導する能力はなく、仏軍にはこの作戦を行うに必要な俊敏な活動を行う実力もないだろう、と仏軍の能力を低く判断し評価していたから、(4のケースを)無視して断固として大旋回運動(第二、第三軍のモーゼル渡河・西進)を続けさせた」としています(この部分、伊藤政之助著・戦争史を参照しています)。


 これについては著名戦史家に対して失礼覚悟、誠に僭越ながら筆者も全く同意見です。


 思い起こせば普墺戦争の決戦・ケーニヒグレーツの戦いの後モルトケは、カール王子の第一軍がオーストリア本国に向け直進したのに対し、皇太子の第二軍は墺北軍の籠るオルミュッツ要塞都市に向かわせたため軍の間隔が離れ、墺軍の出方によっては各個撃破される危険性があった時にも、墺軍の士気や北軍首脳の作戦遂行力を考慮、敢えて危険に目をつぶって作戦を断行させたのです(本作・「普墺戦争/ブリュン陥落」の項を参照下さい)。


 これはある意味無謀で危険なギャンブル、とも言えますが、モルトケは常識的な戦術に囚われず、戦場の地理や敵味方の兵力比較ばかりでなく、敵指揮官の能力や将兵の状態を吟味して作戦を練り、この「敵の心理・状態」の推察に重きを置いていた証左だったのでは、と思います。

 軍事の天才と呼ばれるモルトケという将軍は、確実に敵をしとめられるものの準備や戦闘自体に時間を要する作戦より、国情を考えた短期決戦向きの、一見ギャンブルに見える大胆でスピード感のある作戦を好み、確信があれば危険を厭わず、自らを信じてそれを実行する度量もあった将軍だった、と思うのです。


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