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独第一・第二軍8月9日から11日

 8月9日。独第二軍の第二線にあった諸軍団も独仏国境に接近しました。

 第9軍団(グスタフ・フォン・マンシュタイン大将指揮)はこの日ザンクト・イングベルトへ前進し、第12軍団(ザクセン王国軍/アルベルト・フォン・ザクセン王太子大将指揮)はサルグミーヌの東、普仏国境の部落でブリース川に架かる重要な橋の普領側ハブキルヒェンに到着します。また、8月に入ってから第二軍配属となった第2軍団(カール・フォン・フランセキー大将指揮)は、この日ノインキルヒェン周辺の各停車場に続々と到着する列車から下車していました。


 第二軍の左翼(南)を形成する第4軍団(グスタフ・フォン・アルヴェンスレーヴェン大将指揮)はローレンツェン(サール=ユニオン東6キロ)に進み、近衛軍団(アウグスト・フォン・ヴュルテンブルク大将指揮)は前日と同じロアバッハ(=レ=ビッチュ。ビッチュ西11キロ)の北西グロ=レデルシャン付近に留まり休息を取りました。

 その北西側のザール西岸では、第10軍団(ベルンハルト・フォン・フォークツ=レッツ大将指揮)の全ての部隊がサルグミーヌ付近でザール川を渡り仏領土に入りました。

 ザールブリュッケンから全ての部隊がザール川西岸へ渡った第3軍団(コンスタンティン・フォン・アルヴェンスレーヴェン中将指揮)は、この9日はフォルバック周辺まで進むよう命令されていましたが、C・アルヴェンスレーヴェン軍団長は、自身の親類筋となる大佐が率いる槍騎兵第15「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊がサン=タヴォルを占領したとの報を聞くと、直ちに第6師団にサン=タヴォルへ前進せよと命令し、将軍自身も部隊前衛に付いて前進し、槍騎兵が押さえていた町を自らの指揮で完全な占領下に置くと、槍騎兵1個中隊が守る市街西のロンジュヴィル(=レ=サン=タヴォル)部落に歩兵の小部隊を送って前哨を強化しました。

 また、軍団の残り(第5師団と騎兵第6師団)はサン=タヴォルの東側フォルバック街道筋とその南側に野営させるのでした。

 

 前日8日に仏第3軍団の後衛に迫った槍騎兵第15連隊は、この日も改めて仏軍を求めてメッス街道を西へ、マランジュ(=ゾンドゥランジュ。サン=タヴォル西12キロ)を越えて進み、ビオンヴィル(=シュル=ニエ。マランジュの西北西4キロ)の東郊外まで後退していた敵の後衛に接近し監視を始めます。すると敵は夕刻になってからこの陣地を捨てて北西へと退却し、ニエ・アルマンド川を渡るとヴァリーズ(ビオンヴィル北北西4キロ)付近の高地へと下がったのでした。

 この南方では、歩兵の第6師団に属する竜騎兵第2「ブランデンブルク第1」連隊の斥候が、サン=タヴォルと並びこの地方の有力市であるフォルクモンから仏兵が去ったことを確認し、また同連隊のある中尉は、昨日(8日)まで仏将軍のバゼーヌがフォルクモンに本営を置いており、昨日にはメッスからナポレオン3世が来て数時間の間バゼーヌと話し合っていたという情報を得て来ました。

 

 こうしてカール王子の独第二軍の右翼(北)前方には敵の大軍がいることが分かり始めますが、逆側の左翼南方には敵の存在を確認出来ずにいました。

 第4軍団本営に所属する騎兵大尉のフォン・ロッホーは、ブレドウ騎兵旅団所属の槍騎兵第16「アルトマルク」連隊に属する騎兵1個小隊を借りると、ストラスブール~パリ鉄道沿線に至るまで南下して独第三軍の進軍方向を将校偵察し、ファルスブール要塞の南側でその鉄道線を破壊することに成功しましたが、その地点に至るまで一切敵の姿を見ることはありませんでした。

 騎兵第5師団の斥候たちはグロストンカン(サン=タヴォル南14キロ)の東郊外で仏第2軍団に属する落伍兵を捕まえ、このグロストンカンの周辺に野営の跡とかなり多くの歩兵が西へと行軍して去った痕跡を発見するのでした。


 在フェルクリンゲンの独第一軍本営は8日夕刻、自軍騎兵斥候の報告によりブゾンヴィル(ザールルイ西15キロ)やブレ=モゼル(ザールルイ南西25キロ)から敵(仏第4軍団)が退却したとの報告を受け、麾下部隊を随時西進させようと考えていたところへ、在ホンブルクの普大本営より命令が届き、それは自分たちが考えていた行動を否定する「敵兵がブゾンヴィル及びブレ=モゼルから撤退したとの情報は未だ確証を得ていない。従って敵情が不明であるので、第一軍は明日9日も現在地に駐留すること」とのことでした。

 シュタインメッツ大将は一応この命令に従って、麾下部隊に対し明日9日もザールブリュッケンからフェルクリンゲン、そしてスピシュランやフォルバック北方で野営を続けよ、と命じるのでした。


 しかし、先の大本営命令を受領する以前の8日午後8時に、「ブレ=モゼル及びブゾンヴィルの敵が退却した、との騎兵報告を複数受領している」と「再度」大本営に電信を送っていたシュタインメッツ将軍は、更に「退却中の敵左翼(南)はサン=タヴォルもしくはブシュボルヌ(サン=タヴォル西北西8キロ)にあるものと思われ、我が第一軍の右翼をしてブシュボルヌまで進撃することを許可してほしい」との請願を大本営へ送信していたのです。

 そして大本営の許可を待たず「偵察行動なら先行してもよいだろう」とばかりに騎兵第3師団に命じて「敵の陣地、特にブシュボルヌからサン=タヴォルに掛けての偵察を強化せよ」と命じ、その応援として第1軍団から歩兵1個大隊を抽出して騎兵師団に加えたのです。

 ところが、この騎兵第3師団長の伯爵フォン・グリューベン将軍は、この方面は森林が多く山地であるとの理由で、敵が潜む可能性のあるこの地方で騎兵の大部隊を運用するのは労多くして効果がない、と判断し、師団本隊はローデン(ザールルイ北郊外)に留め、代わりに士官による将校偵察斥候隊を数多く組織してザール西岸へと送り出したのでした。

 この騎兵師団の斥候や第13師団に属する驃騎兵の斥候偵察などによりこの9日、第一軍本営には仏軍がニエ・アルマンド川を越えて退却している、との報告が上がって来ました。また、第二軍からはサン=タヴォルを占領した旨の通報が届きます。


 なお、大本営は9日にザールブリュッケンへ移動し、ヴィルヘルム国王も午後4時半、ザールブリュッケンのザール西岸側市街地に入りました。

 このザールブリュッケンでモルトケは「仏軍主力が全てモーゼル河畔に向けて急速に後退している」との判断を披露し、ザール河畔付近に全部隊が到着した第一軍、第二軍と、ヴルト=フロシュヴァイラーの戦場からヴォージュ北山脈を越えつつある第三軍に対し今後の進軍方向と目標、宿営地を命令したのでした(「独第三軍ナンシーへ(前)」参照のこと)。


 この大本営命令と使者が手渡したモルトケ直筆の「詳細説明書」によって第一軍と第二軍の軍境界線が、ザールブリュッケンの西~フォルバック~サン=タヴォル~フォルクモン~アン=シュル=ニエ~ノムニーの線で決定し、この線は数日後にその先、モーゼル河畔ポンタ=ムッソンまで延長されるものと予測されたのです。


 モルトケは各軍に対し騎兵を有効に使い、時機を逃さずに三軍を集中させるため前衛を遙か前方に派出することを求めました。

 また、シュタインメッツには他軍より一日分の行程を短くして、特に隣のカール王子の「歩調」に合わせて突出することが無いよう、念を押すのでした。

 同時に敵地に入ったため、資材食糧等の徴発を行うことも許可されます。これも各軍の主要行軍路の両側それぞれ3キロ以内に制限し、無闇に敵地住民の反抗を招かないよう留意されたのでした。


 なお、第二軍に対しては、ヴォージュ山脈を越える第三軍のために先行してサール=ユニオンに兵站基地を設立することが命じられました。大本営(普参謀本部)の兵站課としては敵地(アルザス北部)を経由し行軍する第三軍の後方連絡線(特に鉄道線)が貧弱なため、この先ロレーヌへ侵入すれば十分に補給が続かなくなることを心配しており、しばらくは比較的後方連絡のルートを多く持つ第二軍経由で物資を送ることを考え、この命令となったのでした。

 カール王子はこの任務を第4軍団に任せますが、この第4軍団の「任務内容」をきちんと第三軍に説明しなかったため、突然自軍の行軍先であるサール=ユニオンに「侵入」された形の第三軍本営は、混乱を回避するため行軍路を変更して西寄りのルートを取り、また右翼側(特にバイエルン軍)の進軍に支障が生じたことは既述の通り(「第三軍ナンシーヘ」参照)です。


 8月10日。シュタインメッツ将軍は大本営命令を受領すると自軍の第1、7、8の3軍団に対し、諸部隊を直ちに指定された街道へ「乗せる」ことを命じます。

 既に後発組の第1軍団後衛や騎兵第1師団の全部隊は前日9日中にピュットリンゲン(フェルクリンゲン北北東3キロ)やザンクト・ヨハンの停車場で下車を終えており、行軍準備も整っていました。

 この10日、第7軍団(アドルフ・フォン・ツァストロウ大将指揮)はカルラン~ロピタル(サン=タヴォルの北6キロ周辺)へ、第1軍団(エドウィン・フォン・マントイフェル大将指揮)はクレウツヴァルド(カルラン北4キロ)へ行軍し普仏国境を越えました。両軍団の前衛は第7軍団がポルスレット(サン=タヴォル北北西7キロ)第1軍団がゲルタン(クレウツヴァルド西南西6キロ)と、本隊よりかなり前進してアルガルトン(=オー=ミーヌ。ゲルタン北4キロ)からブシュボルヌに至る地域に敵がいないことを確認しました。


 しかし、第一軍の騎兵部隊である騎兵第1と第3師団は未だ歩兵部隊の後方にあり、歩兵師団所属の小規模な斥候が前線に出ているだけだったので、仏軍の「退却」はどの程度で、その「後衛」がどこにいるのか、第一軍本営にははっきりしたことが分からなくなっていました。

 また、左翼側(南)ではフォルバック付近で未だに第二軍部隊(第3軍団)と行軍路が重なっており、またその北側のフェルクリンゲン~ラウターバッハ~カルランへと至る街道は、第一軍のほとんどの歩兵部隊が利用したため大渋滞が発生してしまい、予定の宿営地にたどり着けなかった部隊は、この数日来断続的に降り続く雨に打たれて、泥濘の中原野で野営するしかありませんでした。


 なお、シュタインメッツ将軍はこの10日、第一軍本営と共に普仏国境のラウターバッハ(サン=タヴォル北8キロ)部落に前進しています。


 この10日。第二軍の右翼先頭の第3軍団は、サン=タヴォル周辺に留まって野営しました。その後方には第9軍団がザールブリュッケンからザール川を渡河してスティラン=ウェンデル方面へ至ります。

 中央では第10軍団がサルグミーヌからピュトランジュ(=オー=ラック。サルグミーヌ西南西13キロ)へ前進、その後方では第12軍団が全てハブキルヒェン(サルグミーヌ東北東4キロブリーズ川東岸)に集合し留まりました。

 左翼では近衛軍団がサラルブに、第4軍団がサール=ユニオンに入り、ザール河畔に到達しました。


 また、第二軍の騎兵部隊はこの日も軍の前方及び南へ騎行して敵を探ります。

 ブレドウ騎兵旅団は昨日と同じくファルスブールの北からサルブールまで斥候を出しますが、敵部隊には遭遇しませんでした。

 レーデルン旅団はグロストンカンを越えてその西側をランドロフ(グロストンカン西南西9キロ)付近まで探り、バルビー旅団はフォルクモンに入城しました。この両騎兵旅団の前哨はサルグミーヌからナンシーに至る街道上のバロンヴィル(フォルクモン南13キロ)から、サン=タヴォルからメッスに至る街道上のラヴィル(ビオンヴィルのすぐ南)までを結ぶ線上まで進み、その北ビオンヴィルからヴァリーズまでには槍騎兵第15連隊が、すぐ北西にいるはずの敵の後衛を警戒して展開しました。

 騎兵第6師団の残りの部隊はこの日、サン=タヴォルからフォルクモンの間の街道沿いまで前進します。


 これらの騎兵部隊前哨より更に西へと敵地深く大胆な将校偵察を行ったのが、参謀本部次長の子息で第10軍団本営付騎兵士官のヴィクトール・アドルフ・テオフィル・フォン・ポドビールスキー中尉と、国王側近の軍事内局長の子息で槍騎兵第13「ハノーファー第1」連隊のフォン・トレスコウ少尉で、フォルクモンより西へ1個槍騎兵小隊を従えて進んだ二人は途中で仏軍の歩兵斥候数名に遭遇、これを捕虜として更に進み、ルミョー(メッス南東15キロ)の北、パンジュ(メッス東南東13キロ)の南に広がる森に侵入、森の中やその西に展開していた仏軍に接近し偵察を行うと、パンジュの北に数個の大野営地を発見し、メッス方面からクールセル=ショシーへと続く大行軍列を観察したのです。他にもこの森の西でニエ・フランセーズ川に沿って仏軍の大集団を認めました。

 連日大活躍の槍騎兵第15連隊長フォン・アルヴェンスレーヴェン大佐はこの日夕刻、自らの部隊斥候の報告により、先の若き2名の騎兵士官の報告を裏付け、「敵兵はニエ・フランセーズ河畔に留まって後退を中止し、この敵集団は仏第3軍団と思われる」と報告したのでした。

挿絵(By みてみん)

普槍騎兵第13連隊の騎兵

 8月11日。

 この日第一軍は前日と同じ位置で動かず、他軍の進軍を待つ形となります。

 第二軍は前日より更に南西方向へ進撃し、第一線の4個軍団(北・右翼から第3、10、近衛、4)はフォルクモン~アルスキルシャン(サラルブ南7キロ)の線、第二線の第2、12軍団はフォルバックとサルグミーヌから第一線に後続しました。


 騎兵はこれら部隊の前方に進み、レーデルン、バルビー両旅団はルミリー(フォルクモン西北西15キロ)とデルム(ルミリー南14キロ)の間にあり、ブレドウ旅団はフェネトランジュ(サール=ユニオン南南西12キロ)まで進みます。

 騎兵第6師団と近衛竜騎兵旅団はこれら騎兵第5師団の後方に展開し、ティクール(フォルクモン南南西7キロ)とベルムラン(グロストンカン南南西6キロ)付近にありました。


 第一軍の騎兵第3師団から連日斥候に出撃している槍騎兵のフォン・ヒンメン大尉は既に11日早朝5時、レ・ゼタン(ブレ=モゼル西南西9キロ)付近に野営するおよそ4万にも上る仏軍が一斉に野営を撤去し始めるのを目撃しています。大尉は更に午前11時30分時点で仏軍がレ・ゼタンを退去してメッス東市街ベルクロワ付近で止まるのを確認しました。

 同様に、連日積極的な斥候を行っている第二軍の槍騎兵第15連隊のブリックス大尉は11日早朝、モン(パンジュ北東郊外1キロ)及びシリー(=シュル=ニエ。レ・ゼタン南南西3キロ)から仏軍が消え、これらの敵をオジー(シリー=シュル=ニエ西南西4キロ)の北郊外ピュッシュまで追いますが、ここで十数人の落伍兵を捕虜にし、彼らが仏第3軍団所属で、中には仏第4軍団や近衛所属の者までいることを報告するのです。

挿絵(By みてみん)

普槍騎兵第15連隊の騎兵

 他の斥候報告でも11日はサン=タヴォルやブレ=モゼルからメッスへ通じる街道を中心に補助的な脇道まで仏兵で溢れ、それが西へと進んでいることを示し、またパンジュやオジー方面、そして更に南のクールセル=シュル=ニエからも仏軍兵が消えたことを示しました。

 仏軍の去ったクールセル=ショシーにある比較的大きな病院には仏軍の傷病兵が収容されて残されており、彼ら傷病兵や捕虜となった落伍兵の尋問から、仏軍がこの数日間さまよえるように移動行軍を続け、今度はメッスに向かって後退していることが浮き彫りとなって来るのです。

 また、第二軍の驃騎兵第10「マグデブルク」連隊の斥候はモヤンヴィックからナンシー郊外に至り、ナンシー市街を望見しても敵の存在を示す兆候が見えなかった、と報告しています。

 しかし、これらの報告はそれぞれ下位部隊の本部で集約され上に回されるので、今までもそうでしたが、どうしてもタイムラグが生じます。結果、騎兵報告は11日夜になり第一、第二それぞれの軍本営に到着し、大本営には一日遅れて翌12日になり報告されることになります。従って大本営は11日、前日10日の情報で今後の行動方針を定めることとなるのです。


 大本営は午前中に前日10日の騎兵偵察報告を受領し、その結果、仏軍が新たな作戦を実行する兆候が伺えるとして、第一と第二軍を直接統合指揮するため更に前線近くまで前進することを決し、ヴィルヘルム国王以下大本営はサン=タヴォルに向け出発、午後4時に当地へと到着するのでした。

 また、第一軍がほぼ停止し、第二軍は南西への進軍を続けた関係上、その軍境界線の進軍路に当たるカルランとフェルクモンの間に大きな間隙が出来てしまったため、当時大本営を護衛していた歩兵第8連隊が転進し、一時的にこの戦線のギャップを埋めるのでした。



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