仏バゼーヌ軍・8月10日から14日午前
仏軍の4個(北から4、3、近衛、2)軍団が、北はレ・ゼタンから南はルミョーまで、ニエ・フランセーズ川に沿って展開した8月10日。
バゼーヌ大将と第3軍団が展開したパンジュの街で開かれた指揮官会議にやって来た仏皇帝ナポレオン3世は、驚いたことに再びシャロンへの総退却を持ちかけました。
皇帝のこの「変心」の裏には前日9日に起こった政変が大いに影響しているものと思われます。
下院議長がファーブルら共和派の圧力に屈し、前倒しで開会した下院立法議院は、議長が開会を宣言した途端、政府非難の怒号飛び交う喧噪の場と化します。
右も左も1ヶ月も経たない7月中旬、皇帝政府を駆り立てたあの議会のことなどすっかり「忘れた」風で、政府や皇帝を絶賛した同じ人間が発したとは思えない、聞くに耐えない非難の怒号にオリヴィエ首相ら政府首脳は、怒りと絶望がないまぜとなった心情でじっと耐えているか、顔を紅潮させて反論しているか、そのどちらかでした。
特にオリヴィエ首相は自分の意志ではない戦争開戦と戦況不利の責任を一身に受けてしまい、怒り心頭で身体を震わせながらじっと耐える姿は哀れとしか言いようがありませんでした。
首相に出来る抵抗は最早「自ら責任を取って辞任しろ」という四面楚歌の圧力に対し首を横に振り続けるだけでした。オリヴィエにも第二帝政「唯一」の政府首班(お飾りではありましたが歴史はこれを「議会帝政」と呼びます)というプライドがあったのです。
共和派のファーブルは発言を求めて許され、壇上に上がると周到に用意された提案と採決を訴えます。
曰く敗戦の責任は全て皇帝政府にあり、祖国の危機に際し政権を議会に委ね、議会は全権委員会を組織して政府を立ち上げるべきだ、と。
続いてエルネスト・ピカールが発言し、「パリ市民に武器を与え、首都防衛は市民の手で行うべきだ」とし、「もし武器が与えられなければ市民は公安委員会(議員全員に、あのロベスピエールとギロチンを思い起こさせる恐ろしい革命委員会です)を組織するしかないだろう」などと政府を脅すのでした。
当然ながら下院は右派の皇帝支持派が多数を占めており、少数派閥である共和主義者の提案など一蹴する事が可能なはずでした。
しかし、ボナパルティストを中心とする右派も、そして日和見で右派に付いていた中間派閥も、ここ数日来のパリ市民の「怒り」を十分に感じ取っていました。
折しも下院議場エリゼ宮の建つセーヌ河畔の反対岸、コンコルド広場には多数の民衆が集まっており、社会主義者に煽動された労働者たちは口々に「オリヴィエを倒せ」と叫んでいました。
皇帝支持派や中間派閥は、ここで反対して共和派を糾弾したりしたら革命が起きるかもしれない、と本気で心配するのです。
ここに至ってもなお首相は辞任を拒否し、「採決だ!」の声に応え議場は「異議なし!」の怒号に包まれます。
内閣不信任決議は、反対がたった6票という全員一致に近い状態で可決されたのでした。
不信任可決のわずか2時間後に、手回しの良いことに新内閣は誕生します。
首相となったのはウジェニー皇后摂政が支持したパリカオ伯爵、1860年に太平天国の乱において英仏連合軍を率い八里溝(仏名でパリカオ)で清国軍を破ったシャルル・ギヨーム・マリー・アポリネール・アントワーヌ・クーザン=モントーバン伯爵でした。
既に前日、オリヴィエ内閣が終わったと見たウジェニー摂政らにより白羽の矢が立てられ、水面下で組閣作業が行われていたのでした。
クーザン=モントーバン伯爵
パリカオは英雄・秀将としてマクマオンと同じように庶民にも人気があり、正しく戦時内閣を率いるには適任と思われました。ウジェニー皇后らが期待したのはパリカオの「顔」により民衆、特にパリ市民の賛同を得、それでも革命が発生するようなら軍を率いて制圧することも可能、つまりアメとムチ両方を使い分けることが出来ることでした。
下院は新内閣のお手並み拝見とばかりに、パリカオ首相を支持したのでした。
このパリカオ首相の誕生で、パリのウジェニー皇后かその取り巻きから、どうやら前線を引き上げ帰って来いとの「忠告」があり、藁をも縋る形でそれに乗った皇帝は、パンジュの指揮官会議で急ぎシャロンへ後退したがったのでした。
皇帝の意志によりニエ・フランセーズ川の諸軍団は10日午後、再び西へと動き始めるのです。
11日、4個の軍団はメッスの東、モーゼル川の東岸に一端陣を敷き直し渡河の準備を待ちます。ところが。
8月12日。ナポレオン3世は再び命令を撤回するのです。
明らかに自信喪失状態となった皇帝は「旧ライン軍はメッスで踏み留まる」とし、自らは「ライン軍総指揮官の座をバゼーヌ大将に委譲する」と宣したのでした。
既に第3軍団の指揮を麾下師団長のドカン将軍に移譲し、「バゼーヌ軍」の指揮に専念しようとしていたバゼーヌは、これを恭しく受けるしかありませんでした。
しかし、これはナポレオン3世がこの8月上旬に行った、一連の「拙い」施策中最悪の決定だったと言えるでしょう。
その理由は二つあり、一つはバゼーヌ大将という軍人はフロッサール将軍だけでなく他の将官たちからも受けが悪く、このままメッス前面の4個軍団を任せれば「スピシュラン」の再現(高級指揮官たちの不仲による意志疎通欠如)を招く可能性がかなり高いだろうという点、もう一つは皇帝自身の優柔不断、責任転嫁が一介の兵士にまで明け透けとなってしまう点でした。
あまりにも酷い朝令暮改により、仏軍は心身共に必要以上に疲弊しており、また糧食を始めとする輜重兵站の「モノ不足」は将兵の不満を増大させ、比例して戦意喪失の危険度も増すのです。
「ナポレオン」と言う名の魔法で政権を維持して来た皇帝は、また、自身にとって過分な「ナポレンという魔法の名前」を背負わされて重みに沈んで行きました。同じ兵士の命を自らに捧げさせる「皇帝」という立場であっても、1世との差は歴然としたものでした。
現皇帝の偉大なる伯父、ナポレオン1世は若き将軍の頃から皇帝となっても変わらず兵士と共に原野で寝食を共にし、連戦連勝の時ばかりでなく連戦連敗へと逆転した時であっても指揮権を手放さず、また「余の栄光は兵士の犠牲によって賄われたものだ」などと将兵に対し常々感謝の弁を表したものでした。兵士たちは変わらず自分たちの傍らに立ち、感謝を忘れない英雄の姿を見て、進んで自らの命を犠牲とするのでした。
それは酷寒のロシアから屈辱のワーテルローまで続いて行き、兵士は常にナポレオン1世のため喜んで戦い続け、沈み行く第一帝政を維持するための犠牲となって消えて行ったのです。
当のナポレオン1世も、歴史の表舞台から南大西洋の孤島に消え行く時にも、(内面はどうであれ)毅然としたものでした。その姿にフランス人は心打たれ、半世紀を経たこの普仏戦争の時であっても、ナポレオンの名に栄光の日々を思い出すのです。
それに比して見栄っ張りの甥っ子は、連敗の責任を部下の将軍たちに転嫁し、これ以上負け戦の責任は負いたくないとばかり、あんなに拘った軍の指揮権を放り出すのです。兵士がこの後この皇帝に対し、「いよいよ」となったらどういう行動を採るのか、それは伯父と比べるのもおこがましいと言うものでしょう。
この12日、ナポレオン3世はバゼーヌに指揮権を渡す際に、「至急メッスを離れて後方のベルダン(メッス西55キロ)へ移るよう」命じています。その理由として皇帝は「今独軍の攻撃を受ければ、我が軍の一部が敗退しただけで全軍が壊乱し大混乱の退却となることが必至と思われる」からで、「用意の出来ていないメッスではなくベルダンまで後退し、敵を迎え撃つ準備をするべきだ」としたのです。
メッス前面で踏み留まれと言われ、指揮権を譲り受けたバゼーヌの困惑振りが目に見えるようです。
翌13日、シャロンへ退く準備を始めた皇帝はバゼーヌに対し「メッス東郊外から一刻も早く撤退しモセル川を渡河せよ」と重ねて命令し、その夜には「敵は我が軍がモセルを渡河するとは思っていないはずだ。卿(バゼーヌ大将)がもし、敵の意表を突いてモセルを渡河したなら、敵はそれを妨害出来ないだろう。後退に際して必要となる糧食の補給の心配をしているのなら、その点は大丈夫だ」などとバゼーヌの行動を促したのです。
しかし、バゼーヌはバゼーヌで考えがあったのです。
皇帝は簡単にモーゼルを渡河せよ、と言いますが、5個の軍団が接近しつつある敵を背にして渡河するには、それなりの準備と作戦が必要です。それが一切用意されていないのですから、バゼーヌは一から渡河の準備をしなくてはなりませんでした。その用意だけでも数日を要するものです。直ちに退けと言っても「指揮権を放り投げられた直後に」退くのは無理と言うものでしょう。
しかも、バゼーヌには大局をにらんだ作戦がありました。
元よりメッスを退くことに反対だったバゼーヌは、このメッス付近でまず一戦交えて、勝てばそれで時間を稼ぎ更にマクマオンらを呼んで兵を集中させ、負けたならモーゼルを渡河して南下、ストラスブールからパリに至る主要鉄道線(サルブール~リュネヴィル~ナンシー~コメルシー~サン=ディジエ~シャロンへ至る)付近を防衛線として陣を敷き、独軍がパリへ至るためその北側(ロレーヌ森林からアルゴンヌの森)を通過しようとするならば、その左翼側から側面を攻撃する、という作戦だったのです。
そもそも、ニエ・フランセーズ川はメッス要塞の前哨ラインであり、湾曲して流れるこの川一帯は雑木林が点在し起伏もあって見通しが悪く、敵の進軍を観察するには困難であり、決戦を挑むには少々不便な場所でした。
メッス要塞の準備が出来ていないので、混乱していた皇帝と仏大本営首脳はこの「メッス東方第一線」で戦えと諸軍団に命じ、指揮官たちは仕方がなく布陣したわけですが、11日になって更にメッス市街東郊外付近に点在する、メッス要塞の分派稜角堡塁周辺に布陣する命令が下された時は、さぞ前線指揮官たちもほっとしたことでしょう。
やはり要塞という存在は、それを後背に戦う野戦軍将兵にとっては、準備が出来ていようがいまいが、いざとなれば逃げ込むことが出来る頼もしい存在だったのです。
このメッス要塞分派堡塁周辺に集合した仏軍は12日現在戦列歩兵201個大隊、騎兵116個中隊、野戦砲各種540門という大軍です。
これは第2、3、4、近衛の各軍団のほとんどと、第6軍団の本隊(歩兵9個大隊、砲兵13個中隊、騎兵の全てが間に合わずこれを除きます)、予備騎兵第1、3師団でした。
これを直接指揮下に置いたバゼーヌ大将も、部下となった軍団長たちの陰日向様々な反目と、皇帝の「ちょっかい」で苦しむこととなります。
ナポレオン3世は、独軍がメッスの南からナンシーまでの間(ポンタ=ムッソン付近)に達してモーゼル川を渡河し、ロレーヌ森林に侵入したらメッスは包囲され手遅れになる、として森林の西側ベルダンまで退くよう再三再四命じて来ました。しかしバゼーヌも一軍を預けたなら黙って見ていてほしいと思うわけです。そこで皇帝に対し「準備不足でモセルを渡河すると敵に追い付かれて不利な戦いとなります。むしろ現陣地メッス東郊外で戦う方が良いのです」などと「反論」したりするのでした。
しかし、バゼーヌも12日夜、準備していたモーゼル川の仮設橋が増水によって流されてしまい、これ以上の架橋資材は既にフォルバックで敵の手に渡ってしまっていたので焦り始めます。
更に13日午前、敵の騎兵斥候部隊が自軍の前衛と接触したとの報告を受けると、バゼーヌは遂に仏大本営の圧力に屈してベルダンまでの撤退を決意し、架橋材料となる木材資材を手当たり次第にかき集めてモーゼル川の架橋作業を急がせ、架橋の完了を待って後退運動を起こし、モーゼルを渡河するよう次の命令を下したのでした。
「予備騎兵第1師団並びに予備騎兵第3師団は本日(13日)午後1時を以て野営地を発し、同第1師団はグラヴロット(メッス西10キロ)を経てドンクール(=レ=コンフラン。グラヴロット北西8キロ)からコンフラン(=アン=ジャルニジー。ドンクール北北西6キロ)を通過し、同第3師団もグラヴロットからマルス=ラ=トゥール(グラヴロット西南西10キロ)を経てそれぞれベルダンに向かえ。
第3軍団と第4軍団は予備騎兵第1師団の辿った行軍路を使い、第2軍団と第6軍団は予備騎兵第3師団の辿った行軍路を使って、それぞれベルダンへ向かうこと。近衛軍団は第6軍団に続行せよ。
諸軍団は14日午前5時を以て行軍準備を完了せよ。予備騎兵2個師団は14日中にグラヴロットに到達していること。しかし、グラヴロット部落周辺で飲用水が乏しい場合は、予備騎兵第3師団は更に街道を西へ行軍し、ルゾンヴィル(グラヴロット西南西3.5キロ)まで進むこと」
バゼーヌ将軍は命令を実現させるため、かき集めた資材でメッス要塞の南側モーゼル川下流域に数本の仮設橋を架けさせるのでした。
この命令により、各部隊は13日から14日早朝にかけて以下のような配置となります。
○第2軍団 本営はペルトル(メッス南南東5キロ)にあって、バージ師団とバタイユ師団はペルトルからマニー(メッス南郊外4キロ)の間に、ラパス旅団はマルリー(マニー南東3キロ)にありました。ラヴォークペ師団はメッス要塞駐留を命じられ、本営をバス・ブヴォア(現・メッス南東市街オート・ブヴォア通り付近。ペルトルの北1.8キロ)に置いてメッス要塞の各分派堡塁に部隊を派遣しました。
○第3軍団 この軍団はメッス東側からの後退を援護するために展開し、モントードン師団はグリジー(メッス南東郊外でバス・ブヴォアのすぐ東)付近、メトマン師団はコロンベイ(メッス東郊外5キロでコワンシーの西1.5キロ。現在は史跡のみ)付近に、カスタニー師団はモントア=フランヴィル(コワンシーの北1.5キロ)付近、エドゥアール・エマール少将(前メトマン師団の旅団長で、ドカン将軍の中将昇進により師団長少将に昇進)の師団はヌイイ(メッス東北東6キロ)付近にありました。
○第4軍団 概ね第3軍団の左翼側後方(北西)にあって、フランソア・グルニエ少将(開戦時の師団長ローズ少将が病気となったため交代)師団のみメ(メッス東北東5キロ。ヌイイの西)にありメッス北郊外からの撤退を援護していました。他の2個師団は更に北西側のメッス市街北東郊外のブゾンヴィル街道に沿って展開し、後退を開始しました。
○第6軍団 モーゼル川とセイユ川の間(メッス南郊外)に一部、ヴォワピ(メッス北北西4キロ)に一部、残りはメッス要塞の分派堡塁にあり、後退準備を成しました。
○近衛軍団 ちょうど第3軍団の後方(西)、メッス東市街にありました。
○輜重、補助部隊 メッス市街から後退を始めており、モーゼル川を西岸に渡りつつありました。
これらの軍団は13日夜の命令によって移動準備を始め、第6、第2、第4の3個軍団はこの14日午前遅くから正午にかけて後退を開始しました。第3軍団と近衛軍団は後衛となるため、正午時点では動くことがありませんでした。
ナポレオン3世もこの日午後、シャロンへと退くため少数の近衛兵の護衛とルブーフ大将をお供にメッス要塞を後にします。バゼーヌに去り際「ベルダンへ急ぐように」念を押した皇帝は午後2時、メッスの西郊外ロンジュヴィル(=レ=メッス)に入りました。病状のすぐれない皇帝は要塞暮らしから解放され、このモーゼル河畔の館で身体を休め、明日モーゼルを渡河しようというのでした。
ところが、皇帝が要塞を去り、諸軍団の将兵がようやく西への後退を本格化させた午後3時過ぎ、突然メッス東方のコワンシー(メッス東7キロ)方面から砲声が立て続けに発生し、正に戦闘の開始を告げたのです。
彼らバゼーヌ大将傘下の仏軍はフロッサール将軍の第2軍団以外、開戦後も未だ戦闘を経験しておらず、慌ただしい出陣後にザール河畔に迫った後は、ただ退却行軍を続ける日々を過ごしていました。しかも仏大本営の優柔不断さにより朝令暮改の繰り返しで疲弊し不安が高まり、兵士の不満は我慢の限界に近いものがありました。
そこに至近で轟く砲声を耳にするのです。多くの部隊が西への行軍を中止して、その多くが踵を返し、砲声のする東へ戦場へと向かったのでした。
「会戦が始まろうとしている」
多くの将兵は憂鬱な顔色を一変させ喜色満面に浮かべ、栄光の「大陸軍」は未だ戦意を喪失せずに見違えるようにきびきびとした動作を見せて、さすがはヨーロッパ随一の陸軍、と見る者に思わせるものがあったのです。




