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8月7日から10日・ナポレオン3世の苦悩

 仏ナポレオン3世の大本営は、8月2日にザールブリュッケンの戦いで勝利した後、8月4日に発生するヴァイセンブルクの敗戦ですっかり守勢に傾いてしまい、そもそも勇躍プファルツやバーデンに侵攻するはずが、自国領アルザスとロレーヌで独軍の進撃を食い止める防衛作戦を練ることとなります。

 そこへ「ヴルト」と「スピシュラン」の敗北。皇帝の本営は最早パニックに近い状況となるのでした。


 7日、前日の二会戦敗退の詳報が届いたメッス在の仏大本営は、将兵幕僚問わず正に狼狽混乱の極みとなり、呆然とし消沈する高級士官の姿は哀れとしか言いようのない状態でした。

 熱しやすく激しやすい仏国民の気質(特に恐ろしいのが革命慣れしたパリ市民)を良く知る将官たちは、誰がこの大敗を窮地を招いたのか、犯人探しに明け暮れます。

 これ以上自分に火の粉が掛からぬよう、とでも思ったのか、ル・ブーフ総参謀長はこの7日、辞表を恭しく皇帝に差し出します。ナポレオン3世はこれを保留し慰留しますが、ル・ブーフは以降作戦に関して自ら口を開くことが極端に少なくなってしまいました。


 実際には「ヴルト」において仏軍はおよそ2万を失うものの、敵皇太子の第三軍にも1万以上の損害を与え、「スピシュラン」では数千人しか失わずに敵に同等以上の損害を与えており、「大敗」と呼ぶにはどうも独軍贔屓と言われそうな展開でしたが、相手の仏軍首脳陣がこれほどの弱気では、必要以上に独軍有利へと進んだ戦況も「さもありなん」と言ったところでしょう。

 事実7日から8日にかけての仏軍将兵の気分は、既に戦争自体に負けてしまったかのような絶望に満ちていたものでした。

 

 これは銃後も全く一緒でした。

 首都であり「フランスそのもの」でもあるパリ市では、8月2日にザールブリュッケンにて「午前11時から午後1時まで2時間戦闘が発生し仏軍が勝利」との報道があり、仏皇太子も前線で危険を省みず観戦したとの追信もあって街中大喜びとなりますが、それ以降一切情報が入らなくなります。

 戦場に多く詰めかけているはずの外国特派員や従軍記者からも何も知らせが無く、次第にパリ市民は疑心暗鬼の状態になるのです。街角やカフェでは戦況を知る者がいないかと市民が口々に質問をしあい、その度に情報不足の不安や憤りが口を突いて出るのでした。


 「ヴァイセンブルクの戦い」が報じられたのは5日夕方5時30分で、「ヴァイセンブルクにて仏軍前衛のドゥエー将軍の陣地に対し普軍が襲撃し双方激戦の後に仏軍は敗退し、ドゥエー将軍は飛来した弾丸で戦死した」との新聞報道が最初でした。更に詳細を伝える新聞もあり、「5日(実際は4日)午後12時45分、普軍は8万から10万の大軍で大砲は80から100門、ドゥエー将軍の陣地を攻撃し、この時ドゥエー将軍の兵は8千から1万、必死で防戦したが普軍の砲撃は絶え間なく仏軍を襲い、ドゥエー将軍は戦死した」とのことでした。


 翌朝6日午前9時、仏政府の内務省があるボーヴォ館前の狭い広場(パリ8区・エリゼ宮の北西角)では集まった群衆に向け役人が「アルザス国境のヴァイセンブルクで仏軍が敗れた」との簡素な発表をし、慌てたように庁舎へ引っ込んでしまいました。新聞記者や外国特派員、通信員たちには次のような公式声明が発せられます。

「戦列歩兵3個連隊に軽装備の騎兵旅団がヴァイセンブルクにおいて優勢なる敵軍から襲撃を受け、数時間の戦闘後に撤退を開始した」

 当然ながら通信社は挙って「アルザスのヴァイセンブルクで仏独の会戦が発生し、これに仏軍は敗れ現在後退中」とのニュースを発信し、市民たちはその速報に大きな落胆を覚え、騒然となるのでした。


 ところがこの6日正午になると「マクマオン将軍は反撃に転じ、敵の前衛を撃ち破るとヴァイセンブルクの屈辱を晴らした」との張り紙が市中に張り出され、続けて詳細として「独軍の損害は大砲40門の喪失と捕虜2万5千で、捕虜の中には普皇太子フリードリヒの名もある」との「報道」が張り出されたのでした。同時に「仏軍の損失も大きく、アベル・ドゥエー将軍が捕虜となった」との「ヴァイセンブルク」と「ヴルト」が混ざったような張り紙もあります。

 この「報道」の真偽を確かめるため、内務省は必死に大本営に情報を求めましたが、梨のツブテでした。独側が人心混乱のために流したデマということも考えられ、市民は喜んでいいやら疑うべきかでまたもや騒然となります。


 世論が混乱して政情不安に向かいつつあるのを心配し、この6日夜急ぎサン=クルー宮殿(パリ西郊外セーヌ河畔)からパリ市に入ったウジェニー皇后(この時は執政として)は、直ちに政府首脳を召集すると閣議を開催し、政情の検討とまたもや頭に血が昇り始めたパリ市民への対策を練り始めたのです。

 この閣議中に情報が集まり始め、「ヴァイセンブルク」ばかりでなくこの6日日中に発生した「ヴルト」と「スピシュラン」の戦いでマクマオン、フロッサールの両将の敗退が確実となりました。


 「同時に二つの敗戦」という最悪の事態に衝撃を受けたオリヴィエ首相を始めとする首脳陣は、急ぎ以下の対策を決定します。

 まず、「人心を安定させるため、適当な布告を随時更新して示すこと」が決定し、続いて「パリ防衛の司令部を創設する」「パリ市街を武装防衛都市として敵に対し徹底抗戦することを宣言する」「下院を11日に召集すること」が決定されます。 

 この「適当な布告」の方針により「ヴルト」「シュピシュラン」両戦闘が発表され、7日朝、以下の布告が発せられます。

「これまでも政府は隠すことなく戦争の詳報を布告して来たが、昨日発生した戦闘の結果をここに報告する。8月7日午前12時30分メッス大本営より入電、マクマオン将軍が敵一戦隊を壊滅した後撤退。また、フロッサール将軍はザールの地で一戦交えたが双方戦場から引き上げた」


 ところが、8月6日夜に刷られたベルリンの新聞を翻訳したものがイギリス首都ロンドンで報道され、これがパリにも転送され仏訳されると市中は大騒ぎとなるのです。


「8月6日午後4時30分、アルザスにおいて仏将マクマオンは大軍を率いて我が軍(独軍)と戦った後、メッスへ後退した。この戦いにより我が将軍ボーズが負傷した。皇太子率いる軍は仏軍マクマオン、カンロベル、ファイー将軍の軍と戦い、大勝利を得、捕虜4千、大砲30門、新型(ミトライユーズ)砲6門を鹵獲。しかし死傷した我が軍士官もまた多く、フランソア将軍が戦死した」


 敗戦を隠し切れなくなったウジェニー摂政はこの夜、以下の布告をパリ市中に張り出させるのでした。

「この度の我が軍の敗退はフランス人に苦痛を与えるものではある。しかし、フランス国民、特にパリ市民は忍耐して今後の我が軍の勝利を祈ること。敵がもしパリに乱入するようなことがあれば、我ら皇族は先鋒に立ってパリ市民と共に戦おうと覚悟している。国民は必勝の志を一つとし、帝の命令を順守せよ」

 また、次の布告も発せられます。

「パリ市内の住人30から40歳までの男子を護国軍兵士として徴兵し、パリ防衛隊に編入する。この防衛隊は市内の警護と市内・郊外の砲台等に配備するものである」


 一方、下院や元老院議員たちも戦況の悪化により俄に自らの進退が賭かって来たことに嫌がおうにも気付きました。パリ市民は6日の夕方までは「プロシアをやっつけてしまえ」「くたばれビスマルク」などと叫んでいましたが、夜になると政府とナポレオン3世へと憤怒の標的が変わって来ていたのです。

 勿論、歴史上常に民衆というものはマッチポンプを自認するアジテーターたちに弱く、この時も騒動を拡大させ皇帝を追い込んだのはそういう類の政治家たちでした。

 左翼(ここでは共和派や社会主義者)は帝政と首相のオリヴィエの無為無策を徹底糾弾する街頭演説を繰り広げ、なんと「与党」であるボナパリストたちも「ナポレオン党」の自分たちとは異質の存在(自由主義者)、オリヴィエを糾弾し辞任を要求し出したのです。


 こうなってしまうともうオリヴィエ首相の命運は尽きたも同然でした。 共和主義者の先頭に立つ議員、たとえばジュール・ファーブルやジュール・シモン、カミーユ・ペルタン等は下院議長のシュネーデルを訪問すると、下院議会の即時開会を要求し、皇帝を軍事面の指導から引き離す決議をするよう迫ります。完全に旗色が悪いシュネーデル議長は共和派の要求の一部を飲んで、議会を2日前倒しの9日に開催することを決したのでした。


 それにしても「ヴルト」と「スピシュラン」敗戦の報はパリ市民にとって青天の霹靂以上のものとなりました。

 なにせ仏軍一の名将である「クリミアとアルジェリア、マジェンタのマクマオン」と「仏軍一二を争う智将のフロッサール」が相次いで敗れた、とのことで、その驚愕と衝撃は饒舌なはずのパリ市民でさえ打ちのめされて沈黙するに十分でした。

 しかし、この衝撃を現実のものと理解したパリ市民は、すぐさま憤怒の感情も露わに街へと繰り出し、タイミングを得た左派の煽りに乗じて政府首脳、オリヴィエ首相、グラモン外相、そして皇帝ナポレオン3世の戦争指導に対し失望から次第に反感、そして非難と糾弾へと発展、パリ市内は革命前の様な不穏な空気に満たされて行くのでした。


挿絵(By みてみん)


 当然ながらパリの状況は逐一ナポレオン3世に伝えられました。

 正に進退窮まり極限状態に追い込まれた皇帝ナポレオン3世は、その持病をも悪化させてしまい、日に数度意識を失い倒れるというような、とても国軍を率いる精神状態ではなくなります。

 しかし、悲しいかな皇帝の帝国軍は皇帝本人を頂点とする絶対服従の夜警的軍隊です。簡単には指揮権を受け渡せる状況になく、勢いに乗る独軍は一気にメッスからナンシーまで席巻しようと急速前進するに違いない、と思い込んで弱気の虫に捉われた皇帝は「全軍シャロンまで後退せよ」と命じたのでした。


 これにより7日午後遅く、仏軍は急速後退を始めます。

 まず、シャロン(=アン=シャンパーニュ)からメッスやナンシーに向けて鉄道輸送中だったカンロベル大将の第6軍団の移動を中止させ、元いたシャロンへ逆戻りさせました。

 続いて前線の各軍団に後退を発令し、バゼーヌ大将の第3軍団はサルグミーヌやピュトランジュ(=オー=ラック)、そしてサン=タヴォルから、フォルクモンを経てニエ・アルマンド川(独名ニード・ドイツェ川。モーゼル支流)の西まで後退させ、唯一後衛としてサン=タヴォルに戦列歩兵2個大隊を主幹とする支隊を残し、第4軍団もブゾンヴィルやブレ=モゼルから、後衛を準備してメッス目指して退却し、バゼーヌ軍の後方(サン=タヴォルからフォルクモンにかけての西側)にいた近衛軍団はクールセル=ショシー(メッス東15キロ)へ後退、それぞれメッスへの後退を継続します。サン=タヴォルに残っていた第3軍団の後衛も8日夕には後退を始め、サン=タヴォル西郊外のロンジュヴィルから、普軍騎兵に追撃されながらもこの日深夜、ビオンヴィル(=シュル=ニエ。クールセル=ショシー東5キロ)まで退却しました。


 6日の会戦でフォルバックやスピシュラン高地から南へ撤退し、サルグミーヌ近郊に達した第2軍団は、軍団長フロッサール中将の独断で7日早朝、街に残っていた第5軍団第2師団のフェルディナン・オーギュスト・ラパス准将旅団を一時併合するとそのまま西へ転進し、ピュトランジェに到着したところで「シャロンに向かい後退せよ」との皇帝の命令に接します。フロッサール将軍は、既に命令を受けて街を去ったバゼーヌ軍団を追う形で8日早朝ピュトランジェを去り、グロストンカン(サン=タヴォル南)を目指し行軍を始めます。この真西ではなく南西方面への機動は、4万に上るバゼーヌ軍団の四分の三を追うより、迂回してナンシー方面へ後退した方が混乱渋滞なく行軍出来るとのフロッサール第2軍団本営の出した答えなのでしょう。


 ところが、この8日になって再び皇帝とその腹心、即ち仏大本営が「変節」するのでした。


 8日、今後の戦略を検討するため、メッス要塞のナポレオン3世の下に従兄弟で皇帝一族のご意見番ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト公爵、「一応まだ」参謀長のル・ブーフ大将と侍従武官長ルブロン中将ら軍首脳が集まり、御前会議が開催されました。


挿絵(By みてみん)


 ナポレオン3世はこの会議冒頭、集められる軍団を全てメッス周辺に集合させ、一気に全軍シャロンまで急速後退し敵を待ち受けて会戦する、と改めて前日の方針を示します。

 シャロン周辺は確かに毎年仏軍の大演習が行われ、軍人なら誰もが知悉する「パリ防衛」の東関門でした。しかしこれではロレーヌ地方を戦いもせずに独軍へ渡してパリの郊外まで一気に逃げてしまう格好で、そこまでに存在するメッスやベルダン、セダン、トゥールなどの主要都市や要塞を放棄することとなってしまうのです。

 「独軍に背後を晒してパリの玄関まで逃げ帰った皇帝と、その直卒軍を見てパリ市民が何を考えるのか」

 これは当時メッスの会議に出席した仏軍人誰もが頭に浮かべた、答えの決まり切った恐ろしい質問だったことでしょう。

 既に立法権を持つ下院の開催が明日9日に決まっています。この議会ではオリヴィエ首相の「政権」が内閣不信任を突きつけられるのは確実で、それが皇帝への「不信任」へと拡大するのは時間の問題です。

 メッスの軍人らは口々に、全軍シャロンへ後退してはパリ市民が黙っていない、皇帝と仏軍の失敗を座して待つ「共和派」や「王党派」が政権奪取の格好の口実とするでしょう、などと皇帝を諭したのでした。


 ナポレオン3世も一番怖いのはパリ市民だったので、次第に圧されて腹心等の意見に同意せざるを得なくなり、バゼーヌの第3軍団とずっとバゼーヌ軍団の北西側にいた第4軍団をニエ川の西の線で踏み止まらせ、その後方に近衛軍団を置き、第2軍団を第3軍団の南側へ、更にシャロンで待機する第6軍団をメッスまで前進させることに決しました。

 

 この命令で直ぐに動いたのは近衛軍団で、クールセル=ショシーから西へ行軍し、10日午前中にはニエ・フランセーズ川(クールセル=ショシー北北西5キロのコンデ=ノルトン付近でニエ・アルマンド川と合流するニエ川支流)の西、メッスの東郊外に展開しました。

 続いて第3と第4軍団がニエ川からニエ・アルマンド川の線より後退し、ニエ・フランセーズ川の西岸へと移動を始めたのです。

 第2軍団もナンシーへの行軍列を北へ方向転換し、第3軍団の右翼(南)へ連なるべく動き始めました。

 大変だったのはカンロベル将軍で、前日方向転換しシャロンへ戻った麾下の第6軍団を、再びメッスへ向かわせるため大わらわの一日となりました。

 この8日はナンシー近郊にいた予備騎兵師団数個もメッス要塞へと北上を命じられたのです。


 こうしてナポレオン3世はメッス要塞とその東方前面に20万近い仏軍主力5個軍団(2、3、4、6、近衛)を集め、独軍に決戦を挑む形となります。皇帝にはアルザスからロレーヌ南部を西へ後退中のマクマオン軍3軍団(1、5、7)を途中からメッスへ北上させる作戦も採れる状況にありました。もし、この8日か9日にマクマオン軍をナンシー付近に集めた後にメッスへと前進させる命令を下したのなら、史実とはまた違った展開も起こったでしょう。

 ナンシーからメッスを流れるモセル(モーゼル)川は渡河出来る地点が限られており、それは点在していたので案外守備側に有利な点もありました。これを上手に利用したのなら数で上回る独軍を各個撃破の罠へ誘い込むことも可能だったのかもしれません。


 しかし、この時点での仏軍首脳、そしてナポレオン3世の頭の中は独軍より銃後の怒れる「パリ市民」そして「フランス人民」の姿で一杯だったのです。


 そして、メッスの「大要塞」もまた準備が不足していました。

 既述(開戦直前のフランス軍・四)通りメッス要塞司令官のコッフィニエール・ドゥ・ノルティエック将軍は、要塞は準備不足で二週間と保たないと報告しています。元を正せばこれもナポレオン3世とその腹心たちが当初無茶な攻勢一本槍で立てた作戦の影響で、備蓄すべき糧食や資材は前線部隊に渡されてしまい、兵員もまた前線へ送られたため、本来敵に対する障害である要塞は、護ってあげなくてはならない存在となり味方の足を引っ張る状況だったのです。


 この結果、仏大本営は元よりメッスの「第一防衛線」として整備していたニエ・フランセーズ川の線で敵を迎え撃つことに決したのでした。

 8月10日メッス付近における仏軍の位置は次の通りです。


○第3軍団(戦線中央) クールセル=ショシーからパンジュ(メッス東南東13キロ)に展開

○第4軍団(戦線左翼) レ・ゼタン(メッス東北東13キロ)からグラテニー(レ・ゼタン西北西2キロ)

○第2軍団(ラ・パッシー旅団含む/戦線右翼) ルミョー(メッス南東15キロ)周辺

○近衛軍団(後方予備) 第3軍団後方のコリニー(メッス東郊外・パンジュ北西3キロ)周辺


 これはレ・ゼタン~クールセル=ショシーを突出部とした鉤型の戦線で、仏軍得意の守勢陣形です。


 独大本営はこの7日から10日にかけての仏軍機動を見て「総退却」と判断し、ニエ・フランセーズ川の線で防衛線を築いていることが判明するのは結局、10日遅くになってからだったのでした。



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