8月7日サルグミーヌの陥落
8月7日。前日に普仏間で激闘が繰り広げられたスピシュラン高地一帯は濃霧に覆われた夜明けを迎えました。
後衛を命じられ、一時は死を覚悟したバタイユ少将率いる仏第2軍団将兵はこの払暁、密かに戦場を後にしてフロッサール中将らが向かった南、サルグミーヌ方面へと去って行きました。
ほぼ同時刻、独第二軍・普騎兵第6師団に属するディーペンブロイック=グ リューター少将旅団は、ザンクト・ヨハン(ザールブリュッケンのザール東岸市街地東側)の南東3キロにあるギュディゲン部落に架かる橋を使ってザール川を渡ると、川沿いに北上してザールブリュッケン練兵場に入り、同旅団所属で前日夜に同地へ先着していた普胸甲騎兵第6「ブランデンブルク」連隊と再会しました。
しかし束の間の休息後、旅団の槍騎兵第3「ブランデンブルク第1」と第15「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」の2個連隊は胸甲騎兵を残して仏軍との接触を図ろうとフォルバック市街へ向かいます。その槍騎兵を追って、竜騎兵第12「ブランデンブルク第2」連隊(第5師団騎兵)、驃騎兵第15「ハノーファー」連隊(第14師団騎兵)、第7軍団直属砲兵の騎砲兵第2中隊など、軍団はおろか軍をも越えて共同し前進するのでした。
なお、練兵場に居残った胸甲騎兵第6連隊も同僚の進軍を眺めているだけではありません。
同連隊の第3中隊長フォン・クノーブラウハー大尉は、中隊を率いて早朝南方方面へ偵察行に出発しますが、スピシュラン部落を越えてその南、エツラン部落に入ると残留していた仏軍敗残兵を発見し、全てを捕虜とします。その数500名余り、ほとんどが動けぬ負傷者で士官もいました。
先へと進んだ槍騎兵の2個連隊は午前6時頃、フォルバック市街地東郊外に達すると、市内から散発した銃撃を受けますが大した被害はありませんでした。
この時フォルバック市街地では既に掃討戦が始まっており、普第13師団の前衛、フォン・デア・ゴルツ少将率いる支隊が市内に居残る仏軍の後衛を狩り立てている最中で、直後に市内を制圧・占領します。
支隊はそのまま前進し、フォルバック東市街のクロイツ(ベルク)丘に登ると仏軍の残した散兵壕を占領、サルグミーヌ方面に向けて陣地を占めました。
ゴルツ支隊が警戒する中、第13師団本隊は南下するとフォルバック停車場付近に集合しました。続いて練兵場よりグリューター騎兵旅団が付いて来た騎兵2個連隊、砲兵中隊と一緒に前進しモルバック(独名・モールスバッハ。フォルバック南西2.5キロ)に野営地を作り始めます。
この騎兵集団からはサン=タヴォル方面及び南方へ前哨が出て警戒を始め、斥候が偵察活動を始めました。
斥候たちは午前中に戻って来ると、カルラン(サン=タヴォル北17キロ。独仏国境)の南側には敵はおらず、サン=タヴォルには歩騎兵が集合し、市街地は堅く守られている、と報告するのでした。
普第13師団は7日午後、この騎兵斥候情報を知ると方向転換し、本隊の歩兵2個大隊と砲兵1個中隊でモルバックに進出し、追ってゴルツ支隊もサン=タヴォル街道上に進出し、その周辺に野営する騎兵の援護を受けた13師団は南西のロスブリック(モルバック南西1.8キロ)を警戒し、残余の部隊はフォルバック南西郊外に野営となりました。
独第一軍司令、フォン・シュタインメッツ大将は6日夜、ザンクト・ヨハンで就寝し、夜が明けると直ちに行動を起こしました。
まずは配下の第7、第8軍団に対し、ザールブリュッケンに到着していない部隊を急ぎザールブリュッケンに集め、前日の会戦で離散した諸隊は原隊に復帰せよ、と命じます。
シュタインメッツ将軍の命令により、普第14師団はスティラン=ウェンデルに集合し、第7軍団砲兵隊は一旦ザールブリュッケン郊外へ集合しますが街は他の部隊の行軍列で渋滞しており、そのままザール川に沿ってフェルクリンゲンまで転進しました。
普第16師団本隊はザール川を渡るとドラツーク池付近に前進して野営し、第15師団と第8軍団砲兵隊はザール河畔東岸に到達すると暫時マルシュタット(ザールブリュッケン東岸北市街地)からブルバハ(同西郊外)の間に野営するのでした。
負傷兵の救助
第一軍の騎兵部隊である騎兵第3師団はザールルイからザール川西岸へ渡りメッスへ通じる街道の偵察を命じられ、レーバッハ付近からザールヴェンリンゲン(ザールルイ南東6キロ)を経てザールルイのザール川対岸(東岸)フラウラウターンに本営を置くと斥候をザール西岸に放ち、命令通りメッスへの街道周辺を探らせました。
この日の斥候報告では、ブゾンヴィル(ザールルイ西16キロ)方面には仏軍の姿を見ませんでしたが、ブレ=モゼル(ザールルイ南西23キロ)方面には敵兵がいる様子で、特に斥候の一隊が街道途中のトロンボルヌ(ザールルイ南西14キロ)付近で仏軍の哨戒部隊に遭遇、双方散発的銃撃の後回避しています。
ところで、8月になり遅れて第一軍麾下となった第1軍団(エドウィン・カール・ロチュス・フォン・マントイフェル大将)は主力の2個(第1、第2)師団共にベルリンを経てビルケンフェルト(イーダル=オーバーシュタイン12キロ)及びカイザースラウテルンに到着、ここで休息すると6日にトーライ周辺、7日にはレーバッハ周辺に到着しました。
同じく新たに第一軍に加わった騎兵第1師団は、前衛の騎兵第2旅団が7日ビルケンフェルトとノインキルヒェンで下車するとレーバッハ目指して行軍を始め、騎兵第1旅団主幹の本隊はビルケンフェルトで続いて下車し行軍準備をするのでした。
この7日、先述通り普大本営はザールブリュッケンからサン=タヴォルに至る街道周辺を「第二軍の前進行軍路」に指定した例の電令を発し、第一軍のシュタインメッツ将軍はこれを受領すると直ちに本営をフェルクリンゲンに移動させよ、と命じ、既にこの街道を進み始めた第7軍団と第8軍団各部隊には夕方遅く、「明日8日早朝、現在地行軍路より右側(北西から北)へ転進し、サン=タヴォルへの街道筋を空けよ」と命じるのです。この命令は第二軍本営に向かった本営幕僚によりカール王子にも伝えられました。どうやらシュタインメッツ将軍にも自分が大本営(=国王にも通じる)に「睨まれ始めている」と分かった(もしくは本営の誰かが諭した)のでしょう。この後しばらくは猛将シュタインメッツもずいぶん大人しく命令に従っています。
一方、カール王子の第二軍ですが、「スピシュランの戦い」が終了した6日夜間、普第6師団は戦場に赴いた一部を除き全てノインキルヒェンに集合した後、7日の早朝午前3時に野営地を出発、ザールブリュケンに向かい、激戦で疲弊した第5師団と交代するため、第11旅団はスティラン=ヴェンデル市街地へ、師団の残りはガルゲン丘周辺に前進し、入れ替わりに第5師団の諸部隊はザール川方面へ後退すると、ザールブリュッケン市街地とザンクト・ヨハンで宿営し疲れを癒すのでした。
独第二軍の「耳目」、ラインバーベン将軍の騎兵第5と第6師団はカール王子より軍の前方及び側面に対する偵察を命じられ、8月7日早朝、騎兵第5師団のヘルマン・フォン・レーデルン少将旅団とアダルベルト・フォン・バルビー少将旅団がサルグミーヌ方面偵察の命令を受けて出発、両旅団はザール川東岸を南下しました。竜騎兵第19「オルデンブルク」連隊は別命を受け、スピシュラン高地の東側をザール川西岸に沿って南下し、その左翼側を騎兵第6師団と連絡します。
騎兵第6師団のグリューター旅団は前述通りフォルバックに前進し、ラウフ「驃騎兵」旅団は前日6日、ブリース川(プファルツ地方を流れるザール支流でサルグミーヌでザールに合流)方面でサルグミーヌを監視していましたが、この7日朝にザールブリュッケンへ移動しザールを渡河すると、ザールブリュッケン練兵場で残留していた胸甲第6連隊と共に野営しました。
こうして騎兵第5師団は第二軍正面左翼(南側)で行動することとなり、騎兵第6師団は以降逆の右翼側で行動することとなります。
騎兵第6師団フォン・ラウフ少将の騎兵旅団は二つの会戦があった6日、サルグミーヌにて多数の仏軍が南東よりサルグミーヌへ入城するのを観察しており、7日ザールブリュッケンに来着の際、そのことを第二軍本営に「サルグミーヌにはなお多くの仏軍がいる」と伝達しています。
また騎兵第5師団のフリードリヒ・ヴィルヘルム・アダルベルト・フォン・ブレドウ少将騎兵旅団は6日、メーデルスハイム(ブリースカステル南10キロ。独仏国境付近)を本拠に偵察を行い、ロアバッハ(レ=ビッチュ)で仏軍歩兵を観察し、またビッチュ付近に大きな野営地を見つけますが、7日早朝には更に多くの仏兵がビッチュ周辺で観察されました。
これらの情報は「嘘」ではありませんでしたが「多くの仏兵」や「更に多くの」という実数を伴わない「言葉」が実体を曖昧にしてしまったため、「ヴルトで敗れたマクマオン軍はビッチュやサルグミーヌ目指して逃亡した」、との「噂」を補強して、大本営の「マクマオン軍はメッスのナポレオン3世率いる本軍と合流する」との推定を誘導してしまったのでした。
これらの情報に従い、当時マインツ在の大本営は7日午前6時に電令を発し、「マクマオン軍は7日中にビッチュに入城するものと推定されるので、第二軍は合戦準備を成して8日左翼騎兵(騎兵第5師団)と軍左翼(普第4軍団、近衛軍団、普第10軍団)とを以てロアバッハ付近でこれを迎撃せよ」とするのです。
カール王子はこの電令を受けるや直ちに命令を発します。
大本営の命令はカール王子が信じていた(否、信じたかった、のかも知れませんが)マクマオン将軍の行動そのままだったので、その命令もまた徹底して攻撃的でした。
第4軍団はアルトホルンバッハ(ツヴァイブリュッケン南南東4キロ)付近へ向かう途中、命令を受領します。
「第4軍団は本7日中にヴォルマンステ(独名・フォルミュンスター。ビッチュ北西8キロ)まで前進し、前衛をロアバッハへ派遣せよ。軍団は遅くとも明日8日午前8時を以てロアバッハに集合し敵との合戦に備えよ」
また、騎兵第5師団に対しては「メーデルスハイムのブレドウ旅団は、直ちに第4軍団の隷下に入り行動を共にせよ」との命令が下ります。
更にカール王子は、近衛第1師団と近衛騎兵師団に対し「第4軍団を援助するため8日にグロ=レデルシャン(独名グロス・レーデルシェン。ロアバッハ北西4キロ)付近で合戦準備が完了するよう至急移動せよ」、普第10軍団には「第4軍団を援助するため進軍方向を南西に変えよ。ただし、仏軍がサルグミーヌ付近で頑強に抵抗した場合には、東方より敵側面に対し攻撃してはならない」と命じるのでした。
この最後の第10軍団に対する命令の意味は、もしマクマオン軍がサルグミーヌを死守し戦うことを決した場合、第10軍団にザールやブリースを敵前渡河させる危険を冒すより、既にザール西岸スピシュラン高地方面に集合しつつある第3軍団をそのまま南下させる方がよい、との判断でした。
こうしてマクマオン軍に対しロアバッハ周辺に「死の罠」を仕掛けたカール王子はこの7日、本営をホンブルクからブリースカステルに移動させます。
7日夕刻、第二軍の各部隊は次の位置にありました。
○第3軍団 ザールブリュッケン、スピシュラン周辺
○第4軍団 ヴォルマンステ周辺
○近衛軍団 アスヴァイラー(ブリースカステル西南西5.5キロ)周辺
○第10軍団 ザンクト・イングベルト周辺
○第9軍団 ベックバッハ(ノインキルヒェン東5キロ)周辺
○第12軍団 ホンブルク周辺
○第2軍団 ベルリン周辺よりザール地方に向け列車移動中
この他、バルビーとレーデルン両騎兵旅団はザール川東岸のクラインブリッタースドルフ(サルグミーヌ北北西5キロ)とブリース川東岸のハブキルヒェン(サルグミーヌ東北東5キロ)の間の河畔国境で野営警戒しました。
ところがこの日の夕方遅く、レーデルン旅団から出された斥候の一隊が薄暮の中を仏軍の大縦列がサルグミーヌ市内から出て行くのを発見、直ちに驃騎兵第17「ブラウンシュヴァイク」連隊がサルグミーヌ市街地へ突入し、無血でこの重要な独仏国境の交通要衝の街を占領したのです。
夜陰の迫る中、ブラウンシュヴァイク公国伝統のユサール(驃騎兵)たちは市内を捜索し、多くの糧食や野営資材、野戦用の諸機材などを鹵獲、またサルグミーヌの停車場には数輌の機関車が放棄されているのを発見したのです。
この捜索と同時に驃騎兵第17連隊は南西方向に前哨を派遣し、ヴォヴィレ(独名ヴォウストヴィラー。サルグミーヌ南西5キロ)で仏軍の後衛を発見、この部落の先エルネヴィレ(独名エルネストヴィラー。サルグミーヌ西南西8キロ)に大きな敵部隊が宿営していることも探知したのでした。
こうして普軍は労せず要衝サルグミーヌを陥落させ、ザールブリュッケン以外にもザール川越えの一大拠点を手にします。
カール王子はこれでビッチュ方面へ送った第4軍団以外にも、迫り来るはずのマクマオン軍に対抗し、兵力をその進行方向(と信じていた)ビッチュ~サラルブ間に素早く展開出来る目処が立つのでした。
明けて8月8日払暁。カール王子は名将マクマオンとの会戦を期して、その本営をプティ=レデルシャン(独名クラインレーデルシェン。ロアバッハ東3キロ)の南、ビッチュとロアバッハを結ぶ街道(現ストラスブール通り)に置き、自ら最前線で指揮を執る決心をするのです。自らの本営周辺には前進した第4軍団を展開させ、戦闘準備万端整えるのでした。
ところが、待てど暮らせど一人の敵もビッチュ方面には現れません。それどころか、ロアバッハ南方(ランベルク方面)へ偵察斥候に出たブレドウ旅団の騎兵たちも敵を発見どころか大軍が通過した痕跡すら発見出来ず、「兵士」を発見した、との報に緊張が走ると、何とそれはヴルトの戦い後、一日休息した後に進軍を開始したフリードリヒ皇太子率いる第三軍の前衛部隊(B第2軍団か第12師団と思われます)でした。
これによりカール王子始め第二軍本営の参謀たちにもマクマオン軍が「北」ではなく「南」へ逃走したことがようやく分かって来たのです。
プティ=レデルシャンでビッチュ要塞方向を観察するカール王子と幕僚たち




