独第三軍ナンシーへ(後)
8月12日。普騎兵第4師団に対しては前述通り「リュネヴィル(ナンシー南東22キロ)並びにナンシーまで遠征し偵察せよ」との命令が下りました。
陶磁器で有名なリュネヴィルの街へ向かったのはユサール帽にドクロの徽章(のちにナチス親衛隊が「マネ」して有名となります)が目立つ驃騎兵第2「親衛第2」連隊の1中隊で、慎重に接近した中隊は街の周辺及び市街地に敵兵を全く見なかったため、大胆にも援軍を呼ばず中隊だけ(100騎程度)で入城、仏軍の落伍兵(主に負傷兵)を捕虜にすると「小ヴェルサイユ」と呼ばれる美しいリュネヴィル城に入ったのです。
中隊長のアウガスト・ハンス・クレメンス・フォン・ポンセ大尉は市長と面会し、市長は「街と市民の保護を条件に降伏し、独軍の要求一切に応じる」との皇太子宛の書状と市の象徴「黄金の鍵」を渡したのでした。大尉はリュネヴィルが「無血開城」されたことを伝えるために伝令を走らせ、驃騎兵中隊は街の東郊外で監視に入るのでした。
プロシア驃騎兵第2連隊の兵士たち
ポンセ大尉
騎兵師団本隊の方はデューズ(ナンシー東北東40キロ)の南をナンシーへ走る街道を進み、この日(12日)はモワンヴィック部落(デューズ西南西10キロ)周辺で野営します。
また、この部落の東側、デューズへ至る街道の南にある本格的な星形稜角要塞、マルサル要塞(モワンヴィック東北東3キロ)に降伏勧告の書状を持たせた軍使を走らせましたが、これは要塞から拒絶の射撃を受け、軍使はやむなく引き返したのでした。
このマルサル要塞は現在でもその形が確認出来る南北に分派稜角を持つ星形の要塞で、ナンシーの東側「玄関」という重要な位置と塩の産地として有名なこの地方を護るため、ファルスブール等と同じくルイ14世が街を要塞化したものでした。
ところで、この騎兵第4師団に属する竜騎兵第5「ライン」連隊は、小隊単位まで細分化されて7月19日の宣戦布告以来プファルツ地方各地を飛び回り、B第2軍団第4師団や独第二軍を助けてプファルツとアルザス国境付近で偵察・敵地浸透・鉄道などの破壊工作に従事していましたが、8月6日ツヴァイブリュッケンに集合し、翌7日、師団に合流すべくサール=ユニオン目指して行軍します。この日遅くにヴルトの戦いの結果を知るといち早くビッチュ方面を偵察し、マクマオン軍の敗残兵を狩ることを期待しますが、運悪く仏兵には遭遇しませんでした。
このビッチュ要塞に接近し過ぎた第4中隊が、要塞からの激しい銃砲撃で9名の戦死傷者を出すという失態もありましたが、連隊は同じサール=ユニオンを目指す普第4軍団の第8師団と連絡を取ると歩兵師団に追従して前進、サール=ユニオンに至ります。
この地で師団本隊が更に西へと向かったのを知った連隊長ライト大佐は、連隊をデューズまで進めて、この12日遂にデューズで師団の後衛と接触し、およそ一ヶ月振りに師団に合流したのでした。
さて独第三軍の中で、遅れて参加した第6軍団以外唯一ヴルト戦に参加しなかったバーデン(以下Ba)師団ですが、8月8日にブルマートより竜騎兵3個連隊と砲兵9個中隊、更に歩兵半連隊(6個中隊)を馬車に乗せるとストラスブールへと進ませました。特に騎兵は要塞の外周において守備隊と銃撃戦を交え、また、降伏勧告を行いますが、守備隊は降伏を断固として拒絶します。独軍はこれより、アルザスの中心である一大要塞都市を武力を以て陥落させねばならなくなりました。
その手始めにBa師団は遠くリヨンまで通じている鉄道線と電信線を破壊及び切断し、要塞を監視するには理想的なストラスブールの北郊外にあるフェンデンハイム部落を占領するのでした。
8月10日の夕方、Ba師団は大本営在のモルトケ大将から直接命令を受け、その内容は、仏軍の兵士及び軍需品の輸送、特にアルザス南部を経由して届く南仏からの物資輸送を妨害せよ、とのことでした。モルトケは更に「この輸送妨害に最も適した作戦は包囲である。必要な部隊兵員は現在輸送中」とするのでした。
Ba師団はこの後、ストラスブール包囲を行うため第三軍の組織から抜けることとなり、「ヴュルテンブルク=バーデン軍団」は解散となるのです。
予定より早く8月10日中にソウルツからアグノー一帯に集合したヴィルヘルム・ルートヴィヒ・カール・クルト・フリードリヒ・フォン・テューンプリング騎兵大将指揮下の第6軍団(第12師団欠)は11日、第三軍に合流するため軍団砲兵をアグノーに留めて先を急ぎ、前衛はブーウィラーからイングヴィラーまで前進しヴォージュ山脈東端に達しました。
また、第三軍全体の兵站部門もその縦列と共にブーウィラーに至ると、この地からステンブール(サヴェルヌ北東5キロ)間で鉄道を利用しながら物資を集積しました。
テューンプリング将軍は第11軍団長ゲルスドルフ将軍と同じ60歳。普軍騎兵大将の父を持つ軍のエリートで、父と同じくエリート騎兵部隊で従軍し、第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争では第5師団を率いて戦い、66年普墺戦争でもカール王子の第一軍麾下で同じ第5師団長として従軍し、ギッチンの戦いで重要な役割を果たしますが重傷を負ってしまいます(『普墺戦争・ギッチンの戦い』参照のこと)。従ってケーニヒグレーツ戦には参加出来ませんでしたが、普墺戦後に父親と同じ騎兵大将へ昇進すると共に、第6軍団を率いることとなったのでした。
テューンプリング将軍
ここでテューンプリング将軍は皇太子より第11軍団が残していった「宿題」、ファルスブール要塞の包囲を命じられます。
第6軍団主力の第11師団(ヘルムート・フォン・ゴルドン中将指揮)は12日午前3時、ブーウィラーを出発し、ヴォージュ山脈越えを開始しますが、「山間部に狙撃兵が潜んでいる」などの巷の噂を信じて警戒し、またこの日は雨の一日で街道が泥濘となったのでようやく薄暮時に山脈の西側、フェッシュハイム(ファルスブール北北西3.5キロ)に到着します。
またこの日は、後続となった第6軍団砲兵もアグノーからブーウィラーに進みました。
懸案のファルスブール包囲は第11師団傘下第22旅団長フォン・エッカーツベルク少将が担当することとなり、第38フュージリア「シュレジエン」連隊、猟兵第6「シュレジエン第2」大隊、竜騎兵第8「シュレジエン第2」連隊第4中隊、野戦砲兵第6「シュレジエン」重砲兵第1中隊が少将指揮下で別働の支隊となって12日、ファルスブールに接近しました。
要塞の北、東、南から接近したエッカーツベルク支隊はこの夕方、要塞司令官テーラン少佐に対し新たに降伏を勧告しますが、少佐は言下に拒否し、それを予測していたエッカーツベルク少将は午後5時30分、6ポンド野戦重砲6門で砲撃を開始しました。
ところがこれはまるで熊蜂の巣を突いたような反響を呼び、猛烈な銃砲火が要塞から雨霰と発せられ、これがほぼ一晩中続くありさまでした。エッカーツベルク支隊の兵士たちは市街地の適当に頑丈な家々に逃げ込みますが、この日戦死5名負傷13名を一方的に出してしまいました。
これによりテューンプリング将軍は更に軍団砲兵と歩兵第51「ニーダーシュレジェン第4」連隊をファルスブール包囲に投入します。
歩兵部隊は13日、エッカーツベルク支隊に加わり、要塞に対し包囲しながら嫌がらせの銃撃を断続的に行いました。
テューンプリング将軍は工兵のみならず歩兵も使ってフェッシュハイムの南方、要塞を見下ろす高地に臨時の砲台を築かせると、急ぎ山越えをした軍団砲兵と第11師団砲兵を配置させ、14日午前7時、各種砲兵10個中隊60門で要塞を砲撃したのです。
およそ3,000m前後の距離でこの14日午後5時までに発射された砲弾は1,800発に達し、対する要塞からは、大は24ポンド要塞砲2門や大口径臼砲1門など各種合計10門の砲が応射しました。
砲撃後30分で要塞内部に火災が発生し、夕方まで火勢が衰えませんでした。また、51連隊の歩兵が要塞の外壁斜堤まで肉薄し要塞内部に銃撃戦を仕掛けましたが、テーラン少佐は屈せず、再度の降伏勧告も頑強に拒絶するのです。
テューンプリング大将は「野戦戦力では到底歯が立たない」と報告するエッカーツベルク将軍や軍団砲兵部長フォン・ラム大佐の同様意見を聞き入れ、要塞の早期攻略を諦めました。
要塞は一時第51連隊第1、第2大隊と竜騎兵1個中隊に監視させ、第6軍団主力もファルスブールを離れ、本軍を追ってサルブールへと進んで行きました。残った第6軍団部隊も8月19から20日にかけて到着した後備部隊と交代したのです。
先述の通り第三軍は12日にザール河畔に達しましたが、マインツ要塞から9日にザールブリュッケンへ、更にサン=タヴォルまで前進していた普大本営は12日午後、第三軍に対し「更にモーゼル川に向かい前進せよ」と命令します。
追ってモルトケ参謀総長の例の書状「詳細説明書」が12日夜に届きます。それによると、
「第一軍はメッス要塞に向かいニード河畔まで、第二軍は第一軍と行動を合わせて第一軍の左翼に連なりシャトー・サラン(デューズの西15キロ)まで前進する」と知らせ、第三軍に対しては、「ナンシーとリュネヴィルを結ぶ線上まで前進せよ。その後の行動は追って達する。輜重は全てマールト川(ナンシーの北で合流するモーゼル川支流)とモーゼル川河畔まで、所属の軍団に追従せよ」と命じるのでした。
13日。第三軍はモルトケの命令に従って行動を起こし、軍の先頭右翼で行動しモワンヴィックまで前進していた騎兵第4師団本隊から分派された前衛は、シャトー・サランで第ニ軍左翼部隊と接触して連絡を付けました。
また同騎兵師団所属第10騎兵旅団(フォン・クロージック少将指揮)と歩兵第95「チューリンゲン第6」連隊の2個中隊は13日朝、マルサル要塞を包囲しその司令官に対し降伏を勧告しますが再び拒否され、所属騎砲兵により要塞を砲撃しますが、仏軍守備隊はたった1発だけ応射しただけで沈黙しました。
普軍騎兵は要塞に対し総攻撃を覚悟しますが、ここでリュネヴィルから前進しナンシーに至った斥候より、「ナンシーの市街地には仏軍兵士が見えず」との報告が入り、騎兵師団本隊がこの13日、更に西行しモンセル(=シュル=セイユ。モワンヴィック西10キロ)に達したため、騎兵第10旅団本隊や歩兵2個中隊は師団を追って西に進み、マルサル要塞に対しては一時的に騎兵1個連隊(4個中隊)が残って包囲し、監視を続けたのでした。
13日、第三軍はデューズとブラモン(サルブール南西21キロ)を結ぶ線上まで進んで、前日の2倍余りの前進正面を作り出しました。
右翼では独り第12師団のみザール河畔フェネストランジェ(サラルブ南17キロ)付近に進み、B第2軍団は前衛をデューズに、歩兵3個大隊と軽騎兵1個連隊をこの13日夕刻にマルサル要塞へ送り、監視業務に就いていた普騎兵第4師団の連隊と交代し、騎兵連隊は本隊を追ってナンシー方面へ向かいました。
左翼では第11軍団がブラモンからアヴリクール(ブラモン北北西7キロ)の線上に達し、驃騎兵第13「ヘッセン第1」連隊が南西に進んでガラス工芸で世界に名高いバカラ(ブラモン南南西16キロ)の街に先行し、付近の電信線を切断しました。
第三軍本営と皇太子はこの日、サルブールへ前進します。
14日朝。第4騎兵師団はナンシー市街に入り、直ちに市街地を占領しました。竜騎兵第5連隊は再び分派され前進し、ナンシーの西側20キロにある要塞都市、トゥール方面からの脅威に備えます。
騎兵たちは市街地を捜索し、敵兵が潜んでいないか、市民に反抗する意図はないか調べましたが、その過程で郵便局に押し入った一隊が最近の郵便物を押収します。その中に10日から13日にかけてのメッス発の郵送物もあり、それによれば、仏軍の大部隊がメッスにあり、独軍が迫っているので一大会戦がすぐにでも発生するだろうこと、シャロンにも仏軍が集合しつつあること等が判明し、情報は直ちに本営に送達されました。
ナンシー市街に流れるマールト川と付近のモーゼル川沿いに捜索を行った斥候騎兵は、フルアール(ナンシー北北西8キロ、モーゼルとマールト川の分岐点)付近の橋梁は破壊されておらず、逆に上流(南西)のポン=サン=ヴァンサン(ナンシー南西郊外)とフラヴィニー(=シュル=モセル。ナンシー南13キロ)付近では石橋が爆破されていることを確認します。
またフルアールから更に下流へ進んだ一隊はポンタ=ムッソン(ナンシー北北西24キロ。メッス南南西24キロ)に至り、この街で第二軍の前衛、ラインバーベン将軍麾下の騎兵第5師団と遭遇し、第二軍が既にモーゼル川に達していることを確認するのでした。
この14日、第5、11、B第2軍団はモワンヴィックからリュネヴィルの線上に達します。第12師団はデューズに、B第1軍団はメジエール=レ=ヴィック(デューズ南南東10キロ)に進み軍の第二線となりました。
この日はリュネヴィルの町に燕麦など飼料が大量に備蓄されていることが発見され、ここを通過する諸部隊の馬匹担当は大いに救われました。第三軍本営は従順に降伏したこの町を軍の一大補給中継拠点とします。
また、マクマオン本軍がシャロンに去り、ファイー軍団が南部のヴォージュ山脈方面に進んだことも確認されたのでした。
この日モワンヴィックに前進したB第2軍団は、マルサル要塞をB軍で攻略することを決心し、B歩兵第7旅団、槍騎兵旅団、軍団砲兵隊(7個中隊)により、要塞を取り巻くように流れるセイユ川に沿って包囲を完成させ、砲兵を南北両面に展開させて砲撃準備に掛かりました。
すると要塞の正門に白旗が掲げられ、それを認めたB軍からは降伏条件を詰めるため要塞司令官に軍使が派遣されました。
結果、要塞は開城され、守備隊は捕虜となり各種大砲60門、小銃3千丁、備蓄された大量の弾薬がB軍の手に落ちました。この大量の武器弾薬はこの要塞がこの地方の補給廠だったためと思われます。
また、守備隊がほとんど無血で降伏した理由の一つが捕虜を調べると納得されました。何故なら捕虜には1名の砲兵もいなかったからで、前日騎兵第4師団に対し、一発しか砲撃を返さなかった理由が分かったのでした。B第2軍団長ハルトマン大将は歩兵第9連隊の1個中隊を要塞守備隊とすると、残りの兵はモワンヴィックへ進めるのでした。
この14日夜には軍の最後尾、第11師団を基幹とする第6軍団がサルブールに、軍本営はブラモンで一泊しました。
翌15日。騎兵第4師団は捜索と休養を兼ねてナンシーに留まり、第5軍団はサン=ニコラ=ド=ポールとロジエール=オー=サリーヌ(どちらもナンシー南東)付近でマールト川に到達しました。
第11軍団はリュネヴィルを発してバイヨン(リュネヴィル南西18キロ)でモーゼル川に達し、この付近ではモーゼルに架かる橋がことごとく落とされていたため、工兵が2本の仮橋を架け、第44旅団と驃騎兵第13連隊に砲兵2個中隊を付けて前衛支隊とし、前衛はこの日マドン川河畔に到達するとアルエ(バイヨン西10キロ)からヴォドヴィル(アルエ南東1キロ)に掛けて前哨を配置するのでした。
その後方では、B第1軍団が前日に第5軍団のいたエンヴィル(=オー=ジャール。リュネヴィル北7キロ)に、B第2軍団がモンセル(=シュル=セイル)へ、W師団がソメルヴィレー(リュネヴィル北西9キロ)に、第12師団がアラクールにそれぞれ到達します。
第6軍団はサルブールで一日停止し休息日としました。第三軍本営はブラモンからリュネヴィル城に入ります。
また、この日は正式に皇太子の指揮下に普騎兵第2師団が加入しました。
この師団は大本営直下の予備としてマインツまで前進していましたが、8月7日に第三軍配属を命じられ、直ちにマインツを発つと11日にヴァイセンブルクで独仏国境を越え、ちょうど第6軍団の通過した行軍路を利用してヴォージュ山脈を越えて先を急ぎ、行軍9日間・140キロ余りを走破して、この15日、サン=ジョルジュに到着したのでした。
8月16日。B第2軍団は堂々ナンシー市街に入城しました。これでこの軍団は第三軍の第二線から前線へと出たことになります。
第5軍団はモーゼル河畔のリシャールメニルとバス・フラヴィニ(共にナンシーの南、フラヴィニー=シュル=モセル北東)に達し、ここでも橋が破壊されていたため、工兵たちは27時間不眠不休で橋を修復し、また架橋中隊が前進して仮設橋を1本架けるのでした。
第11、B第1軍団とW及び第12師団は前日の位置に留まって補給と休息を取り、第6軍団本隊はサルブールからブラモンへ前進しました。
新参の騎兵第2師団はこの日も前進し、「グラスの街」バカラを目指してモンティニー(バカラ北東9キロ)に到達します。この師団がリュネヴィル方面へ進まず南へ逸れて行ったのは、様々な憶測と噂により仏ファイー将軍指揮の仏第5軍団が南部ヴォージュ山脈へ後退した、との説を第三軍や大本営が信じ、念のために第三軍の左翼側面を警戒・援護させたからでした。
一方、騎兵第4師団はその逆側、右翼(北)端に出て、トゥール~コロンベ(=レ=ベル。トゥール南15キロ)街道に到達し、驃騎兵第2連隊から斥候偵察が前方と側面に出され、そろそろ遭遇しそうな仏軍の情報を探りました。
B第2軍団も軽騎兵をナンシーからトゥールやポン=サン=ヴァンサンに派遣し警戒を強めます。
これら斥候とは別にB槍騎兵旅団に対し、前哨中隊をゴンドルヴィル(トゥール北東5キロ)を経てトゥールに進ませ要塞を偵察せよ、と命じられました。
中隊が要塞に近付くと、トゥールの街を流れるモーゼル川とマルヌ運河北岸で銃砲声が起き、戦闘が発生したのを確認するのです。槍騎兵たちはトゥールの要塞南面に急ぎ回り込んで接近しようと街の東郊外でモーゼル川を隔てたドマルタン(=レ=トゥル)の部落に入り、付属の騎砲兵中隊は至急砲列を敷くと2,000m前後で要塞を砲撃しました。要塞守備隊も反撃しますが騎兵たちを害することは出来ず、また騎兵たちも本格的な要塞を攻撃するには力不足で、午後に入ると北面での戦闘も止み、槍騎兵たちも砲撃を止めるとドマルタン部落から要塞を監視し始めるのでした。
1786年のトゥール地図
このB軍槍騎兵がトゥール要塞の北側で見聞した戦闘は、第三軍に属する部隊が行ったものではありませんでした。
それは普第4軍団の前衛が行ったもので、この敵が未だに支配するトゥールの街で、独第三軍と第二軍はしっかり連絡を付けることとなるのです。




