独第三軍ナンシーへ(前)
独第三軍は8月8日と9日、ヴォージュ山脈越えを開始後、次第に南北へ散開しつつ前進し、概ね西方へ向け行軍しました。
独大本営(在マインツ)はマクマオン将軍の退却方向について情報を集約し検討した結果、やはり第三軍本営と同じ結論「メッスにてナポレオン3世と合同するのだろう」と読み誤り、第二軍の左翼(南側)に命じ「マクマオン軍の進軍方向(メッス)の前方(南側)へ先着せよ」としたため、当初第三軍右翼(B軍と第12師団)が目標としたロアバッハ(=レ=ビッチュ。ビッチュ西10キロ)は第二軍の第4軍団の通過点となり、行軍路が重なってしまいます。これにより、B軍はロアバッハ周辺の道路を第4軍団に譲るため南方のディエムランジャン(独名・デーメリンゲン。ロアバッハ南西12キロ)へ転向することとなりました。B軍と並び同じ経路で進んでいた第12師団は、第4軍団と右翼で連絡しつつ「もしもの時は」援軍となるため、予定通りロアバッハを目指して進んだのです。
この影響で第三軍全体の進軍方向は、当初の北西方向から「概ね西」へと変化しました。そしてこの方向が奇しくもマクマオン軍の「逃走経路」と一致するのです。
第三軍本営は8日午後、ソウルツ(=ス=フォレ)から第11軍団の行軍領域であったメルツヴィラー(レッシュショフェン南6キロ)に移動していました。その皇太子の下に10日午前3時、大本営より次の電文命令が届いたのです。
「第一並びに第二軍は10日、モーゼル(仏・モセル)川に向かい前進を開始する。第三軍はその左翼を形成し、サール・ユニオンからデューズ(サルブール北西26キロ)の線上まで進軍せよ。騎兵はその前面に広く散開し敵を警戒しながら前進すること」
更にこの日の午後、シュタインメッツ、カール王子、皇太子と三人の軍司令官宛に大本営から使者が到着し、モルトケ参謀総長の「詳細説明書」なる命令書が手渡されました。
「軍司令官各位
ザールブリュッケンにて 8月9日午後8時発令
大本営が手に入れた情報によれば、敵仏軍はモーゼル川もしくはセイユ川の後方(西)に退却した模様である。
全軍はこの敵の運動に追従する。
第三軍はサール・ユニオンからデューズ及びそれ以南の諸街道を、
第二軍はサン=タヴォルからノムニー(ナンシー北20キロ)及びそれ以南の諸街道を、
第一軍はザールルイからブレ=モセル、レ=ゼタン(両方ともメッス~サン=タヴォル間)及びそれ以南の諸街道を、それぞれ使用せよ。
行軍中の警戒には騎兵を用い、本隊前方に距離をおいて進めよ。また前衛を組織して騎兵を援助し、敵の攻撃時において本隊集中までの時間を稼ぐようにせよ。
敵の陣地またはその運動により前記の行軍路に変更の必要が生じたならば、ヴィルヘルム(国王)陛下のご命令が必ずあるものと心得よ。(つまりは勝手に動くな)
第一と第二軍は8月10日を以て休息日もしくは行軍路から離れた諸隊を指定した街道口に移動させる一日とせよ。
全軍の左翼部隊(第三軍)はザール川到達に8月12日まで必要とする見積もりであるので、右翼の諸軍団(特に第一軍傘下)は一日の行程を比較的短くすること(つまりはゆっくり行軍し突出を避けろ)が必要である。 モルトケ」
※( )内は筆者の注。
この命令により第三軍の中央諸隊は進軍方向をやや左(南西方向)へと転じ、W師団は10日アダムスヴィラー(サール=ユニオン南東8キロ)に進み、第5軍団はウェイエ(ラ=プティット=ピエール西11キロ)付近に到着します。その前方には第二軍傘下の第4軍団の騎兵部隊が既に北方より南下しており、フェネトランジュ(サルブール北8キロ)からサルブールに至るまでを偵察中で、図らずも第5軍団の「露払い」をしているような形となっていました。
ところで、「ヴルトの戦い」最中に激戦地のエルザスハウゼン付近で重傷を負ったユリウス・フォン・ボーズ中将(残念ながら傷は重く、本戦争中には復帰適わず、戦後軍に復帰し晴れて大将に昇進しました)に代わり、第11軍団長には傘下の第22師団長だったヘルマン・コンスタンチン・フォン・ゲルスドルフ中将が就き、第22師団長には第44旅団長のオットー・フォン・シュコップ少将が就きます(それぞれ7日発令)。
ゲルスドルフ将軍
ゲルスドルフ将軍は当時60歳。16歳で士官学校に入校すると18歳で卒業し少尉として軍歴をスタートさせ、30半ばで今戦争ではヴュルテンブルクやバーデン軍を率いたヴェルダー将軍やケーニヒグレーツで戦死するヒラー・フォン・ゲルトリンゲン将軍と共に交換士官としてロシア軍に送られ、コーカサスで匪賊と戦いロシアの勲章を獲ています。二つのシュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争で戦い、64年の戦争から第11旅団を率いて功績を上げ、普墺戦争でもマンシュタイン将軍の第6師団傘下として活躍し、戦後第22師団長、追って中将に昇進し普仏戦争を迎えました。
なお、10日には第5軍団長のフォン・キルヒバッハ将軍が、開戦以来の活躍を認められ歩兵大将に昇進しています。
第11軍団は第三軍の最左翼として8月9日、アットマット(サヴェルヌ北東7キロ)とドッセンハイム(=シュル=ザンセル。アットマット北北西2キロ)まで到達しますが、先の大本営命令により急ぎ12日までにサルブールへ至り、その行軍路となる街道の中ほどにあるヴォージュ越えの要衝、ファルスブール(独名・パルツブルク)の要塞も包囲し出来れば占領することになりました。
これに従いゲルスドルフ新軍団長は10日、第21師団と軍団砲兵を率いてアットマットを発し、街道沿いに進軍してツァーベルンを通過、ファルスブールの東隣村落ダンヌ=エ=キャトル=ヴァンに達すると要塞周辺に斥候を出すのでした。
第22師団はシュコップ新師団長に従ってドッセンハイムからゼルロフの街道(現・オベルオフ通り)を行き、エッシュブールからファルスブール北方のメッタン(独名・メッティング)方面へ進みます。その後方からは山越えを開始した騎兵第4師団が続きました。
翌11日。ゲルスドルフ将軍の下には各斥候からの偵察結果が続々と集まりました。それによると、ファルスブール要塞は戦闘準備が万端整って食料や武器弾薬も充実し、守備隊は1,200名余りと判明します。
このファルスブール要塞は、現在も往時の面影を残すファルスブールの市街地中心にあった幅700mあまりの星形稜角要塞でした。
これはヴォージュ山脈北部に点在する中世以来の山城とは違い、近代的防御構造が施された本格的な要塞で、16世紀中頃にファルスブールの街は基礎が造られた後、1679年、ルイ14世の命令であの「要塞造りの巨匠」ヴォーヴァンの手により難攻不落の要塞として生まれ変わりました。
現在は、旧要塞を中心とした半径1キロほどのやや楕円に近い円形をした市街地ですが、当時は要塞の東側にも城壁を持った市街地が広がり、現在よりも大きな城塞都市の形をしています。
ヴォーヴァンのファルスブール要塞プラン
この要塞を守備していたのは戦列歩兵第63連隊第4大隊(注・第4大隊は要塞や都市の内国警備大隊。『開戦直前のフランス軍・一』を参照のこと)を中心に、護国軍の定員割れした一個大隊、砲兵50名ほど、そして第1軍団の敗走兵で要塞に居残ったおよそ200名等々を加えた寄せ集めの兵員、合計1,252名だった、と開城の際の仏側資料にあります。
しかし要塞指揮官は仏63連隊所属の正規士官、勇敢で一筋縄では行かない強情者の第4大隊長、テーラン少佐でした。
ゲルスドルフ将軍は11日の昼前後、ファルスブール要塞を町ごと包囲し、それが完了すると直ちにテーラン少佐に軍使を送り、降伏を勧告します。しかし少佐は決死の覚悟を披露するや降伏をきっぱり拒否するのでした。
そこでゲルスドルフ将軍は威嚇のため砲兵に要塞砲撃を命じ、軍団砲兵部長のハウスマン少将は前衛の砲兵に要塞に向け数射砲撃を行わせます。
すると今度は仏側から軍使が現れ、ゲルスドルフ将軍に宛てたテーラン少佐の書状を恭しく手渡しました。これで降伏かと将軍が書状を開かせると、そこには一言、
「本官は貴官の砲弾を受領致しました」
ゲルスドルフ将軍は眉をひそめると、ハウスマンに対し「全軍団の砲兵を差配して要塞に対し本格的な砲撃を行え」と命じるのでした。
ハウスマン将軍は直ちに、第21師団砲兵と11軍団砲兵とを集合させ砲列を敷かせると薄暮の中、60門以上の各種大砲で砲撃を開始しました。
要塞も負けじと応射しますが、その数は10門だけ、とても独側の砲撃には適いません。一方的な砲撃は45分間に渡り続き、合計1千発の榴弾が要塞に撃ち込まれますが、日は暮れ闇が迫り、しかも大雨が降り出したためハウスマン将軍は砲撃を中止させるのでした。
結局、大雨と夜闇で視界が閉ざされたため砲撃の効果は判明しませんでしたが、野戦砲兵では本格的な要塞に対する効果などたかが知れています。ゲルスドルフ将軍は雨の中、既に包囲を解いた21師団を街道西の次の部落ミテルブロンヌまで前進させ、そこで野営を命じたのです。砲兵部隊もこれを追って要塞の前面から去って行きました。
また、11軍団の片割れ、第22師団はこの11日夕刻、予定地メッタンに到着し野営を始めるのでした。
翌12日。ゲルスドルフ将軍は雨の中21師団と共にサルブールへ入場し、追って第22師団もサルブール近郊に到着します。
ファルスブール要塞の攻略は、第11軍団の後方東から西進する第6軍団の第11師団らに委ねられたのでした。
これ以前のこと。
10日にメルツヴィラーを出た第三軍本営は、北ヴォージュ山脈西側出口のペータースバッハ(ラ=プティット=ピエール西4キロ)に移動しました。この地で第二軍所属の第4軍団より電信連絡が入り、「第4軍団は11日、サール=ユニオンに滞在することとなった」とのことでした。
先に進軍路の東端を「取られた」皇太子は仕方がなく、ザール川に向かう前進領域を一時的に縮小、騎兵第4師団に対し「サルブールを経て西へ急ぎ、リュネヴィルとナンシー付近を偵察せよ」と命じ、第11軍団には「サルブールを越え騎兵第4師団に続け」と命じるのでした。
騎兵第4師団は11日、エマン(独名・ヘミング。サルブール南西6キロ)の街道交差点に到達すると、驃騎兵第2『親衛騎兵第2』連隊を歩兵第95連隊から分派された2個中隊と共に前衛として先行させ、リュネヴィル街道沿いのサン=ジォルジュ部落(エマン南西4キロ)を占領し、また槍騎兵1個中隊はサルブールの北西およそ5キロのランガットまで進出したのです。
仏軍は普軍騎兵の前進を認めると、各地で後衛が橋梁を破壊し始めます。
騎兵部隊到着の寸前に仏軍後衛によりザール川から分岐する運河に架かる橋が爆破されたディアンヌ・カペル(サルブール西8キロ)では、第11軍団工兵隊から架橋部隊が前進し、12日の午前中に舟橋を架設しました。この作業時に工兵たちは爆破音を数回聞いており、付近の橋が次々と爆破されているらしいことを報告したのでした。
騎兵第4師団の後方ではこの12日までに第5、11、B1、B2の各軍団と第12、そしてW師団がサール=ユニオンからサルブールの線上まで前進し、ザール川の線まで到達するという目標を達成します。
しかしその行軍は決して計画通りではありませんでした。
前述の通りサール=ユニオンには第二軍に属する第4軍団が先に進出してしまったため、前進に使える街道は一本少なくなり、また前進出来る地域が狭くなってしまい、皇太子は渋滞と混乱を避けるために仕方がなく、第二軍との境界で軍の最右翼を進んでいたB第2軍団と「独立」第12師団を、前者はローレンツェン(サール=ユニオン東北東6キロ)、後者をその南隣の部落ディエムランジャンにて11日、一日停止・休息させるのでした。
この影響は11日にビシュトロフ(・シュル・サール。サール=ユニオン南南西4キロ)に先着していたB第1軍団にも及び、B第1軍団は、後方で停滞するB第2軍団と第12師団のために行軍路を空け渡すため、12日、ザール川伝いにビシュトロフから上流のベットボルン(サルブール北7キロ)まで一気に移動しました。
その北側、フェネトランジュには前日11日にサール=ユニオン手前で止められたB第2軍団がB第1軍団を追う形で行軍して来ます。また、サール=ユニオンから第4軍団が西へ出発したため、第12師団はこの12日、ようやくサール=ユニオンに到着するのでした。
第5軍団は12日、サラルトロフ(サルブール北4キロ)周辺に到着し、W師団はその北東後方4キロのラウウィラーに到着、第11軍団は先述通りサルブールに入城しました。
この12日には、遙か後方を進む各輜重縦列に対し、ザール川沿岸まで前進せよとの命令も下りました。
このようにザール河畔進出を果たした第三軍ですが、休む間もなく次の目標、モーゼル(仏・モセル)川に向かうための準備行動に移るのです。




