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開戦前夜~ガスタイン協定


 第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争の結果、プロシア王国内の空気は一変します。


 元より「ドイツ人の土地」であるシュレスヴィヒ=ホルシュタインを長年「非道にも」デーン人が自分たちのものとして占有していた状況を、ヴィルヘルム1世とビスマルク率いる政府がドイツ人の手に取り戻すため、「仲の悪い」オーストリアと手を組んでまでデーン人を懲らしめ、ドイツ人の土地が解放されて戻って来た、と。


 こうなってしまうと、国民などゲンキンなものです。


 昨日まで自由主義の敵やら民族主義を潰す悪魔やら散々に言われていたビスマルクや軍部も、たちまち英雄と讃えられました。今やビスマルクはプロシア王国の行く末に重大な影響を及ぼす「舵取り」となり、軍部はおろか国王までも「操縦」するようになって行きます。


 しかし、ビスマルクはこんなもので満足などしていません。彼の目的はあくまでプロシアを頂点とするドイツの統一、即ち「小ドイツ主義」の完成でした。


 ヴィルヘルム1世王を「オーストリアを追い出した後のドイツ連邦」即ちビスマルクが夢見る「小ドイツ」の「皇帝」にする。今や自由主義者もドイツ統一の大きな「うねり」がビスマルクを中心に起きつつあるのを感じ取り、反政府の動きは一時的に控えめになったかの様相を呈します。旧・カマリラや軍部内の極右にあった「議会にすり寄り反墺を潜ませる首相とローン陸軍大臣」への反感も多少は静まりました。

 しかし少しは言う事を聞くのではないか、と一年ぶりに開かれた議会において反政府・反王室の動きは相変らずで、軍事に重きを置いた予算案は不成立となってしまいます。ビスマルクは期待を裏切られがっかり、ヴィルヘルム1世もカンカンで再び強権発動により議会は閉会。王の専制による国政「無予算統治」が再開されました。


 ビスマルクは小ドイツ主義の完成こそ絶対王政を守る早道、と気を取り直し次の策謀へと考えを巡らすのでした。


☆ シュレスヴィヒ=ホルシュタインの普墺分割


 ウィーン講和条約で3つの公国(シュレスヴィヒ、ホルシュタイン、ザクセン=ラウエンブルク)を獲得した普墺両国は、その地域(3公国を総じて俗に「エルベ公国」と称します)の支配を確定するまで2名の政府委員を通じて共同統治することにします。

 ウィーン条約の発効を期に、戦争中からラウエンブルクとホルシュタインで暫定管理を行っていた普墺以外のドイツ連邦は撤退することとなり、シュレスヴィヒ公国北部、ユトランド半島東側・クリスチャンフェルドとコリングの間と半島の西・元々デンマーク領の飛び地リーベを囲む僅かな部分がデンマーク領として残され、更に北フリージア(独名/フリースラント)諸島のレム島とマンデ島の間に国境が引かれ、それより南側の旧シュレスヴィヒ公国領は全てドイツ連邦に属することとなります。


 ここに至るまでの「エルベ公国」の推移を「おさらい」しておきましょう。


 シュレスヴィヒ、ホルシュタイン、ザクセン=ラウエンブルグ三つの公国は1864年の戦争以前、デンマーク国王の私的な支配領域(デンマークとの同君連合)という位置付けでした。

 しかしホルシュタインとラウエンブルクはドイツ連邦の一員としてデンマーク、ドイツ連邦双方から認知されており、この二公国において国主であるデンマーク国王は「ドイツ連邦内の一公爵」と見なされました。またシュレスヴィヒでデンマーク国王は「デンマーク王国からは憲法上独立した公爵」とされ、つまりのところデンマーク国王は三つの公国の「封建領主」となっていたのです。

 とはいえ、一般的に三公国は事実上デンマークの「領土」、即ちデンマーク王国の下、自治領同等な立場と見なされていました。モルトケの父がホルシュタインの土地を得るため家族共々国籍変更した時、「ホルシュタイン公国籍」ではなく「デンマーク国籍」に変更した、と記される理由はここにあります。

 しかし言語面から見ると、ラウエンブルクは完全なドイツ語圏、ホルシュタインも殆どがドイツ語圏、シュレスヴィヒのみ南部がドイツ語優勢、北部がほぼデンマーク語圏、中央部と北フリージアでデンマーク語、ドイツ語、北フリージア語が混在しており、ドイツ語を話す住民が多数の地区ではデンマーク王国に対する反感が強く、言語が混在するシュレスヴィヒでは違う言語を話す住民の間に目には見えない感情的な対立がありました。


 第一次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争でドイツ連邦の進出を防いだデンマーク王国は、1855年の憲法改訂によりシュレスヴィヒの「デンマーク化」を一段と押し進め、これはホルシュタインにも適用されるものでしたが、ホルシュタイン「州」は「ドイツ連邦」の立場で58年にこの憲法を拒絶していました。

 そしてデンマークは63年11月に「11月憲法」として名高いシュレスヴィヒをデンマーク王国憲法の下に置くというロンドン条約(ロンドン議定書とも呼ばれます)違反を犯すのです。


 これは振り返って見れば国内に難題が山積し王権が危機に瀕していた普王国、というよりビスマルクには願っても無い「外敵」を作り出してくれるのでした。

 シュレスヴィヒ=ホルシュタインの問題はプロシア王国単一の問題ではなく、ドイツ連邦全体に影響する「ドイツという民族のアイデンテティに関わる問題」だったため、簡単に炎上し63年12月の、いわゆる「ドイツ連邦によるホルシュタイン=ラウエンブルクの保護占領」がザクセン軍とハノファー軍により執行されます。流血少なく簡単に占領された両公国はザクセン王国のエドゥアルト・フォン・ケーネリッツとハノーファー王国のフェルディナント・ニーパーが連邦代表委員として派遣され統治を行います。しかし、抜け目なくホルシュタインに現れたアウグステンブルク家の御曹司・フリードリヒ8世は当地住民の絶大な支持を背景にシュレスヴィヒ=ホルシュタインの国主、即ち公爵を名乗って取り巻きを州政府の主要部門の長に指名し州政府の実権を握ってしまったのです。


 ホルシュタインに居住するドイツ系住民の大多数がアウグステンブルク家の公国支配を熱烈に支持したため、普墺両国、特にプロシアはひとまずホルシュタインの統治をドイツ連邦とフリードリヒ8世に任せ、シュレスヴィヒ奪取を目指すための後方連絡として重要拠点となるアルトナ~ノイミュンスター~キールを結ぶ街道と沿道の主要部落を占領すると普墺連合軍により直接支配するだけに留まったのでした。


 その後、シュレスヴィヒに侵攻した普墺両国は結局ユトランド半島全域とアルス島の占領に成功、休戦に至り本格的な講和協議が開始されると「戦後」にエルベ公国をどのような立場に置くか、ドイツ連邦内で激しい議論が巻き起こります。


 戦争前に保護占領されていたホルシュタインとラウエンブルクでは連邦による支配が続いており、これはフランクフルト(アム=マイン。当時はハンザ同盟に由来する都市領邦でした)に置かれたドイツ連邦議会の議決により執行されていたため終了するには同じ議会の議決を必要としました。

 このエルベ公国の行く末を決めようと開かれたウィーン講和条約調印後の連邦議会で、実際の保護占領を主導し統治も行っていたザクセン王国はプロシア王国が提案していた「普墺両国によるエルベ公国領有」に断固反対し、対するプロシア王国は、連邦の保護占領軍となっているザクセン軍とハノーファー軍の早期撤退を要求しました。微妙な立場なのはオーストリア帝国で、反プロシアのザクセンやヴュルテンベルク王国を宥めつつ「普墺による割譲・領有は一時的な措置であり、後に連邦議会で解決を図る」と発言しました。

 連邦内では成金的で豪腕なプロシアより、大国でありながら「より穏健な」オーストリアの意見が通りやすく、「オーストリアがそう言うのなら」と普墺側の意見に傾く領邦が増え、結果、多数決により「普墺による暫定的な統治」が認められた(64年12月5日)ため、それまでホルシュタインとラウエンブルクに駐留していたザクセンとハノーファー軍による独連邦「南軍」は解散・撤退し、入れ替わりに普墺軍が平和維持の名目で入領しました。

 この段階で普墺はそれぞれ民政委員を任命して占領地の統治を任せます。この民政委員はオーストリアからフリードリヒ・レヴェルタ・フォン・ザランドラ伯爵が、プロシアからはコンスタンティン・フォン・ザイドリッツ=ノイキルヒ伯爵が指名され現地入りしました。


挿絵(By みてみん)

ザイドリッツ=ノイキルヒ


 「おさらい」はここまでとして。


 この「普墺によるエルベ公国の支配」はあくまで三公国の立場がはっきりするまでの暫定措置と目されますが、ウィーン講和条約が成立すると、それまでは「敵の敵は敵」とばかりに同床異夢・呉越同舟状態にあった普墺両国の関係も元通り雲行きが怪しくなって行ったのでした。


 普墺両国はデンマークが11月憲法によりシュレスヴィヒを単なる「州」と見なして事実上領土としたことはロンドン議定書に反する国際協定違反と声高に非難し、これを開戦理由としましたが、普墺は戦争勝利の暁に成立させるとした「新」シュレスヴィヒ公国との間で旧国家体制に復帰させるための誓約書を取り交わすことを申し合わせていました。

 オーストリアはこの「旧に復する」路線を堅持しようとしていましたが、プロシア、というよりビスマルクは更に「その先」を狙っており、デンマークとの開戦直後(64年2月初頭)に行われた閣僚会議において「本戦争はエルベ公国を我が王国に併合するための一過程である」と発言していました。ビスマルクは独連邦がホルシュタインとラウエンブルクを保護占領し、アウグステンブルク家長子のフリードリヒ8世がしゃしゃり出た際にも「後にエルベ公国がプロシア王国に隷属すると言うならば」とアウグステンブルク家による一時的支配を黙認していたのです。


 その後シュレスヴィヒ全域が普墺により占領され、民生委員が執務を開始した際に普墺は「シュレスヴィヒはデンマーク王国の11月憲法を無効とする」と宣言しますが、シュレスヴィヒの各教区の多数は「普墺による支配よりは」とアウグステンブルクのフリードリヒ8世が公国の主となることに賛成する、と表明しました。しかし、これに対する民生委員の反応は「弾圧」で、いかなる政治運動も禁止する、として集会やビラ配りなどを摘発するのでした。


 この時、普墺以外の独連邦各国の大多数が、アウグステンブルク家によるエルベ公国の支配と「立憲君主制」による中流国家を目指すことに好感と支持を示していました。しかしこれを許さない態度を堅持する普墺(というよりデンマークとの講和前はプロシアに同調するしかないオーストリア)は様々な圧力を各国に掛けて「アウグステンブルク家の者が連邦に参加することを歓迎する」との法案を葬り去ることに成功してしまいます。

 ドイツ連邦で普墺に次ぐ力を持つバイエルン王国は元よりオーストリア帝国に近い国情があり、更に新しい国王が即位したばかりで、その新王ルートヴィヒ2世*は施政の端初からドイツ連邦を分裂させるというような大それたことは避けようと考えたものか沈黙し、普墺の風下に立ったのでした。


※バイエルン国王ルートヴィヒ2世はこの戦争中の64年3月10日、父王の崩御によって18歳で即位します。前年には王太子としてビスマルクの謁見を受け、両者はその後一度も会うことはありませんでしたが互いに好感を抱いたと言われ、ビスマルクは執務室にルートヴィヒ2世の肖像画を飾り、ルートヴィヒ2世もビスマルクに対し生涯尊敬と友情の念を抱いていた、と伝わります。これも判断に影響したのかも知れません。


 こうしてウィーン講和条約が成立し、前述通り普墺はドイツ連邦覇権の争いを再開するのです。その結果、1865年に入ると「エルベ公国」を巡る普墺の意見不一致は次第に表面化して行きました。


☆ ガスタイン協定


 プロシア王国はエルベ公国の最終決着として丸ごと全ての領有、即ち普墺による分割併合を希望しますが、オーストリア帝国はドイツ連邦に参加する三公国統一した独立国家である「本物のエルベ公国」の成立を希望していました。オーストリアは内心この統一公国の国主にアウグステンブルク家のフリードリヒ8世を充てたいとも考えていました。

 オーストリアとしてはエルベ公国内でも根強い支持がありプロシア王国とその「取り巻き」小邦以外独連邦でも望む国が多いアウグステンブルク家によるエルベ公国所有によりプロシアの勢力拡大を防ぎ、ドイツ連邦におけるイニシアチブを握り続けようという魂胆でした。

 プロシア王国でもフリードリヒ王太子や自由主義派がアウグステンブルク家擁護を訴え、その声を無視することも出来なかったビスマルクは65年2月に一見譲歩して「プロシア軍部隊の駐留と庇護の下アウグステンブルク家による公国支配を認める」としましたが、これは完全な独立ではなく併合された上での制限された自治州のような立場だったためアウグステンブルク家のフリードリヒ8世やオーストリア政府は猛反発し、政府系新聞や偏向された伝聞に踊らされたプロシア世論は次第に反墺色を濃くして行きます。

 ビスマルクの本心は「オーストリアを除外しプロシアを核とする小ドイツ成立」への道程にエルベ公国の領有を含ませる、というものです。彼にとってシュレスヴィヒ=ホルシュタインはプロシア王国と北欧との間にある緩衝地帯であり、その人口100万超はオーストリアと対抗する大切な人的資源なのでした。


 この対立を回避しエルベ公国の行く末を決めるため、普墺両国は墺本国のバート・ガスタイン(ウィーンの南西271キロ)で会議を持つことに合意します。


 1865年8月上旬、アルプス山脈東峰の温泉保養地ガスタインにビスマルクとオーストリア帝国の全権公使、男爵オットー・パウル・ユリウス・グスタフ・フォン・ブロメがやって来ます。オーストリア帝国ではそれまでエルベ公国問題に取り組んでいたベルンハルト・フォン・レッヒベルク外相(プロシアの伸張には反対だがアウグステンブルク家の復活にも内心反対だったと言われます)が関税問題解決失敗の責を負って辞任し、それまで親墺国の駐バイエルン全権公使を務めていたブロメ男爵がこの問題に取り組む責任者となっていました。


 交渉の核心となったのは、ドイツ連邦の影響無しにエルベ公国を普墺両国だけで分割・領有するというプロシアの主張で、11の課題を両国で明確にして方針を定め、これは会議会場となったホテル・シュトラウビンガー(現/バート・ガスタイン歴史センター)にて8月14日に協定書に署名され交換されます。8月19日には両国政権からの承認を受け、正式に発効しました。


挿絵(By みてみん)

 ブロメ


挿絵(By みてみん)

ガスタインのホテル・シュトラウビンガー


※ガスタイン協定条文


第1条

 1864年10月30日ウィーンにおける講和条約第3条によって高位締結国(オーストリア帝国とプロシア王国)が共同で獲得した権利の行使(エルベ公国の割譲)は高位締結国の権利を害することなく継続し、プロシア国王陛下はシュレスヴィヒ公国に関する権利を、オーストリア皇帝陛下はホルシュタイン公国に関する権利をそれぞれ行使する。


第2条

 オーストリア帝国とプロシア王国はドイツ連邦海軍を創設しキール港を連邦海軍母港に指定する。ドイツ連邦が関連法案を可決・施行するまで、両国の海軍は同港を使用しプロシア王国は軍港の指揮と警察権を行使する。プロシアはキールへの入港口であるフリードリヒショルト(キール市街の北北東8.7キロ)を防御するため要塞を建設しホルシュタインで軍港開設に適した湾に海軍施設を設置する権利を保有する。この要塞と施設もプロシアの指揮下に置かれる。プロシア海軍とその駐屯地、港湾警備に要する将兵はキール及びその周辺部で宿営地を設けることが出来る。


第3条

 オーストリア帝国とプロシア王国はレンズブルク要塞を連邦要塞とすることをフランクフルト議会(連邦議会)に申請する。


第4条

 本協定の第1項により規定される割譲地分割の期間中、プロシア王国は(飛び地となるシュレスヴィヒへの通行のため)ホルシュタイン領内を通過する軍用補給路二本の通行権を有する。その1はリューベックからキールに至り、その2はハンブルクからレンズブルクへ至るものである。


第5条

 プロシア王国はキールとレンズブルクとを連絡する電信線を管理し、ホルシュタイン領内を通過する鉄道二路線を郵便列車並びに郵便官吏の往来に使用する権利を有する


第6条

 (シュレスヴィヒ=ホルシュタインの関税に関する取り決め)


第7条

 (ホルシュタイン領内に運河を開く権利をプロシアが持つ件)


第8条

 (シュレスヴィヒ=ホルシュタインの戦費賠償に関する規定)


第9条

 オーストリア皇帝陛下は、ウィーン条約で獲得したザクセン=ラウエンブルク公国の権利一切をプロシア国王陛下へ譲渡する。代価としてオーストリアはプロシアより250万ターラーを受け取る。


第10条

 両公国の統治を普墺に分離する件は本協約の批准後直ちに準備着手し本年9月15日を以て実行する。従前の同意により普墺共同で兵備を配していた件について、プロシア王国はホルシュタイン領内の、オーストリア帝国はシュレシヴィヒ領内に配した兵備を9月15日までに撤退させること。


 第3条でホルシュタインとシュレスヴィヒの国境にあるレンズブルク要塞を連邦要塞としたことにより、普墺は1年毎に指揮権交代(要塞兵も同時に交代したはずです)を行う取り決めをしました。


挿絵(By みてみん)

レンズブルク要塞(1862年)


 この協定によりアウグステンブルク家によるシュレスヴィヒ=ホルシュタインの統治は夢と消え、当座は普墺両国による直接支配が始まることとなります。フリードリヒ8世はシュレスヴィヒ=ホルシュタイン公爵位の放棄を強いられ失意の内にキールを去り、一私人としてチューリンゲンのゴータに本拠を移し、シュレスヴィヒのプリムケナウ(現・ポーランドのプシェムクフ。ベルリンの南東200キロ)に城館を築き地方領主並みの静かな余生を送るという憂き目に合いました。


挿絵(By みてみん)

フリードリヒⅧ・フォン・アウグステンブルク


 この状態は決してオーストリアが望んだものではなく、プロシア、特にビスマルクの外交術に踊らされた結果と言えます。


 エルベ公国全てを領有するという野心を垣間見せるビスマルクを抑えるためにはある種の妥協が必要で、オーストリア政府と皇帝はプロシアが自らの国境を接するホルシュタインではなく、デンマークと国境を接し「飛び地」となるシュレスヴィヒを与え、ラウエンブルクの支配権を「売り渡す」ことでビスマルクを大人しくさせ(領土が約55平方キロメートル拡大、ヴィルヘルム1世はプロシア王国と同君連合統治で「ラウエンブルク公爵」の称号を加えました)、こちらも本国とは遠い飛び地となるホルシュタインを統治しつつプロシアの動きを牽制することが出来る、と考えたのです。

 しかし、飛び地となったシュレスヴィヒを与えたことでプロシアが有利となる見返りも発生し、それはガスタイン協定で明記されている「キール軍港の支配権」と「軍用通行路の使用権」で、これら権利を得たことはビスマルクの大きな「得点」でした。


挿絵(By みてみん)

ガスタインのビスマルク

(オーストリアのオペラ歌手パウリーナ・ルカとガスタインで)


 協定成立から1ヶ月後の9月19日。

 プロシア王国シュレスヴィヒ「州」とオーストリア帝国ホルシュタイン「州」には普墺それぞれ新たな「総督」が就任します。

 ホルシュタイン総督には、1年前の戦争で墺軍を指揮したルートヴィヒ・フォン・ガブレンツ中将が、シュレスヴィヒ総督には、それまで軍事内局長官としてヴィルヘルム1世に傅いていたエドウィン・フォン・マントイフェル少将が、それまでの民政委員に代わり州のトップとして派遣されました。

 ホルシュタインでは「民政長官」職が残って新たにレオポルド・フォン・ホフマンが本国より赴任し行政を取り仕切り、それまでアウグステンブルク家を支持していた「公国政府」の役人が多数留任します。

 しかしシュレスヴィヒでは総督が直接行政を取り仕切り、それまでの民政長官フォン・ザイドリッツ伯爵は総督に隷属することになったのです。


 しかし、ガスタイン協定は表向き普墺の対立を解消するための妥協でしたが、悪知恵働くビスマルクにとっては普墺間の緊張を高めるための「誘発剤」として機能することとなるのです。


 ビスマルク自身、ガスタイン協定について「ひび割れ接着剤」と呼んだほどで、協定に署名した時の気持ちを問われた彼は「とても歓喜する気分になれなかった」と告白しています。

 ガスタイン協定は直ちにドイツ連邦各邦へ伝えられますが、中小の加盟国では評判がすこぶる悪く、特にアウグステンブルク家によって統治される独立国「エルベ公国」として連邦の一領邦となることを希望していた各国から、プロシアに「唆されて」協定を結んだオーストリアに失望したとの声が上がり、連邦の盟主としてのオーストリア帝国の権威は低下するのでした。



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