「ヴルト」「スピシュラン」の意義/附・スピシュランの戦い戦闘序列
1870年8月6日に発生した普仏戦争の今後を決定付ける2つの戦い、「ヴルトの戦い」と「スピシュランの戦い」は、このようにして独側の勝利となります。
しかし独側の完勝とはいえ、どちらもほろ苦い結果を独側に残しました。
ヴルトにおいては望まない戦いを強いられたフリードリヒ皇太子の第三軍が、1個師団が「まるまる消えた」状態と言える1万以上に及ぶ損害を出し、その損害の大きさ故にか追撃が甘く、相手マクマオン将軍の思い切った後退策もあって敵を取り逃がし壊滅させることが叶いませんでした。
第三軍はこのマクマオン軍を追ってフランス国内深く侵入し、これも今後の戦局に微妙な影響を与えることとなります。
しかし、ヴルトの戦いで独側が得たものも大きく、その最も大きな「収穫」とは、4年前の普墺戦争では敵味方に分かれていたプロシアとバイエルンを始めとする南部諸侯国が、同じ戦場で肩を並べて戦い血汗を流し助け合った、という事実でした。これを「ドイツのゆりかご」と称した史家もいるほど、「ドイツ統一」への重要な一歩だったのです。
この後、指揮官同士の諍いなど些細な出来事はあるものの、「ドイツ軍」としては邦別・地域別での仲違いは影を潜め、お互いを「戦友」として、そして「一つのドイツ」軍として共同し助け合い、足下が崩れ始めたフランク以来の古豪帝国の心臓部へと向かって行くのです。
バイエルン軍の捕虜となるラウール将軍
一方のスピシュランでは、ヴルトのような「メリット」を見出すことはありませんでした。
翌日のドイツ全土の新聞で「プロシア皇太子率いる連合軍がフランスの名将マクマオン率いる強豪軍に完勝した」との見出しが一面を飾る中、スピシュランの戦いを積極的に報道するマスコミは殆どなかったのです。
このザールブリュッケンの南にある国境の戦場で見えたものは、普軍将兵の「独断専行」と「一致協力」の精神で、普軍首脳にとっては、それはそれで頷けるものでしたが、同じ独断でも「どうせ戦わねばならない相手と早めに戦った」ヴルトと違い、「逃げようとしていた敵と無理矢理戦ってしまい、しかも相手の損害より自身の方が多いという状況で、敵を取り逃がしてしまった」という余り誉められない戦いであり、少将一人を始めとする1個旅団程度の損害を受けた普軍は、直後追撃もままならない状態に陥るのでした。
ここに抑えておきたい「ポイント」があります。
後日、戦史家たちは一様に「普仏緒戦における独軍は戦闘後に即追撃を行わず、その場で野営してしまって敵を逃している」との批判を行っていますが、状況を見れば明らかなように、プロシア式に鍛え上げられた将兵は「指揮官先頭」を忠実に守り、会戦で多くの小中規模部隊が指揮官を失い、また、部隊からはぐれた多くの将兵が他の部隊に紛れ込んでも戦うものですから、会戦終了後、直ちに部隊整理を行わないで追撃を開始し、敵を追えば追うほど元の状態に戻すのが難しくなるのです。
会戦中、輜重や架橋資材、弾薬などの補給兵站物資や資材は、戦場のかなり後方に置いておくのが常道ですから、輜重縦列が親部隊に追いつくのは1、2日後となります。その分補給は遅れる訳で、どんなに勇敢な指揮官と言えど、弾薬なしでどこにいるのか分からない敵に向けて部下を進ませるなど、愚の骨頂だと分かっているはずなのです。
彼ら普軍の高級指揮官たちは、疲れ切った部隊を敵に向けて進ませるより、一日休ませる事で完全とは言えないまでも戦力を復活させる事の方がより重要だ、と信じていたはずです。
なにより、あの見敵必戦の勇猛なキルヒバッハやボーズ、ツァストロウやアルヴェンスレーヴェンが追撃を行わないのですから、逆に言えば勇猛なだけでなく、兵站や下級将兵の限界を良く知る利口な指揮官であると言えるでしょう。
確かに彼らの後輩である「名将」ロンメルは、同様な状態でも敵を追わせましたが、それを知ったらアルヴェンスレーヴェンなどは「なんと愚かなことか!」と叱ったはずです。
追撃に責任があるとすれば、それは騎兵です。
この点は「ヴルト」の場合、その騎兵を前線近くまで進ませる準備を怠った第三軍首脳部にも責任がありますが、ここ「スピシュラン」ではラインバーベン将軍率いる17個と、各師団騎兵が9個中隊も戦わず近くにいたのに、誰も追わせようとしませんでした。
公式戦史ではどちらも「敵が去ったのは高地や山間部なので騎兵には危険だった」と片付けますが、あの「紅山」へ騎兵を送るような普軍指揮官たちです、本当にそのような理由なのでしょうか?
彼らは待ち構えていた騎兵部隊に、なぜ追撃と捜索を命じなかったのでしょうか?
この答えは、当時の普軍の騎兵に対する考え方にありそうです。
騎兵を戦車(戦艦でもいいです)と置き換え、近代(第2次大戦など)の思考・視線で見てみれば何となく分かるのではないでしょうか?
前線指揮官にして見れば、騎兵も戦車(戦艦)も兵器としてはかなり高価で少数、大変に貴重な存在です。
「紅山」を落とすと言うような「大事」に使うならまだしも、夜間、どこに潜むか分からない(伏兵に遭い返り討ちの可能性もある)敵を探しに漠然と山野に放つ、などというのは、かなり勇気のいることなのではないでしょうか?
もちろんそのため(敵の捜索と偵察)に存在する騎兵ですが、兵員1万2千の1個師団に1個連隊、600騎前後だけ存在し、補充もかなり難しい貴重な存在なのです。ましてや実際の戦争開始からまだ1週間、出し惜しみするのは当然と言えるのではないか、と思うのです。
もう一つ重要なのは、騎兵が軍隊の中でエリートだったことでしょう。
騎兵たちが、歴史に残るかも知れない会戦の掉尾を飾る大騎兵戦闘や、勝利を決定付ける会戦最後の突撃、ならまだしも、敵の追撃などという「些事」に使われるのは「いかがなものか」、そう思ったとしても不思議ではありません(追撃は大事ですが、彼らにとって敗残を追って狩るという行為は、対騎兵戦より劣り「美しくない」のです)。
騎兵指揮官だけでなく、歩兵や砲兵を率いる野戦指揮官もまた騎兵のエリート感を良く知っています。騎兵とは、彼ら歩兵指揮官自身も騎兵を率いることにあこがれを持っている可能性も高いほどの存在なのです。
当然、そういう「甘やかされた」存在なので、騎兵も捜索や追撃が甘くなろうというものです。これはもう何度か述べているのでここでは語りませんが、とにかく、当時の騎兵を現在の後知恵で語ったとしても、中々納得出来る答えは出ることがないのです。
もちろんそれは仏軍も一緒ですが、違うとしたら仏軍騎兵の方がその歴史の長さ、プライド、向こう見ず、という点では一歩上なので、逆の追う立場であったのなら、夜間だろうが何であろうが猛(盲?)進した可能性がある、ということです。それが正解かどうかは歴史で「If」を語ることになるので、ここでは止めておきましょう。
話を、なぜ「スピシュランの戦い」が過小に報道されたのか、に戻しましょう。
その責任の多くは、普大本営の作戦を独善解釈で「誤解」する第一軍司令官シュタインメッツ大将にあったと言えます。
大本営=プロシア参謀本部から見た場合、シュタインメッツという猛将は、「総軍の作戦方針に逆らって勝手に突き進む問題児」とさえ写るようになるのです。
結果、大本営の報道担当は殊更南の皇太子を持ち上げ、ヴルトの戦いを大きく取り上げることで、スピシュランを「とるに足らない前線の遭遇戦」に見せてしまいます(後にフランソアを持ち上げて軍神化させますが)。
しかし後日、ドイツ帝国参謀本部戦史課が記した公式戦史では、スピシュランにおけるフォン・カメケ第14師団長の「独断専行」を、「大本営の目的と齟齬はない」とし、「常に敵を求めて接し戦う、という独軍精神に則っている」などと持ち上げ、驚くことに「万が一味方が集まらず単独攻撃して敗退してしまったとしても、敵フロッサール軍団をこの地域に拘束することが出来たのだし、大本営の作戦進行には全く影響がなかった」などと強がって見せるのです(この下りの公式戦史は筆者の意訳)。
これには独軍の「大頭脳」モルトケ参謀総長の意向も大きいのでしょう。
これは有名な話ですが、戦後モルトケ大将は、シュタインメッツの独断専行によるスピシュランの戦いについて、
「世間の人間は往々、スピシュラン戦について大本営の作戦を台無しにしたとして、戦わなくても良い戦をしたものだ、などと言うが私はそう思わない。確かにこの戦は我々の予期せぬものであったが、多くの場合、戦争では戦術上の勝利を以て戦略上の作戦を助ける(練る)ものであるから、当時私はこの戦の勝利に感謝したし、この勝利を利用すべきであると考えた。実際、スピシュランにおいて仏第2軍団は損害を受け敗退し、これにより我が軍は仏軍主力と接触を得ることが出来、大本営にとって今後の作戦計画を練ることが容易となったことを見れば、この戦の価値は少なくない」
などと回想しています。これに対し、モルトケが真意を隠して独軍が立派なように見せかけている、との意見もありますが、筆者はこれはモルトケの「やせ我慢」というより、常日頃「戦争に常道などない」と言っていたモルトケの本心から出た言葉なのではないか、と思うのです。
いずれにせよ、8月6日、実質上の開戦一週間足らずで発生した二つの会戦は、その規模や仏軍の善戦にも関わらず、「仏軍が同じ日にアルザスとロレーヌそれぞれで行われた戦いに両方とも敗れた」という事実により、仏軍全体が大きく動揺し、その事実を仏大本営がいくら隠そうにも、外国特派員が盛んに発する記事は直ちに電信に乗せて各国に飛び、いやが上にもフランス帝国内に広がって行くのでした。
フランス第二帝政の崩壊は、正にこれらの戦いから始まるのです。
ザンクト・ヨハンで捕虜となる仏軍落伍兵
スピシュランの戦い 戦闘序列
[プロシア軍]
◎第一軍
司令官 カール・フリードリヒ・フォン・シュタインメッツ大将
参謀長 オスカー・エルンスト・カール・フォン・スペルリング少将
参謀副長 伯爵ヘルマン・ルートヴィヒ・フォン・ヴァルテンスレーベン大佐
砲兵部長 シュヴァルツ中将(砲兵第二方面本部長)
工兵部長 ハンス・アレクシス・ビーラー少将(工兵第三方面本部長)
兵站総監 グスタフ・アウグスト・ヴィルヘルム・マロートキー・フォン・トルゼビアトウスキー中将(休職招集)
従軍者 親王ハインリヒ・ヴィルヘルム・アーダルベルト・フォン・プロイセン海軍大将(8月4日~)
☆プロシア第7軍団(ハノーファー/ヴェストファーレン州)
司令官 ハインリヒ・アドルフ・フォン・ツァストロウ歩兵大将
参謀長 フォン・アンゲル大佐
砲兵部長 フォン・シンメルマン少将(砲兵第7旅団長)
工兵部長 トロイマン少佐(工兵第7大隊長)
第7軍団長ツァストロウ将軍
○第13師団 師団長 ハインリッヒ・カール・ルートヴィヒ・アドルフ・フォン・グリュマー中将
・前衛支隊 男爵アレクサンダー・エデュアルド・クーノ・フォン・デア・ゴルツ少将(歩兵第26旅団長)
∴先鋒隊 ライニッケ中佐(猟兵第7大隊長)
*歩兵第55(ヴェストファーレン第6)連隊第2大隊
*猟兵第7『ヴェストファーレン』大隊半個大隊(2個中隊)
*驃騎兵第8『ヴェストファーレン』連隊半個連隊(第1,3中隊)
∴前衛本隊 フォン・バルビー大佐(歩兵第55連隊長)
*歩兵第55(ヴェストファーレン第6)連隊(第1,フュージリア大隊)
*猟兵第7『ヴェストファーレン』大隊半個大隊(2個中隊)
*野砲兵第7『ヴェストファーレン』連隊軽砲第5中隊(4ポンド砲6門)
・師団本隊 男爵アルベルト・レオ・オットナー・フォン・デア・オステン=ザッケン少将(歩兵第25旅団長)
*フュージリア(銃兵)第73(ハノーファー)連隊 フォン・リェーベル中佐 ※フェルクリンゲンで前衛に加入
*歩兵第13(ヴェストファーレン第1)連隊 フォン・フランケンベルク=ルートヴィヒスドルフ大佐
*歩兵第15(ヴェストファーレン第2)連隊(フュージリア大隊欠) フォン・デリッツ大佐
*驃騎兵第8『ヴェストファーレン』連隊半個連隊(第2,4中隊) アーレント中佐(連隊長)
*野砲兵第7『ヴェストファーレン』連隊軽砲第6中隊,重砲第5,6中隊(4ポンド6門、6ポンド12門) ヴェルヘルミ少佐
*第7軍団野戦工兵第2中隊/野戦器具縦列 ゲッチェ大尉
*第7軍団野戦工兵第3中隊 クライノウ大尉
*第7軍団第1衛生隊
○第14師団 師団長 ゲオルグ・アーノルド・カール・フォン・カメケ中将
・前衛支隊 ブルノ・フォン・フランソア少将(歩兵第27旅団長)
*フュージリア(銃兵)第39(ニーダーライン)連隊(第8中隊欠) フォン・エスケンス大佐
*驃騎兵第15『ハノーファー』連隊第1中隊
*野砲兵第7『ヴェストファーレン』連隊軽砲第1中隊(4ポンド砲6門)
*工兵第7大隊第1中隊/野戦軽架橋縦列 ユンケル大尉
*第7軍団第2衛生隊
・師団本隊 ヴィルヘルム・フリードリヒ・フォン・ヴォイナ少将(歩兵第28旅団長)
*歩兵第74(ハノーファー第1)連隊 フリードリヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・フォン・パンヴィッツ大佐 ※ザールブリュッケンで前衛に加入
*歩兵第77(ハノーファー第2)連隊 フォン・コンラーディ大佐
*歩兵第53(ヴェストファーレン第5)連隊(第2大隊欠) フォン・ゲルシュタイン=ホーヘンシュタイン大佐
*驃騎兵第15『ハノーファー』連隊第2,3,4中隊 フォン・コーゼル予備役大佐
*野砲兵第7『ヴェストファーレン』連隊軽砲第2中隊,重砲第1,2中隊(4ポンド6門、6ポンド12門) 男爵フォン・アイナッテン少佐
*輜重・行李隊縦列(護衛/第39フュージリア連隊第8中隊)
第77連隊・戦死者の埋葬(スピシュランの戦い)
☆プロシア第8軍団(ライン/チューリンゲン/ブランデンブルク州)
司令官 アウグスト・カール・フリードリヒ・クリスチャン・フォン・ゲーベン大将
参謀長 カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヴィッツェンドルフ大佐
砲兵部長 パウル・フリードリヒ・フォン・カメケ大佐(砲兵第8旅団長)
工兵部長 シュルツ中佐(工兵第8大隊長)
○第16師団 師団長 男爵アルベルト・クリストフ・ゴットリープ・フォン・バルネコウ中将
・前衛支隊 フォン・レックス大佐(歩兵第32旅団長)
*フュージリア(銃兵)第40(ホーフェンツォレルン)連隊 男爵フォン・エーベルスタイン大佐
*驃騎兵第9『ライン第2』連隊 フォン・ヴィッチヒ=ハルマン大佐
*野砲兵第8『ライン』連隊軽砲第6中隊,重砲第6中隊(4ポンド6門、6ポンド6門)
◎第二軍
司令官 フリードリヒ・カール親王大将
参謀長 フォン・スチーレ少将
参謀副長 フォン・ヘルツベルク大佐
砲兵部長 フォン・コロミール中将(砲兵第四方面本部長)
工兵部長 レントハウス大佐(工兵第二方面本部長)
兵站総監 フォン・ティーデマン少将
従軍者 メクレンブルク=シュヴェリーン公パウル親王他
☆プロシア第3軍団
司令官 レイマー・コンスタンチン・フォン・アルヴェンスレーヴェン中将
参謀長 フォン・フォイツ・レッツ大佐
砲兵部長 ハンス・アドルフ・ユリウス・フォン・ビューロー少将(砲兵第3旅団長)
工兵部長 ザパルト少佐(工兵第3大隊長)
○第5師団 師団長 ヴォルフ・ルイス・フェルディナント・フォン・シュテュルプナーゲル中将
・第9旅団 カール・グスタフ・アルフレッド・ヴィルヘルム・フォン・デューリング少将
∴前衛 フォン・ガルレルツ大佐(第48連隊長)
*歩兵第48(ブランデンブルク第5)連隊
*竜騎兵第12『ブランデンブルク第2』連隊半個連隊(第1,2中隊)
*野砲兵第3『ブランデンブルク』連隊軽砲第3中隊(4ポンド砲6門)
*第3軍団第1衛生隊
∴旅団本隊 アントン・ヴィルヘルム・カール・フォン・レストック中佐(第8擲弾兵連隊長)
*擲弾兵第8(親衛・ブランデンブルク第1)連隊
*猟兵第3『ブランデンブルク』大隊 カール・ヴィルヘルム・エデュアルド・フォン・イエナ少佐
*野砲兵第3『ブランデンブルク』連隊重砲第3中隊(6ポンド砲6門)ユリウス・フォン・リンケル少佐
・第10旅団 クルト・ルートヴィヒ・アーダルベルト・フォン・シュヴェリーン少将
*擲弾兵第12(ブランデンブルク第2)連隊 フォン・ロイター大佐
*歩兵第52(ブランデンブルク第6)連隊 オットー・ゲオルグ・フォン・ヴルフェン大佐
*竜騎兵第12『ブランデンブルク第2』連隊半個連隊(第3,4中隊) ベッフェル・フォン・サロモン少佐
*野砲兵第3『ブランデンブルク』連隊軽砲第4中隊,重砲第4中隊(4ポンド6門、6ポンド6門) ガルース少佐
*工兵第3大隊第3中隊 テレマン大尉
○騎兵第5師団 師団長 男爵カール・ヴィルヘルム・グスタフ・アルベルト・フォン・ラインバーベン中将
*竜騎兵第19『オルデンブルク』連隊 フォン・トロータ大佐
*驃騎兵第11『ヴェストファーレン第2』連隊 男爵フォン・エルラー=エーベルスタイン中佐
*驃騎兵第17『ブラウンシュヴァイク』連隊 フォン・ラウフ普軍中佐
○騎兵第6師団 師団長 伯爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニコラウス・ツー・メクレンブルク=シュヴェリーン中将
*胸甲騎兵第6『ブランデンブルク』連隊 伯爵ヘルマン・アルベルト・ツー・リュナー中佐
[フランス帝国軍]
☆フランス第2軍団
軍団長 シャルル・オウガスタ・フロッサール中将
参謀長 アンリ・サジェ准将
砲兵部長 ガニュア准将
○第1師団(シャルル・ニコラ・バージ少将)
*第1旅団(シャルル・レテラー・ヴァラゼ准将)
・戦列歩兵第32連隊(メルル大佐)
・戦列歩兵第55連隊(ドゥ・ヴァルナー・ドゥ・フロイデンステイン大佐)
・猟兵第3大隊(トイナ少佐)
*第2旅団(シャルル・ジャン・ジョリヴェ准将)
・戦列歩兵第76連隊(ピエール・フランソア・アルフォンセ・ブライセ大佐)
・戦列歩兵第77連隊(ヴィクトール・ルイ・フランソア・フェヴリエ大佐)
*師団砲兵隊(シャヴォードレ中佐)
・砲兵第5連隊第12中隊(4ポンド砲x6)
・砲兵第5連隊第6中隊(ミトライユーズ砲x6)
*工兵第3連隊の1個中隊
○第2師団(アンリ・ジュール・バタイユ少将)
*第1旅団(プジェ准将)
・戦列歩兵第8連隊(ハカ大佐)
・戦列歩兵第23連隊(シャルル・エリ・ロラン大佐)
・猟兵第12大隊(ジョアン・ボーリュ少佐)
*第2旅団(ジャック・アレクサンドル・ジュール・ファヴァー=バストゥル准将)
・戦列歩兵第66連隊(アメル大佐)
・戦列歩兵第67連隊(レオン・マンジャン大佐)
*師団砲兵隊(ドゥ・メイテナン中佐)
・砲兵第5連隊第7、8中隊(4ポンド砲x12)
・砲兵第5連隊第9中隊(ミトライユーズ砲x6)
*工兵第3連隊の1個中隊
○第3師団(シルヴァン=フランソワ・ジュール・メルレ・ドゥ・レ・ブルジエール『ラヴォークペ伯爵』少将)
*第1旅団(ドエン准将)
・戦列歩兵第2連隊(サン=ティリエ大佐)
・戦列歩兵第63連隊(ルイ・アドルフ・ゼンツ・ダルノア大佐)
・猟兵第10大隊(シェンク少佐)
*第2旅団(ミシュレ准将)
・戦列歩兵第24連隊(ドゥアルグス大佐)
・戦列歩兵第40連隊(ヴィット大佐)
*師団砲兵隊(ラロック中佐)
・砲兵第15連隊第7、8中隊(4ポンド砲x12)
・砲兵第15連隊第11中隊(ミトライユーズ砲x6)
*工兵第3連隊の1個中隊
○騎兵師団(マルミエ少将)
*第1旅団(ドゥ・ヴァラブレーグ准将)
・猟騎兵第4連隊(ドゥ・フェロン大佐)
・猟騎兵第5連隊(ドゥ・セレヴィエ大佐)
*第2旅団(バシュリエ准将)
・竜騎兵第7連隊(ドゥ・グレソ大佐)
・竜騎兵第17連隊(ドゥ・アヴォクール大佐)
○軍団砲兵隊(ボードゥイン大佐)
・砲兵第5連隊第10、11中隊(12ポンド砲x12)
・砲兵第15連隊第6、10中隊(12ポンド砲x12)
・騎砲兵第17連隊第7、8中隊(4ポンド騎砲x12)
☆フランス第3軍団
軍団長 フランソア・アシル・バゼーヌ大将
参謀長 クロード・ジュール・イシドロ・マネキュ准将
砲兵部長 ガエタン・ドゥ・グリモデ・ドゥ・ラ・ロシュブエ少将
予備砲兵長 シギスムント・ギョーム・ドゥ・ベルクハイム准将
〇第1師団(ジャン・バプティスト・アレクサンドル・モントードン少将)
〇第2師団(アルマンド・アレクサンドル・ドゥ・カスタニー少将)
〇第3師団(ジャン・ルイ・メトマン少将)
〇第4師団(クロード・テオドール・ドカン少将)
・戦列歩兵第60連隊(ボワシエ大佐)
〇騎兵師団(ドゥ・クレランボー少将)
*第3旅団(竜騎兵第5,第8連隊)(男爵ベグーグネ・ドゥ・ジュニアック准将)
※普仏共に会戦にて6日午後9時までに実際戦闘を行った部隊(戦闘無ですが仏軍増援を含みます)のみ記しました。
スピシュランの教会にて(普軍の野戦病院)




