スピシュランの戦い/会戦後の普軍と仏軍増援の顛末
「スピシュランの戦い」がほぼ終了したことを受け、前線に登場した第一軍司令官フォン・シュタインメッツ大将は戦場の(第二軍を含めた)全軍に対し「戦闘中に錯綜し混交した諸団隊の編制を速やかに元へ戻すよう努め、今夜は別命を受けた団隊を除き戦場にて野営せよ」と命じ、各隊に向けて伝令を発しました。
第二軍に属するC・アルヴェンスレーヴェン中将の第3軍団もこの命令に服し、スピシュラン高地で疲れ切っていた諸隊に代わり、夕方遅くに到着した2個のフュージリア(F)大隊を夜間警備のため前哨任務に就けるのでした。この内、第8連隊のF大隊はギッフェル・ヴァルド森の南東縁からスピシュラン高地の頂上部までをカバーし、第20連隊のF大隊はその右翼(西)に続いてフォルバッハー山北斜面までをカバーしました。更にその右翼に「フォルバッハー山の覇者」第12連隊F大隊が続き、山の西側斜面で野営するのでした。
第9旅団のリンカー少佐に率いられた「紅山」の砲兵2個中隊は、そのまま山上に留まって夜を明かします。
スピシュラン・ヴァルド森とグラスヒュッテ=ソフィー間には、スティラン=ウェンデルの西郊外で野営する第52連隊の前哨が配置され、最後に戦場へやって来た第13師団の前哨はフォルバックの北、カニンヘン山に配されるのでした。この第13師団の本隊は、更に北方の部落プティット=ロセルで野営します。
犠牲の多かった第5師団の諸部隊は警戒任務部隊を除いて、未だ硝煙と血の臭いのする「紅山」尾根に集合し、殊勲の砲兵たちと共に野営するのです。
この夜更けには第20連隊の第1、第2大隊が列車でザンクト・ヨハンの仮停車場に到着し、同連隊F大隊が前哨に就くフォルバッハー山麓まで夜間行軍を行いました。
一日中戦い続けて疲れ切った第14師団は、大部分がステック林周辺で野営しますが、第39擲弾兵連隊のように小部隊ずつ各地に散ってしまった部隊は、そのまま各自の戦場跡で夜を明かしたのです。
この戦いで大活躍した砲兵たちは、皆それぞれの最終陣地で野営しました。その殆どはフォルシュター丘陵とガルゲン丘周辺におり、彼らが愛する大砲の脇で野営していたのです。
砲兵部隊は前線で活躍したもの以外に、第3と第7軍団砲兵の騎砲兵部隊全部と第6師団砲兵の残り2個中隊もこの夜遅くザールブリュッケンに到着し、街で宿営しました。
そして「相棒」が勝手に戦場に進んでしまった第1軍団の砲兵1個中隊も、追いかけてノインキルヒェンから列車でザンクト・ヨハンに到着し、彼らもここで夜を明かしたのでした。
第16師団本隊と第40連隊の残り部隊は、遠隔地から馳せ参じましたが到着は戦闘終了後の夜半となり、ザンクト・ヨハンとマールスタット(ザールブリュッケン西市街)に野営することとなりました。
さて、「紅山」で散々な目に遭った騎兵部隊ですが、敵仏軍同様に活躍の場がなかった彼らも指をくわえて見ていたばかりでなく、少数の部隊は会戦の最中、そして戦闘終了後も各所で自分たちなりの戦いをしていました。
激戦中のこの日午後、竜騎兵12連隊の第1中隊は1個小隊を斥候偵察としてザール川西岸を上流(南東方)のサルグミーヌ方面へ送り出します。しかしこの小隊はザンクト・アルヌアール付近で仏騎兵に阻止されてしまいやむなく撤退しました。
第1中隊の残り本隊は東岸を上流へ向かい、サルグミーヌ近郊まで達しますが、先鋒小隊がヴェルフェルディング(現・サルグミーヌ西郊外ザール川の屈曲地点)の北で仏兵から銃撃を受け、また付近の高地には騎兵2個中隊が野営し、サルグミーヌ南方郊外の部落ノインキルヒと市街地との間におよそ2万と推定する仏軍の大集団が野営していることを発見するのです。これは仏第3軍団のモントードン師団と同第5軍団第2師団所属のラパッセー旅団でした。
同じくこの午後に竜騎兵第12連隊は第2中隊も斥候に出発させました。こちらは激戦続くギッフェル・ヴァルド森の東側を進みます。これは仏軍が普軍の後方へ回り込まないように監視する意味合いもありました。中隊は1個小隊を更に先へと斥候に出し、ザール西岸を南下し、グロブリエデルストロフ部落(サルグミーヌ北北西約5キロ。ザール西河畔)まで達しますがここで仏軍の騎兵1個中隊に後方を遮断され、小隊は全滅か捕虜かと覚悟しますが何故か仏騎兵は直ぐに退却し、斥候小隊は無事帰還することが出来ました。
この中隊からは数騎の将校偵察も発し、彼らは戦場を疾駆して西へ騎行し、フォルバックを迂回するとカルラン(フェルクリンゲン南西12キロ国境の部落)まで至りますが、ここで仏軍の猟騎兵パトロールに捕捉され、これを振り切るとラウターバッハ(カルランの北東普領の部落)を経てザールブリュッケンに帰還しました。
騎兵たちは待ちに待った戦闘が終わり、仏軍が総退却した後に「さあ追撃」といきり立ちますが、それは適いませんでした。理由は地形に因るところが大で、仏軍の退却方向が南だったため、スピシュラン高地からカドンブロンヌ高地への起伏が大きく足元が覚束ない山道を夜間に騎兵の集団が走破するのは危険、と指揮官たちが判断したためでした。
このお陰で崩壊寸前となっていた仏軍のラヴォークペ、バージ、バタイユの3個師団は整然とした退却が可能となり、彼らは比較的混乱なく次第に落ち着きを取り戻して南方へ、サルグミーヌへと脱出して行くのでした。
戦場には仏軍の後衛がゲリラ的に残っており、普軍の油断した部隊に対し攻撃を加えつつ後退して行きます。
例えば、戦闘中に斥候を出していた普竜騎兵第12連隊の残り第3と第4中隊は、午後9時前に馬を引きながら徒歩行軍でフォルバッハー山東側斜面から集合地とされた高地上に達すると、スピシュラン~シェーネック街道脇の林中に潜んでいた仏兵集団から銃撃を受けてしまい、しばらく混乱が続きました。
この夜、スピシュランの南、エツラン部落(スピシュラン南1.8キロ)に接近した普軍騎兵斥候は部落郊外に仏兵が残っていることを報告し、「紅山」で苦杯をなめた驃騎兵第17連隊の2個中隊は、昼間に竜騎兵が斥候に出た、ザンクト・アルヌアールからグロブリエデルストロフを経てサルグミーヌの北方まで偵察前進し、運悪く遭遇してしまった仏兵数名を捕虜とし引き返したのです。
実は昼間この地で難を逃れた竜騎兵も、この驃騎兵も直ぐ近くに仏軍の1個師団がいたことに気が付きませんでした(後述)。
さて、ここで午後6時から夜半に掛けての仏第2軍団フロッサール中将の動向を追ってみましょう。
仏第2軍団にとっての「スピシュランの戦い」は、所属する歩兵40個大隊中、オッチン高地に残ったバタイユ師団の猟兵第12大隊以外の39個大隊が戦闘に参加するという総力戦でした。
戦線は右翼のスピシュラン高地から左翼のスティラン=ウェンデルまで全て息を継ぐ間の無い双方全力の戦いであり、指揮をするフロッサール中将は戦闘以外のことを考える余裕など全く無いはずでした。
しかし、上司であるはずの第3軍団司令官バゼーヌ大将との「確執」故か不毛な通信連絡を延々と続け、結局増援を得ることなく総退却することとなります。
フロッサール中将は日没後の午後8時頃、全軍に退却を命じました。その方向としては本来ならバゼーヌ第3軍団のドカン師団のいるサン=タヴォルへ至る街道沿いに、というのが常道と言えます。何故ならフォルバックはザールからロレーヌ地方へ至る「第一の関門」であり、ここを突破されれば敵の次の目標は街道沿いの「第二関門」サン=タヴォルということになり、街道はサン=タヴォルから真っ直ぐに要塞都市メッスの街まで続くのです。
ところが、フロッサール将軍が退却を決めた時には普グリュマー将軍の第13師団がフォルバックに接近し、サン=タヴォル方面からようやくやって来たバゼーヌ将軍からの増援も、鉄道や街道が砲撃されたことで進むことが適いませんでした(この後フォルバックに迫りましたがフロッサールは退却した後でした・後述)。
結局、フロッサール将軍はバージ、バタイユ両将軍に対し「スティラン=ウェンデルから南西へ脱出しオッチン高地で待つ猟兵大隊の援護の下、更に南へ退却する」ことを命じ、同じくスピシュラン高地のラヴォークペ将軍には「スピシュラン部落付近から脱し、パッフェン山の砲兵援護により南方へ後退しオッチン高地へ」向かうよう命じたのでした。
フロッサール将軍は軍団の退却が本格化すると、更にバージ、ラヴォークペ両師団をオッチンに留めずサルグミーヌ方面目指して後退を継続させ、バタイユ将軍にはこの両師団の退却を援護するため、残った師団で後衛と成せ、と命じました。
フロッサール将軍もフォルバックからオッチンへ移動し、バージとラヴォークペ両師団の将兵が整然と後退行軍するのを見届けると幕僚と共に南方へと去ったのです。
残されたバタイユ少将は、夜間は足手まといとなりかねない砲兵と輜重部隊を退却した両師団を追って出発させ、自らは戦闘で疲弊した師団の歩兵連隊将兵共々オッチン高地の陣地帯で後衛戦闘を覚悟しますが、結局普軍は斥候以外、夜間の追撃を諦めたためこれ以上の戦闘は発生せず、翌7日払暁、付近に味方がいないことを確認すると軍団を追ってオッチンから南へ出発するのでした。
「スピシュランの戦い」(仏名フォルバック=スピシュランの戦い)はこうして終了しましたが、先述来の指摘通り、普軍の追撃が殆ど行われなかったため、仏軍の損害は会戦の規模を考えると意外なほど小さいものでした(旧来、会戦での損害の多くは退却時に発生するものです)。逆に普軍は、なし崩しに仏軍の堅い防衛線に愚直とも言える攻撃を敢行し、フランソア少将を始めとする犠牲を増やしたのです。
フランソアとトランペッター(ザンクト・ヨハンにあった銅像)
この会戦に参加したのは、仏軍の歩兵およそ2万4千名、大砲90門で、普軍は歩兵およそ3万名、大砲100門でした。
仏軍の人的損害(死傷・行方不明・捕虜など)はフロッサール将軍が残した記録では、士官249名(内戦死37名)、下士官兵合わせ3,829名、その内捕虜は士官30名余り、下士官兵約2千名でした。
普軍の人的損害(死傷・行方不明など)は公式記録で士官223名(内戦死49名)、下士官兵4,648名(戦死794名・負傷3,482名)と伝えられます。
普軍が獲た主な戦利品は、軍旗1旒の他、多くの野営機材と共にフォルバックなどに残留した仏第2軍団の殆どの輜重軍需物資や糧食、そして野戦架橋資材1個縦列でした。
スピシュランの仏軍捕虜
普軍の損害を細かく見ると、第3軍団(第5師団)が士官83名・下士官兵1,912名、第7軍団(殆ど第14師団)が士官112名・下士官兵2,217名、第8軍団(殆どが第40連隊)は士官25名・下士官兵483名、騎兵第5と第6師団は士官3名下士官兵36名でした。
連隊単位で最も犠牲が大きかったのは第3軍団第5師団第10旅団所属の第12連隊で、士官35名・下士官兵771名で、激戦を戦い抜いた第14師団では第74連隊の士官36名・下士官兵661名、第39連隊は士官27名・下士官兵628名でした(ちなみに連隊の定員は下士官兵が約2,500名、士官はその20分の1ほどです)。
この戦いは同日に行われた「ヴルトの戦い」と同じく、普仏共に大本営の想定になかった戦いでした。
そのどちらの戦いも普軍指揮官たちの「独断専行」で始まり、どちらも仏軍増援指揮官たちの「消極性」により善戦していた前線部隊を救うことが出来ませんでした。
「スピシュランの戦い」が発生した時、仏軍指揮官のフロッサールは慌てなかったはずです。自身には3個師団があり、15キロから20キロほど南西(サン=タヴォル)から南(ピュトランジュ=オー=ラック)そして南東サルグミーヌ方面には第3軍団の4個師団が控えていたのですから。
フロッサール将軍は午前中から救援要請を発し、バゼーヌはそれを最初は却下しますが、メッスの大本営のル・ブーフ参謀総長からも出動要請が入り、しつこく要請を繰り返すフロッサールにも押し切られて「渋々」3個師団と竜騎兵旅団を出陣させるのでした。
仏第3軍団のドゥ・クレランボー騎兵師団所属の第3旅団(第5と第8竜騎兵連隊が所属)長、ベグーグネ・ドゥ・ジュニアック准将は午後3時に増援としてフォルバックへ進撃するようバゼーヌ将軍から命令を受け、駐屯地のオンブール=オー(サン=タヴォル北東5キロ)を発し、11キロ北東にあるフォルバックへ行軍しました。彼らは1時間でフォルバックに達し、午後4時にはフロッサール将軍に到着を報告したのです。
ところがフロッサール将軍はドゥ・ジュニアック准将に対し急ぎ到着したことを感謝した後で「君ら騎兵は未だ必要ではない。帰りたまえ」と返してしまったのです。
これは後に問題となり、騎兵たちは「フロッサールは我らを見捨てた」と憤り、フロッサールはフロッサールで、当時は街道を空けておき、サン=タヴォル方面へ輜重や足の遅い弾薬車などを送り出す(つまりは退却)際に渋滞の無いようにしたかった、騎兵は渋滞の原因となるし、特に不足気味の馬の糧食が問題となるので帰した、と語っています。
フロッサールの本音はどこにあったものかは分かりませんが、歩兵が欲しいところに騎兵が現れ、バセーヌとの「確執」から「欲しい歩兵の代わりに騎兵を送るとは!」と憤って「逆撫で」された、とばかりに突っ返した、のではないでしょうか?
フロッサール中将は後輩のバセーヌが大将であることが、バゼーヌ将軍はフロッサール将軍が皇帝に気に入られていたことが、それぞれ気に入らなかった、と言われます。
バゼーヌ大将はフロッサール中将の援軍要請電文を一目見た時に、
「奴は3年ほど前、フォルバック=スピシュラン高地に陣を構えることに対し、普軍と戦うには最高の場所だ、などとほざいたくせに!今更増援だとは!」
と吐き捨てたと語られているのです。
しかし、普軍の第一軍シュタインメッツ将軍と第二軍カール王子の仲も自慢出来たものではありません。先述来の通り、火を噴きかけていたのです。
正にお互い様。
普軍の将官たちが上官の不仲をとりあえず棚上げにして、「普軍こうあるべき」との独断専行をお互い認め合い、協力し合って仏軍に立ち向かって行きました。
仏軍はどうだったでしょう?
ジャン・ルイ・メトマン少将は仏第3軍団の第3師団を率いてマリーエンタール(サン=タヴォル東南東9キロ)に野営していましたが、午前遅くにバゼーヌ大将から伝令が届き、「フロッサール軍団を援護するため、軽装にてベニング(=レ=サン=タヴォル。フォルバック北西7キロ)まで前進せよ」との命令を受け取ります。メトマンは正午に兵士たちの装備を野営地に置いたまま師団全部を率いてベニングへ前進しますが、これは非常に遅い行軍となり、ようやく午後3時頃ベニングに到着しますが、既にフロッサールはサン=タヴォルだけでなくこのベニングにもメトマンの前進を促す要請電報を送っており、メトマンはこれを午後4時30分に受領します。ところがメトマンは北東方面から砲声が殷々と聞こえている中でも直ぐには動かずに部隊を休ませ、午後7時30分になってようやく重い腰を上げ、たった7キロ先のフォルバックへ出発したのです。
しかし時すでに遅し、でした。彼がフォルバックに到着した時には既にフロッサール将軍は退却した後で、街はもぬけの殻でした。メトマンは慌てて街を出て、フロッサールが去ったと思われた南方へ夜間行軍しますが、一晩中探し回ったのにフロッサール軍団を発見出来ず、スピシュラン高地の南部を彷徨った挙句、夜明けにピュトランジュ=オー=ラックへ到着しました。ほぼ同時にメトマン師団同様、暗闇の中を彷徨いくたくたとなった、あの「フロッサールに捨てられた」ドゥ・ジュニアック竜騎兵旅団もこの街に到着するのです。
そのピュトランジュ=オー=ラックに野営していた、仏第3軍団の第2師団率いるアルマンド・アレクサンドル・ドゥ・カスタニー少将は、6日午前11時頃、北方から砲声が響くのを聞き、スピシュランに展開するフロッサール将軍が普軍と衝突した、と確信します。
仏軍としては積極果敢なことに、カスタニー将軍は直ちに師団に命令し、昼過ぎにはスピシュラン目指して行軍を開始しました。
ところが、お粗末なことに行軍路を間違えて東寄り(同じような細い道が延々と続く地方です)に行軍してしまい、迷っている内に砲声が途絶えたため「戦闘は終わったのだろう」と回れ右、午後5時、ピュトランジュへ帰ってしまいました。
しかし、宿営地に帰って見れば再び砲声が響き始め、午後6時に再び行軍を開始し、今度は間違えないよう?スピシュランではなくフォルバックへ直行しますが途中で騎馬伝令が到着し、バゼーヌ将軍のフロッサール軍団援護命令が届き、午後9時に本隊がフォクラン(独名・フォルクリンゲン。フォルバック南4キロ)ヘ、前衛部隊がフォルバック南郊外へ達した時、ちょうど踵を返したメトマン師団長と邂逅するのでした。
メトマン曰く。「フロッサール軍団は2時間前にサルグミーヌ方面へ退却した。我が師団も彼らを追って後退するところだ。敵は強大で退却するしか道はない」
こうなっては後退しかなく、カスタニー師団もメトマン師団と並んで高原と田園を彷徨う様に夜間行軍を続け、7日午前4時過ぎにピュトランジュ=オー=ラックへ帰り着くのでした。
仏第3軍団第1師団は、8月5日にファイー将軍の仏第5軍団と交代するため、サルグミーヌに向けて宿営地を出発し、ファイーの2個師団の出て行ったサルグミーヌ郊外には6日朝に到着しました。
師団長はジャン・バプティスト・アレクサンドル・モントードン少将で、モントードンは正午頃、北のスピシュラン方面から激しい砲声が響くのを聞きますが、命令が無いとして動こうとしません。午後3時になりバゼーヌ将軍から「グロブリエデルストロフへ前進し、フロッサール軍団の右翼側を援護せよ」との命令が届き、ようやく出陣準備に掛り、午後4時から5時に掛けて野営地を発して日没前(午後7時頃)にグロブリエデルストロフの部落に到着し、前衛はリックサン=レ=ロユラン(スピシュラン部落南南東4.5キロ)まで前進しました。
モントードン将軍
しかし日没で夕闇が迫ったため「これ以上の前進は危険」とばかりに副官をスピシュランへ送り、「明日以降に救援部隊を出す」との連絡を第2軍団へ届けようとするのです。
その後本隊も前進してブバック(スピシュラン部落南南西5キロ)に達しますが、深夜午前1時頃、スピシュランとフォルバックからフロッサール軍団が退却したことを聞き及んだモントードン将軍は、その退却路の左翼側を援護する、との理由でヌッスヴィレ=サン=ナボール(ブバックの南東3キロ)へ移動中、「後退」中のドゥ・カスタニー将軍に出会い、その勧めに従って後退を開始し、7日午前9時頃にピュトランジュ=オー=ラック郊外へ至り、ドゥ・カスタニー、モントードン両師団と一緒となるのでした。
最後にクロード・テオドール・ドカン少将指揮の第3軍団第4師団ですが、バゼーヌ将軍は、この師団はサン=タヴォルの防衛に必要と動かすつもりはありませんでした。しかし、他の3個師団が一切間に合わなかったため、焦ったフロッサールが強く要請したので「これが最後」と出したのがこのドカン師団所属の仏戦列歩兵第60連隊でした。
第60連隊は急ぎ列車に乗せられ午後6時、サン=タヴォル停車場を発ちフォルバックに向かいましたが午後8時過ぎ、フォルバック市街地手前で普第13師団砲兵から砲撃を受け、空しく引き返したのでした。
この様に仏軍の増援は一切フロッサール将軍の下に届くことなく、フロッサール将軍は孤軍の不安から退却を決心し、一気にフォルバックとスピシュランから南へと脱出することとなったのでした。
スピシュランの戦場
カタリーネ・ヴァイスガーバー(シュルツ・カトリン)1818~1886
ザールの鉱山労働者の5番目の子供として生まれ、ザールで育ったカタリーネは普仏開戦当時、ザールブリュッケンの街で乳母として働いていました。
8月2日、彼女の52歳誕生日の前日にフランス軍がザールブリュッケンに侵攻しプロシア軍と戦闘状態になった時、彼女は率先して負傷者を探しては司祭館に運び、住民有志と共に手当に当たりました。
8月6日に普軍がザールブリュッケンを奪還し、スピシュランで戦闘となった際にも、彼女は戦場から運び出された負傷兵を、戦場近くで危険を顧みず、しかも敵味方関係なく救い出し手当を施しました。
この、赤十字社が確立して間もない時代に成された行為を聞き及んだ国王ヴィルヘルム1世は戦後カタリーネに対し、皇后アウグスタを通じて「ヴェルディエンストクロイツ・フューア・フラウ・ウント・ユングフラウ」(全ての女性のための功労十字章)を与え、彼女はたちまち国中に知れ渡りました。
しかし、カタリーネとその行為は次第に忘れ去られ、彼女は1886年、貧困のうちに病死します。地元新聞紙のザールブルッカー・ツァイトング紙は彼女の死を知ると紙上でこの事実を報じ、墓もない彼女のために募金を訴えると多額の募金が集まり、あのフランソア将軍も眠るザールブリュッケンの現・ドイチュ=フランツェジッシャー=ガルテンの一角に葬られ、立派な墓碑を与えられました。
墓碑銘にはこうあります。
「類まれな英雄である淑女の記憶をここに留める。同志市民より」
ザールブリュッケンのヴィルヘルム国王
スピシュラン会戦後の70年8月9日にザールブリュッケンに入った国王(右奥馬車上)を描いた宮廷御用画家アントン・フォン・ヴェルナー作の絵画で、町のホールに飾られていました。絵の右手前に立つ籠を持つ中年女性がカタリーネです。




