スピシュランの戦い/スティラン=ウェンデルの陥落
バタイユ少将による仏軍の逆襲は、その当初において成功を収め、スティラン=ウェンデルからスピシュラン高地まで普軍を各所で撃退し、殆ど攻撃以前の散兵線まで回復した場所すらありました。
午後6時30分の時点で、普第77連隊第2大隊はステック林より完全に退却してドラツーク池沿いに集結、普第39連隊第3大隊は林の北端部分にしがみついた状態にありました。
39連隊の擲弾兵たちが林端を固守したのには訳があります。普軍右翼が退却を始めたと知った老猛将の普第7軍団長、ツァストロウ大将は自ら最前線に騎行し、「いかなる事態となってもここから一歩も退いてはならん!」と林の死守を命じ、普軍の意地を見せろ、とばかりに檄を飛ばしたのでした。
このように仏軍バージ師団とバタイユ師団による反攻は、ステック林を回復する直前までに至りますが、普ツァストロウ大将が前進させたフォルシュター丘陵に陣を構える普軍砲兵が猛烈な砲撃をステック林に加え、これ以上はどうしても前進することが叶いませんでした。
また、配下の普第53連隊第1大隊全部とF大隊の一部、そして77連隊のほぼ半数をドラツーク池周辺に集合させた普第28旅団長、フォン・ヴォイナ少将はこれらの部隊を直卒し、再び攻勢に出ようとしていました。ヴォイナ将軍はステック林の第39連隊兵士(第27旅団所属)をも吸収し、友軍の砲撃が止むと厳しい表情で「前進!」と命じたのです。
こうしてヴォイナ「支隊」は「今度こそ占領する」との決意を固めてステック林を前進し、再び攻勢の途に付きます。すると、林外の東の荒地を普第52連隊兵士が前進するのが見えたのです。
これは普第10旅団長フォン・シュヴェリーン少将が直卒する52連隊の半数(第2,3,4,9,10,12の6個中隊)で、税関付近から他の中隊と離れ進撃して来たものでした。
その先頭は第10中隊で、先鋒小隊を突出させた隊形で大地の畝や地面の凹凸など自然の遮蔽物を利用して進み、前方のスティラン=ウェンデル市街地端に砲列を敷いていた仏砲兵を狙い、その後方には第9と12の2個中隊が並列して進みました。右翼(北西)では第4中隊がステック林の南縁に沿って進み、更にその後方を第2と3の2個中隊が、半大隊の形に密集隊型となって前進したのです。
対する仏軍は、再び主導権を普側に握られてたまるか、とばかりに猛烈な抵抗を行います。
砲撃が止んで普軍が前進を始めると、さすがに林の中は静かなものでしたが、フォルバッハー山斜面やスピシュラン・ヴァルド森など南側の高地から猛烈な射撃が起こり、スティラン=ヴェンデルの仏砲兵も連射に次ぐ連射で普軍の再前進を阻止しようとしました。
フォルバック街道とステック林の間を前進する第52連隊兵は、この猛烈な銃砲火により次第に行軍速度が落ち、遂には遮蔽物の陰で停滞するしかなくなってしまうのです。
この歩兵の危機を観察していたのが、フォルシュター丘陵で普軍砲兵を指揮していた男爵フォン・アイナッテン少佐でした。
少佐は第14師団所属の第2軽砲中隊長ゲッツ大尉を呼ぶと「隊を連れておれに付いて来い!」と命じ、自ら砲兵中隊を先導して500mほど南西へ進み、ゴールデネン・ブレンの北、先ほど52連隊が部隊の分割点とした税関近くの高台(現・国境線独側にある霊園墓地)に4ポンド砲6門を急ぎ引き上げて砲列を敷かせ、スティラン=ウェンデル東郊外の仏砲兵陣に猛烈な砲撃を再開したのです。
この小丘は仏砲兵まで直線距離にして1,800m余りしかなく、連射と威力に勝るクルップ砲により、たちまち仏砲兵は沈黙し後退するのでした。
これが戦いの「分水嶺」となります。
フォン・ヴォイナ将軍は敵の砲火が止み、林中の仏兵が一気に退却を始めるとそれを激しく責め立てて潰走状態に追い込み、ステック林全体を南端まで完全に掌握するのです。ヴォイナ隊には林の直ぐ外にいた第52連隊右翼の第4中隊もこの南端で合流しました。
南側高地からの銃撃は次第に止んで行き、普軍の兵士たちは一気に遮蔽物を抜け出て、駆け足でスティラン=ウェンデル市街へ突入したのでした。
まずはステック林を抜けたヴォイナ隊が、製鉄所とその脇にある鉄鉱石カスや鉄屑が堆積し土が被っていわゆるボタ山と化した小丘を目指します。
製鉄所の建物自体は石や堅煉瓦で造られた稜角のある要塞状の強靱さでしたが、最早仏軍の戦意は衰え、守備隊も形ばかりの抵抗後に退却を始め、午後8時15分、戦機と見た普軍は一斉に突撃を敢行し、ボタ山と製鉄所を占領しました。この時普第52連隊の第4中隊は、ステック林やスティラン森で善戦した仏軍第3猟兵大隊の大隊旗を奪取する殊勲を挙げたのです。
この製鉄所攻撃と併せ、スティラン=ヴェンデル市街に対する攻撃も行われ、普第52連隊第2,3中隊と第9中隊が東郊外の仏軍散兵壕に突入して仏兵を駆逐し、この塹壕線を占拠しました。
この辺りから仏軍の抵抗は急速に衰え始め、市街地からは普軍に対する脅威が消え去りましたが、フォン・シュヴェリーン少将は少数ながら敵が潜む市街地を夜間に放置するのは危険と判断し、ちょうど郊外にやって来た上司の普第5師団長、フォン・シュトゥルプナーゲル中将に許可を得て、午後8時30分頃、宵闇迫りかなり暗くなった市街地に掃討の兵を入れるのでした。
市街地では未だ抵抗を続ける仏軍の小部隊が孤立して残っており、街に入って来た普軍兵士に対し激しく抵抗しました。いよいよ街が闇に閉ざされようかという頃合いで、同士討ちの危険も増したため、シュヴェリーン将軍はラッパ手に命じ「打ち方止め」の号令を吹奏させました。
直後に将軍は「全軍突撃」を命じ、兵士たちは一斉に鬨の声を上げながら、市街地の西端目がけて突進したのでした。
これにより市街地に残っていた殆どの仏兵たちは抵抗を諦め、投降するか闇に紛れて逃亡して行来ました。
スピシュラン 降伏する仏兵
主として第52連隊の兵士からなるシュヴェリーン少将の部隊はスティラン=ウェンデル市街の南部を占領し、潜んでいた300人ほどの仏兵を狩り立てて捕虜にします。
市街地の北部、製鉄所周辺までは第39連隊第3大隊の残存兵が大隊長フォン・ヴァンゲンハイム少佐に率いられて捜索を行い、これも潜んでいた仏兵と方々で銃撃戦となりますが、夜半11時まで掛かってほぼ制圧することが出来ました。
普軍は仏軍の逆襲に備えてフォルバックに向かう街道の両脇に哨兵を配置し、散兵をグラスヒュッテ=ソフィー(現・スティラン=ウェンデル西のホルヴェーク通り周辺)まで延伸して警戒させるのでした。
一方、スピシュラン高地における戦闘も終局段階となり、パッフェン・ヴァルド森とギッフェル・ヴァルド森、そして「紅山」とスピシュラン・ヴァルド森からフォルバッハー山までを占領した普軍は、形の上でもスピシュラン部落を包囲する構えとなりました。
この、西はスピシュラン・ヴァルド森から東はパッフェン・ヴァルド森に至る総延長6キロ余りの戦線には、長時間の戦闘に疲れ果て、謀らずとも部隊間で混合してしまった兵士たちが、最後の気力を振り絞って敵に相対していました。
それは護る仏軍も全く一緒の状態です。夕闇深い高地の森は夜の闇を目前に迎え、銃砲火が眩しく見えるようになっていました。
普軍戦線の後方、ギッフェル・ヴァルド森の北斜面から「紅山」にかけては、日没後に戦場へ到着した部隊が集まり始めていました。
それはラインバーベン将軍の騎兵部隊に第16師団砲兵の野砲兵第8連隊軽砲第6中隊と重砲第6中隊、第1軍団砲兵の野砲兵第1連隊軽砲第4中隊、そして午後6時30分以降にザール西岸にやって来た歩兵部隊でした。
この歩兵は第8擲弾兵連隊のF大隊に第20「ブランデンブルク第3」連隊(第6師団所属)のF大隊、そして最後に戦場へ到着した第53「ヴェストファーレン第5」連隊の第2大隊でした。
特に53連隊第2大隊は第7軍団砲兵隊の護衛として、6日早朝に砲兵と共に行軍を開始し、宿営地のヴァーダーン(トーライ北西約10キロ)からヌンキルヒェン(ヴァーダーン南南西6キロ)経由でレーバッハ(ザールブリュッケン北北西約20キロ)に到着、その地で護衛任務を解除されるや休まず急行軍で、連隊の同僚2個大隊が血を流しているザールブリュッケンへ徒歩行軍したものでした。
午後8時前、まだ仏軍の後衛がフォルバッハー山周辺で本隊を逃がすため戦っていた時に、第9旅団長フォン・デューリング少将はこれら新規に到着した部隊を統合して「デューリング支隊」を作り、急ぎフォルバッハー山目指して前進しようとしました。しかし、この日没時で急速に辺りが暗くなる中、既に仏軍は総退却を始めており、普第5師団長フォン・シュトゥルプナーゲル中将は行軍中止を命じ、デューリング将軍の企画は消えました。
こうして仏兵がスピシュラン部落からも闇に紛れて消え去った頃、スピシュラン高地の普軍は戦場で野営を準備し始め、前哨を用意するのです。しかし、一日中戦い続けた前線部隊の兵士に夜間の前哨任務は酷であり、この任務は新たに加わった第8と第20両連隊のF大隊が受け持つことになったのでした。
さて、さかのぼること同日6日正午頃。
普第7軍団の第13師団前衛隊は5日夕刻の第一軍命令によりフェルクリンゲンに到着し、その先鋒はザール河畔に達しました。ここでザール西岸から騎兵斥候(師団所属の驃騎兵第8「ヴェストファーレン」連隊)が帰還し、「仏軍歩兵数個大隊がグロース・ロッセルン(フォルバックの北西、フェルクリンゲンの南南西それぞれ約4キロにある国境の普領部落)付近から前進しつつあり」との報告をします。
師団前衛を率いる第26旅団長、男爵アレクサンダー・エデュアルド・クーノ・フォン・デア・ゴルツ少将は、直ちに猟兵第7「ヴェストファーレン」大隊と驃騎兵1個中隊をザール西岸へ渡し、ヴェールデン部落を抜けて前進させ、同時にこれを知らせるため本隊と共に北方から前進中の第13師団長、ハインリッヒ・カール・ルートヴィヒ・アドルフ・フォン・グリュマー中将宛てに伝令を飛ばしました。
フォン・デア・ゴルツ少将はこの時53歳。64年の第2次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争に中佐として参戦し、第15連隊第2大隊長として激戦のドゥップル堡塁攻撃に参加、戦後プール・ル・メリットと大佐の地位を獲得し連隊長となります。66年の普墺戦争では現・第8軍団長のゲーベン将軍率いる第13師団傘下でバイエルンやハノーファー軍と戦い、69年少将昇進と同時に第26旅団長となりました。デンマーク戦以来ずっと13師団で戦い続けて来た将軍は部隊を知り尽くしており、準備万端整えてこの戦争初戦を迎えていたのです。
師団長のグリュマー中将はこの時56歳。普墺戦争ではバイエル(ベイヤー)将軍の混成師団で旅団長少将として活躍し戦後に中将昇進、この7月、宣戦布告と同時に普墺戦争時「マイン軍」で肩を並べた第13師団長を拝命しています。
グリュマー将軍は午後1時前、師団本隊と第25旅団長フォン・デア・オスケン=ザッケン少将と共にピュットリンゲン(フェルクリンゲン北東3キロ)へ到着し、命令通りこの周辺に宿営地を構えようとしますが、ここでゴルツ将軍の伝令が到着するのでした。グリュマー将軍は仏軍がザール河畔に迫って来るとの情報を得るや、驃騎兵第8連隊第4中隊と野砲兵第7連隊軽砲第6中隊を直卒して前衛部隊を追い、急ぎザールを渡河してヴェールデン部落に入りました。
この地ではしばらく前から南東方面より砲声が聞こえており、次々に入る斥候やザールブリュッケン方面からの伝令報告によれば、「仏軍はスティラン=ウェンデルとフォルバックの間で普軍前衛と戦闘状態となった」とのことで、これによりゴルツ将軍は自らが率いる師団前衛支隊全力で、フォルバック周辺の仏軍左翼側(北)を突くことを企画し、グリュマー師団長もこれを支持、同時にピュットリンゲンの師団本隊率いるオスケン=ザッケン将軍に対し「師団本隊は至急集合して行軍を開始し、ザールを渡河して師団前衛に続行せよ」と命じたのです。
男爵アルベルト・レオ・オットナー・フォン・デア・オステン・ゲナント(=)・ザッケン少将はこの時59歳の誕生日を目前に控えていました。64年第2次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争に中佐として参戦し、近衛フュージリア連隊の第3大隊長として活躍しています。
午後2時30分頃、前衛支隊隊長のフォン・デア・ゴルツ将軍は師団長が連れて来た騎兵と砲兵各1個中隊を自らの前衛隊に加えて、敵歩兵が進撃中というグロース・ロッセルンに向け前進を開始、友軍前衛が敵と戦っているというスティラン=ウェンデル方面の警戒として国境の仏側部落ショーネックへも猟兵1個中隊と騎兵1個小隊を送るのでした。
前衛支隊は午後4時にグロース・ロッセルン近郊までやって来ましたが、この時に上司である第7軍団長ツァストロウ大将が午後1時にデュルスブルクから発した命令が届き、その内容は「フォルバックとルードワイラー(フェルクリンゲン南西4キロ)方向へ前衛を送り敵の意図を探れ」だったので、これまでグリュマー師団長が成した行動と一致していました。
このゴルツ支隊は午前5時にレーバッハ付近の野営地を発してから一度も食事をせず、大体25キロほどの行程をこなし、それでもここまで一兵一騎の敵も見ませんでした。ただ、このグロース・ロッセルンからは、遠くに見えるフォルバック北西の高地(カニンヘン山)上に、仏軍の大きな野営地らしきものが望めたのです。
彼らが今まで前進を急いだのは、フォルバックの更に先、スピシュラン高地方面から砲声が聞こえていたからですが、ここまで来るとその砲声も「聞こえない」のです。前進して来るという敵も見えず戦場の「音」もなく、ゴルツ将軍はこの地で一旦様子を見ようと停止するのでした。
すると、前衛に同行したグリュマー師団長の元に伝令がやって来て、第一軍本営が「発した」という軍の方針が伝えられ「シュタインメッツ大将はこの6日においてはザール川西岸での本格的な戦闘を望んでいない」とのことでした。
「砲声が途絶えたのはきっと戦闘が終わったか中止されたのだろう。軍司令の意図が戦闘の拡大を防いだのかも知れない」
グリュマー将軍はそう考え、フォン・デア・ゴルツ将軍も同意でした。師団長は前衛をこのグロース・ロッセルン北郊外に止め、南方に前哨を配して、後方で前進中のオスケン=ザッケン将軍率いる師団本隊にはフェルクリンゲン付近で停止し野営せよ、と伝令を送ったのでした。
ところが午後6時。グロース・ロッセルンで再び砲声が聞こえ始め、ほぼ同時にフォルバック方面へ放った驃騎兵斥候が戻り伝えるには「ザールブリュッケン南方では未だ味方が激戦中」とのことだったのです。
焦るグリュマー将軍の下には、追い打ちを掛けるかのようにツァストロウ大将からの伝令副官が到着し「第14師団はスピシュラン方面で苦戦中、貴師団は直ちに援軍としてフォルバックへ向かえ」との軍団長命令を伝えたのでした。
ここまで見て来ましたように、スティラン=ウェンデルやスピシュランでは午後4時以降6時までも以前と変わらず激戦が続いていたわけで、なぜグリュマーたちに一時的にせよ砲声が聞こえなかったのかは確実なことが分かりません。史料では「森林に遮られたため」とありますが、科学的実証ではありません。
ここまでの積極性を見てもお分かりの通りグリュマーたちが臆病だったとも思えません。そこで少々無理矢理な憶測ではありますが、ここでは「グリュマー将軍たちがザール河畔近くに居た時には南側の森林から離れており、遠方からの砲声が届いたが、前進南下したためスティラン森に接近し、銃砲声は深い森に遮られてしまった。また、午後4時頃から戦線が南西方面へ進んだので、相対的に仏軍砲兵はスピシュラン高地の谷間や山際に、普軍砲兵はフォルシュター丘陵へ進み、音が聞こえ辛くなった。6時に仏軍逆襲が始まった時、仏軍砲兵はフォルバックの北東方面に展開したものもいたので、そこからの砲声が聞こえた」と「屁理屈」をコネて置きましょう。
慌てたグリュマー将軍はフォン・デア・ゴルツ将軍に前進を命じます。
ゴルツ支隊は直ちに出発し、南へ流れ国境を成すロッセル川の両岸に部隊を進め、フォルバック目指して南下しました。騎兵斥候からは「敵はフォルバック西郊外高地上に防護陣地を造り、この陣地とフォルバック市街は堅固に防衛されているようだ」との報告が届きました。
ゴルツ支隊は、ロッセル川右岸(東)に猟兵3個中隊((第1,2,3中隊。第4中隊はショーネック方面へ)が、左岸(西)に第55「ヴェストファーレン第6」連隊F大隊と騎兵、砲兵の各1個中隊が進み、残りの諸隊は猟兵の更に右(東)でフォルバックに至る街道(現・プティット・ロセル通り)上を堂々と南下するのでした。
普第55連隊の第1、第2大隊はライシュ・ヴァルド林(現・ルゼルヴワール。フォルバックの西北西2キロほど)に達すると各半大隊ずつ梯団となって街道の両側を進み、軽砲兵第6中隊はこの林からフォルバック北西方の敵拠点カニンヘン山周辺に対し砲撃を開始するのでした。
この頃、フォルバックでは。
仏第2軍団長フロッサール中将は午後5時にフォルバックに残っていたヴァラゼ旅団の残部をスティラン=ウェンデルに前進させており、ゴルツ支隊のフォルバック攻撃時にその周辺に残っていたのは仏竜騎兵第12連隊の半分(2個中隊)と工兵が100人というお寒い状況だったのです。
ここへ戦列歩兵第12連隊の予備兵200人が駆け付け、にわかの「フォルバック防衛隊」が形となります。
これをデュラック中佐が率いてカニンヘン山の散兵壕に入り、一部の騎兵も馬から降りて歩兵として戦うこととなりました。
普軍左翼隊(55連隊第1,2大隊中心)が林を抜けると、カニンヘン山の仏軍は普軍の縦列に対し猛烈な射撃を浴びせました。普兵は街道脇の雑木林や側溝に入ってこれをやり過ごしつつ銃撃を開始します。砲兵中隊も砲列を前進させ、フォルバック市内を射程に収め、目立つ背の高い建物を選んで砲撃を再開しました。普軍砲兵がカニンヘン山を余り砲撃しなかったのは、仏軍のデュラック中佐が絶えず散兵壕内の兵士を移動させ、狙いを定めさせなかった(仏軍からすれば人数が少ないことを隠す意味がありました)からで、逆に普軍砲兵は近くを走る鉄道線を狙い砲撃を繰り返し、直前まで動いていた列車の運行を妨害したため、ちょうど列車で到着しようとしていた仏第3軍団からの増援連隊を逆戻りさせるという手柄を上げるのでした。
この辺りで日没後の黄昏時が終わり、戦場には闇が訪れ、見通しが利かなくなります。連続砲撃で大砲が上げる盛大な砲煙も視界の邪魔をして、カニンヘン山にいるはずの仏軍散兵たちの兵力も判断が付きませんでした。
それでも普第55連隊の第2大隊はカニンヘン山の北西側斜面に取り付いて登攀し、仏軍が築いた散兵壕の一つを占領するのです。猟兵の3個中隊はロセル川の水車場(現・フォルバック市下水処理場)から斜面を登り55連隊と連絡を通しました。
仏軍のデュラック中佐は包囲の危険が迫ると部隊の退却を命じ、退却の援護として、騎兵を再び騎乗させると襲撃を命じたのです。
日が暮れて殆ど闇に閉ざされる寸前となったカニンヘン山で、仏騎兵はこの戦闘でほとんど唯一の騎兵突撃を敢行しました。受けて立った普軍は第55連隊の第5中隊と猟兵第3中隊で、彼らは仏騎兵を十分に引き付けると冷静に一斉射撃を行い、これにより仏騎兵は士官4名下士官兵25名を失う打撃を受けて撃退されたのでした。
これを以て戦闘は殆ど終了しました。一部の普兵は前進を続け、仏兵が撤退したと思われるフォルバック市街地に迫りますが、国際鉄道の線路堤に踏みとどまった仏軍後衛から猛射撃を受けると、夜間の市街戦は危険と見たグリュマー将軍が前進を中止させ、前衛部隊は全てカニンヘン山に仏軍が築いた陣地へと引き返したのでした。
フォルバックへ向かう普軍
一方、ゴルツ前衛支隊の右翼隊(55連隊第F大隊中心)は左翼隊がカニンヘン山に取り付いた頃にエンマースヴァイラー部落(フォルバック西南西3キロ・普領)に到着し、前衛支隊の砲兵、野砲兵第7連隊軽砲第5中隊は部落西部の高地上に砲列を敷き、重要な交通の要衝を俯瞰可能な都合のよい場所を占めると、暗闇に閉ざされるまでサン=タヴォル街道と鉄道とを砲撃し、サン=タヴォル方面からの仏軍増援を阻止したのでした。
グリュマー将軍はオスケン=ザッケン将軍に伝令を送り、師団本隊をグロース・ロッセルンのロセル川対岸、プティット=ロセル(独名クレイン・ロッセル)に前進するよう命じます。
この行軍途中に「第15(ヴェストファーレン第2)連隊をスティラン=ウェンデルの第14師団へ送れ」との命令が届きましたが、未だ敵が潜む可能性のあるスティラン森沿いの街道を行くのは夜間故に危険、とみなしたオスケン=ザッケン少将により無視され、午後9時、第13師団本隊は全部隊が無事にプティット=ロセルへと到着し、明日に備えて野営するのです。




