スピシュランの戦い/フォルバッハー山陥落
無名の一歩兵大尉率いる名門部隊所属兵400人余りの進出と、同じく一砲兵中尉が率いるたった1門の4ポンド軽砲の山頂出現をきっかけとして「紅山」の仏軍は総崩れとなります。
ここを守っていた仏ラヴォークペ師団の仏第10猟兵大隊と仏戦列歩兵第63連隊の兵士たちは「紅山」南方の尾根より南東の方角へ逃走し、つい先ほど「紅山」後背地の「鞍状高地」を占領し、ギッフェル・ヴァルド森西縁で後続部隊を待っていたブルーメンハーゲン大尉率いる普第8「親衛擲弾兵」連隊第1,4中隊の左脇を摺り抜け、スピシュラン部落の西郊外へと去ったのです。
しかし普軍にとっては、まだまだ勝利を祝うべき時ではありませんでした。
確かに「紅山」は手に入れましたが、ここよりも高度があるギッフェル・ヴァルド森頂上部やスピシュラン部落、そしてフォルバッハー山方面には1個師団程度の兵力が展開し、これを包囲しようにもギッフェル・ヴァルド森の南には深く切れ込んだシムバック川渓谷が東西に長く走っており、普軍は未だ高地の「突角」のみを領しただけなのです。
この「紅山」頂上は狭く細長く、とても大軍を置くのは無理、この先にある森や尾根を通過するのも困難を極めるのは明白と言え、地形は未だに仏軍側有利で変わらないのです。
スピシュラン高地の要部を押さえる仏軍に対し、普軍が多大な犠牲なくして素早く決戦を挑むことなど「夢のまた夢」でした。
従って仏軍は失地回復に全力を挙げ、頻りに逆襲を企てて実行し、普軍は全力を挙げて狭い高地や見通しの悪い森の斜面を守り切る、という展開が今しばらく続いたのでした。
しかし、「紅山」が普軍の手に落ちたことで、この膠着状態を打ち破る方法が見えて来ました。
この作戦に関しては既に「三普将の会合」で一致を見て、C・アルヴェンスレーヴェン中将により第8連隊第2大隊を税関横へ送ることで実行されていましたが、仏軍の「バタイユ反攻」により中途半端な形で終わっています(第3中隊のみの先行派遣)。
それでも「怪我の功名」でブルーメンハーゲン隊が正にその「事前実験」を行った形となり、その効果は十分に実証されていたのです。
それはフォルバック街道の税関の先、バラック・ムートンの南からスピシュラン・ヴァルド森の斜面を登り、その南東にあるフォルバッハー山まで突進する、という作戦でした。
このスピシュラン高地の西側を押さえられると、高地の仏軍は本隊のいるスティラン=ウェンデルや要衝フォルバックの町との連絡が途絶え、包囲を避けるには南東のサルグミーヌ方面へ脱出を図るしかなくなるのです。
これはゴールデネン・ブレンやバラック・ムートンを、第77連隊のF(フュージリア)大隊を始めとする混成部隊が死守していることや、ブルーメンハーゲン隊が「鞍状高地」を占領したこと、そして遂に「紅山」が手に入ったことなど、戦況全ての進捗によって可能となった作戦でした。
今や普軍はこれらの戦場で血と汗を流し多大な犠牲を払った末に、その「対価」を仏軍に支払ってもらおうとしていたのです。
普第3軍団長C・アルヴェンスレーヴェン中将は「紅山」の陥落を知ると、直ちに本営周辺にいた軍団の高級指揮官たちと協議し、未だに戦闘に加わっていない諸隊によりフォルバック街道を突進させ、フォルバッハー山の西側からスピシュラン高地へ突撃する作戦を実行へ移すことに決します。
午後5時以降、第5師団の残り部隊は全てザール西岸に渡り、第12連隊のF大隊はその先頭となってヴィンター丘付近のブドウ畑に集合していました。
続いて、ひょんなことからブルーメンハーゲン隊活躍の原因を作ることとなった普猟兵第3「ブランデンブルク」大隊と、第8連隊第2大隊の準備集合が完了します。こちらの2個大隊は練兵場からレッパース丘に集合し、命令を待ちました。
第5師団傘下で第10旅団長のクルト・ルートヴィヒ・アーダルベルト・フォン・シュヴェリーン少将は午後6時前に竜騎兵2個中隊と砲兵2個中隊を直卒してザンクト・ヨハンに現れ、先にこの砲兵2個中隊を前線へ送り出します。ところが、ガルゲン丘に前進した砲兵は、既に展開していた第一軍砲兵が、味方と敵が接近したために砲撃可能な目標を失って、砲撃を一時中断しているのに出会い、彼らに倣って待機を強いられてしまいました。
この砲兵の後方からはシュヴェリーン旅団長の配下、普第52「ブランデンブルク第6」連隊の前衛が行軍して来るのです。
ちなみに、フォン・シュヴェリーン将軍はこの時53歳。メクレンブルクとポンメルン地方の古い名門貴族家出身(但し同名大公家とは違います)で、1868年に少将となり第10旅団長となっています。
ところで、8月5日に首都ベルリン周辺まで進出し集合完結した後に普第一軍の配属が決定した普第1軍団所属、野戦砲兵第1連隊軽砲第4中隊はこの6日夕刻、ザンクト・ヨハン臨時停車場で列車を下車し行軍、午後6時15分にガルゲン丘に到着しました。
この部隊は遥々東プロイセンのケーニヒスベルクから列車で出発し、この日はノインキルヒェンで下車、その先は宿営地まで行軍予定でした。ところが道中の停車場で「ザールブリュッケン南方にて会戦が発生」との号外報道を聞き及んだ中隊長のシュミット大尉は、独断で列車の終点ザンクト・ヨハン臨時停車場まで乗車を続け、戦場を求めてやって来たものでした。(さすが普軍伝統の独断も、ここまで来るとすごいものがあります……)
このように集まって来た新たな兵力は当初、フォルバッハー山への攻撃に向かい、第52連隊は並行して「第2次スティラン=ウェンデル攻防戦」へも参戦することとなります。
ここからいよいよ「スピシュランの戦い」のクライマックスとなる戦闘が開始されますが、それに大きな影響を与えたのが普軍砲兵たちの活躍でした。
当時(午後5時頃)における戦域の最上級士官、フォン・ツァストロウ大将の命令により、ガルゲン丘からフォルシュター丘陵へ前進した第一軍の砲兵は、午後6時30分に砲列を敷き直して砲撃を再開させます。
第14師団の砲兵3個(軽砲第1,2と重砲第1)中隊は丘陵を東西に分けるフォルバック街道の西側に砲列を敷き、更にその右側(北西方向)にスピシュラン高地の仏軍を悩ませる砲撃を続けた重砲第2中隊が並んでいました。
この砲列を指揮したのは男爵フォン・アイナッテン少佐で、少佐は24門の砲を使ってスティラン=ウェンデルから逆襲に出た仏軍とフォルバッハー山方面に対し、直ちに砲撃を開始するのでした。
この砲列はガルゲン丘から後続して来た第10旅団の砲兵2個中隊が展開したことで左へ延伸し、このフォルバック街道の東に砲列を敷いた砲12門は、フォルバッハー山からフォルバック街道へ下る仏軍の通り道となっていた渓谷を直線上に捉える位置にあり、これ以降フォルバッハー山とスティラン=ウェンデルを結ぶ仏軍のラインを断ち切る重要な役目を担ったのです。
この一大砲兵陣地と化したフォルシュター丘陵には、更に第16師団の軽砲1個中隊と、例の頼まれもしないのに最前線へ「自主参加」した第1軍団の軽砲第4中隊もやって来ましたが、この丘陵は頭頂部が狭く、砲が展開出来る範囲も限られ、かと言って第3軍団砲兵2個中隊が登った「紅山」は更に狭いため、後から参加した2個砲兵中隊は機会を待って丘の横で予備となるのでした。
ヴィンター丘の麓にあるブドウ畑で出発命令を待っていた第12連隊F大隊は、ツァストロウ大将の命令で前進する砲兵たちとほぼ同時にフォン・デューリング第9旅団長の命令を受け、ブルーメンハーゲン隊の待つ「紅山」南方の「鞍状高地」を目標に行軍を始めます。
続いてC・アルヴェンスレーヴェン中将は第8連隊第2大隊と猟兵第3大隊に対し前進を命じ、2個大隊は先行する第12連隊F大隊に続行して「鞍状高地」の南、フォルバッハー山を目標として進みました。
この普軍の新たな攻撃部隊3個大隊の総指揮は、第8「親衛擲弾兵」連隊長のアントン・ヴィルヘルム・カール・フォン・レストック中佐に委ねられました。
レストック中佐はこの時46歳。フランス姓を持つ他の士官と同じく、17世紀末に弾圧され国を追われてドイツに亡命したユグノー教徒の末裔で、プロシア軍大佐の階級を持ち王宮に仕えた高等法務官の子息、という血統の良さを持った士官でした。
レストック中佐はまず、フォルバッハー山方面に向けて出発した後、後続が「鞍状高地」に向かったため、フォルバック街道の中途で立ち往生してしまった第8連隊第1大隊第3中隊を召還し、これを第2大隊に合流させました。
そして自らは先駆して第12連隊F大隊の行軍列に入り、大隊を縦列横隊にさせるとスピシュラン高地の西山麓に沿って前進するよう命じます。
この行軍列に対し、スピシュラン高地西部・フォルバッハー山の北側に突出する尾根に構えていた仏軍散兵と、数門しか残っていないミトライユーズ砲中隊は必死の猛射を浴びせました。これにより12連隊F大隊は大きな損害を受けますが後退せずに突き進んでフォルバッハー山の麓に到達し、先頭を行く第9中隊はその山腹目指して斜面を登り始め、他の3個中隊は最初、バラック・ムートン付近に進出しますがレストック中佐は直ちにこの3個中隊も第9中隊に続いてフォルバッハー山へ向かわせ、その山腹斜面を登攀させたのです。
レストック中佐はF大隊が一つになって行動するのを見届けると、後は任せて直ちに馬首を巡らせ、税関の東側まで進出した猟兵第3大隊に向け走り去るのでした。
この時、猟兵大隊は先に「鞍状高地」に達したブルーメンハーゲン隊がたどったのと全く同じルートで斜面を登攀すると、その右翼(西)に連なって狭い尾根に展開しますが、ここでフォルバッハー山西斜面に踏ん張る仏軍砲兵から猛烈な砲撃を浴びせられ、また至近の森に潜む仏散兵からも銃撃を浴びてしまいます。これにより、大隊長のカール・ヴィルヘルム・エデュアルド・フォン・イエナ少佐は重傷を負ってしまい後送されてしまいました。
大隊は狭く遮蔽が少ない尾根で、銃砲火を避けようと懸命に努めていました。この光景を見たレストック中佐はこの方向、即ち正面北側尾根沿いからのフォルバッハー山攻略は不可能と判断し、一旦後退を覚悟します。
するとそこに後続の第8擲弾兵連隊第2大隊が斜面を登攀して来ました。レストック中佐は早速この大隊と猟兵大隊とを整列させると、ここからゴールデネン・ブレンを経てバラック・ムートンへ向けて迂回行軍し、先に攻撃を始めている第12連隊F大隊に続いてフォルバッハー山を西側斜面から攻撃することに決するのです。
レストック中佐は、第2大隊を先に尾根から税関方面へ後退させますが、仏軍兵はその列に対し猛烈な射撃を加え、大隊は損害を受けつつ一気に斜面を下り、速足で高地際の空き地を横断、ゴールデネン・ブレンで第5中隊を待機させ、本隊は付いて来た第1大隊の第3中隊と共にここからフォルバッハー山方面に向かって斜面を登って行きました。
ちなみにゴールデネン・ブレンに1個中隊を残した理由は、ここで戦っていた普第77連隊F大隊他の兵士たちが「バタイユ反攻」からの一連の流れで先にフォルバッハー山に向かった12連隊F大隊に続き突進してしまったため、ゴールデネン・ブレンが「がら空き」となっていたからでした。
普第8擲弾兵連隊第2大隊に続いては普第3猟兵大隊の番です。猟兵たちも仏軍の猛射撃の中、斜面を下ると駆け足で空き地を抜け、ゴールデネン・ブレンの南側急斜面をフォルバッハー山目掛けて登って行ったのでした。
フォルバッハー山に向かう猟兵第3大隊の戦い
これら普軍3個大隊のフォルバッハー山攻撃に対し、仏軍防衛陣も必死で防戦に努めます。この付近に散兵線を敷いたのは仏戦列歩兵第66連隊第2大隊、同第8連隊第2大隊、同第63連隊第3大隊などでした。師団を越えてフォルバッハー山を守っていた仏兵は、特にゴールデネン・ブレンから登って来た2個大隊に対し猛射撃で応じましたが、その西側から登って来た普第12連隊F大隊や街道家屋群から付いて来た部隊が半分奇襲状態で仏散兵線の側面を突き、仏軍部隊は動揺して徐々に後退を始めたのです。
この後(午後7時30分頃)フォルバッハー山の北側で先行していた普第12連隊F大隊は普軍攻撃隊の左翼側(南東)に展開し、その右翼側後方(北北西)に普第8連隊の4個(第3,6,7,8)中隊が、更にその後方に猟兵第3大隊が続く形となります。
前述通り、正午から戦い続ける普第14師団のバラック・ムートン付近で混成してしまった諸部隊(77連隊の第7中隊とF大隊、74連隊第3中隊、39連隊第12中隊)は、仏軍の度重なる攻撃からよく税関周辺の家屋群を守り抜いて来ましたが、このレストック中佐「支隊」の前進に勇気付けられ、一部はこれに続いてフォルバッハー山へ向かい、一部はその頃に始まった「第2次スティラン=ウェンデル攻防戦」に参加するため北上しました。
フォルバッハー山攻撃の先陣、普第12連隊F大隊は、敵の側面を突いた後、山から北東に続く尾根に陣取る仏軍から激しい抵抗を受けますが、白兵格闘戦に持ち込んで勢いのままに押し切り、遂にフォルバッハー山の北側斜面で補足し多くの仏兵を捕虜とすると、残りの兵士を撃退するのです。第9中隊と2個小隊がこの仏兵を追撃し、そのままスピシュラン・ヴァルド森の東端まで進み、フォルバッハー山頂に砲列を敷く仏砲兵から400mに迫りましたが、ここで仏軍は1個大隊クラスの逆襲を開始、この普軍部隊を撃退します。しかし、その後方から普軍の後続が進み出てフォルバッハー山の東側に向かったため、仏軍はそれ以上進むことは危険として前進を止めるのでした。
普第8連隊第2大隊を中心とする4個中隊は、12連隊F大隊よりも更に南へ下った地点からスピシュラン・ヴァルド森へ入り、斜面を登りますが、ここでも仏軍の抵抗があり、銃撃戦が展開されました。しかし、この方面の仏軍は北側と比べ僅かな数で、ゴールデネン・ブロンに残った第5中隊がバラック・ムートンまで進み援護射撃を行い、また、第12連隊の第12中隊もまた左から援護射撃を行ったため、仏軍はスピシュラン部落方面へ撤退して行ったのです。後には満載された2輌の弾薬車が残されており、普軍への思わぬプレゼントとなってしまいました。
普猟兵第3大隊は第8連隊4個中隊の後方を前進、その右翼(西)から8連隊を援護しつつスピシュラン・ヴァルド森を抜け、日暮れ時に森の最南端に到達しました。
更に猟兵たちの右翼では、普第10旅団長フォン・シュヴェリーン少将が直卒していた第52連隊の5個中隊が進み出て、戦闘に参加しました。
この普第52連隊はF大隊を前衛としてレッパース丘から縦列横隊となって進軍し、フォルシュター丘陵で友軍砲兵隊の砲列を抜けるとゴールデネン・ブレンに向かいました。その北側高地からフォルバッハー山方面に向けて左旋回しようとしましたが、スティラン=ウェンデル東郊外の仏軍から猛烈な銃砲火を受け、シュヴェリーン将軍はここで連隊を分割し、半個連隊(6個中隊)を直卒すると、その銃撃を受けたスティラン=ウェンデルへ、第2大隊と第11中隊はベテランの同連隊長のオットー・ゲオルグ・フォン・ヴルフェン大佐が率いて旋回運動を続け、フォルバッハー山方面へ向かうのでした。
第2大隊は半大隊ずつ梯団となって前進し、第11中隊はその右翼となって進みました。
この進撃に対し仏軍は、バラック・ムートン付近から南に細く延びる渓谷の斜面両側に散兵線を維持していましたが、普52連隊第2大隊の兵士たちはバラック・ムートンに入るとこの渓谷の仏兵と激しい銃撃戦を交え、最後にはこのスピシュラン・ヴァルド森北端斜面に対し突撃を行います。仏兵は普軍の突撃を見ると抵抗を止めて陣地を放棄し、南東へ撤退して行くのでした。
この普軍攻撃隊は敵の撤退を見ると素早く渓谷を登り、仏軍を追撃します。ちょうどこの頃に日没時となり、曇天の一日で夕暮れが早く訪れて次第に暗くなる中、森を進む普軍兵士の前から急速に仏兵の姿は消え、森には退却に付いて行けなかった負傷者が点々と蹲り倒れているだけでした。
普52連隊第2大隊はこうしてフォルバッハー山の南西側高地の頂上部に達し、ここで半個大隊は追撃に、半個大隊は付近の捜索に当たり、両隊はこの禿山の南で再び一体となるのでした。
フォルバッハー山に対する南西と北からの合撃体制はこのようにほぼ完成されましたが、この間のスピシュラン・ヴァルド森における仏軍の抵抗は、北部の「紅山」及びギッフェル・ヴァルド森に対する普軍の攻撃に対する反撃とは、比べものにならないほど弱いものでした。これは仏軍がスピシュラン高地北部の戦いに全力を挙げた結果と言え、重要な高地南西部(スピシュラン・ヴァルド森)に兵力を割く余裕がなかったということだったのです。
午後7時過ぎ、スピシュラン高地全体の防衛に責任を持つ仏第2軍団第3師団長ラヴォークペ将軍は、第2師団長バタイユ将軍から増援を得て、普軍の占拠した各地点に対し最後の激しい反撃を試みました。
その攻撃陣の一つはスピシュラン部落南部高地から「紅山」の南「鞍状高地」に向かい、もう一つはスピシュラン部落北の渓谷からギッフェル・ヴァルド森とパッフェン・ヴァルド森の南縁に対して進みます。これらの攻撃隊に対する援護射撃を、スピシュラン部落北方の散兵線に展開する部隊が担い、また敵が迫ったフォルバッハー山からパッフェン(ベルク)山の北斜面に後退し、砲列を敷き直した砲兵諸中隊が普軍に対し砲撃を行いました。
この仏軍反撃にあったギッフェル・ヴァルド森の普軍諸隊、既に昼過ぎから戦い続ける部隊が多いこの方面では弾薬乏しく疲弊が激しい兵士が多く存在し、銃撃と砲撃の直後に猛烈な仏兵の突撃を受けてしまうと、もうたまらずに後退せざるを得ませんでした。この地区の仏軍は日没後の薄暮時にギッフェル・ヴァルド森南斜面を回復したのです。
これに対し、「紅山」方面の普軍は決死の覚悟で仏軍逆襲を受けて立ち、ブルーメンハーゲン大尉指揮の普第8連隊の3個中隊は仏軍逆襲に対し一歩も「鞍状高地」から退かず、「紅山」上の第9旅団砲兵2個中隊も正確な援護砲撃を繰り返し「鞍状高地」の擲弾兵たちを助けたのです。
「鞍状高地」に対する仏軍の逆襲は、こうして不発に終わります。この周辺に居残っていた仏軍はギッフェル・ヴァルド森中の普軍同様、戦い続けて精も根も尽き果てており、新たな援軍の逆襲に対し、有力な助力を与えることが出来なかったことが大きな原因と思われます。
フォルバッハー山で戦う仏軍
全体としては仏ラヴォークペ師団長が企画した逆襲は短時間で挫折に終わり、ギッフェル・ヴァルド森南部を一時占拠した部隊も単独で敵中に突出する形となってしまうため、やがて戦線整理を図り後退するしかありませんでした。
これら攻撃部隊はフォルバッハー山方面へ退却行動を起こしましたが、この重要な山は既に普第12連隊F大隊や第8連隊第2大隊、そして猟兵第3大隊に第52連隊の半数などが北と南西から合撃状態で攻撃を進捗させており、この退却した部隊と再び激しい銃撃戦となりますが普軍の進軍は揺るぎないものでした。
この日没後の午後8時30分、「後退せよ」を意味するラッパ号令が鳴り響き、フォルバッハー山頂から仏兵が南方斜面へ逃走し、南方のパッフェル山の仏軍砲兵は味方の退却が完了したと見るや、フォルバッハー山に砲火を集中させました。
こうしてスピシュラン高地の戦いは最終段階を迎えたのです。
普第一軍司令官フォン・シュタインメッツ大将は自軍の参謀副長、伯爵フォン・ヴァルテンスレーベン大佐がザールブリュッケンから送った情勢報告と、第14師団ばかりでなく第16師団が前進したとの報告を受けて本営を発ち、幕僚を引き連れてザールブリュッケンへ向かいました。
シュタインメッツ将軍は午後7時にザールブリュッケン市街へ到着し、直ちに前線視察を行います。大将がスピシュラン高地にやって来た時にはちょうどフォルバッハー山が普軍の手に落ちた頃合いで、パッフェル山方面から仏軍砲兵が発射する砲声が鳴り響いていました。大将は、普軍の攻撃が統一性なくそれぞれの部隊指揮官の独断によって行われているのを見て言葉を失った、と伝えられています。
また将軍はその先、南西方面からも砲声が響くのを耳にします。その方向は今までの戦場とは全く違う方向、すなわちフォルバック市街の方向でした。
その砲声は普軍の新たな部隊、第14師団の「相棒」で第7軍団の「片割れ」、第13師団が戦闘に参加した証しだったのです。




