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スピシュランの戦い/執念の紅山攻略戦

 さかのぼること午後の2時。ザールブリュッケンの北東約10キロにあるフリードリッヒスタールとビルトシュトックに宿営していた普第9旅団(第5師団所属)は、旅団長フォン・デューリング少将の電令により宿営を発し、ザールブリュッケンへと急行します。その前衛部隊は午後5時に市街地の東側、ザンクト・ヨハンへ到着しました。

 しかし、午前中から前線を将校偵察した際に「盲進」するフランソア支隊を見て、彼らが窮地に陥る予感に襲われた旅団長が発した緊急前進命令。旅団は宿営を整え始めたばかりの状態で、静から動へと即座に応じられた部隊ばかりではなかったことは、想像に難くありません。


 普猟兵第3大隊は出動命令を受け取るや「押っ取り刀」で出立したものの、後れをとってしまいます。彼ら猟兵は本来なら部隊の前衛となる精鋭のはずですが、この時は既に歩兵第8「ブランデンブルク第1・親衛擲弾兵」連隊第1大隊が先陣を進んでおり、猟兵はこの大隊の行軍列に割り込んでしまいます。従って第1大隊は、先頭を行く第3中隊と残り3個中隊の間に猟兵大隊が入る、という変則行軍でザンクト・ヨハンに達したのでした。

 ザンクト・ヨハンに着くと旅団長からの命令が待っており、猟兵大隊はレッパース丘方面へ、第1大隊はヴィンター丘へと、それぞれの最終集合地点を聞かされ、旅団前衛はそのまま止まらず続々とザール川の橋から西岸に渡り、各々の目的地へと向かったのでした。


 ヴィンター丘では第9旅団長デューリング少将とその上司、第5師団長フォン・シュトゥルプナーゲル中将、そして第3軍団長C・アルヴェンスレーヴェン中将が首を長くして待っていました。

 指揮官たちは待望の増援が到着するのを見ると、その先頭を進んで来た第1大隊長に命じ、直ちにフォルバック街道とステック林方面に向かい、「紅山」を左に迂回しスピシュラン高地の西側、即ちフォルバッハー山方面へ向かわせたのです。大隊長は即刻第3中隊を直卒して先行する決心をし、遅れている3個中隊が直ぐに後続するものと信じ、直ちに西へと向かいました。


 しかし、直後に情勢が一変するのです。

 猟兵大隊に割り込みをされたため、遅れてやって来た第1大隊残り3個中隊に対して、師団長は当初目標よりずっと手前、「紅山」の直ぐ南にあるギッフェル・ヴァルド森西端の「鞍状高地」を占領するように命令を変更するのでした。

 これは仏軍の逆襲がステック林だけでなくスピシュラン高地でも始まり、ギッフェル・ヴァルド森で普軍部隊が押され出されたからであり、C・アルヴェンスレーヴェン中将やシュトゥルプナーゲル中将としては、まず戦線の状況を安定させることが優先と考えたからでしょう。


 この3個中隊を率いることとなったのは、3個中隊で先任中隊長だったユリウス・ブルーメンハーゲン大尉でした。

 彼は第1と第4中隊を直卒し、その後方から第2中隊を続行させ、まずは激戦続くギッフェル・ヴァルド森を横目に「紅山」直下の税関方向へ行軍しました。そして税関の東側に到着すると、大尉はそこから急激に斜面となるスピシュラン高地の西端に進み、山麓に切れ込む谷底を伝って尾根に向かい急な斜面を登り始めたのです。


 実は、この南西方向から「紅山」を攻撃した普軍はこれまで皆無でした。

 これはこの地点至近の税関付近が、午後4時頃まで仏軍に抑えられていたからでもありますが、智謀揃いで積極果敢な普軍としては少々「意外」とも思える状況です。


 ここは「紅山」と南のフォルバッハー山をつなぐ例の狭い尾根の直下に当たり、この尾根の反対側(南東)はシムバック川の水源となって深く切れ込む渓谷となっています。つまりは、この「鞍状の尾根」を押さえられると仏軍は「紅山」とその東側、ギッフェル・ヴァルド森西部との直接連絡を絶たれてしまうわけで、正に戦場の「ボトルネック」となる部分でした。


 これに普軍は気付いていなかったのか、それともフランソア少将を失って頭に血が上り、正面攻撃に拘るあまりに「紅山」の弱点を無視した(この状況が日露戦争の乃木第3軍による旅順攻略戦に似ているという戦史家もいます)のでしょうか?

 ひょっとするとシュテュルプナーゲルたちも最初は、敵の圧力を分散する助攻くらいに考えていたのかも知れませんが、いずれにせよ、部隊到着が遅れたことにより、付け焼き刃で決まった攻撃地点は「紅山」の「鍵穴」であり、この3個中隊(実際は2個中隊・後述)の兵士たちが「開かずの扉」をこじ開ける役目を担うことになったのです。


 当然ながら仏軍もこの「紅山」に対する後方連絡線を維持するため部隊を配置しており、元より仏第40連隊の第1大隊が警戒し、当時は逆襲に転じた第63連隊の一部や仏第8連隊(またもや老婆心ですが、普軍の正に攻撃部隊が同番号第8連隊です。注意。)などがいました。


 仏軍は北西から尾根に登ってくる新たな敵を発見すると猛烈な射撃を開始しました。しかしブルーメンハーゲン大尉以下由緒ある「親衛(ライブ)擲弾兵」*の称号を持つ兵士たちは、急斜面と弾雨をものともせずに一気果敢に尾根へ突進し、ここまで、どの普軍部隊も達することが出来なかった「紅山」頂上部の一角である尾根から、仏軍を追い出して占拠することに成功したのです。

挿絵(By みてみん)

紅山の白兵戦

 実際にこの「鞍状高地」に登って来たのは第1と第4中隊だけでした。彼らは「鞍状高地」を落とすとその勢いのまま、仏軍が攻撃中のギッフェル・ヴァルド森南西端に突進します。後方から付いて来ていた第2中隊は、ちょうど仏軍逆襲を受けて激戦中のバラック・ムートンやゴールデネン・ブレンの友軍(第77連隊F大隊など)に助太刀するため、西側斜面に居残って仏軍によるフォルバッハー山北西斜面からの強襲に対し、北の側面から射撃を浴びせたのでした。


 このわずか普軍半大隊(2個中隊)の攻撃により戦況に再び変化の兆しが見え始めます。

 ブルーメンハーゲン隊の攻撃により「紅山」へ続く尾根から仏軍は一掃されてしまい、ここにいた兵士はフォルバッハー山の北やスピシュラン・ヴァルド森へと追いやられ、「紅山」の後背地に普軍が入り込んだのです。

 しかしさすがのブルーメンハーゲン大尉の「擲弾兵」たちもそう次から次へと敵をなぎ倒せるわけもなく、また重要な「鍵」を開けたこの部隊に続く者はなく、この鞍部での普軍の進撃はここで一休みとなりました。

 全般の状況とすれば、未だギッフェル・ヴァルド森北縁や「紅山」では激しい攻防が続いていました。


 普軍にとっての魔の山「紅山」は、「鍵」をひとつこじ開けただけでは陥落せず、もっと多くの普兵の血と汗を求め、後ひとつ「何か」のきっかけを求めていたのです。


挿絵(By みてみん)

 Drawing by Carl Röchling "Erstürmung des Roten Berges"


 ブルーメンハーゲン隊が「紅山」の背後へ進んだことで、戦況が有利に転がり始めたことを知らない普軍の将軍たちは、とりあえず使える者はなんでもと、なりふり構わず手近の戦力を注ぎ込もうとしていました。


 仏軍逆襲をもろに受けた「紅山」やその麓で戦う普第40連隊の親部隊、第32旅団長のフォン・レックス大佐は、上層部に対し「大至急砲兵を紅山まで上げて欲しい」と懇願していました。

 あの急斜面とその頂上にある仏軍散兵壕からの猛射撃を考えれば、これは無茶な注文の部類ですが、その無理を通そうとするのが「普軍魂」というものです。


 「三普将の会合」を終え、前線の状況を確認し急ぎヴィンター丘の第3軍団本営に帰って来たC・アルヴェンスレーヴェン将軍は、傍らに軍団砲兵部長のハンス・アドルフ・ユリウス・フォン・ビューロー少将を呼び寄せると、「砲兵の数個中隊に特別任務を与えたい」と切り出し、ビューローが目を丸くするような命令を伝えたのです。

 将軍は続けて、独第二軍の騎兵部隊を統括指揮している騎兵第5師団長男爵カール・ヴィルヘルム・グスタフ・アルベルト・フォン・ラインバーベン中将に対し「騎兵にはあの山は無理だろうか」と「紅山」を指し示しめすのでした。


 ここまで普軍の騎兵部隊は偵察以外、会戦戦闘自体には何一つ寄与をしていません。

 早朝来の偵察行から帰って来た騎兵たちは、砲声を聞き付けると方々からザール川岸に集合し、午後に入って次々とザール川西岸に渡って来たのです。


 驃騎兵第17「ブラウンシュヴァイク公国」連隊は午後3時、練兵場の南に小さな渓谷を作るエーレンタール川まで進み、竜騎兵第19「オルデンブルク公国」連隊は、サン=タヴォル方面の偵察を終えた諸隊をまとめて一旦フェルクリンゲン付近のザール河畔に留まったものの、砲声が激しくなったので再びザール西岸へと進出し、午後4時頃ドラツーク池の北まで進んで待機していました。

 騎兵第5師団長フォン・ラインバーベン中将はこの2つの連隊を自身が仮の本営を置いたガルゲン丘下へ呼び寄せ、この会戦開始からガルゲン丘の北にいた胸甲騎兵第6、槍騎兵第3、驃騎兵第17の各連隊の先鋒各1個中隊を統合し、この騎兵10個中隊を直卒することとします。

 同時にC・アルヴェンスレーヴェン中将から依頼されていた「紅山」攻撃隊として驃騎兵第17連隊を指名するのでした。

挿絵(By みてみん)

ラインバーベン将軍

 因みにこの後も騎兵は続々と集合し、この日午前中にフェルクリンゲン対岸のヴェールデン付近にいた驃騎兵第11「ヴェストファーレン第2」連隊は午後遅くドラツーク池に、午後6時過ぎには胸甲騎兵第6連隊の残り3個中隊もドラツークにやって来ました。


 これにより午後6時を過ぎた時点でスピシュラン高地の北側には各師団に配属された騎兵連隊(各4個中隊)、即ち第5師団騎兵(竜騎兵第12)、第14師団騎兵(驃騎兵第15)、第16師団騎兵(驃騎兵第9)以外に17個中隊余り(実質2,400騎前後と思われます)という大きな騎兵戦力がじっと出番を待っていたのです。


 しかし、このザール川西岸地区は丘陵地で起伏が大きく、またスピシュラン高地は森に覆われており全く騎兵には向かない土地柄です。普通なら、彼ら騎兵が活躍するのは会戦終了後の追撃戦からとなるはずで、騎兵たちの本音とすれば、それまでじっと待つつもりだったはずです。

 しかし戦況はそんな悠長なことを言っていられない心理状況へと変化したのでした。


 前進命令を受けた驃騎兵第17連隊の全4個中隊は、午後6時過ぎ、縦隊を作って速足歩行でスピシュラン高地の西側を目指して前進しました。

 しかし、騎乗で高地斜面を登るため、都合のよい山道を見付けるために先遣した士官が適当な経路を発見出来ず、仕方なしに連隊はやや強引に岩だらけの険しい「紅山」斜面を登り始めますが、山上に控えた仏兵からたちまち激しい銃火を浴び、人馬共に損害を受け始めたため、登攀を中止し退却するのです。


 しかし、山の下にはそんなことくらいでは引き下がらせない鬼となった将軍が控えていました。C・アルヴェンスレーヴェン中将は、戻って来た連隊に対し再度の攻撃を厳命したのです。騎兵たちは、今度は友軍のいる「紅山」の北斜面に取り付いて、スピシュラン部落へ続く山道を登り始めました。


 現在はオタール通りと呼ばれる道路は、当時細い山道で、スピシュランに向かって右は絶壁が「紅山」山頂まで続き、左はギッフェル・ヴァルド森西端へ落ち込む急斜面となっていて、一旦登り出すと高地上まで身動きが取れない状態となります。

 連隊の先頭となった第1中隊がまず高地上に達し、右手と左前方に展開する仏軍散兵線に向かって襲撃を行おうとしますが、この「紅山」山頂は起伏が大きく、岩石が剥き出しで方々に転がり、数え切れない穴が開いていて斜面の先には仏兵の掘った散兵塹壕がある、といった具合で、殆ど騎兵突撃を行えるような地形ではありませんでした。しかも前方の仏軍散兵線からは、高く馬上に構えて曇天を背景に「どうぞ撃って下さい」と言わんばかりに目立つ普軍騎兵を狙って、恐ろしく正確な弾道を描くシャスポー銃の弾雨が襲ったのです。


 この状況は同日、南方アルザスのフロシュヴァイラー高地で突撃を行い、儚く散って行った仏軍胸甲騎兵の悲劇がそっくりそのまま普軍騎兵にも見舞うのか、と思える状況と言えました。


 しかし普軍騎兵はドンキホーテ的な自殺行為を止め、第1中隊は損害が大きくなる前に逆戻りをし、後続の中隊が登り来る山道へ退きます。

 ここで停滞した普軍騎兵の隊列に対し、仏軍砲兵は空かさず榴弾砲撃を開始、騎兵たちは馬を宥めてなんとか岩肌に密着させ、激しい砲撃をやり過ごそうとしますが、間断なく爆発する榴弾と砕かれて飛び散る岩の破片は多くの人馬を傷付け、大きな損害を受けた驃騎兵連隊は回れ右をして後続から急ぎ後退し、ホウホウの体で「紅山」を下りて収容陣地へと退却したのでした。


 騎兵の無謀とも言える挑戦を横目に、第3軍団の砲兵部長フォン・ビューロー少将は自らの砲兵も共に山へ向かわせようとしていました。


 このビューローという将軍は、ずっと砲兵畑を歩いた軍人で、普墺戦争ではエルベ軍で砲兵連隊を率いて戦い、王族の砲兵少将でこの当時は近衛軍団砲兵部長のホーフェンローエ=インゲルフェンゲン王子とは大の親友と言う有能な砲兵士官でした。

 彼は、無茶を承知で困難な命令を下した軍団長の熱い想いに応えようと、自軍団で真っ先に前進したものの、第一軍の砲兵たちに先を越され、限られた有効な砲撃陣地を占められてしまい、彼らの横側で「腐って」いた砲兵2個中隊に白羽の矢を立てるのでした。


 それは軍団直轄予備砲兵隊から第9旅団前衛に派遣されていた部隊で、軽砲第3と重砲第3の2個中隊・12門の砲兵たちでした。


 この2個中隊は野戦砲兵第3連隊の第2大隊長、ユリウス・フォン・リンケル少佐が率いていました。

 ガルゲン丘でビューロー将軍から命令を受けた少佐は、ほぼ同時に「紅山」へ出発して行った驃騎兵第17連隊の後方を進むよう命じられますが、騎兵が山を登るのに苦戦し、西側から登るのを諦め、北斜面の山道を行くこととなった時に、その後方やや遅れて同じ道を追い「紅山」登攀を開始したのでした。


 しかし前述の通り、騎兵の登攀は大失敗となり、息を吹き返した仏軍砲兵による山道砲撃により、ただでさえ厳しい状況が最悪となり、狭い道は怯える馬を宥める騎兵で埋まってしまい、また僅かな隙間には砲弾が落下して道を掘り返し、悪路は益々酷い状態となったのです。

 リンケル少佐はこの状況から中隊単位での登攀は不能と判断し、軽砲第3中隊の一小隊長ベルンハルト・マックス・エデュアルド・ルイス・フォン・プレッセンティーン中尉に命じて、シュミット軍曹が砲長の先頭を行く1門を先に進めさせたのです。


 プレッセンティーン中尉は砲弾が炸裂する山道を、溢れる騎兵が岸壁に張り付いて彼らを通そうとする中、引き馬に鞭を入れ、汗と泥まみれの砲員を励まし、一歩、また一歩と道を進みました。そして辛苦の果てに、遂に高地上に辿り着くのです。

挿絵(By みてみん)

 Drawing by Georg Koch 


 「紅山」高地上の緩斜面では「フランソア隊」を始め普第40連隊や第12連隊と様々な隊からやって来た勇敢な兵士たちが仏軍最後の散兵壕に残る仏兵と戦っていました。

 彼らは自軍の騎兵が現れたと思ったら直ぐに追い払われる状況を暗澹の想いで見ていましたが、今度は待望久しい大砲がやって来たのでした。それはたった1門の4ポンド軽砲でしたが、斜面に張り付くしかない兵士にとって正に救世主で、これを見た普軍兵士たちは次々に歓呼の声を上げ「ハイル!(万歳)」の声を上げたのです。


 プレッセンティーン中尉はシュミット軍曹と共に直ちに砲撃準備に掛りますが、この地は緩いとはいえ斜面で、岩だらけであり駐退機構のない大砲では連続発射がままならない悪条件でした。それでも中尉達は良い射界を得ようと前進し、砲車を押してギッフェル・ヴァルド森の縁沿いに進んで味方の散兵線をも超えますが、仏軍も黙ってはいません。猛射撃を浴びた中尉たちは急ぎ後退してようやく散兵線の200mほど後方に窪地を見付けて砲を据えたのです。

 するとその数分後に軽砲第3中隊長のシュトゥンプ大尉に率いられて中隊の残りも高地に到着したのです。シュトゥンプ大尉は砲車の1台が道から崖に落ちたため時間を取られていましたが、必死で挽回しここまで登って来たものでした。

 続いて重砲第3中隊も中隊長フォス大尉の指揮で高地上に達しますが、砲列を敷く適当な場所は少なく、最初は砲2門のみ西斜面の際に並べて砲列を敷くだけで精一杯となり、また前述のように斜面のため一発撃てば砲が大きく後退してしまい、砲撃は至難の連続となるのです。


 しかし、苦労の甲斐はありました。仏軍の第3散兵壕はこの8門の貴重な砲から僅か1,000mしか離れておらず、第2散兵壕の普兵からは十分な援護が得られ、また山の北、フォルシュター丘陵からは変わらず普第一軍砲兵3個中隊の正確な援護射撃もあって、遂に8門の大砲は仏軍塹壕に向けて猛烈な直射を始めたのです。

 そのクルップ砲榴弾の威力は凄まじく、たちまち仏軍は壕を棄てて退却を始めるしかありませんでした。

 すると重砲中隊の残り4門もようやく高地に上がって軽砲の左後方、ギッフェル・ヴァルド森の縁に沿って砲列を敷くことが可能となり、ここからも強力な砲撃を行うことが出来るようになりました。


 2個砲兵中隊はこのようにして名声を得ることとなりますが、犠牲もまた大きなものでした。両中隊は「紅山」に入って後、約半数の砲兵を失います。士官も例外ではなく、フォン・リンケル少佐を始め殆どの士官が程度の差はあれ負傷をし、それでも一人としてその場を立ち去りませんでした。


 仏軍砲兵の間断ない砲撃と、フォルバッハー山とギッフェル・ヴァルト森南部からの数回に渡る仏軍の逆襲突撃にも耐えて、この「紅山」山頂の砲兵たちは会戦の最後まで砲の傍をを離れずに戦い抜いたのです。



※注・Leib Regiment(ライブ=レジメント/親衛連隊)


 「ライブ」という独語は、直訳すれば「体」ですが、Leib Regimentの英訳はLife Guardsで、「ボディガード」同様の意味を持ち、筆者は「親衛」と意訳しています。

 この「ライブ」と名誉尊称が付く部隊はプロシアやドイツの諸邦軍に複数あります。しかし名前は似ていますが近衛軍団(Gardekorps)の所属部隊ではありません。

 元来は17から18世紀、神聖ローマ帝国やデンマーク、スウェーデンなどの王宮の「身辺護衛兵」として配属された、軍に所属しない王族所有の将兵が所属する部隊を指したようです。

 「近衛」部隊は王の直接指揮下で敵国軍隊や反乱逆賊と戦う軍隊であるのに対し、彼ら「ライブ兵」は現在のボディガードやシークレットサービス、そして皇宮警察のような存在だったのでしょう。

 一時期はヨーロッパ大陸各国に150余りの「ライブ連隊」があったそうですが、18世紀後半から次第に軍に吸収されました。彼らは通常の歩兵になって行きますが、「ライブ」は名誉尊称として残されました。



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