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スピシュランの戦い/バタイユ反攻と三普将の会合

 このスティラン=ウェンデルやほぼ同時刻に始まったスピシュラン高地での仏軍逆襲を企画したのは、仏第2軍団第2師団長で予備とされたバタイユ少将でした。


 仏語の「戦い(BATAILLE)」という名字を持つアンリ・ジュール・バタイユ将軍は、1816年生まれでこの当時54歳。リヴォリからワーテルローまでナポレオンと共に戦い続けたジャン・ピレー・バタイユ大尉の子息です。34年に王立軍事学校に入学、36年少尉に任官し軍歴をスタートさせました。47年外人部隊第2連隊の副官となるとアルジェリアで反乱鎮圧に活躍し、レジオン・ドヌールを受勲しました。54年に連隊長大佐、57年旅団長准将と順調に昇進すると59年、イタリア独立戦争に従軍、「マジェンタの会戦」に参加しました。66年8月、少将に昇進し、そのまま普仏戦争となります。仏軍の将軍としては珍しく自主的・積極的に行動するタイプで、その良い面がこの戦争でも出ています。


 バタイユ将軍は午後早くからスティラン=ウェンデル部落の南郊外で戦いの推移を見守って来ましたが、次第に普軍の攻撃が統一性なく飽和状態となり、緩慢となって行く様を目敏く見抜くと、普第74連隊の半数が退却を始めたのを期に、付近の諸部隊に対し直ちに逆襲を命じたのです。

 また、反攻の勢いが殺がれてしまわぬ内に、スピシュラン高地の予備としてフォルバッハー山の西側、スピシュラン部落からアルト=スティランへ抜ける街道沿いに温存していた仏戦列歩兵第67連隊に命令し、そのまま街道を下らせました。その1個大隊を製鉄所に進めて北側アルト=スティラン方面の普軍と戦わせ、2個大隊を製鉄所の東側に展開させてステック林方面を窺わせるのでした。

 この際にガルゲン丘やフォルシュター丘陵から普軍砲兵に狙われ続けていたスピシュラン高地の仏軍砲兵も前進し、山を下りスティラン=ウェンデルの南に砲列を敷き直した砲兵たちはステック林に向け、激しい砲撃を開始したのです。


 しかしこの砲撃は案外損害を与えられずに終わります。普軍の第39連隊や第77連隊の兵士たちは砲撃や猛射撃に耐え、林縁を頑固に守り続けました。

 バタイユ将軍は部下を叱咤激励し、製鉄所の東まで進んだ第67連隊の2個大隊にステック林攻撃を命じ、予備となって市街地南方に控えていた仏戦列歩兵第8連隊の1個大隊を惜しげもなくその第二線として突進させたのです。


 仏軍は先鋒として散兵を進め、その後方に幾列かの縦隊となって進むという仏軍教本通りの進撃法でステック林東南縁の隅を目指し、見通し良く開けたスティラン=ウェンデルの東郊外を進みました。彼らは必死でドライゼ銃を猛射する普軍の十字砲火の中、犠牲を厭わずに前進するのです。

 このステック林南端を守っていた普軍兵士たちは、度重なる攻防で指揮官がことごとく倒れ、下士官兵の損害も相当な数となっており、意気の上がった仏軍新規の3個大隊による突撃を防ぎ切ることなどまるで不可能でした。

 普第77連隊第1中隊は最後まで林端に踏み留まりましたが、中隊はばらばらとなり士官はホッペ中尉ただ一名が残り、中尉は驚くほど少なくなった兵士を率いて死地を脱したのでした。

 また、同連隊第2大隊の3個(第5,6,8)中隊は、これも驚くほど員数の減った第39連隊の兵士と共に、ステック林中の南部で徹底抗戦しましたが仏軍の勢いは止められず、林の中間点まで押し返されるのでした。


 スティラン=ウェンデル西郊外にいた仏予備砲兵の1個中隊は、この仏軍逆襲に乗じてショーネックへ達する街道脇まで前進し、フォルバッハー山西や東郊外の友軍砲兵と一緒にステック林と「紅山」間を砲撃し、他の砲兵中隊はスティラン=ウェンデル南方スピシュラン・ヴァルド森の斜面に陣取りました。この南側砲兵は国際鉄道線の北とアルト=スティラン方面を猛砲撃し、普軍をますます困難な状況へと追い込むのでした。


 この「バタイユ反攻」はステック林のみならず、アルト=スティラン方面でも発動され、仏軍は一気に失地を回復して行ったのです。


 普第74連隊のヴェルナー少佐による後退命令を受けた第74連隊半個連隊(第1,2,5~8中隊)は、一部が国際鉄道に沿って、一部がショーネック街道に沿って後退し、共にドラツーク池を目指しました。

 この時、彼らの後退線上にいた第39、第53、第77それぞれの連隊に所属した多くの小隊・中隊もこれに従い、ステック林以西の普軍は孤立した数部隊だけとなったのです。


 この普軍後退時、普第77連隊第4中隊はショーネック街道と国際鉄道が交わる踏切に孤立してしまいますが、その後敵中を見事に突破して退却しました。しかしこの中隊は後退中の戦闘で、隊として維持するのが困難となるほどの大損害を受けてしまうのです。

 アルト=スティラン付近で戦っていた第77連隊の2個(2,3)中隊と第53連隊の2個(9,10)中隊は、仏軍の猛銃砲火の中整然と退却し、スティラン森の縁まで後退しました。

 この時、普軍の最右翼となっていた第53連隊の2個(11,12)中隊は後退する友軍の西側を援護し、自分たちは後退せずこの地に踏みとどまりました。

 また、後退した普軍は鉄道堤を越えて追撃して来た仏軍に対し猛射撃で応じ、ここで猛烈な銃撃戦の末に仏軍を撃退し、スティラン森を守り抜くのでした。


 この頃、スティラン=ウェンデルでは「バタイユ反攻」が正念場を迎え、仏兵は攻守を転じて総軍進撃が開始されました。


 仏軍攻撃部隊は普軍戦線の右翼(北西)を後退させると同時に、フォルバッハー山より仏第8連隊の一部が山を下ってバラック・ムートンへ走る渓谷を突進、普第77連隊F大隊が確保する家屋群を襲撃しました。しかし普軍はゴールデネン・ブレンから即座に援軍が駆け付け、またガルゲン丘及びフォルシュター丘陵からの砲兵援護もあり、ここでは仏軍の逆襲は撃退され不成功と終わったのでした。


 スピシュラン高地ではバタイユ師団の同地における最後の増援、仏第8連隊の2個大隊が前線に到着し、ラヴォークペ師団配下の疲弊し始めた散兵線を再活性化しました。折しも高地の西では「バタイユ反攻」が始まり、その勢いは高地の守備兵にも乗り移ったかのように、高地上の仏兵は一斉に逆襲を始めたのでした。

 

 仏軍ラヴォークペ将軍の狙いは「紅山」とギッフェル・ヴァルド森北縁をしつこく攻撃する普軍諸部隊で、仏軍の生き返ったかのような強襲は中隊単位で戦う普軍の前線諸隊を浮き足立たせて序々に後退させ、午後6時過ぎにはギッフェル・ヴァルド森南西端とパッフェン・ヴァルド森西の高地上から普軍を追い出して奪還したのです。


挿絵(By みてみん)


 この少々前となる午後5時頃。

 ガルゲン丘横のザールブリュッケン~フォルバック本街道の路傍に普軍三名の将官が相会しました。その三名とは、第3軍団長C・アルヴェンスレーヴェン中将、第8軍団長フォン・ゲーベン大将、そして地域の最上級士官・第7軍団長フォン・ツァストロウ大将でした。

 彼らは今後この戦場でどう戦うのか、その作戦について話し合うため集合したのです。


 元より普軍大本営は今日(8月6日)、この地で会戦を行うとは思ってもいませんでした。その作戦命令では仏軍との会戦を3日後の9日としており、本日6日はザール川まで本軍前衛が、国境を越えるのは精々先鋒部隊で、このスピシュラン高地周辺での戦闘は、各軍団長も予想出来なかった緊急事態だったのです。


 とは言うものの、ここに至る事態を招いたのも、ここに集う三名の軍団長であることも確かでした。

 普第14師団長フォン・カメケ中将が、斥候の伝えた前線の敵情を信じ切って読み誤り、フランソア少将の支隊を三倍の敵に衝突させたのがそもそもの発端ですが、砲声が聞こえるや、独断に独断を重ねた各級指揮官の判断で、ザールブリュッケンには多方向から部隊が集中することとなります。それを追認し拡大させたのは正にここにいる三人の軍団長でした。


 彼らは自分たちが助長した戦いを終わらせるべく、「三人寄れば文殊の知恵」(独語ではVier Augen sehen mehr als zwei/四つの目は二つの目よりもよく見える。即ち、一人より二人、だそうですが……)とばかりにその考えを統一しようとしたのです。


 まずゲーベン大将が現状を要約しマインツの大本営、即ちヴィルヘルム1世普国王へ奏上の電信を発信しました。ただしこれは午後4時以前の話であり、要するに「右翼はスティラン=ウェンデルを北と東から狙う位置まで前進し、中央はローター・ベルク(紅山)を、左翼はスピシュラン高地上の敵を駆逐し前進中。独軍は勝利を確実にしつつあり」と言うもので、現状(午後5時)とは少し違います。

 また、C・アルヴェンスレーヴェン中将はここに至る直前にヴィンター丘から高地の敵を観察し、その結果高地へもっと多くの兵力を注がねばなるまい、と決心していました。

 戦場に最後に登場したツァストロウ大将は、ザールブリュッケンに至る途上、副官をフォルクリンゲンの第13師団本営に派遣し、師団長アドルフ・フォン・グリュマー中将に対し「フォルバックに向けて前進せよ」と命じていました。

 

 三名の将官は自らの眼で見、自らの鼻で硝煙を嗅ぎ、自らの耳で激しい銃砲声を聞き、そしてほぼ同様の結論に達したのです。

 つまりは「紅山」の攻略が優先され、そのためには力押しでスピシュラン高地へ兵を進め、その力点は「紅山」とその周辺、ギッフェル・ヴァルド森西部、そしてフォルバッハー山にある、と。


 この結論からC・アルヴェンスレーヴェン中将は第3軍団からの新参部隊をギッフェル・ヴァルド森へ向かわせ、その方面の統一指揮を自らが行う、と宣言しました。

 また、この話し合い直後にステック林やギッフェル・ヴァルド森から相次いで「戦況が一変し我が軍は後退中」との至急報が届き、やがてその証明のように、仏軍砲兵の放つ榴弾が将軍たちのいるガルゲン丘にまで落下して来ました。

 ツァストロウ大将はガルゲン丘の砲兵列に対し、直ちにフォルシュター丘陵まで前進せよ、と命じ、自らは流動する戦況を確かめようと愛馬に跨がり、同道しようと慌てて馬を取り寄せる副官や参謀を後目に、急ぎフォルシュター丘陵の南側という正に最前線まで騎行して行くのでした。


挿絵(By みてみん)


 アレクサンダー・フリードリヒ・アドルフ・ハインリヒ・フォン・ツァストロウという軍人は1801年生まれ、この会戦当時69歳の誕生日を5日後に控えるという老獪な将軍でした。

ナポレオン戦争中に歩兵連隊を率いたプロシア軍大佐の子息として生まれ、14歳で陸軍初等学校入学(日本で言うなら陸軍幼年学校)、15歳で軍曹の階級から長い軍歴をスタートさせています。

 19歳で少尉任官し、35歳で晴れて参謀本部課員となると、1839年から42年まで帝国軍育成のためトルコ帝国へ派遣されています。記憶力の良い方はお気付きの通り、モルトケがトルコから帰った年にツァストロウはトルコ軍に派遣されており、1歳年下の彼がモルトケの後任となったと思われます。トルコから帰った後はずっと野戦軍指揮官として軍歴を歩み、62歳で中将となると第11師団長となり、そのまま66年に普墺戦争を迎えたのでした。

 普墺戦争では当初ぱっとしなかった第6軍団に所属しますが、ケーニヒグレーツの戦いで大活躍する姿は本編「ケーニヒグレーツの戦い」をご参照下さい。その戦争でライバル?軍団長だったシュタインメッツ大将配下の第7軍団長となったのも何か因縁めいたものがあります。


 長い野戦部隊生活の証左である日に焼けて深い皺の目立つ顔を持つベテラン将軍は、勢いに乗じて突き進む仏軍の様子を眼に納めると、将軍を追いかけてやって来た第一軍の砲兵諸中隊を差配して、フォルシュター丘陵を二つに割る街道の両側に砲列を詰めて展開させました。程なく、これまでも普軍の頼りになる裏方として活躍した砲兵たちは、難攻のスピシュラン高地、特にフォルバッハー山方面に対し猛烈な援護砲撃を開始したのです。


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