スピシュランの戦い/第1次スティラン=ウェンデル攻防戦
普軍全体の右翼側、ステック林からスティラン=ウェンデルへの進撃は当初、フォン・フランソア少将の右翼隊(第39連隊第3大隊と第74連隊第2大隊)によりステック林からの進出を狙いますが、スティラン=ウェンデル方面を守る仏第2軍団の左翼、バージ少将師団の前衛部隊(仏猟兵第3大隊主体)が頑強に抵抗し、膠着してしまいます。ここにフランソア少将が2個中隊を派遣して攻撃を建て直し、結果ステック林を占領しますがそれ以上は進撃することが叶いませんでした。
そこへ普第14師団の第28旅団がフォン・ヴォイナ少将の指揮で投入されます。
しかし、旅団の第77連隊フュージリア(以下F)大隊は「紅山」の西麓から税関付近の戦いに投じられ、同連隊第2大隊と第1大隊の半分に当たる2個中隊はステック林の増援となり、残る第53連隊と第77連隊の2個中隊のみが旅団長の目論見通りに動き、ステック林の北西側に広がるスティラン(ヴァルド)森へ迂回進撃すると、スティラン=ウェンデルの市街地を北側から攻撃し、仏軍の防衛陣を東と北に分散させる作戦に出ました。
第77連隊ゴールデネン・ブレン(税関付近)の戦闘
これはある程度の成功を収め、ヴォィナ少将は部落の北にある炭田を占領し、北のショーネック部落へ抜ける街道や鉄道支線を確保しましたが、後続の行軍が森林中の障害物などのために大幅に遅れたり他へ転用されたりと適時に増援を得られなかった普軍の前衛による攻撃は、次第に尻つぼみとなってしまったのでした。
このように普軍の攻撃が中途半端なまま多方面に及んだのは、大隊単位で随時投入された部隊が同じ連隊に属さず、部隊の指揮が統一されずに目標も定められないまま下級指揮官のほぼ独断により戦い進めたことにも原因があります。
攻撃が北と東からの「合撃」スタイルとなったのも、元を正せばヴォイナ少将がフランソア旅団に属する部隊には直接命令を下さず、自分の部隊のみ指揮をしていたためでもあります。
しかしヴォイナ将軍のみを責めるのも酷で、前述通りこの周辺の森が軍隊の行動に適さない深い下草に覆われていて進撃が困難となったこと、大隊長レベルが独断で他の部隊の援護や増援に廻ってしまったことに大きな原因があったのでした。
いずれにせよ、普軍右翼の攻撃が次第に停滞して限定的な成功しか納められなくなると、仏軍の逆襲もまた激しさを増して行くのです。
仏第2軍団長フロッサール中将は、このスティラン=ウェンデルの防衛がスピシュラン高地での防衛戦に大きく影響することを理解しており、ヴォイナ隊がスティラン森の中を西に進んでスティラン=ウェンデルを包囲する恐れが見えて来ると、午後4時、最後の予備隊となっていたヴァラゼ准将旅団の第55連隊と軍団砲兵隊をフォルバックから前進させ、スティラン=ウェンデルへ投入したのです。
これにより普軍のばらばらに投入されているおよそ8個大隊に対し、仏軍はシャルル・ニコラ・バージ少将師団のおよそ10個大隊に同師団の残り3個大隊の増援が加わり、形勢は仏軍有利へと逆転するのでした。
ヴォイナ少将は午後4時30分頃、第53連隊第1大隊を直卒して仏軍左翼に対する攻撃を活発化させ、スティラン森に薄く広く散開していた仏第3猟兵大隊の一部兵士たちを狩り立てるように駆逐して、炭田へ延びる鉄道支線沿いにスティラン=ウェンデル部落の北部に至ります。
しかし、部落ではちょうど市街地に仏軍の増援が続々到着している最中で、元より陣を構える仏バージ師団の兵士と共に配置に付く新参兵士の数はおびただしいものがありました。敵はヴォイナ隊の進出を知るや、国際鉄道本線の南に聳える教会の尖塔や、市街地に沿って並び建っている各種工場の社屋から猛烈な銃撃を浴びせて来ました。
ヴォイナ少将には後続の部隊、第53連隊F大隊もあったのですが森の中で大きくはぐれてしまい、予備隊のいない状態の1個大隊で、およそ1個旅団以上と見える部落の守備兵を攻撃するのは正しく自殺行為と思えました。
ヴォイナ将軍は状況を冷静に判断し、ここは一旦退いて旅団各部隊の連絡を確立し、部隊を一括指揮するために旅団を集合させてから攻撃を再構しようと決心するのです。
こうして第53連隊第1大隊はドラツーク池方面へ反転し、急速に戦場を離れました。しかしヴォイナ少将の知らないことに、この時少将の第28旅団は既に旅団としての形態が大いに崩れていたのです。
第53連隊第2大隊は初めから後方で第7軍団砲兵の護衛任務として後置され、今のところ戦闘には従事していません。同連隊のF大隊はスティラン森をさまよい、ヴォイナ少将を探して躍起になっていました。
旅団の片割れ・第77連隊では第1大隊の半大隊(2個中隊)のみスティラン森に入ってヴォイナ少将を追い、もう半大隊はステック林周辺でフランソア支隊右翼隊と共に戦っています。
同連隊第2大隊もステック林に入り、スティラン=ウェンデル製鉄所に対抗するフランソア支隊兵士を援護し、同連隊F大隊は街道を進んで税関方面からフォルバッハー山麓沿いにある数件の家屋(ゴールデネン・ブレムやバラック・ムートンと呼ばれる由緒ある国境の家屋群。後述)の戦いに巻き込まれていたのでした。
一方で元よりステック林からスティラン=ウェンデルの攻防に携わっていた第74連隊第2大隊は、前述のようにスティラン森から露天掘りの炭田を労なくして占領し、ここを起点に南下を企て国際鉄道の北側、アルト=スティランの家屋数軒を占拠しました。更にステック林からやって来た同連隊の半大隊(第1,2中隊)と合同し、国際鉄道の線路堤際にあった煉瓦工場をも占領、ここを強固な拠点としたのです。
この第74連隊の攻撃時、敵の混乱に乗じて第77連隊第4中隊(第1大隊所属)がヴァックス中尉に率いられステック林より鉄道線路堤を乗り越えてやって来ると、敵がアルト=スティランを棄ててスティラン=ウェンデルに逃げ去るのを見てアルト=スティランの家屋を74連隊の兵士と並んで次々に占拠し、更に午後4時過ぎ、北のショーネックへ抜ける街道が鉄道を越える部分に作られた踏切を襲い、ここを守っていた仏猟兵たちを蹴散らすと、ついに東側のスティラン=ウェンデル部落内へ突入し、鉄道に沿った家屋を占拠すると、三十数名の捕虜を得るのでした。
ステック林の南縁では戦闘開始以来第39連隊の第3大隊(3個中隊のみ。第9中隊は「紅山」)が仏猟兵と戦い続け、午後3時には第77連隊第1中隊も戦線に参加しました。しかし、激しい攻防戦のため77連隊第1中隊長のフォン・マンシュタイン大尉は戦死、中隊の他の士官も負傷し、増援を得て息を吹き返した仏軍は一気に突撃を開始して午後4時、ステック林の南部は再び仏軍の手に帰したのです。
ここへ駆けつけたのが第77連隊第2大隊でした。この大隊は午後3時頃にドラツーク池方面からステック林に進出、第6と第7中隊を先陣、第4と第5中隊を後衛として半大隊(2個中隊)ずつ並列で前進しました。林の中程で第7中隊のみ林外へ出てフォルバック街道を経て税関へ前進し(後述)、残り3個中隊は大隊長フォン・ケッペン少佐が率いて39連隊第3大隊の戦線へ加わったのです。
この新たな普軍の登場でステック林南端を巡る戦いは激しさを増し、仏軍が不利と見るとフォルバッハー山の税関方面へ突出した高地に砲列を敷いていたミトライユーズ砲中隊が猛射撃を開始、スティラン=ウェンデル郊外に布陣する砲兵隊も霰弾を発射して普軍の攻撃を大いに妨害するのでした。
更に税関南西の街道沿いからは普軍側面を狙って家屋群に潜んだ仏兵が猛射撃を行い、普兵を苦しめます。しかし普軍は犠牲を厭わず前進を続け、遂にステック林南端を再占領すると、林の南東側で頑強に抵抗していた仏軍散兵線をも蹴散らして確保するのでした。
第77連隊第6中隊は林の南西側斜面に展開して防御し、同第5中隊は林の先の南北に走る街道沿いに遺棄されていた仏軍砲兵の大砲5門を確保しようと走り出ましたが、これは仏軍必死の十字砲火で阻止され、中隊は林に逃げ帰りました。
こうして普軍は林の南西方面では敵砲兵の残留品を捕獲出来ませんでしたが、南東側では林の縁に仏兵が遺棄して行った多くの野戦用資材やテント、砲兵の弾薬などを満載した馬車6輌などの鹵獲に成功したのでした。
仏軍はこの後午後5時30分までに2回、ステック林南縁に対し逆襲を行いましたが、普軍部隊はその都度これを撃退することに成功しました。しかしその際に先頭に立って戦った中隊長3名を含む下級士官・尉官たちの多くが負傷し、または戦死を遂げたのです。
ステック林の戦いが始まって以来、仏軍はフォルバックに向かう街道を重視してここからの普軍の突破を警戒し、「紅山」の西山麓となる国境付近、税関とステック林の間に兵を集中し、また、税関から西へ街道沿いに立てられたいくつかの建造家屋、ゴールデネン・ブレン(税関を含み現・ナシオナル通り数百m間の主として沿道南側にある家屋群)やバラック・ムートン(ゴールデネン・ブレンの西、街道の北にある数軒の家屋群)と呼ばれる煉瓦・石造の家屋群に多くの伏兵を忍ばせていました。
仏軍予備のアンリ・ジュール・バタイユ少将師団が戦場に進んだ後、この師団から仏戦列歩兵第8連隊の一部と仏戦列歩兵第66連隊の1個大隊がこの国境税関付近の防衛陣に加わり、スピシュラン高地のラヴォークペ師団とスティラン=ウェンデルのバージ師団の隙間を埋めて散兵線を増強し、これら街道沿いの家屋群は普軍にとって恐るべき強力な阻止拠点となっていたのです。
普軍は最初、この税関を抜けるザールブリュッケン~フォルバック本街道を重視せず、それは「紅山」攻略後に処置すべき目標と考えていた節がありました。
最初に税関付近に現れたのは普第39連隊第12中隊の1個小隊で、その本隊がステック林で戦う間にその側面を突かれぬよう、警戒するためだけに街道に残置されます。その後、第74連隊第3中隊の大部分もここへやって来て警戒任務に加わり、午後3時を過ぎると更に第28旅団所属の第77連隊第7中隊が到着し、元よりいた200名前後の警戒部隊を吸収すると、ようやく国境の税関へと向かったのでした。
この仏管理の税関は国境の直ぐ仏側、街道の西にあり、ゴールデネン・ブレンの建物群東端に当たります。古くから独仏間の争奪の地となったザールとロレーヌ地方の歴史を目の当たりにして来た歴史的な場所でした。
この税関からゴールデネン・ブレンに籠もる仏兵の射撃は猛烈を極め、やや軽率に前進した普軍の損害はたちまち甚大なものとなりました。普第77連隊第7中隊は中隊長始め士官全員が負傷して倒れ指揮官不在となりますが、それでも残った兵士たちは同僚部隊に入り交じり、なおも前進を続けたのです。
午後2時頃にフランソア将軍から命を受けた普第74連隊長フォン・パンヴィッツ大佐が、この税関からステック林にかけての諸部隊統合の長となると、大佐はステック林北端に到着した普第28旅団の第77連隊に懇願し、そのF大隊を援軍に差し向けさせることに成功します。
この大隊はステック林から南東に前進すると第9、第12中隊を右翼バラック・ムートン家屋群に、第8、第11中隊を、ゴールデネン・ブレン家屋群へと向かいました。税関へ前進するおよそ2個中隊と合わせた6個中隊は、ほぼ同時にこれら国境街道沿いの仏軍拠点に襲いかかったのでした。
ゴールデネン・ブレンの戦い
この攻撃により普軍はまず税関から仏兵を追い出し占拠しますが、スピシュラン高地側からの猛銃砲火によりバラック・ムートンを攻撃した半大隊(2個中隊)は指揮官のフォン・ダウム大尉が戦死、他に下士官兵百名余りを失う大打撃を受けてしまいました。
これを見た普77連隊F大隊長ブレスラー少佐はバラック・ムートン攻撃隊に駆け付け、その先頭に立って督戦・隊卒を鼓舞し、兵士が激減した部隊を再び突進させるのです。ほぼ同時にもう半大隊がゴールデネン・ブレンを攻撃し、屋外で戦っていた仏兵はたまらず家屋内に逃げ込み、ここで強靱な建物に頼って猛射撃を繰り返すのでした。
ここでしばらくの間激戦が繰り広げられますが、普軍は犠牲を厭わずに粘り強く攻撃を続け、次第に数の減った仏兵は包囲殲滅されるのを避けるため家屋群を棄て、逃走を始めたのでした。
そして午後4時、遂にバラック・ムートンとゴールデネン・ブレンの家屋群は陥落し、普軍支配下となりました。
普軍は仏軍の逆襲に備えて、銃砲火でボロボロとなり仏兵のおびただしい血が床や壁を染める家屋で防護陣地を構築し始めるのです。
仏軍はフォルバッハー山から西に張り出す斜面に陣取り、この街道沿いに向けて間断なく銃火を浴びせますが、普軍は耐えてこの家屋群を守り抜き、やがてこの家屋群はフォルバッハー山攻撃の重要な拠点となるのでした。
バラック・ムートンの戦い
この少し前、普第53連隊F大隊は半大隊ごとの梯団となって同連隊第1大隊の右翼側スティラン森中を進みましたが、そのまま西へ進むと露天掘り炭田のため森が途切れた空き地に出、ここに第12中隊を残し第9中隊は炭田の鉄道支線の西側で仏軍の散兵線にぶつかって戦闘を開始、仏兵を国際鉄道の線路堤の南側まで撃退することに成功しました。
この中隊長フォン・バスチネルラー大尉は敵を追って鉄道堤を越えると、鉄道沿線の家屋に突入しここを占拠し、周辺の家屋や工場に籠もった仏兵を攻撃して追い出し、仏軍がこのアルト=スティラン部落北西部から撤退し、スティラン=ウェンデルの製鉄所まで撤退するしか手がないまでに敵を追い込むのです。しかし後方の12中隊から伝令が走り来て「敵の強力な部隊が西から前進中」との警告を受けると、大尉は潔く直ちに兵をスティラン森まで退かせたのでした。
この直後、第53連隊F大隊に東から増援がやって来ます。普第77連隊第2、第3中隊はフォン・フランケンベルク大尉の指揮で国際鉄道に沿って前進し、バスチネルラー中隊の攻撃と撤退を見ると空かさずアルト=スティラン北西部を攻撃し再占領、この周辺の仏兵は完全に製鉄所まで後退しました。
その右翼(西)側では第53連隊残りの半大隊(第10,11中隊)がスティラン=ウェンデル部落北郊外を攻撃し、ここでは一進一退の戦いが続いたのです。
このスティラン=ウェンデル北部には仏バージ師団の仏猟兵第3大隊、仏戦列歩兵第32連隊第3大隊、仏戦列歩兵77連隊(普軍にも同戦線に第77連隊が参戦しています。混同注意)の第1、第3大隊などが頑強に抵抗していました。普軍は普第53連隊と普第77連隊それぞれの一部がこれに対抗し、その先頭はスティラン=ウェンデル郊外に達して製鉄所を包囲する姿勢を見せ、中には敵の散兵線と100m程度の至近距離で相対する部分もありました。
この先仏軍は鉄道停車場付近の石炭や鉄路を積み上げた集積物の陰に潜み、また重厚な煉瓦と石造りの製鉄所に籠もって普軍の攻撃をはねつけるのです。また普軍も占拠した家屋を砲撃や銃火で攻撃されても踏ん張って耐え、よく家屋群を維持し続けました。
この膠着状態は、どちらが早く援軍をスティラン=ウェンデルに送り込むかで決しようとしていました。
午後5時頃、アルト=スティランの高台を占領していた普第74連隊の兵士が、仏軍の歩兵縦列と大砲の車列がスティラン=ウェンデル部落南方のスピシュラン・ヴァルド森(フォルバッハー山の西、街道まで広がる森)の斜面下を部落へ向かって来るのを目撃します。これは仏第2軍団長フロッサール中将が出した最後の予備、仏戦列歩兵第55連隊と軍団砲兵隊の姿に他なりませんでした。
その先駆した砲兵中隊がアルト=スティランの普軍諸部隊を砲撃し始めると、スティラン=ウェンデルの仏兵も活気を取り戻し、攻撃が激しさを増すのを見た普軍第74連隊のヴェルナー少佐はアルト=スティランにおける無傷の最上級士官として、既にヴォイナ将軍の第53連隊第1大隊が後退し、援軍もなく敵の攻撃が激しさを増す中、これ以上の攻撃前進行動は危険と判断し、付近に展開する第74連隊所属の6個中隊(第1,2,5~8)に対しドラツーク池方面まで急ぎ退却を命じたのでした。
この普軍後退の動きは普軍の動揺を誘い、スティラン=ウェンデル方面で戦う他の普軍部隊の一部退却を呼び込みます。
そして勝機と見た仏軍は午後6時、一斉に北東へ、ステック林からドラツーク池方面へと反攻を開始したのでした。




