スピシュランの戦い/死闘!ギッフェル・ヴァルド森
午後4時前後に始まった普軍による「第二次スピシュラン高地攻撃」により「紅山」からギッフェル・ヴァルド森、パッフェン・ヴァルド森において壮絶な攻防戦が展開されました。
普ゲーベン大将によって企画されたこの戦い当初、スピシュラン高地における仏軍は左翼側「紅山」から東へ、戦列歩兵第63連隊、猟兵第10大隊、戦列歩兵第2連隊の順に散兵線を敷き、戦列歩兵第40連隊(老婆心ながら。普軍もこの会戦に同番号の歩兵第40フュージリア連隊を展開していますので混同にお気を付け下さい)はそれぞれの連大隊を連絡する形で1個大隊ごとに展開していました。
対する普軍は第14師団に属する歩兵およそ10個中隊、即ち第74連隊フュージリア大隊(以下F大隊とします)の4個(9~12)中隊、同連隊第4中隊、第39連隊第5,6,7,9中隊、同第3中隊の2個小隊が森と稜線に張り付いていました。
ここに前節で記した普第5と第16師団のおよそ8個大隊、合わせて1個旅団強の兵力が順次到着し、加速度を上げて熾烈な戦闘となって行くのです。
この会戦中盤の戦い(午後4時付近から午後6時過ぎまで)では、普側の部隊が入り混じり、多少の混乱を見せながら戦ったお陰で時間経過や詳細な記録が残されていません。4個旅団に渡る所属部隊が肩を並べ、同じ目標に向けて集中したのですから無理もありませんが、彼らの上司と同じく、下士官、兵士に至る末端まで諍いも非協力的態度もなく、献身・傾注・率先して敵と戦った姿が方々で垣間見られたのはさすが普軍でした。
普軍の左翼(東)では4時30分頃、フォン・ガルレルツ大佐指揮の第48連隊第1とF大隊が、F大隊を先陣にそれぞれの大隊が2個中隊ずつの梯団となって縦隊横列で進み、ギッフェル・ヴァルド森北東端に達します。その先鋒は第9と第12中隊でした。2個の大隊は仏軍の不気味に少ない銃砲火をかい潜り、森の中を早足で前進してパッフェン・ヴァルド森との境にある鞍状の空き地に到着します。ここで第1大隊を予備としてF大隊が先行し、木の生い茂る斜面を登りました。
これに対し仏軍歩兵(主に第2連隊所属兵)は塹壕や大樹の陰から盛んに発砲しますが、普第9中隊が仏の散兵線の側面を攻撃すると、包囲を恐れたのか仏軍の一部が後退し、普軍は損害を恐れず前進して敵を追い、遂に仏軍戦線は崩れて総退却の様となって、普軍は再びギッフェル・ヴァルド森の南縁に達しました。
しかしこれは前回、普第39連隊第1大隊の攻撃時に仏軍が取った作戦と同じ「罠」でした。
仏軍はある程度抵抗した後にギッフェル・ヴァルド森の南に広がる空地へ後退し、ギッフェル・ヴァルド森の南縁に沿って走る細い林道脇の深い下水溝に入って隠れ、ギッフェル・ヴァルド森から空地へと出て来る普軍を狙い撃ちしようとするのです。
第39連隊はこれで強か痛め付けられて後退しましたが、今回の第48連隊は違いました。
普第5師団長フォン・シュテュルプナーゲル中将は将星ながら最前線にやって来て、第48連隊第1大隊の控える土塁に到着すると、仏軍の右翼(東)側が敵の末端であると見抜き、そこからの突破・包囲を狙って1個小隊で自軍左翼側を警戒援護させつつ第1大隊を前進させ、F大隊に遅れること30分でギッフェル・ヴァルド森南縁に到着しました。
これを見ていた仏軍側は、兵力差が埋まりつつある状況から先手を打って攻撃に転じ、猛烈な射撃と白兵銃剣突撃を開始するのです。しかしシュテュルプナーゲルの手当で兵力の増した普軍は数度に渡る敵の逆襲を防ぎ切り、一歩も退かずにこの森の南縁を守ったのでした。
第48連隊 ギッフェル・ヴァルド森の戦闘
一方、高地の普軍戦線右翼(西)では、フランソア将軍の戦死後も依然として第14師団の5個中隊(第74連隊F大隊と第39連隊第9中隊)が「紅山」北斜面突端に張り付いていました。
しかし状況は深刻で、既に弾薬は乏しく、負傷者は続出しますが健気に呻き声を堪え、健常な兵士の疲弊も激しく、ただ強靱な精神力と旅団長の遺志を守るという忠義心を支えとして、「紅山」高地線最外縁の散兵壕に拠点を維持していたのです。しかしここも風前の灯と言え、一刻も早い援軍が待たれていました。
ここから「紅山」頂上までは緩斜面で、途中に起伏があって波状に斜面がうねり、ここに仏軍は第2の散兵壕を延ばして潜んでいました。
ここからは「紅山」の緩斜面全てを射界に収めることが出来、仏軍猟兵第10大隊の兵士が油断なく構えていました。フランソア将軍を撃ち倒したのも彼らの射撃だったのです。
またその後方山頂部には第3の散兵壕があり、続く南側の緩斜面に茂る樹林を背景に斜面全体を見晴るかしていました。
更にその後方、「紅山」から南のフォルバッハー山方面に続く尾根には仏軍砲兵が潜み、有効な砲撃を繰り返す普軍砲兵の隙を突いて時折砲撃を繰り返していました。
また「紅山」の木々が少ない斜面はギッフェル・ヴァルド森方面から丸見えで、ここに潜む仏軍兵は、普軍が狭い「紅山」の尾根を上れば側面から有効な射撃を浴びせることが出来ました。
このような厳しい状況下にありながらも「フランソアの」兵士たちは、一度援軍が到着したならば直ちに援護射撃をお願いし、共に山頂へ突撃して旅団長の遺志「紅山の占領」を自分たちの手で成そうと心に秘めていたのです。
この勇敢で悲壮な決意を内に秘め、ひたすらに援兵を待つ「フランソアの」兵士たちに対し、最初に手を差し伸べようと接近したのは第16師団の第40フュージリア連隊第3大隊でした。
レッパース丘を発したこの大隊は最初、ギッフェル・ヴァルド森に向かい行軍していたのですが、「紅山」に向かう予定の同連隊第1大隊より先にスピシュラン高地北縁に迫りました。そこで「紅山」の窮状を知った大隊は目標を「紅山」へと変更したのです。
大隊中第9中隊は先鋒となって突進し、午後4時30分前後に「フランソア隊」と合流します。「フランソア隊」には既にほとんど弾薬がありませんでしたが、彼らは現場に留まることや後退を拒否し、第9中隊と共に進撃することを熱望懇願するのです。その心情を解した第9中隊は、後続を待たず直ちに一緒となって突撃を開始、仏猟兵から猛烈な射撃を浴びながらも斜面を突き進み、遂に第2の散兵壕へ突入しました。
普軍兵士の半数以上に銃弾がなかったとは言え、白兵接近戦なら互角です。ここで短いながらも凄惨な白兵戦が行われ、鬼神が乗り移ったかのような気迫で戦う普軍が押しまくり、ここに配置されていた仏猟兵は多くが負傷するか戦死、残った兵士は命辛々第3の塹壕へと逃げて行きました。
この時、第40連隊の第2陣、第12中隊も高地際に登って来ました。この中隊は先陣が第2散兵壕に突進するのを見るとその少し東側に寄って前進し、仏軍第3散兵壕の右翼側から突入を試みました。しかし仏軍も必死に防戦し、彼らはその猛烈な弾雨を身を隠す場所の少ない緩斜面でしばらくの間耐えましたが堪らずに退却し、ギッフェル・ヴァルド森側の急な斜面下(現在はオタール通りとして知られる道路付近)まで退きました。
「フランソア隊」と第9中隊も第2の塹壕で隊を整える時間を要し、ここで一旦普軍の攻撃は滞るのです。そこで「紅山」直下まで前進し戦況を確認した普第16師団長バルネコウ中将は、「紅山」下に到着した第3大隊残りの2個(10,11)中隊に対し、直ちに山上へ突進するよう命じるのでした。
この2個中隊は直ちに行動を起こし、第11中隊は北斜面を登ると第9中隊と「フランソア隊」の援軍となり、第10中隊は西側斜面に回り込むと一気に登攀し、この斜面で警戒していた仏軍散兵線にいた兵士30人ほどを急襲し捕虜とすると、更に登り続けて仏軍左翼からの攻撃を期するために準備を始めたのでした。
しかし、「紅山」を包むように前進した普第40連隊第3大隊の攻撃は仏軍防衛陣を刺激し、「紅山」の南から仏第10猟兵大隊の予備兵と同第63連隊からの増援が送り込まれ、これらの仏軍部隊はギッフェル・ヴァルド森側から普軍左翼(東)を襲う形で突進して来たのです。
この危機に際し、ちょうどタイミング良く普軍側にも増援が現れます。
普第5師団第12連隊第1大隊は、午後4時にレッパース丘を発して「紅山」へ急行しますがその先鋒、第1と第2中隊がこの重要な瞬間に山麓へ到着したのでした。
第1中隊はフォルバックへの街道西側を進むと「紅山」へ突進し、北側斜面を一気に登攀すると南東側から尾根伝いに迫る仏軍の襲撃に対し、第40連隊の兵士たちと共に防戦し仏軍の逆襲を撃退しました。
また、この防戦中に第2中隊も街道の東側を急進し、「紅山」の東ギッフェル・ヴァルド森の北縁から500mほど北(ヴィンター丘の南西、現在の独高速道路6号線付近)で丘の起伏の下に布陣し、ギッフェル・ヴァルド森北縁の仏軍を牽制しつつ、後続する第1大隊の2個(3,4)中隊が「紅山」東斜面から登攀し攻撃するのを援護するのでした。
この「紅山」東斜面を登った第3,4中隊は直ちに高地上の激戦に参加し、仏軍の2度に渡る逆襲を跳ね返すのです。しかし犠牲も大きく、この部隊の先頭に立って部下を鼓舞していた普第12連隊長フォン・ロイター大佐は、あのフランソア将軍のように全身に銃弾を浴び、致命傷を受けてしまいました(包帯所に搬送後死亡)。
このように増援としてレッパース丘やヴィンター丘を発した部隊は、全て吸い寄せられるように「紅山」とギッフェル・ヴァルド森へと進みました。
ヴィンター丘を遅れて発した(午後4時30分)第48連隊の第2大隊は第40と第12連隊、そして先に発した第48連隊本隊の2個大隊との間を連絡する任務を受け、ギッフェル・ヴァルド森の北縁に接近します。
ここで中隊単位での縦列横隊に展開し、右翼(西)は仏軍散兵が待ち構える森へ突進し、中隊長1名が戦死する激戦の末に森の北縁を占領、更に敵を求めて森の斜面を登り始めました。
その左翼(東)は右翼に連なり森に入り、既にギッフェル・ヴァルドの北縁森林で戦闘中の友軍(第39連隊第2大隊、第74連隊第4中隊、第12連隊第2中隊)に加わって突撃を繰り返し、「紅山」の東麓で谷となる部分を占領するのでした。
第40連隊の第1大隊は、レッパース丘を発した頃には2個中隊ごと前後に分かれて前進しましたが、スピシュラン高地に近付くに連れて縦列横隊となり、まずは第1と第4中隊が「紅山」の東側へ進みました。この2個中隊はギッフェル・ヴァルド森北端の丘陵を巡って戦う友軍に交じり、森の北西端を占領します。続く第2と第3中隊はその左翼(東)へ向かい、森へ入ると激しい戦いに参加したのです。
このギッフェル・ヴァルド森北西端の攻防戦は仏第40連隊と猟兵第10大隊、第63連隊の諸隊が入り乱れて粘り強く抵抗し、普軍部隊では先頭に立った士官の多くが重傷を負ってしまうという、実に壮絶な戦いとなったのです。
普第40連隊の第2大隊はレッパース丘出発当初、1個中隊(第7中隊。後刻追い付いて戦いに参加しました)を欠いた状態で第1と第3大隊とに分かれて行軍していましたが、スピシュラン高地に近付いた頃に行軍列を離れ、元の大隊として集合し、午後5時頃、連隊としては最後に戦場へ到着します。
この3個(第5,6,8)中隊は先に森へ突入した第2,3中隊の後方からギッフェル・ヴァルド森に侵入し、激戦に加わります。
こうして午後5時から6時にかけて、この森の中は一進一退の攻防が続き、森の奥へ進めば進むほど仏軍の抵抗は増し、普仏両軍は戦意も決して衰えることがなく、この森は互いに譲らぬ恐ろしく血生臭い戦場と化すのでした。
普第5師団の第12連隊第2大隊はザンクト・ヨハンの仮停車場に列車で到着し、午後4時にここを起つとレッパース丘を経て、ギッフェル・ヴァルド森と「紅山」との間を目指して行軍を続けました。
この大隊も第48連隊第2大隊が命じられた「紅山」攻略部隊とギッフェル・ヴァルド森攻略部隊の隙間を埋め、連絡するという全く同じ任務を受けていたのです。
このため、この大隊が午後5時過ぎにスピシュラン高地北に到着して見ると、既に普軍はギッフェル・ヴァルド森の西「紅山」との間で壮絶な戦いを繰り広げており、大隊は直ちにギッフェル・ヴァルド森へ突進し、友軍と肩を並べて戦い始めたのでした。
この大隊の参戦を一区切りとして、パッフェン・ヴァルド森で戦う第48連隊第1とFの2個大隊を除き、午後5時から6時にかけてギッフェル・ヴァルド森から「紅山」にかけて戦う普軍は歩兵32中隊に上り、その内大隊の形を維持したまま戦っていたのは「フランソア隊」の第74連隊F大隊のみ、という非常に雑然とした混戦状態となっていたのでした。
仏軍のラヴォークペ師団にバタイユ師団からの増援バストゥル旅団を加えたスピシュラン高地の「防衛隊」は、刻々と変化する戦況にうまく対応
して、普軍が逐次投入した新手の援軍も、仏軍の頑強な抵抗の前に損害を重ねるばかりでした。
斜面が多く夏草の生い茂る森林では小単位の部隊で戦うしかなく、ほとんどが中隊単位の散兵戦、そして遭遇戦となり、特に実戦を指揮する士官が次々に倒れる状況は、部隊を越えて見知らぬ兵士ばかりとなった部隊を指揮する士官や、迷子となって「軍」単位ですらも違う部隊と一緒に戦う兵士などを多く生み出します。
それでも普軍は下位レベルでも部隊を越えて協調し、一歩一歩森の中を前進しました。そしてパッフェン・ヴァルド森からほとんどの仏兵を駆逐し、ギッフェル・ヴァルド森の東側からも多くの仏兵を追い出すことに成功するのでした。
この普軍最左翼の進捗状況と比べ、右翼側、特に「紅山」とその周辺の戦いは停滞気味でした。
これは仏軍がこの方面を重要視して兵を集中し反復して逆襲を行っていたからで、この方面では普軍砲兵に邪魔されながらも仏軍砲兵も、普軍の進撃に対し手痛い打撃を与えることもしばしばあったのです。
地形もまた仏軍有利で、緩斜面となった「紅山」からフォルバッハー山までの稜線は仏軍が潜む森から射界が開けており、スピシュラン高地の西端を「紅山」から占領しようとするならば、普軍はこの稜線伝いに進むしかなく、これは大変な困難を伴うこととなっていたのです。
結果、戦線は「紅山」の北端からスピシュラン部落の北東側パッフェン・ヴァルド森の端に向かって斜めに引かれた直線状となるのでした。
この状況を打破するには、時間を掛けて犠牲覚悟でゴリ押しして行くのか、それとも何か「別の手」を打つしかありません。
その「別の手」は思わぬところにありましたが……
その話を進める前にフォン・ヴォイナ少将と第28旅団が苦慮する普軍の右翼、スティラン=ウェンデル方面の午後6時に至る状況を先に見てみることにしましょう。




