スピシュランの戦い/普将ゲーベンの反攻開始
普軍の「暫定総指揮官」となったフォン・ゲーベン大将の攻撃は、砲兵の展開と猛砲撃から開始されました。
普第16師団前衛支隊は午後3時過ぎ、2個の砲兵中隊をザールブリュッケン~フォルバック街道に進ませ、砲兵たちはガルゲン丘まで達します。この丘では既に第14師団砲兵が、ここから南西方ドラツーク池方面に展開し砲撃を行っていました。
この第14師団砲兵は戦闘開始以来目覚ましい働きを見せていましたが、特に大活躍していたのはドラツーク池北端のフォルシュター丘陵西端に構えた砲兵第7連隊重砲第2中隊でした。
中隊は南東方に砲を向け、スピシュラン高地への有力な砲撃を続けていました。
この6ポンドC64重砲6門は前述通り仏ドアン准将の行軍を再三妨害し、仏軍の増援を退却させて普軍の「紅山」攻略を援助しました。そればかりでなく、普歩兵の後退で仏ラヴォークペ師団砲兵が前進しようとしたのを砲撃で妨害します。
更に「紅山」周辺で普軍を悩ませていた仏ラヴォークペ師団のミトライユーズ砲中隊(仏砲兵第15連隊第11中隊)を狙い砲撃を開始しました。
この仏軍砲兵は最初フランソア支隊の攻撃(主に砲撃による)で後方に下がっていたものが、ギッフェル・ヴァルド森から普軍第39連隊諸隊が後退したため再び前進したのです。このフォルバッハー山の側方に進み出たミトライユーズ砲兵は、普軍の砲撃をまともに受けてしまい、砲2門を破壊されて後退するのでした。
他の砲兵、ドラツーク池の北東高地端に展開した軽砲1個中隊と、ガルゲン丘の重砲1個、軽砲1個の2個中隊は「紅山」後方の仏軍陣地とスティラン=ウェンデル市街を砲撃し、前述通り仏軍砲兵を蹴散らし、特に普第77連隊フュージリア大隊の税関からフォルバッハー山方面への進撃を援助しました。
普第16師団前衛の砲兵2個中隊は、既に丘で砲列を敷く第14師団の砲兵2個中隊の右側、フォルバックへ至る街道を挟んで配置され、重砲1個中隊を街道の右(西)、軽砲1個中隊を左(東)に展開し、ガルゲン丘とドラツーク池との間を埋める形で砲列を繋ぎます。
これでドラツーク池からガルゲン丘に展開していた第14師団砲兵(砲兵第7連隊軽砲第1,2中隊、重砲第1,2中隊)に第16師団砲兵(砲兵第8連隊軽砲第6中隊、重砲第6中隊)を加えて計36門となった「第一軍の砲兵隊」は、第40連隊の増援を皮切りに開始される普軍の「第二次スピシュラン高地攻撃」を援護するため、午後4時頃に猛烈な準備砲撃をスピシュラン高地の仏軍散兵線に対し開始するのです。
彼ら第一軍の砲兵はこの先午後6時まで現在地を動かずに砲撃を続け、歩兵戦闘の進捗に従って臨機に目標を選んで有力な支援を成し、普軍攻撃のバックボーンとして頼もしい存在となります。彼らは普軍歩兵が目標に近接し、同士討ちを避けるため砲撃を中止せざるを得なくなるまで砲撃を続けたのでした。
一方、普第16師団の前衛支隊所属の第40連隊は午後4時頃、その3個大隊全て(但し第7中隊は後方警備で欠)がレッパース丘に到着、第1~6中隊が「紅山」、第8~12中隊がギッフェル・ヴァルド森へ、それぞれ前線待望の増援として送られることとなり、休む間もなく進撃を開始しました。
ヴィンター丘では普第5師団前衛所属の第48連隊の3個大隊が到着、前衛支隊を率いる第9旅団長フォン・デューリング少将はこの地で第5師団長フォン・シュテュルプナーゲル中将と相談し、第1とフュージリアの2個大隊を第48連隊長フォン・ガルレルツ大佐に任せて午後3時30分、ギッフェル・ヴァルド森へと進発させました。ガルレルツ大佐は既にフォン・エスケンス大佐の第39連隊が戦いに敗れ、辛うじて3個中隊程度の兵士が残留するギッフェル・ヴァルドとパッフェン・ヴァルド両森林の間にある空き地を目指します。
このヴィンター丘の北に急遽設えた収容陣地には、48連隊と入れ替わるように戦い疲れた第39連隊第1大隊の残存兵が入って行きました。
当初、ザール東岸を南東に進んでサルグミーヌ方面を警戒していた、第5師団前衛に属する竜騎兵第12連隊第2中隊と砲兵第3連隊軽砲第3中隊は、引き返して改めて西岸に渡り、騎兵中隊はザンクト・アルニュアールでギッフェル・ヴァルド森の東側面を警戒し、砲兵中隊はヴィンター丘から砲兵たちが集まるガルゲン丘に向かいます。
しかし既に丘には砲列を敷く場所が無く、丘の東に待機しますが目標も無く、活躍する場面はありませんでした。
この頃には第5師団第10旅団所属の第12擲弾兵(ブランデンブルク第2)連隊第1大隊が鉄道でノインキルヒェンからザンクト・ヨハン付近の仮設乗降場に到着しました。彼らは下車すると直ちにザール川橋梁から渡河してレッパース丘へ前進し、午後4時、「紅山」に向けて行軍を開始したのです。
同連隊の第2大隊も第1大隊に遅れること30分で到着し、この大隊も第1大隊を追って「紅山」の東へと進むのでした。
この列車には第二軍第3軍団長C・アルヴェンスレーヴェン中将も乗っており、将軍は馬に跨がるとヴィンター丘のシュテュルプナーゲル中将の臨時本営へと駆け付けました。
二人の中将は、軍は違えども戦域の最上級士官であるゲーベン大将の「紅山を含むスピシュラン高地を何としてでも速やかに攻略する」という作戦目的を順守し、「スピシュラン高地を攻略する場合、自軍の右翼側、即ち紅山の攻撃陣を出来る限り厚くすべき」との認識で一致、これによりシュテュルプナーゲルは午後4時30分、ヴィンター丘で待機する第48連隊第2大隊に対し、「先発したフォン・ガルレルツ隊の右翼側を進み、レッパース丘から紅山に向かう第16師団諸隊との隙間を埋めて両翼を連絡させ、一致協調して高地の敵を攻撃せよ」と命じるのでした。
このように、ザールブリュッケンの街には続々と普軍の高級指揮官が集まります。
午後4時の時点では、第一軍第8軍団長フォン・ゲーベン大将、第二軍第3軍団長C・アルヴェンスレーヴェン中将、第16師団長フォン・バルネコウ中将、第5師団長フォン・シュテュルプナーゲル中将、第14師団長フォン・カメケ中将、第9旅団長フォン・デューリング少将と6人の将官がおり、更に前線では第28旅団長フォン・ヴォイナ少将が戦っていました。
普第一軍司令フォン・シュタインメッツ大将と第二軍司令カール王子との「確執」を思えば、一見非常に気まずい状況、「船頭多くして」の例えが危ぶまれる軍の統率上危険と見なされる状態と言えるでしょう。
ところが、実際の戦場ではゲーベン大将の行動方針を将官全員が一致して支持、高級指揮官たちは自ら精力的に動き廻って短時間で協議を打ち合わせを済ませ、仲違いの不穏な空気もなく「抜け駆け」や「命令無視」などは一切無かったと伝えられています。
彼らは戦場を前にした短時間の話し合いにより、大体の受け持ち範囲として右翼方面(ヴィンター丘からスピシュラン高地のギッフェン・ヴァルド森方面)をC・アルヴェンスレーヴェン中将の第3軍団、左翼方面(「紅山」より西スティラン森まで)をゲーベン大将の第8軍団を含む第一軍部隊と定め、それぞれ地域的に指揮権を確立し混乱を避けました。
更に午後4時30分、戦場に第7軍団長フォン・ツァストロウ大将が到着すると、ゲーベン大将は自分より軍のキャリアが14年長く、将官では2年先任のツァストロウ将軍に快く指揮権を譲り渡すのでした。
このように、上司の軍司令官はともかく、前線に臨んだ普軍の高級士官たちに反目が無かったことは特筆に値します。
同じことはほぼ半日先行して戦われていた「ヴルトの戦い」でも言え、第5軍団のキルヒバッハ中将、第11軍団のボーズ中将、バイエルン軍のフォン・デア・タン大将やハルトマン大将らの間に見られた協調と「友情」とも呼べるような関係は、プロシアを越えてドイツというひとつの大国へと成長しようとする直前の軍の姿として、とても印象的と言えます。
シャルンホルストが耕し、グナイゼナウが種を蒔き、クラウゼヴィッツらが育て、モルトケが収穫しようとしている普軍。普仏戦争はその集大成の場となります。
独断専行が目立ち下士官まで「将軍のように一家言を持つ」と言われる普軍の底力、連帯感と積み重ねた経験・訓練・教育が正に本番の戦場で花開きつつあったのでした。
逆に仏軍指揮官たちを見れば、最前線で戦うラヴォークペ、バージ、バタイユ3人の師団長(少将)は全力で戦い、特にバタイユ少将は仏将には珍しく「独断」に近い状況でフロッサール中将の命令を待たずに部隊を前進させ、普軍を苦しめています。
しかし前線の指揮官たち以外はこの戦いにおいて怠慢とも呼ぶべき行動に終始するのです。
フロッサールの「上司」とされたバゼーヌ仏第3軍団長は、ザール川からの普軍攻撃に対しては、サルグミーヌの北西7キロ、スピシュランの南6キロにあるカドンブロンヌを中心とした高原に強力な陣地帯を設けて対処したいと考えていました。
そのため、フロッサールの第2軍団が「配下」となった直後の5日、「もしも敵の攻勢が始まり、それが強硬であれば南下してカドンブロンヌへ至る」ことを「示唆」するのです。
しかし、あくまでこれは示唆であり、命令でも訓令でもありませんでした。
もしもバゼーヌが明確に命令としてこれをフロッサールに指示していれば、既に5日に後退を始めていたフロッサールは、スピシュランより裾野が広く四方に視界が開け、陣地予定地には砲兵や歩兵の収容余地が十分にあり、騎兵にも活躍の場がある開けた平原広がるこの地へと引き上げたことでしょう。
サルグミーヌやザールブリュッケンから進出するであろう普軍の行軍を見晴るかし、その側面を簡単に突ける位置となるこの防衛適地にフロッサールの3個師団が集中すれば、普軍にとって「紅山」以上に厄介なことになっていたものと思われます。
しかし、フロッサールとバゼーヌは元より仲が良いわけでなく、フロッサールはバゼーヌより軍歴が長かった(4年先輩)こともあって「示唆」など無視してしまうのです。
スピシュランでの戦闘が加熱すると、フロッサールは直ちにバゼーヌに対して増援を要請します。しかし、バゼーヌはスピシュランで戦う「意義」を見出せず、早期に南方へ脱出しカドンブロンヌへ向かうことを「期待」して増援を送る必要を認めませんでした。
そこから曖昧で要領を得ない奇妙な電信でのやり取りが、数時間に渡って繰り広げられたのです。しかしフロッサールも強硬に要求し、バゼーヌも仕方がなく「3個師団を派遣する」と回答するのでした。
ところが、バゼーヌがこの3個師団に課した任務は、前線でフロッサールの各師団を助けるのではなく、南へ後退するフロッサール軍団を「収容」してカドンブロンヌへ導き、その側面を「援護」する、というものだったのです。
フロッサールはバゼーヌの回答(午後2時前後)を受けて安心し、予備とされたバタイユ師団をほぼ全力投入してスピシュラン高地を支え、バゼーヌ軍団の登場を3時間ほどじっと耐えて待ちますが、増援は現れる気配を見せませんでした。
焦ったフロッサールは午後6時、「我が右翼(東側スピシュラン方面)は破れる危険が高まった。至急増援を送られたし」
との電信を打ちます。バゼーヌも無視するわけに行かず、竜騎兵旅団1個と歩兵1個連隊を更に増援として送り出し、
「我が軍団で送ることが出来る兵力は全て貴官に送り尽くした。貴官の今後の処置を報告されたい」
と電信しました。
しかしこの電信に対する回答は遂になかったのでした。
会戦の結果は後述しますが、このやり取りを見てもバゼーヌとフロッサールの「不仲」が透けて見えます。
この電信のやり取り中(最初は午前6時、最終は午後8時)フロッサールはフォルバックにいて、バゼーヌはサン=タヴォルにいました。この街の間には整備された立派な街道が走り、この日夕刻までは鉄道も通じていました。
フォルバックとサン=タヴォル間はおよそ15キロ。馬を駆れば1時間と言ったところでしょう。しかし遠く砲声が聞こえたであろう距離を両者は動くことなく、また「何故か」増援も到着することはありませんでした。この仏軍増援がどうなったのかも後述としましょう。
普軍高級指揮官たちの行動力、協調と余りにもかけ離れた仏軍高級指揮官の無為、不協。これはこの戦争前半、勝敗を決する重大な部分であったと思われるのです。




