スピシュランの戦い/フランソア少将「紅山」に死す
スティラン=ウェルデル方面で第28旅団が戦闘に参加し、スティラン森を抑え始めたことで有利に戦闘を進めていると感じた普第14師団長、フォン・カメケ中将は、「紅山」を攻めあぐねているフォン・フランソア少将の師団前衛(第27旅団)に対し再度「紅山の敵を攻撃し駆逐せよ」と命じ、これは午後3時頃前衛指揮官フランソア将軍の下に届きます。
この時点でフランソア支隊中最も「紅山」に迫っていたのは第74連隊のフュージリア大隊で、この午後3時過ぎに山頂の敵からの射撃が多少弱まったのを感じていました。これは「紅山」の西側を走る街道を南西へ向かう同連隊の第4中隊が、フォン・エスケンス大佐指揮する第39連隊第2大隊と共にギッフェル・ヴァルド森西端の戦いに参加したことで戦力が分散された影響と思われます。この頃、後方から遅れていた第39連隊第9中隊も接近し、「紅山」の戦いに参戦が可能となり、フランソア将軍はいよいよ「紅山」攻略に全力を傾注することとなったのです。
フランソア将軍もその実、自分の持てる戦力だけで難攻の「紅山」を陥落させることが出来るとは思っていなかったのかも知れません。しかし、普軍としては何としても「紅山」を陥落させないことにはフォルバック方面の攻撃に支障が生じることは間違いなく、そうなるとスティラン=ウェンデルで友軍が有利に戦っている以上、「紅山」の攻略も急がないわけには行きません。また、ここで「紅山」を回避することは他の部隊に攻撃を委ねることとなり、師団の名誉にも関わるということは将軍もよく存じていたでしょう。
いずれにせよ命令は命令であり、フランソアはそれこそ「石にかじり付いてでも」この岩山を攻略しなくてはならなくなったのでした。
フランソアは第74連隊フュージリア大隊が戦う「紅山」直下の北側山麓に赴くと直ちにその先頭に立ち、突撃を命じたのです。
将軍と普軍兵士は岩だらけの急斜面を一段また一段と登り、敵が猛射撃を繰り返す中、あちらこちらで次々と兵士が倒れても厭わずに進み続けます。
将軍は声を限りに部下を鼓舞し、兵士たちはそれに応えて鬼の形相で一歩、また一歩と敵に迫り、そして悪夢のような数分の後、遂に仏軍猟兵が築いた「紅山」斜面最端の散兵壕にたどり着いたのでした。
仏猟兵は、突然全速力で登って来た普軍兵士を抑えられず、多少抵抗した後に壕から飛び出て更に上方の防衛線へと退却して行きます。普軍は喜ぶ間もなくこの小さな突角で小隊ごとに集合し、更に上へと進む準備をするのです。
ところがここでギッフェル・ヴァルド森方面から数倍の仏軍歩兵が突撃し、猛烈な戦闘が始まりました。普軍側圧倒的不利の中、タイミングよく戦場に至った第39連隊の第9中隊が山を登って到着します。フランソア少将は銃弾飛び交う中、第9中隊長のベンフォールド大尉を呼び寄せると中隊を直ちに戦闘に参加させ、増援を得たフュージリア大隊は仏軍の抵抗をはねのけて前進し、「紅山」からスピシュラン高地へと続く尾根の端に取り付いたのでした。
この勢いのまま敵に突進すれば「紅山」は穫れる!
そう考えたフランソア将軍は第39連隊第9中隊を先陣に立たせ、鼓手を呼び寄せると太鼓を連打させます。更に自身の傍らにラッパ手を立たせて「突撃ラッパ」を吹奏させると、自らは部隊の先頭に立ち、帯刀を抜くと高く掲げ、待ち受ける数倍の仏軍兵士に対し「突撃!」と声高く叫ぶと、続けて「進め!我が勇敢なる39フュージリアたちよ」と鼓舞したのです。
しかし、その直後。
仏軍陣地から猛烈なシャスポー銃の一斉射撃(ミトライユーズ砲だったとの説もあります)が斜面に対して起こり、フランソアはたちまち5発の銃弾を受け、身体から血を噴いて崩れ倒れます。しかし隊長の重傷にも部隊は動ぜず、なおも前進を続行しようとしましたが、仏軍も必死で防戦し、普軍はこれ以上どうしても前進することが出来ません。
しかし、フランソアが直卒したこの第74連隊第9~12中隊と第39連隊第9中隊の勇敢な5個中隊の兵士は、死に掛けている旅団長の伏せる場所を死守し、後退しようとしなかったのです。
フランソワ将軍撃たれる
フォン・フランソア少将は撃たれた数分後に息を引き取り、この戦争における普軍最初の戦死将官となりました。
その最後の言葉は、
「軍人としてこの戦場で死ねるとは名誉なことだ。私は心おきなくして死ねる。何故なら停滞していた戦線が進むところを見ることが出来たのだから」
と伝えられています。享年52歳。彼の墓は現在も独仏友好の印として存在する、ザールブリュッケン旧練兵場の南にある「ドイチュ=フランツェジッシャー=ガルテン(独仏庭園)」にあります。
日本で言えば「軍神」扱いとなったフランソア将軍の「紅山」北斜面で突撃を鼓舞する姿は、宮廷御用画家アントン・フォン・ヴェルナーの手により迫真の一幅「スピッヘルン高地の嵐」(1880年)となって残され、その絵画でも印象的なラッパ手の傍らで剣を掲げる将軍の姿は後の1895年に彫刻家ヴィルヘルム・シュナイダーの手で銅像となり、長らくザールブリュッケンのザンクト・ヨハンにあった庭園に留められました。
残念ながら銅像は戦時中に物資供出で撤去されてしまい、絵画のあったザールブリュッケンのホールも第2次大戦末期に爆撃で焼失、幸いにも絵自体は救い出され、現在ザンクト・イングベルトの街に保管されています。(後書き参照)
さて、フランソア将軍が壮絶な戦死を遂げた「紅山」の東でも、同時刻(午後3時過ぎ)に激戦が繰り広げられていました。
普軍最左翼となる第39連隊第1大隊はギッフェル・ヴァルド森で仏ミシュレ旅団と激戦を繰り広げて来ましたが、仏軍は南方よりバタイユ師団の増援が到着し始め、また、スピシュラン高地防衛の責任者、ラヴォークペ少将がここまで取っておいたドエン准将の旅団を前進させたお陰で兵力が増した仏軍は、わずか1個大隊の普軍を包囲しようと展開し始めたのです。
この危機に普軍兵士たちは必死に防戦し、壮絶な白兵戦が森で行われました。普軍大隊長のフォン・ヴィヒマン少佐は陣頭指揮中に戦死、他多数の大隊士官が倒れ、遂に指揮官たちを欠いた兵士たちは疲弊し尽くして自然に撤退を始めたのです。それも無理はなく、兵士の多くは弾丸を撃ち尽くし、援軍は待てど暮らせどやって来ず、補給も皆無で敵は三倍以上の3個大隊、長時間の戦いに思考も鈍った頭では退かざるを得なかったのです。
これを知った仏軍は勇躍前進してギッフェル・ヴァルド森の北縁まで進出、普第39連隊第1大隊の残存兵は命辛々ヴィンター丘まで逃げ延び、仏軍兵士はその後ろ姿に無慈悲な銃撃を浴びせるのでした。しかし、ここまで進んだドエン准将配下の仏第2連隊はギッフェル・ヴァルドとパッフェン・ヴァルド森の間に留まり、ミシュレ准将配下の第24連隊は南方に後退したのです。
仏軍がこのように進撃を止めたのはこの時間(午後4時頃)、ザールブリュッケンの南市街に新たな普軍の部隊が到着するのが観察出来たからでしょう。
第1大隊が壊滅的打撃を受けた時、その西で戦っていた第39連隊の第2大隊も壮絶な戦いを繰り広げていました。
第2大隊長フォン・デア・ハルト少佐は3個中隊で仏第40連隊と対戦しており、ほぼ三倍の敵を前に奮戦しました。第6中隊は相変わらずひとり外れて「紅山」の東斜面で踏み止まり、ちょうど北面から突撃して行ったフランソア将軍の攻撃を支援して山頂に向けて射撃を続行しましたが、最初ギッフェル・ヴァルド森の南縁まで前進した2個(第5,7)中隊は疲弊してずるずると後退し始め、森の中間や一部は北縁まで退却してしまいました。しかし仏軍はこれを追撃せず、多少息を吐くことが出来た普軍中隊はフランソア将軍の部隊が取り付いた「紅山」方向へ向き直り、第5中隊はギッフェル・ヴァルド森の山頂に踏み止まり、第7中隊は森の北斜面を維持しました。また、撤退した第1大隊の第3中隊の残兵も第5中隊の東に連なって止まりました。
スピシュラン・森の戦い
ここまで見て来ましたように、普第14師団は孤軍奮闘して仏軍のおよそ2個師団と対戦し、その右翼(西)では多大の犠牲の上にスティラン=ウェンデルの部落を北と東から圧迫しますが戦力は刻一刻と減っており、また中央と東(左翼)では撤退する部隊まで現れて、援軍の登場を切望するようになります。仏軍はバタイユ将軍の命令でバストゥル准将の旅団が前進し、その縦隊はパッフェン(ベルク)山(スピシュランの南600m)に達して、スピシュラン部落へ下ろうとするのが疲れ果てた第39連隊の兵士たちにも見えていたのです。
前衛支隊長や大隊長が戦死し、また士官たちも多くが敵弾に倒れ、指揮官を失って疲弊する普兵たちは、仏軍の新たな戦力投入を目前に、壊滅の瀬戸際まで追いやられようとしていたのです。
この、普第28旅団がスティラン森を苦労して進み、フランソア少将が死の待ち受ける「紅山」に向かって突撃し、ギッフェル・ヴァルト森で39連隊の2個大隊が大打撃を受けていた午後3時過ぎ。
普第8軍団長アウグスト・カール・フリードリヒ・クリスチャン・フォン・ゲーベン歩兵大将は、愛馬を駆ってザールブリュッケンの街へ到着します。
普墺戦争で今は同僚軍団所属、ライン地方の出身兵で構成される第13師団を率い、「マイン軍」主力として今は味方のハノーファー王国軍やヘッセン、カッセル、バーデン、そしてバイエルン軍などを打ち破った、プロシア軍人としては珍しくモノクル(片眼鏡)ではない弦付き両眼鏡を愛用する将軍はこの時53歳と若い大将、その鋭く小さな目を硝煙立ち上るスピシュラン高地に向けていました。
ゲーベン大将は直ちに味方左翼と中央の危機を見て取ると、ザールブリュッケン戦区における最上級、そして最先任大将として軍を越えて指揮を執ることを宣し、スピシュラン高地で逼迫する味方を大至急救援することを命じます。
まず、今使える新参の部隊を軒並みスピシュラン高地の北へ全力投入して「紅山」からスピシュラン部落までを確実に占領、スティラン=ウェンデルからフォルバック方面の敵陣地を側面から攻撃することを作戦目的としたのです。
とにかく現在の普軍不利の状況を一変させなければならないと、予備隊などは考えずに使える部隊全力で仏軍に立ち向かい、第一軍の第8軍団と第二軍の第3軍団の後方から駆け付ける部隊が、自然と予備部隊になればよい、とするのです。
この時(午後3時から4時)、ゲーベン将軍の手近にあった戦力は、将軍とほぼ同時にザールブリュッケンに到着した第3軍団の第5師団前衛と第8軍団第16師団の前衛、それも先鋒を務める部隊だけでした。
第16師団の先鋒は驃騎兵第9連隊と2個砲兵中隊で、午後3時過ぎにレッパース丘まで進出、まずはその先のエーレンタール渓谷にいた驃騎兵第15連隊の側方に位置しました。
第5師団の先鋒は午後2時過ぎ、軽砲1個中隊と竜騎兵1個中隊を直卒して師団長のフォン・シュテュルプナーゲル中将がザンクト・ヨハンに入り、まずはそのままザール川東岸を南下し、サルグミーヌ方面から敵が進出しないよう南東側を警戒させました。続けて到着した前衛部隊を区処した将軍はこれを率いてザールの橋を渡り、午後3時頃から順次ヴィンター丘の北へと進出したのでした。
この直後にゲーベン大将が到着し、この異なる軍の異なる師団前衛を一括指揮すると宣言したのでした。
ゲーベンの一見、戦力の逐次投入に見えるなりふり構わぬ戦い方は、プロシア参謀本部の優秀な参謀たち、お高く停まった戦術家たちが眉を顰めそうな作戦でした。しかし実際、この戦場ではゲーベン将軍のこの「応急手当て」が勝機を普軍に与えることとなるのです。




