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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
Eine Ouvertüre(序曲)
17/534

第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争/講和


☆ ロンドン会議


 第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争の終結を目指す動きは早くも3月上旬に始まり、イギリスの斡旋により3月19日に休戦交渉と順調ならば引き続き講和交渉が4月12日からロンドンで開催されることが決定されました。

 ところがこの日程はドイツ側が変更を申し入れたことで4月20日に延期されます。その「意味」を悟ったデンマーク政府は厳重に抗議して元の日程通りに会議を開くよう訴えますが、事実上ドイツ連邦をリードする普王国首相ビスマルクは20日開催を譲ることはありませんでした。

 これは「デュッペルの日」が4月18日に決定したからで、普墺両国としてはこの名高い防衛線を破ることで交渉を有利に進められると確信していたからでした。


 デンマーク首相ディトリウ・ゴタード・モンラッドは、会議の開始までD軍がデュッペルを守り通していることが重要であると認識し、4月9日の閣議で交渉団の主席だったジョージ・クアーデ外相から一時的に主席の座を譲り受け、自ら予備交渉に赴いていましたが、これも無駄に終わってしまいます。

 モンラッドはこの時、「シュレスヴィヒに外国軍が留まっている限りデンマークは休戦に応じることはない」と主張しますが、これはデュッペルが陥落し交渉が正式に始まった後も変わらぬ主張でした。

 しかし、政府閣僚の中には「全面的な停戦ではなく地域限定で期間を定めた休戦を求めて軍の再起を計ってはどうか」との意見も根強くあり、これは再び交渉の場に立つことになったクアーデ外相が「全面停戦と一部休戦の間」に揺れるあやふやな立場となって交渉を有利に進めることの大きな障害となってしまいました。


挿絵(By みてみん)

 モンラッド


 実際のロンドン休戦交渉は普墺と独連邦の各代表団のロンドン到着が遅れたため(不可抗力か作為的かは立場によって違ったはずです)、4月25日にずれ込みます。


 会議には以下の諸国と代表が赴きました。

 *イギリス

 伯爵ジョン・ラッセル

 クラレンドン伯爵ジョージ・ヴィリアーズ

 *デンマーク

 ジョージ・クアヒム・クアーデ(外相)

 *プロシア

 伯爵アルブレヒト・フォン・ベルンストルフ

 ヘルマン・ルートヴィヒ・フォン・バラン

 *オーストリア

 伯爵ルドルフ・アポニー・フォン・ナギャポニー

 ルートヴィヒ・マクシミリアン・フォン・ビーゲンレーベン

 *ドイツ連邦

 伯爵フリードリヒ・フェルディナント・フォン・ビュスト(ザクセン王国)

 カール・ホフマン(ヘッセン大公国)

*フランス

 プリンス・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ

*ロシア

 伯爵フィリップ・フォン・ブルノウ

*スウェーデン

 伯爵ワクトマイスター


 この会議を斡旋したイギリス外相ジョン・ラッセル伯爵は、会議が招集される前にパリを訪れ、フランス帝国と協調して会議を主導しようと提案しました。

 ラッセルとしては最早シュレスヴィヒ公国全域がデンマークの手に残るとは到底考えられなかったようで、デンマーク語話者が多数のシュレスヴィヒ北部はデンマークに、ドイツ語話者が多数のシュレスヴィヒ南部はホルシュタイン公国に、それぞれ併合した後、両方の話者が混在するシュレスヴィヒ中央部は、イギリスとフランス、ロシア等有力な中立国家が設置する「調停委員会」によって分割することを目論みます。

 一方のフランス帝国も外相がビスマルクの下を訪れてシュレスヴィヒの分割を検討し、ビスマルクの腹案をナポレオン3世に報告しますが、皇帝はスウェーデンが主導するノルウェーを含めた三国連合王国を望んだため、この時は容認することはありませんでした。これは北欧に独連邦が無視出来ない「重石」が出現することを企んだからに相違ありません。


挿絵(By みてみん)

 ラッセル


 とはいえ、他の外交筋はシュレスヴィヒを分割することに対し賛意を示しており、会議もその方向でまずはデンマークを説得する形になりそうでしたが、ここで「新シュレスヴィヒ公国」なるものが誕生した場合、デンマーク国王の「個人的」同君連合となるのか、全くの独立国家となるのかに関しては意見が分かれ、中立大国による共同提案という形を作ることは出来ませんでした。

  

 会議は、議長となったジョン・ラッセル英外相による「双方先ずは全面停戦」との提案を検討することから始まります。


 普王国の停戦条件は明確で「D海軍によるバルト海の封鎖解除」でした。しかしデンマークはこれを完全に拒否します。海での優位性が失われた場合、全面的無条件で敗北の道筋が出来てしまうからでした。

 優位に立ち余裕があったビスマルクは、こうした場合の妥協案を代表団に指示しています。ビスマルクは既に4月15日「シュレスヴィヒの住民たちの今の気分を考慮に入れるべきだろう」との指示をベルンストルフ伯爵に送りました。つまりビスマルクは「デンマークに残りたい者が多い地区は取らなくてもよい」との考えでした。この「住民自決」を匂わすことでデンマークが絶対に阻止したいシュレスヴィヒ全域の割譲を捨て、代わりにD海軍の撤退を引き出そうとの作戦です。

 これに関しては戦争を早く終わらせたいもののシュレスヴィヒの「個人的権利」は守りたい国王クリスチャン9世と、全面敗北が許せずデンマークの尊厳を守るためには継戦も止む終えないと考えるモンラッド首相、そして継戦・非戦様々な思惑に揺れる閣僚と、中々意見一致出来ないという混乱のため、クアーデ外相率いるデンマーク交渉団は優柔不断に「公国全ての放棄からアイダー川の線での分割まで様々な案を曖昧なまま提示して置かなくてはならない」という苦しい立場に追い込まれるのです。


挿絵(By みてみん)

 クアーデ


 「D海軍によるバルト海封鎖の解除」を停戦の条件とする、という普墺側の提案は、5月3日のデンマーク政府閣議で拒否が決定します。

 しかしイギリスの子爵パーマストン首相は個人的意見としつつもデンマーク交渉団とその政府に対し「先ずは条件を飲んで休戦を目指すべき」との強い主張を行います。速やかな戦争終結を願うクリスチャン9世とその取り巻き貴族顧問たちは英国首相の主張をもっともだ、としてモンラッド首相に対し硬軟織り交ぜ様々な圧力を加えて粘り強く主張したため、首相はとうとう折れ、5月9日、代表団のクアーデ外相は「条件を飲んで休戦に応じる」との回答を行うのでした。

 休戦は5月12日午前12時から講和交渉が妥結するまで、と決まります。


挿絵(By みてみん)

パーマストン


 この時点でD陸軍にはフュン島に16,000名(砲56門)、アルス島に12,000名(砲24門)、リムフィヨルドの北にある北ユトランに10,000名(砲24門)の野戦軍が残されていました。


 休戦が決定されれば、続いて講和交渉となります。これは即ち「シュレスヴィヒの分割協議」に他なりませんでした。

 この5月9日にヘルゴラント海戦が行われましたが、デンマークが勝利を主張しても戦争の行く末が変わるはずもなく、普墺の交渉団は泰然としていました。

 

 デンマーク交渉団は「52年のロンドン条約によってシュレスヴィヒ公国は全域デンマーク王家所領が保証されている」との主張を繰り返しますが、これも5月12日、ビスマルクの意を受けた普交渉団が「最早ロンドン条約に縛られた交渉を行わない」と宣言し、シュレスヴィヒを分割する強い意志を示しました。

 ここで普墺側が匂わせていた「住民自決(つまりは住民投票)でシュレスヴィヒの行く末を決める」方法は、デンマーク側に更なる混乱を招きます。

 もしシュレスヴィヒ公国がその一部であれデンマーク側に残り、その住民が同君連合に賛成すれば未だ公国がクリスチャン9世を国主として受け入れたことになります。これは会議のイニシアチブを握るビスマルクら普首脳が狙っていると思われるデンマークのシュレスヴィヒ全域放棄を検討するより遙かに魅力的でした。しかし、全域デンマーク王国に併合してもらいたい「アイダー川以北の愛国者」から見れば戦前と同じ同君連合は全く受け入れられない提案でした。

 国王も出席した5月23日のデンマーク閣僚会議で国王は「戦争再開では何の利潤も得られない」と考え、「住民自決は屈辱的な解決案だがそれを受け入れてもなお公国のデンマーク王家所持は一部であれ達成出来るだろう」と訴えます。

 しかし頑固なモンラッド首相は「状況は不利ではあるもののロンドン条約を破棄してまで解決策を探してはいけません」と主張し「旧来のロンドン条約に即して講和会議を進めなくてはならない」と改めて閣議決定を行うのでした。この決定に対し国王は署名を留保し決定は延期されてしまいました。


 ロンドン会議における普王国の「アドバンテージ」を一番良く理解していたのはフランス帝国でした。講和会議が始まる前、普墺を含めた独連邦と英露の反対によって「北欧帝国の再現」が現実的で無くなったことを悟った仏皇帝ナポレオン3世は、少しでも仏に有利な状況を作り出そうと、紛争地域の住民が自主的に支配領域の範囲を決めることに賛成していたのです(ナポレオン3世は青年期にイタリアの独立運動に共鳴し一時参加していたので「民族主義」には理解がありました)。

 また、常々ロシアはロンドン条約が破棄されてしまうことで公国の一体性が崩れ分割されてしまうことに懸念を表明していましたが、5月28日にラッセル外相が「シュレスヴィヒ=ホルシュイタイン=ラウエンブルクのドイツ語話者優勢地域をデンマーク国王から完全に独立させる」という提案を出した時には渋々現状を認めラッセル案を支持しています。


 この時、それまで「アイダー川の線」即ちホルシュタインとラウエンブルク両公国のみの放棄を強硬に主張していたデンマークに対し、英仏が妥協を迫って説得した結果、ラッセル卿はデンマークをこれ以上刺激せず「シュライフィヨルド口からダネヴェルクの線に沿ってフリードリヒシュタットに至るまで」に境界線を敷くこととして、それ以北に境界線を敷くようなことにならないで欲しい、と独側に訴えました。

 独側、特に普王国は「シュレスヴィヒの分割には原則同意するがダネヴェルクの線では境界が南過ぎる」と訴え、留保しました。

 6月2日。留保していた普王国交渉団が新たな境界線を提案します。これは東はオベンローから西のテナー(オベンローの西南西37キロ。ズュルト島の対岸に当たります)に至り、北フリージア諸島のレム島までを含む提案でした。

 しかしモンラッド首相は国王に図らず独断で、独側が絶対に受け入れるはずもないラッセル案より更に後退した「東はエッカーンフェルデを起点とし、シュレスヴィヒ市南方のファードルフでシュライに出、そこからはラッセル案と同じダネヴェルクからフリードリヒシュタットまで」を主張します(ラッセル案より拡張された地域はカール王子がシュライの渡渉で進んだ地域で、クリスチャン9世が幼少期を過ごした地方でした)。

 普王国代表のベルンストルフ伯爵は鷹揚に「デンマークが先の案を受け入れ難いのであれば、東側をオベンローではなくフレンスブルクの北、クルスオーにしても良い」と妥協案を出します。この時、ラッセル卿はラッセル卿でロシア代表団が仲裁しようと提案していた妥協案を検討していました。


 デンマーク、ドイツ(この場合普王国)双方がお互いの案を主張して譲らなかったため、ラッセル卿は6月11日、非公式に自身の境界案を各代表に流します。これは先のロシア仲裁案と渋々ナポレオン3世が認めた境界案がほぼ一緒だったための提案で、境界線を「シュライ・フィヨルド口の北側、ゲルティング(セナボーの南南東19.5キロ)付近からフースムまで」とする案でした。

 この時、ラッセル卿は「これが最後の機会」とばかりに、「もしもドイツ側がこの提案を拒否した場合、イギリス王国はデンマーク王国に対し物資援助を行う」と通告します。

 この時、フランス代表は「和平の解決策に軍事力をチラつかせること」に嫌悪感を表明しますが、その通り、ラッセル卿は最後の手段として休戦が破棄され戦闘が再開された場合、デンマーク側に立ってイギリスが参戦することもやむを得ない、と考えていたのです。

 この最後のラッセル案は6月18日の会議で正式提案されました。しかし、普墺・デンマーク双方から「フレンスブルクは譲れない」との声が挙がったため、この境界案も葬り去られる運命にありました。


挿絵(By みてみん)

ロンドン会議で協議された境界案


 とはいえ、いよいよイギリスがデンマークの肩を持ち始めたことを感じた普王国代表団は「境界線の妥協案には同意しかねるが、代わりにシュレスヴィヒ中央部(デンマーク案と普墺案の間)で「小教区」を1ブロックとした住民投票を行い、多数決を以て境界線を決定してはどうか」と提案しました。これは事前にフランス代表団からも提案されていた解決策でした。

 デンマーク代表のクアーデ外相は「留保する」と答え、「決定は本国の指示を待つ」としました。クアーデ自身はさっさと境界線を決め直ぐにでも講和交渉に進みたいと思っていましたが、いざ本国にこれを通報すると、案の定、政権と国王の意見は分かれました。「最早ここまで」とモンラッド首相は辞表を叩き付け政府から去ってしまいます。しかしこれはジェスチャーで、国王は急ぎ後任を探りますが、戦争の幕引きを行う(しかも負け戦の)者などいるはずもなく、万策尽きた国王はモンラッドに懇願しわずか数日で首相に返り咲かせました。

 とはいえ政府は意見の一致を見ることがなく、首相は国王に対し「最新のラッセル案を飲むか飲まぬかは陛下にお任せ致します」と「丸投げ」の挙にでるのです。

 国王は悩んだ挙げ句に決心し、回答を機密通信でロンドンのクアーデ外相に送達しました。6月22日、クアーデは国王の回答を会議の席上で読み上げます。


「デンマークとドイツとの国境はダネヴェルクの南に引かなければならぬ」


 クアーデは苦渋の表情を浮かべていたことでしょう。


挿絵(By みてみん)

クリスチャン9世


 まさか厭戦の態度を示していたデンマーク国王が全てを反故にする回答をするとは思っても見なかったラッセル卿は、デンマークが回答を返すまでフランス代表団と話し合い、デンマークが妥協を受け入れドイツが正式に妥協を拒否した場合、イギリスと共にデンマーク側に立って参戦すると脅して貰えないか、と懇願していたのです。

 クリスチャン9世は、策を弄してでもデンマークを再び戦いに向かわせようとするモンラッド首相一派と自身の考えとの板挟みに苦しんだことでしょう。モンラッドを支持する世論も強力な圧となり、国王は最早万策尽き「それならやるがよい」と投げやりになったものか、この「提案拒絶」回答はモンラッド首相に「白旗」を揚げるに等しい行動でした。同時に、ここで妥協すればデンマークはシュレスヴィヒの半分、北部のデンマーク語話者が占める地域の8割を残すことが出来たのですが、国王の「拒絶」によってシュレスヴィヒのほぼ全域を失うことになってしまうのです。


 そしてこれがロンドン会議の終焉でした。6月25日、最後の会議が開催されますが、交渉は決裂した、との各代表の認識を一致させるだけ、形式的な「別れの儀式」でした。


☆ カールスバート協定


 ロンドン会議が破綻する前日、6月24日に温泉で有名な保養地・墺帝国領ボヘミアのカールスバート(現/チェコのカルロビ・バリ。プラハの西113キロ)で普墺双方の代表が会議を行い締結したものが「カールスバート協定」と呼ばれます。


挿絵(By みてみん)

1850年頃のカールスバート


 ロンドン会議は6月中旬に交渉不調で終わる可能性が増し、普墺両国は休戦終了後に戦闘再開となった折、どのような目標を立てるのかを協議する必要があったため、この会議が開催されるのです。

 この会議は文字通り「トップ会談」で、会議の場所がカールスバートに決まると、早速6月18日、普国王ヴィルヘルム1世が現地に到着しました(温泉好きの国王のこと、早めに到着したのかも知れません)。翌19日にはビスマルクと墺帝国首相ヨハン・ベルンハルト・フォン・レッヒベルク=ローテンローウェン伯爵が到着し、最後に墺皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が22日に到着して会談がスタートします。


 会議はロンドン会議の破綻がはっきりとしたため大急ぎで進み、普墺両国の思惑を反映しつつ24日、ビスマルクとレッヒベルクの両国首相が協定書に署名するのです。


※カールスバート協定


 「オーストリア帝国とプロシア王国双方の最高権力者は以下の通り協定する。


*第1

 デンマーク王国に対する休戦が終了した後、軍事占領地をアルス島並びにリムフィヨルドを越えたユトランド半島全域にまで拡張すること

*第2

 上記2箇所への攻撃支援のためデンマーク軍を拘束する目的でフュン島に対する攻撃が行われた場合でも、同島への上陸はこれを伴わないこと

*第3

 可能な限り戦闘地域を局所とするように努め、後日における講和交渉の条件に含めるためにもデンマーク王国の島嶼に対する作戦は普墺共にこれを留保する

*第4

 ユトランド半島はこれを占領地として全域確保し、ここに独自の管理と課税を行うこと(講和条約発効まで占領地総督府体制を維持する)

*第5

 普墺はシュレスヴィヒ公国の分割について先のロンドン会議で行った譲歩案を破棄し、将来の交渉において拘束されないこととする(白紙に戻し一から交渉する)。これについては公表すること

*第6

 ドイツ連邦による適切な関与を通じ、連邦指導の下でシュレスヴィヒ、ホルシュタイン、ラウエンブルクの共同管理体制を実現し、後者2つ(ホルシュタインとラウエンブルク)の資源がシュレスヴィヒに対する戦闘に利用可能とすること

*第7

 休戦後の戦争目的は、状況次第で最も有利となるようにデンマーク王国がシュレスヴィヒ公国の分割に応じるよう努めること


カールスバートにて 1864年6月24日


伯爵レッヒベルク(署名)

ビスマルク=シェーンハウゼン(署名)」(カッコ内筆者・全体筆者意訳)


挿絵(By みてみん)

レッヒベルク


 協定は「色々と気が進まない」墺皇帝の意を汲んだものか、婉曲で一見何を言っているのか分からない箇所があるため、大胆に要約して見ますと、

「アルス島とユトランド半島全域は作戦目標として占領し、アルスへの上陸作戦支援のためフュン島へ牽制攻撃を仕掛けるものの、その占領までは意図せず、純粋なデンマーク王国領であるユトランド半島(北フリージア諸島含む)とアルス島はその後の講和交渉の材料として占領したままでおき、講和においてはロンドン会議の過程で示された分割案は全て白紙として、最終目的はシュレスヴィヒ、ホルシュタイン、ラウエンブルクの3公国をドイツ連邦に引き入れてデンマーク王国から完全に分離させる」

という内容でした。


 6月28日に休戦が終了すると同日深夜からアルス島作戦が始まり、これは7月1日に一応の決着(全島占領)を見ます。7月10日には普墺両軍がリムフィヨルドを渡渉して半島最北部のヴェンシュセルチュー島まで進みました。

 コペンハーゲンを始めとする島部に住むデンマーク市民は、「海に弱い」はずの独軍が休戦終了直後、あっという間にアルス島を占領したことで、ピッケルハウベも禍々しい「獰猛な普軍兵士」が明日にでもフュン島やロラン島、果ては首都のあるシェラン島に上陸して来るのでは、との恐怖に駆られて一気に戦意喪失してしまうのでした。

 このコペンハーゲン市民を始めとする民衆の「厭戦圧力」もあって、デンマーク王国政府は17日に普墺両国に対し再度休戦を要請、これは18日に双方合意して20日早朝、こんどこそ永続的な休戦が発効しました。


☆ ウィーン講和条約


挿絵(By みてみん)

ウィーンの街並(19世紀中頃)


 1864年7月18日。シュレスヴィヒ公国の最北端・クリスチャンフェルドの街で戦争行為全般の休戦を乞うデンマーク王国政府の意を受け、この戦争2回目となる休戦協議が行われ、7月20日午前12時から同月30日深夜0時までの休戦が成立します。この10日間休戦は7月25日から墺帝国首都ウィーンで講和予備会談が開始されたため4日間(8月3日深夜まで)延長されます。

 7月25日にウィーンへ参集したのは墺、普、デンマークの3ヶ国代表で、墺帝国から首相レッヒベルク伯爵と外相ブレナー伯爵、普王国からビスマルク首相と外務次官フォン・ヴァルター男爵、デンマークからクアーデ外相とカウフマン野戦軍参謀長でした。

 8月1日に調印された講和予備条約では講和条件の「大まかな柱」が合意され、「デンマーク王国(実際は国王)はシュレスヴィヒ公国、ホルシュタイン公国、ザクセン=ラウエンブルク公国をオーストリア並びにプロシアへ割譲する」ことと賠償金、最終的な国境線の確定、そして直ちに講和交渉を始めることとされました。

 この8月の時点で先の3公国は普墺両国の管轄下に置かれ、講和交渉は断続的に行われると64年10月30日、最終的な合意が成され「ウィーン講和条約」として調印され形式的にも戦争は終わります。

 この講和条約は全24条からなりますが、最重要なものは第3条で、デンマーク国王の3公国に対する全ての権利放棄と普墺両国による統治が明文化されました。


 この結果、デンマークは3公国の権利一切を放棄し普墺両国にその処遇を任せます。ここで国境も修正されて、シュレスヴィヒ公国に点在していた「デンマーク王家領の飛び地」がシュレスヴィヒ公国に併合され、代わりにコリングの南側やユトランド半島西側の僅かな土地がデンマークに割譲されました。また、戦費賠償としてデンマークは普墺に対して2,000万ターラーを支払います。

 これにより、デンマークはそれまでの国土の五分の二を失い、人口も260万人から一気に160万人という弱小国家に成り下がってしまったのでした。この「失われた100万人」の中には自身をデンマーク人と認識しデンマーク語を話していた20万人が含まれていました。


 余談になるかも知れませんが、この国土と人口の喪失はデンマークという国家にとって非常に傷跡深い事件となりました。

 デンマーク王国はその後、二度とこのような屈辱的状況に陥らぬよう国防以外の戦闘行為を国家として認めない方針を貫き、それは第一次世界大戦でも変わらず、第二次世界大戦ではナチスドイツの支配を受けたために国家内で反ナチ・親ナチに分断され、それぞれが国内と国外で戦うという悲劇を味わいます。

 この大戦後の1945年6月、アルス島・アルンキルの海岸にあった「1864年記念塔」が何者かによって爆破され倒壊します。この記念碑は1872年、当時はドイツ帝国領だったこの地に64年6月29日の上陸戦を記念するためプロシア王国が建立したものでした。それは第一次大戦後、アルス島が住民投票によってデンマーク王国に返還された後も残っていましたが、ナチスドイツの降伏直後、第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争の100年後という節目に破壊された訳です。この「復讐」を果たした犯人は第二次大戦中デンマーク国内で抵抗運動を行った「自由の戦士」たちと思われますが、敢えて犯人捜しは行われませんでした。


 その後デンマーク王国は冷戦下NATOにも加盟しますが、平和を希求する国家として20世紀末(1999年)のコソボ戦争においてNATO軍の一員として参加するまでいかなる敵対行為にも荷担しませんでした。


☆ モルトケの「世間デビュー」


 ところで、戦争開始時点では軽んじられていた参謀本部は、モルトケの的確な戦闘指導と、アルス島上陸戦がうまく行ったことなどによりその存在感を増しました。

 特にヴランゲル元帥の緩慢な指揮で危うく長期戦となるところを救われた形の政府首脳部と軍は、モルトケと参謀本部の役割をやっとのことで認める事となったのです。


 戦争の一年前、モルトケ参謀総長は「演習」と称して対デンマーク作戦計画を立案すると、これを次々に更新し続け、完成させていました。

 この計画で垣間見えるのは「待ち構える相手からの迂回」です。

 アイダーを越えてシュレスヴィヒ公国に侵入した普軍に対し、最初に立ちはだかるのはシュライ・フィヨルドからダネヴェルク堡塁群の防衛線となりますが、アイダー川の国境から防衛第二線となるデュッペル堡塁群まで僅か3日の行軍で到達することもあり、デンマーク軍が「張子の虎」状態(その「弱さ」をモルトケら普参謀本部は知っていたと思われます)のダネヴェルク堡塁群に拘らず一気にデュッペルに引っ込んでしまうと攻略に時間が掛かり、短期決戦が望めなくなる可能性がありました。このためモルトケの対デンマーク作戦は、普軍をミスズンデやアルニスなど、シュレスヴィヒ市東側のシュライ・フィヨルド渡渉点へ急行させてシュライを越え、一気にフレンスブルク方面とシュレスヴィヒ市へ進んでデンマーク軍を背後から襲って壊滅させると言うものでした(ダネヴェルクの西側へ迂回する攻撃案もありました)。万が一デンマーク軍がダネヴェルクの包囲を逃れた場合も、フレンスブルクやその先のバルト海沿岸を占領することでデンマーク軍をコペンハーゲンから切り離し、後方連絡を断つことでユトランド半島の北海側へ押しやり、ここで総攻撃を掛ける、という第二計画もありました。


 これは実際の戦争で検討されますが、時の総司令官ヴランゲル元帥はミスズンデへの攻撃が失敗すると計画全体を破棄してしまい、墺軍がダネヴェルクの正面に進んでケーニヒス・ヒューゲルの戦いを起こし、損害が大きかったことで普墺連合軍の攻撃が鈍化してしまうのです。結局、デ・メザ将軍の素早い判断でデンマーク軍は逃げてしまい、一部がオイーヴァセで殿軍を襲ったものの、殆どがユトランド北部やデュッペルへ逃げ込んでしまったのでした。

 カール王子の参謀長、参謀本部の意向を受けていたレオンハルト・フォン・ブルメンタール将軍がデュッペルを回避して一気にアルス島へ上陸しデンマーク軍の退路を断つ作戦を進言し、これは4月2日から3日に掛けて予定されますが、これは春先の悪天候により渡海不可能と判断され中止されてしまいました。


挿絵(By みてみん)

オイーヴァセの戦い・損害を受ける墺驃騎兵


 結局、ヴランゲルからカール王子に指揮権が渡って、予てから王子はモルトケを参謀長に望んでいたため、遂にモルトケは戦場に立つことになります。既に休戦は破綻するのではないか、と言われており、モルトケは戦闘再開直後に、デンマーク国民の士気を挫くため「アルス島上陸」と「速やかなユトランド半島全域の占領」を行うよう進言しました。

 結果は既述の通りで、デンマークは僅か半月で再び休戦を請うことになるのです。


 鮮やかな勝利は普国内でも大いに喧伝され、それまでカール王子の名声は知っていた庶民も、政府系や保守系の新聞報道によって参謀本部とモルトケ将軍の存在を知り、戦争勝利の立役者として持て囃すこととなったのです。


挿絵(By みてみん)

デュッペル4月18日・占領された2号堡塁


 しかし、モルトケはここで引退伺いを出すことにします。


 彼は既に64歳となり、後進に道を譲るべき年齢と感じていました。折しも英雄ヴランゲル元帥が高齢ゆえか凡庸な指揮振りを見せてしまい、頑迷な態度ばかりが目立ったことは、モルトケにも歳を感じさせるエピソードでした。彼はこのデンマーク戦勝利を花道にしようと考えたのでした。

 しかし、これを認めなかったのがヴィルヘルム1世です。この勝利は自分の軍制改革が効果を現し始めたからだ、と考えた国王は、その具現者であるモルトケを手放せない・かけがえのない「武器」と考えたのでした。


 そしてそれは間違ってはいませんでした。モルトケはこの後、デンマーク戦の何倍もの働きをすることになるのです。



こぼれ話


カール王子


 フリードリヒ・カール・フォン・プロイセンという王子さまは1828年生まれ。時の国王ヴィルヘルム1世の弟、カール親王の息子です。つまりはヴィルヘルム1世の甥っ子となります。

 お父様が二代前の国王の三男で上の兄二人が順に王位を継ぎ、更に兄で現王のヴィルヘルム1世には後継ぎの子息がいましたから、王様になれる可能性は限りなくゼロ、フリードリヒ・カール王子はその息子ですから王族でも最初から「その他多勢」の王子さまでした。

 拙作「ミリオタでなくても軍事がわかる講座」の「貴族のボンボンが国民軍の――」の回で示しましたが、王族でもこのクラスになると軍人になるのが当たり前でした。


 フリードリヒ・カール王子も14歳で後の陸相ローンから軍事教育を受け、20歳で幕僚としてヴランゲル将軍に付き実戦を経験します。この第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争で、かつての上官ヴランゲル元帥からバトンタッチで普墺連合軍を率いると言う大役を引き受けた時には、36歳の若き陸軍騎兵大将と言う働き盛り。王族の中で最優秀の軍人と評判の王子様でした。


 それにしても王族は、お父さまやお祖父さまの名前を受け継いだりしますから、名前が一緒でややこしい。フリードリヒと言えば、ヴィルヘルム1世の子息で皇太子の名前もフリードリヒですし、お二人ともこの後の戦争で軍を率いて大活躍します。このままでは混同してしまいますので、「第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争」編に引き続き、この後もフリードリヒ・カール王子を「カール王子」と呼びますので、覚えておいて下さい。


挿絵(By みてみん)

第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争の普墺指揮官

左・ガブレンツ 右・カール王子


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