スピシュランの戦い/フランソア支隊の前進
ザールブリュッケンの街中を流れるザール川の西岸地区(実際の地形では南側となります)は、東(実際は北)岸のザンクト・ヨハン地区より丘陵が多く存在し、起伏が大きい地域となっています。
主な高台を現在の市街地と照らし合わせて以下に表すと、
○「ザール練兵場」
現在・ザールブリュッケンから国境を越えスティラン=ウェンデル、そしてフォルバックへ向かう国際鉄道のザール川鉄橋から南東600mにあるフットボールや陸上の競技場がその跡。
○レッパース・ベルク(丘)
現在・陸上競技場の東南東400m、「街道(メッツァー通り)」を隔てたレルヒェスフルール通りとシュティーリンガー通りに囲まれた地区。
○ヌス・ベルク(丘)
現在・陸上競技場の東1,000m、ヌスベルク通りの北部分。
○ヴィンター・ベルク(丘)
現在・ザールブリュッケンの東市街、ザール川に架かる「ビスマルク橋」の南南西800mを中心に東西800mの高地。
○ガルゲン・ベルク(丘)
現在・陸上競技場の南南東600m、イン・デア・ガルゲンデル道の北側部分。
ザンクト・ヨハン(ザールブリュッケン東市街)のザール川には仏軍が撤退の際、何故か落とさずに残した2本の橋梁があり、普軍は簡単に西岸へ渡ることが出来ましたが、問題はその先、スピシュラン地区に居座る仏軍の後衛(と普軍が思っていた)部隊です。
スピシュラン高地はザールブリュッケン南の高地群より高く、ザール川までを見下ろす形で東西に横たわっています。この高地から俯瞰して監視し砲撃を続ける敵を駆逐しない限り、ザールブリュッケンの渡河地点は安全とは言えません。
しかし普軍が安心したことに、スピシュランからスティラン=ウェンデルまでに展開しているらしい仏軍「後衛」は「3個連隊」程度との騎兵偵察報告が複数あり、普軍の各部隊はこの6日、ザールブリュッケンを目指し急行しているのですからスピシュランは簡単に落とせるはず、と第一軍や第二軍の前衛たちは考えていたのでした。
こうした情報を裏付けとして、普軍の先陣を切った第14師団はこのスピシュラン高地を奪取して、その南西側のフォルバックまでを占領することをこの6日の目標としたのでした。
しかし、仏軍の「後衛」はその高地にこそ3個連隊(1個旅団強)でしたが、その先スティラン=ウェンデルやフォルバックにその3倍の部隊が控えていたのです。
普第14師団長フォン・カメケ中将は正午直前、既に西岸に橋頭堡を獲て前衛支隊に加わった歩兵第74連隊第2大隊に続いて、師団本隊をマールスタットとブルバッハ(両方ともザールブリュッケン西の郊外)間の鉄道橋を渡り西岸へ展開させ、師団の砲兵部隊に対し市街地を抜けてザール河畔(西岸)まで前進するよう命じました。
この14師団本隊は第74連隊をフランソアの前衛支隊(結果的に第27旅団と同等)に譲った関係で、元来の編成とほぼ同じ、第28旅団が中心となっていました。その旅団長はヴィルヘルム・フリードリヒ・フォン・ヴォイナ少将です。
フォン・ヴォイナ将軍はザール地方モーゼル川沿いの中心地トーリアの生まれ、生粋のザールっ子で51歳、シュレスヴィヒ=ホルシュタインの二度に渡る戦争と普墺戦争で活躍し、この普仏戦争の動員と同時に大佐で第28旅団長に任命され、同僚のフランソア将軍と同じく7月26日に少将に昇進したばかりでした。
更にカメケ師団長は前衛支隊長フォン・フランソア少将に対し、ローターベルク/「紅山」にいる仏軍砲兵を追い出すことを命じました。
フランソア将軍
フランソアは「紅山攻略」のため、部隊を以下の配置とします。
○右翼隊
歩兵第74連隊第2大隊はドイチュ・ミューレ地区から、第39フュージリア「ニーダーライン」連隊第3大隊はレッパース丘よりドラツーク池の手前まで前進して合流。
○左翼隊
歩兵第39連隊第1、第2大隊は連隊長フォン・エスケンス大佐の指揮でスティッツ・ヴァルド森(スピシュラン高地最東端の森)から敵の右翼へ前進。
○予備隊
歩兵第74連隊第1、フュージリア大隊は予備となりレッパース丘と練兵場にとどまる。
なお、ブルバッハ(ザールブリュッケン西市街)の西で第13師団と連絡を命じられていた、第39連隊第9中隊も原隊(同連隊第3大隊)へ復帰するように命じられています。
正午。師団本隊の砲兵3個中隊がレッパース丘の南斜面に到着し、先に到着していた前衛支隊の野戦砲兵第7連隊軽砲第1中隊は練兵場の南から更に700mほど前進し、ドラツーク池の北東高地上で「紅山」に向けて砲列を敷きます。
レッパース丘の師団本隊砲兵隊は「紅山」の仏軍砲兵に対し砲撃を開始しますが、レッパース丘からは正面から撃ち上げる形となるためなかなか当たりませんでした。そこでこの砲兵大隊長の男爵フォン・エイナッテン少佐は独断で陣地転換を行い、「紅山」まで南西に直線距離にして2,000mとなるヴィンター丘南西斜面へ移動します。
ドラツーク池北東の砲兵中隊の位置は絶妙で、この軽砲第1中隊は「紅山」上の砲兵と撃ち合い、たちまち仏軍砲兵を圧倒し始めます。追い駆けてヴィンター丘へ陣地転換した諸砲兵中隊も撃ち始め、すると今度は有効射続出となり、被害が出始めた「紅山」上の仏軍砲兵は南方へと後退せざるを得ませんでした。
こうして普軍はうるさい「紅山」の砲兵を沈黙させますが、それまでに配置に付こうと行動していた諸部隊はこの砲兵により損害を受けてしまいました。
特に左翼隊の第39連隊第1と第3中隊は戦い始める前にかなりの損害を受けてしまいます。
この左翼隊はヴインター丘から南東斜面を下ってティーフ=ヴァイヤー(現・タバークスミューレンヴァイアー)池に達し、ここでようやく「紅山」から遮蔽された隊は中隊ごと大間隔の縦列横隊となって、仏軍の猛烈な銃砲火(但し遮蔽が多く損害はわずかです)の中を細い山道に沿って進みました。
左翼隊はティーフ=ヴァイヤー池からスティフツ・ヴァルド森(仏名・スティフトワル/スピシュラン高地最東の森)の西部窪地から「紅山」の南東部ギッフェル・ヴァルド森(現・ジフェールワル)とその南西に連なるパッフェン・ヴァルド森(現・ファフォンシュラグ付近の森)の間の空き地に出ました。ここは珍しく樹木がまばらな場所で、隊の先頭を行く第1大隊は見通しが開けるここで方角を確認すると、更に西側の斜面を登りました。そして遂にスピシュラン部落の北東側高地に出ますが、この山頂で初めて仏歩兵の散兵線にぶつかり、激しい銃撃を浴びてしまいました。
ヴィンター丘からギッフェル・ヴァルドへ突進する第39連隊
このスティフツ・ヴァルド森の西、スピシュラン部落の北東方面を守っていたのは仏ラヴォークペ師団の第40連隊の1個大隊で、彼らは高地の斜面を登って来る普第39連隊第1大隊に対し頑強に抵抗して、ここで一進一退の激しい戦闘となりました。しかし、見通しの悪い森の中ではシャスポー銃の優位性も打ち消され、勢いに勝る普軍側が次第に圧倒し始めます。
結果、仏軍大隊は後退、普軍左翼隊の先鋒第2,3中隊は遂にギッフェル・ヴァルド森南東縁まで達し、ここで初めてスピシュラン部落を望むことが出来るようになり、部落周辺に仏軍の野営地があるのを視認するのでした。
しかし、この危機に際しスピシュラン部落に本営を置いたラヴォークペ少将は、部落北に控えていたミシュレ准将旅団を前進させて、その第24連隊は後退した第40連隊の1大隊を援護、普軍と猛烈な攻防戦となります。特に普39連隊の第4中隊は森の中で何度も銃剣突撃を繰り返し、犠牲を出しつつ敵の弱点や側面を探し廻りますが、護る仏軍兵も必死で防戦し遂に失敗、中隊は一時大隊本部と連絡を失い孤立しますが、その後何とか元のギッフェル・ヴァルド森の縁まで戻ったのでした。
こうして第1大隊がスピシュラン高地を東側から攻めあぐねていた時、左翼隊の残り半数、第39連隊第2大隊は第1大隊の後方から右(南西)へ進み、「紅山」の方角へ攻撃軸を向けました。
部隊は「紅山」から猛烈な射撃を浴びますが怯まず、「紅山」の弱点と考えた東側斜め後方から攻め上がろうとしました。特に先頭の2個中隊は奮戦し、「紅山」に取り付こうとしましたがここでも仏軍は必死で防戦し、普軍の第7中隊長は戦死、他の中隊も損害が多く、これ以上進むことが出来ませんでした。
午後2時30分の時点で普フランソア支隊の左翼隊(第39連隊第1,2大隊)は「紅山」の南東部ギッフェル・ヴァルド森の南縁まで、一部は「紅山」の頂上から700mほど離れた東側斜面の一部を占領しますが、仏軍は普軍のすぐ傍に居座り、猛烈に抵抗したので普軍はこれ以上進むことが出来ず、「紅山」頂上には普軍の砲撃にも耐えて仏猟兵大隊ががんばり続けたのでした。
第39連隊第1、2大隊の進撃
このように仏第2軍団第3師団長ラヴォークペ少将も必死でした。将軍は予備に控えていた第24連隊の残り2個大隊を「紅山」に送り、逆に砲撃により後退して来た砲兵中隊を収容すると、残った砲兵2個中隊(内1個はミトライユーズ砲中隊/6門)と共にスピシュラン部落の北に置いてギッフェル・ヴァルド森から攻めて来る普軍に対し砲撃を開始しました。
また軍団騎兵師団の第2旅団(バシュリエ准将指揮)の竜騎兵第7連隊から派遣された2個中隊はスピシュランから東へ流れ下るシムバック(独名・ジムバッハ)川沿いに展開し、万が一東側のザール河畔シェーンバッハ部落方面から奇襲されぬように警戒していました。
普軍の最右翼部隊は第74連隊第2大隊と第39連隊の第3大隊でした。
フォン・エバースタイン少佐の指揮する第74連隊第2大隊は正午、ドラツーク池の北東部に到着し、ここで民家を接収すると国際鉄道の両側沿いに展開、ザール河畔の橋梁から大隊後衛の1個中隊が追い付くのを待ちます。この部隊は進軍中何の妨害も受けず敵を見ることはありませんでした。スティラン=ウェンデルの北郊外に突き刺さるように細く横たわる(スティラン・ヴァルド・)ステック林の北東端にも敵は見えず、第6中隊が林に向かいますが、この頃から仏軍砲兵が砲撃を始め、部隊はこの先激戦に巻き込まれて行くのです。
フォン・ヴァンゲンハイム少佐が指揮を執る普第39連隊第3大隊は、フランソア少将の前進命令を練兵場付近で聞くと鉄道の東側に沿って南下し、ほぼ正午にはフォルシュター丘陵(現・ドラツークヴァイアーの南西フォルシュタラーヴァイアー。「紅山」の直下北西)に到達しました。すると突然仏軍砲兵が砲撃を開始し、ステック林と街道との間に着弾して、大隊の前進を阻止しようとしました。また「紅山」やスピシュラン高地西側斜面からも仏散兵がシャスポー銃の射撃を開始し、これは次第に激しいものとなりますが、仏軍の銃砲撃は大した効果を発揮出来ず、39連隊第3大隊は第12中隊を南東側街道沿いに散開させ側面援護とすると残りの主力でステック林に突入しました。この林の北端で74連隊第2大隊の先鋒と遭遇し、共に林の中を北上して来た仏軍歩兵と戦い始めたのです。
このステック林からスティラン=ウェンデル方面には、前述の通り仏第2軍団のバージ師団がおり、その配下ジョリヴェ旅団の第77連隊は製鉄所を中心として市街地を防衛し、その北東側に第76連隊と猟兵第3大隊がいました。特にステック林内には猟兵大隊が守りに付いていたのです。バージ師団の半分、ヴァラゼ旅団はその後方フォルバック市街西側におり、特に市街西のカニンヘン山に前衛を展開し西側の防衛を担当していました。師団砲兵3個中隊はステック林と街道との間に布陣して、当初普軍の前進に対し砲撃を行いますが、効果が薄いまま次第に普フランソア支隊に圧迫され、やがて南東方向に後退し、スティラン=ウェンデルの東側、スピシュラン高地西の高地へ砲列を敷き直し砲撃を続けるのです。
普第39連隊第3大隊は敵のシャスポーとミトライユーズの猛射撃の中を前進し、ステック林の中心部まで兵を進めます。しかし林の中は夏草が背丈まで生い茂り、蔓草などが足に絡まって前進を阻害し、また仏猟兵も必死で防戦に努めたことで、ここで前進を止められてしまいます。やがて仏軍が反撃に転じ、林の中の普3個中隊は防戦しますが損害は増え続けるばかりとなります。
林の外の第12中隊も街道沿いの民家に立て籠もる仏軍歩兵のために林中の友軍を助けることが出来ず、この中隊は街道から離れた窪地を占拠してここに即席の陣地を作り、仏軍の攻撃に対し猛烈な応射を開始したのでした。
普第74第2大隊は39連隊第3大隊の右翼に進み、第6中隊をステック林の北端に残すと仏兵がいないと思われたコムナルヴァルド林(現・ドイチュミューレンの西に広がる森)に迂回、先鋒の第7中隊は午後1時30分、その南縁に達します。この中隊は散開して散兵戦術を採り、スティラン=ウェンデル部落の街道の北、スティラン森に沿って展開する仏第77連隊の散兵線に対し銃撃を加え、戦闘を開始しました。
しかし程なくして中隊長が重傷を負って後退し、猛烈な銃火により中隊自体も大きな損害を被ります。第7中隊の戦闘参加を見たステック林の第6中隊も第7中隊の右翼(東)に連なって攻撃を行いましたが仏軍の攻撃は変わらず激しく、この2個中隊は次第に押され始めます。
大隊の残り2個(第5,8)中隊はその後方森林中で散兵線を敷いて展開し戦闘に備えていましたが、大隊長エバースタイン少佐は第6,7中隊の苦戦を見ると敵の圧力を分散させるため、第8中隊をドラツーク池の西側鉄道線路に向かわせました。第8中隊はステック林に沿って北上して来た仏軍歩兵の縦列と線路を挟んで銃撃戦となります。この中隊は大損害を被りますが仏軍も攻撃を中止し、スティラン=ウェンデルへ退却して行くのでした。
このようにフランソア少将の右翼(西)部隊は苦戦し、今やステック林とその周囲に前進して来た仏ジョリヴェ旅団(第76、77連隊、猟兵第3大隊)主力と正面からぶつかり、特に第39連隊第3大隊は3個中隊の主力がステック林から撤退せざるを得なくなります。この穴を埋めるべく、エバースタイン少佐は残った第5中隊と第8中隊残余を率い、決死の覚悟で鉄道を越え西側からステック林に侵入しましたが、仏軍はこれに対しては僅かな反撃しか加えられませんでした。
何故ならちょうどその頃、北方から普軍の援軍が到着したのです。
フランソア支隊の予備とされた第74連隊第1と*フュージリアの2個大隊は、午後1時過ぎに練兵場とレッパース丘付近から前進を開始し、その第3中隊は特に特別任務を帯びて進みました。この中隊の任務とは、ドイチュ・ミューレ地区から鉄道線を越え、その西のコムナルヴァルド林東縁斜面に沿って「敵の目を盗んで」前進し、「紅山」の西側斜面に敵の不意を突いて取り付く、と言うものでした。
他の7個中隊(第1,2,4,9~12)は、盛んに撃って来る仏軍の銃砲火を冒して、フュージリア大隊を先頭に「紅山」目指して南下します。
すると午後1時30分過ぎ、予備部隊と共に進んでいたフランソア少将は右翼部隊の危機を知り、第1と第2の2個中隊に命じてステック林へ向かわせました。
この2個中隊は途中「紅山」下のフォルシュター丘陵付近で先行していた第3中隊の残余を吸収し進みます。この第3中隊は隠密にコムナルヴァルド林を進み、ドラツーク池付近で林から出て「紅山」へ突進しましたが、「紅山」及びスピシュラン高地西側から猛烈なシャスポーやミトライユーズの銃火を浴びてしまい、多大な損害で突進を阻止され、このフォルシュター丘陵の陰で体制を整えていたのです。第3中隊は一部を同僚の2個中隊に割いた後、激しい銃火の中、残余の兵で更に街道を南へと進み始めるのでした。
第3中隊の一部を加えステック林に向かった第1と第2中隊は、フォルシュター丘陵から500mほど西へ進んでステック林に入り、第2中隊は激戦中の第39連隊第3大隊の一部と遭遇、また第1中隊は更に先へ進んで退却して来た第39連隊の兵士を収容し、共にステック林を南へ進みました。
この普軍の2個中隊強の増援は仏軍を守勢に追い込み、ステック林での戦況は一旦普軍有利となるのです。
午後3時には普軍右翼部隊はステック林の南西端まで進み、林の西側から参戦したエバースタイン少佐の第74連隊第2大隊の2個中隊は、敵の反撃を抑えつつ鉄道線とステック林までを制圧しましたが、隊の損害は軽微で済んだのでした。
しかしこのステック林を抑えたことで、普軍右翼はスティラン=ウェンデルの東郊外に控える仏軍砲兵3個中隊の直接砲撃目標となります。同じく市街中心にある製鉄所に控えていた1個大隊の仏兵からもシャスポー銃の射撃を浴びることとなりました。
普第74連隊の第1中隊長・ウェーベル大尉は2個小隊を率いて先行し、敵に発見されずに製鉄所を臨める鉄道際の民家を占領し、この頑丈な石造りの家屋から製鉄所の前庭にいた仏軍兵を銃撃し、敵を側面から攻撃することで混乱させることに成功するのです。
ステック林の戦闘がこうして普軍有利に傾いたことで、エバースタイン少佐の第74連隊第2大隊はステック林を第39連隊の第3大隊と同じ74連隊の第1,2中隊に任せ、ステック林を出てコムナルヴァルド林の南縁に戻り、鉄道線の北をアルト=スティラン(スティラン=ウェンデルの北郊外)へと進み、その北で露天掘りの炭田(現在も北郊外にあります)を占領しました。第5,6,7の3個中隊は散兵線をスティラン森に延ばしてショーネック(スティラン=ウェンデル北西2キロ)に通じる街道を抑え、第8中隊は予備として炭田に留まったのでした。
*注・普仏戦争当時の普軍「フュージリア」大隊と中隊番号
普軍では「フュージリア(銃兵)」の呼称を持たない「擲弾兵」と「普通の」歩兵連隊の「第3」大隊は「フュージリア大隊」と呼ばれました。
因みに1個大隊は先述通り4個中隊ですが、中隊番号は、第1大隊が第1から4、第2大隊が第5から8、「フュージリア」及び第3大隊が第9から12と、連隊の12個中隊が通し番号となっていました。例えば、第5中隊と言えば第2大隊所属と、中隊番号だけでどの大隊所属かが分かります。




