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スピシュランの戦い/独断続く普、混迷する仏

 独第一軍第8軍団長のフォン・ゲーベン大将は、同僚第7軍団に属する第14師団長フォン・カメケ中将に同師団を援助すると約束し、自軍団の前衛をしばらく留めようと考えていました。しかし、カメケ将軍と別れて本営に向かう途上、ザール川西岸方面から激しい砲声が上がり、途絶えることなく続くのを聞き、既に援助する頃合いに達したのでは、と考え直したのです。

 そこで、第8軍団で最もザール川に迫っていた第16師団を戦場に急がせようと決心しました。その前衛は正午にはこの日の宿営予定地クヴィーアシートとフィッシュバッハに到着し、宿営準備をするはずでした。

 ところが、ゲーベン将軍がフィッシュバッハに到着して見ると、既に16師団の前衛はザンクト・ヨハンに向けて出発した後だったのです。


 これは第16師団長男爵アルベルト・クリストフ・ゴットリープ・フォン・バルネコウ中将の独断で、師団長はフィッシュバッハでゲーベン軍団長が聞いたのと同じ激しい砲声を聞き、ちょうど出発しようとしていた斥候に続いて第32旅団長フォン・レックス大佐率いる前衛支隊(第40連隊、驃騎兵第9連隊、砲12門、架橋工兵など)を急ぎ出発させたのでした。

 同時にバルネコウはヴェンメツヴァイラーとラントシュヴァイラー=レーデン(ノインキルヒェン西北西6キロと3キロ)に宿営地を求めていた師団本隊もフィッシュバッハやクヴィーアシートへ呼び寄せ、レックス支隊と間を置かず続行させようと命じていたのです。

 バルネコウ将軍は4日前の屈辱、部下のグナイゼナウ将軍が敗退したことを忘れるはずもありません。そしてザールブリュッケンで戦い、直後に本来の配属、第32旅団に戻った第40フュージリア連隊も屈辱を晴らしたい、と考えるのです。

 ゲッペンはバルネコウの独断を許し、間もなく始まるザール川西岸での戦闘に第16師団が遅れず参加することを確信し、前衛がホルツ(ザールブリュッケン北9キロ)付近に達しているはずの第15師団は予定通り行軍させて予備として後置する事に決するのです。

 ゲーベン将軍はバルネコウが忙しく部下を差配する姿に安心すると再び戦場へ、ザールブリュッケンへと引き返したのでした。


 第16師団の前衛、レックス支隊の進軍は素早く、午後1時30分、ケラーターレルヴァルド森を越えてザールブリュッケン北郊外に達し、第14師団の後方に位置しました。レックス大佐はカメケ師団長のいる第14師団本営へ士官を送ります。その士官は帰って来ると「14師団はまだ援助の必要を認めず。しかし16師団の援助に感謝しザール川西岸に進出することを希望する、とのこと」と報告しました。レックス大佐はこれを直ちにバルネコウ師団長に伝え、師団長はレックス隊をザンクト・ヨハンまで進め、師団本隊をその後方へ進めるよう命じたのでした。


 さて、第14師団長カメケ中将に「貴官の所見により行動せよ」と進撃を独断で許可した第7軍団長フォン・ツァストロウ大将は、直後にカメケ師団だけでなく軍団の残りも全てザールブリュッケンへ進めるのが良いのではないか、と考えます。そこでツァストロウは軍司令シュタインメッツ大将の考えを確認し進軍許可を得ようと、一参謀大尉をアイヴァイラー(ザールブリュッケン北北西12キロ)へ騎行させました。シュタインメッツの第一軍本営はトーライより前進し、正午にアイヴァイラーに至っていたのです。

 この地で待っていたツァストロウの使者に対し、シュタインメッツは後に普軍内で問題となる回答をするのです。


「敵はその怠慢を罰せられるべきである。敵が一度放棄したザール川西岸を再び占領することを妨害する目的で第一軍がザール川西岸に渡るのは、第二軍が進撃するためにも有益となる。これには本官も同意する所である。また、フォルバック付近で乗車する敵の軍隊を妨害することは大変好ましいことである。その援護兵は薄弱と聞いているからである」


 ホイスヴァイラー南東郊外のディルスブルクに本営を構えていたツァストロウ第7軍団長はこの昼前後、前線より更に情報を得て、それによれば「敵はなおも後退を続行しているが、また新たにザールブリュッケン方向に前進する動きもあるとの報告もある」とのことでした。

 午後1時、アイヴァイラーからシュタインメッツの回答を持って参謀が帰り、ツァストロウは軍司令官のお墨付きは得た、とばかり第7軍団に対し次の命令を下したのです。

「第13師団はフォルクリンゲンとヴェーデルンに前進し、前衛をルードワイラー及びフォルバック方向へ差配せよ。またフォルバック付近に在る敵兵力とその意図を探知するため斥候を放つこと。第14師団は前衛の兵力を増強しザール川西岸の占領を確実に行うと共に、本隊はロッケルスハウゼン(ザールブリュッケン西郊外の現・ヴェスト。ゲルスヴァイラーの対岸付近)に進んでこの地でザール川に架橋し、フォルバック方面に斥候を放つこと。しかし、第14師団は既に所見によって独立し行動する許可を得ているので、可能で在れば命令を越えて行動することを許可する。軍団砲兵はピュットリンゲン(フォルクリンゲンの北)まで進出し命令を待て」

 ツァストロウ大将は以上の命令を発すると、急ぎ幕僚を伴ってザールブリュッケンに向け出立するのでした。


 アンヴァイラーの第一軍本営では、シュタインメッツ大将がツァストロウの副官を見送った後、第一軍参謀副長の伯爵ヘルマン・ルートヴィヒ・フォン・ヴァルテンスレーベン大佐を呼び寄せました。

「伯爵。申し訳ないが、ザールブリュッケンに行って状況を見て来て貰えないか」

 大佐は直ちに騎乗すると南へ出発しました。途中、ディルスブルクの第7軍団本営に立ち寄って最新の状況報告を確認し、なおも先へと進みます。戦場が近付くと間断ない砲声が響き渡り、様々な連隊の普軍兵士が続々とザンクト・ヨハンに集まっていました。

 大佐はこの光景を確認するとアンヴァイラーのシュタインメッツに電信で報告するのでした。


 このように「スピシュランの戦い」初動段階では、独側は第一軍も第二軍もその傘下部隊が独断専行によって部隊をザールブリュッケンへ向けて送り出し、それを上層部も追認して更に部隊を追加して送り出す、ということが続きます。

 しかしこれは軍司令同士の諍いや先陣争いの影響だけでない、純粋に「砲声を聞いたので」という見敵必戦的な敢闘精神と、部隊を越えての協力精神の発揮とも思えるのです。

 この独軍指揮官たちの積極性は吉と出るのか、それとも凶と出るのでしょうか。


 その頃、普軍の敵である仏軍は……

 

 仏第2軍団長フロッサール中将は、そんな普軍の「前のめり」状況は知り得ませんでした。ただ、この6日午前4時30分と言う早い時間に在メッスの仏大本営より、一通の至急電信を受け取っていたのです。

「本6日、敵が大挙して貴軍団を来襲する懸念がある。貴官は軍団と共にこれに備えて警戒せよ」


 仏軍は前述通り8月2日のザールブリュッケンにおける戦勝からこの6日まで何ら攻勢的な体制を作らず、皇帝ナポレオン3世やル・ブーフ参謀長、バゼーヌやフロッサール将軍まで将士全てが消極的となってしまい、確証のない情報に踊らされて右往左往、命令は朝令暮改といった状況でした。

 この数日間、メッスのナポレオン3世は部下たちの「準備不足で攻勢に出られない」という言葉を信じ、当初は積極的に攻勢に出るよう頻りにせっついていた姿はどこかに消えてしまいました。

 逆に、普大本営の第一軍と第二軍の行軍列を正した(4日)命令によって生じた第一軍の「西寄りの動き」を、ザールルイ方面からの普第一軍単独の突破作戦だと勘違いして大騒ぎとなり、万が一、猛将シュタインメッツ率いる軍がザールルイから進撃した場合に備え、ザールブリュッケン前線のフロッサール軍団と連絡していたフォルバック駐屯のバゼーヌ第3軍団所属のモントドン師団を、バゼーヌ軍団が集合していたサン=タヴォルへと移動させたのです。


 この行動は大きな反響を呼びます。直後に南より「ヴァイセンブルクの戦い」の詳細が届き、この敗戦の報は仏大本営に精神的大打撃を与えてしまいました。これにより5日、仏ライン軍は解散し「バゼーヌ軍」「マクマオン軍」「皇帝直轄軍」そして「カンロベル軍団」に分かれたのは前述通りです。

 

 この5日、ロレーヌにおける仏軍の配置は次の通りでした。


 ○第2軍団(フロッサール中将) ザールブリュッケン南方

 ○第3軍団(バゼーヌ大将直卒) サン=タヴォル周辺

 ○第4軍団(ラドミロー中将) ブゾンヴィル周辺

 ○近衛軍団(ブルバキ中将) ティオンヴィル周辺

 ○第5軍団(ファイー中将) ビッチュ周辺


 第5軍団はマクマオン軍に属しているので南を気にしているはずです。バゼーヌ大将は名目上フロッサール中将の上司ですが、当然ながら突然配下と言われても動けるはずもなく、自軍団(第3軍団)の指揮もあるのでその関係は非常に希薄だったと思われます。


 ですから第2軍団は両側の援助も少なく、ひとり北に突出してザール川に面していたわけで、フロッサールは底知れぬ孤立感と不安を次第に隠せなくなりました。


 8月5日朝、フロッサールは仏大本営に対し「前夜は無事に過ごせたが、敵普軍には前進する兆候が見られ、敵に対し突出している我がザールブリュッケン南郊外の陣地帯は非常に危険な状況にある。従って後方への退却を許して頂きたい」と懇願するのです。

 対する仏大本営は「後退は許可するが、移動開始を6日とするべし」と回答しました。ところが不安でたまらないフロッサールはこの命令を無視し、5日午後には移動を開始、ひとまずスピシュランからフォルバックまで、以下のように再展開したのでした。


○第2軍団第3師団(伯爵ラヴォークペ少将)

 軍団右翼となり、スピシュラン高地に散兵線を敷き、別途猟兵第10大隊と砲兵第15連隊からの1個中隊で支隊を作り、高地の北突出部「ローターベルク(紅山)」に進出、その頂上には馬蹄形に塹壕を設ける。最右翼には歩兵第2連隊から1個大隊を差配し、ギフェルト・ヴァルド森(スピシュラン部落南東の林)を抑える。

○第2軍団第1師団(バージ少将)

 軍団左翼となり、シャルル・ジャン・ジョリヴェ准将(師団第2)旅団をスティラン=ウェンデル部落に置き防塞を設け、シャルル・レテラー・ヴァラゼ准将(師団第1)旅団をフォルバック市街前方に展開させて左翼後背地の援護となす。更に、ジョリヴェ准将旅団から一部隊をスティラン=ウェンデル前方の丘陵林(スティラン・ヴァルド・ステック林。以下ステック林)に置いて前衛とする。

○第2軍団第2師団(アンリ・ジュール・バタイユ少将)

 軍団予備となり、フォルバック南東1.5キロのオッチン(独名・ウェッチンゲン)高地に位置して、敵の侵攻に対しその圧力が高まった個所へ援軍に向かう予定。


 こうしてフロッサール軍団はスピシュラン高地からフォルバックにかけて急ぎ防御設備を整えつつ6日を迎え、早朝、前述の大本営からの「警報」を受け取ったのでした。

 フロッサールは退却行動を弱め、ほぼ軍団の半数で敵の来襲に備えました。スピシュラン高地、特にザールブリュッケンに向けて剣のように1.5キロも突き出しているローターベルクからは敵の動きが良く分かりました。


 しかし、高地の高台上にあって敵を見下ろすという有利な状況でも、仏軍側には不利な面も多くありました。


 その一番大きなものは、スピシュラン高地一帯が鬱蒼とした森に覆われていることでした。

 平坦な土地が少なく斜面が木々で覆われた岩が目立つ山は攻める側には天然の防塞ですが、護る側も時間を掛けて防護施設を造らねばならない難しい地形です。このスピシュラン一帯は正にその「難しい土地」で、ほんの数日では防御側が安心出来る状況に持って行くのは無理な土地でした。

 散兵線は、木々や岩という天然の遮蔽物が多いとはいえ、火線を交差させ十字砲火を得るには邪魔となり、視界不良は攻める側にも密かに接近する機会を与え有利となる場合が生じるのです。


 平坦で開けた部分が少ないことは砲兵にとって致命的で、結局フロッサール将軍は、唯一その頂上が「禿山」の状態となっていたローターベルク山頂の陣地と、その後方に砲兵を配置出来ただけであり、それも一個中隊と四分の一・僅か8門の4ポンド砲しか高地に上げることが出来ませんでした。

 また、スティラン=ウェンデルの部落は製鉄所と石造りの家屋や停車場が一塊となって街道と鉄道を通しており、ここに籠られるとローターベルク方面から攻めるのが困難となりますが、この部落の北郊外までステック林が迫っていて、この林を捕られると簡単に村の北郊外に接近出来てしまうのでした。


 全体を見渡しても、フォルバックの北西側は丘陵と林が広がっているとはいえ、スピシュランに比べれば大した困難もなく行軍は可能で、現に普軍の騎馬斥候が何回もフロシュヴァイラー方面から渡河して越境し、この方面から偵察活動を行っていたのです。

 この状態は「頭隠して尻隠さず」の状況と言えますが、フロッサール将軍もこの危険には気付いており、北西からの脅威に備えてフォルバック西郊外のカニンヘン(ベルク)山に前哨を配置し、また1個旅団(ヴァラゼ准将旅団)をフォルバック西郊外に、1個師団(バタイユ師団)を東郊外に後置しますが、普軍がもし全力でフロシュヴァイラーから南下して北西からフォルバックに突進して後衛を敗退させた場合、フロッサール軍団主力はスピシュラン高地で包囲される危険性もあったのです。


 以上の点から見ても、フォルバックとスピシュランは長い間普軍を留める役割には適さない場所だったと言えそうです。ここで戦う羽目になったフロッサール将軍と仏軍首脳は認識が甘かったと言えますし、それ以上にザール川に架かる橋を一つも落とさなかったのは、フロッサールと仏軍首脳最大の怠慢であり失敗と言えるでしょう。


 そして、これが一番大きな問題ですが、仏大本営はフロッサールに対し「退却」を認めても「何処へ」「何時までに」とは示さなかったのです。更に、何のために敵と戦うのか、敵の動きを遅延させるためなのか、それとも国土防衛のためこの土地を死守するのか、そういった「目的」を一切示さないままだったのです。

 従ってフロッサールは「とりあえずこの地で戦う」こととなります。昼前には敵普軍の増大を見て、フロッサールは「上司」バゼーヌ大将のいるサン=タヴォルの第3軍団本営に対し救援要請の電信を発し、するとこれをきっかけにバゼーヌとの間で要領を得ない問答となって、結局は増援要請が通るものの、かなりの時間を無駄にしてしまうのでした。


 とはいえ、ローターベルクからスピシュランにかけては、北のドラツーク池方面から登れば標高差が最大120m、それも急斜面であり、攻める側はかなりの犠牲を覚悟しなくてはならない難攻の「砦」には違いはなかったのです。


 フロッサールが実際に普軍の進撃を見て退却を完全に諦め、会戦を覚悟した時点は一体何時なのか、仏独共に明確な資料はありません。


 仏側は、正式には午前9時にザールブリュッケンの練兵場へ砲撃を開始した時点、と言い、別の史料では仏軍師団長のバタイユ少将が残した報告書にある「オッチン高地にて午前10時に初めて砲声を聞き、その後に部隊を区処した」との記述から午前10時としています。確かに普第9旅団長のフォン・デューリング少将は、午前9時から10時頃にフォルバックから北に進んでスピシュラン森に消えた歩兵の隊列を目撃していました。

 しかし独側によれば、この午前9時からの砲撃は第二軍の騎兵部隊斥候に対するものであり、本格的戦闘ではない、としているのです。

 普第14師団の前衛、フランソア支隊がザールブリュッケンのザンクト・ヨハンから対岸に渡ったのは午前11時30分であり、これに師団本隊の第74連隊が加わったのが正午から午後1時頃でした。


 つまりこの正午過ぎから仏軍は本格的な反抗を開始し、ここに「スピシュランの戦い」(仏・フォルバック=スピシュランの戦い)が開始されたのでした。

 


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