スピシュランの戦い/第3軍団の独断専行
8月5日の夕遅く。マインツ在の普大本営は、第一軍司令官カール・フリードリヒ・フォン・シュタインメッツ大将の本営に宛て電信を送ります。
「仏軍はザール川河畔地帯より退却する兆候が明らかとなった。第一軍は進軍し普仏国境を越えることを許可する。但し、ザール川の渡河はザールブリュッケンより下流(北方)で行うこと。この理由はザールブリュッケンよりサン=タヴォルに至る街道を第二軍が優先利用するためである」
これは大本営(つまりは参謀本部とモルトケ)がシュタインメッツの定めた5日夕刻の「軍境界」を認可した「後で」送った電信でした。
モルトケはシュタインメッツの気迫が籠った第一軍命令を一旦受理して許可したものの、やはりザールブリュッケンにおいて先陣争いが発生することを案じ、第一軍に「ザールブリュッケンより北へ離れよ」と釘を差そうとしたのでしょう。
ところが、どうしたことかこの電信は途中で滞ってしまい、第一軍本営に届けられたのは6日の夜となっていたのでした。
この8月5日夕刻、それぞれに発せられた第一軍と第二軍翌日の進軍命令は、共に軍の前衛をして「ザールブリュッケン」に至るよう命じています。互いに同じ目標となれば、当然ながら混乱が予想されます。それでもこの夜は両軍間の調整や大本営からの仲裁もなく、6日早朝、第一軍第7軍団第14師団の前衛支隊はライン=ナーエ鉄道の西側を、第二軍第3軍団第5師団の前衛支隊は同鉄道の東側を、それぞれ同じ目標、ザールブリュッケン東市街ザンクト・ヨハンのザール川に架かる諸橋へ向かって発進したのでした。
同じく6日早朝。第一軍第7軍団の第13師団はレーバッハ付近からピュットリンゲン(フェルクリンゲン北北東3キロ)方向に進軍し、その前衛支隊はフェルクリンゲンまで前進する命令を受け、先鋒となる驃騎兵第8連隊第1,3の2個中隊は午前11時、無事にフェルクリンゲンへ到着しました。
フェルクリンゲンでは、ちょうどこの時刻に第二軍に属する騎兵第5師団驃騎兵第11連隊が、一部の偵察斥候やザールブリュッケンの練兵場を占領した部隊を除き、ザール西岸へ移るため集合していたのです。
ところで、ハインリヒ・アドルフ・フォン・ツァストロウ大将率いる第7軍団の第14師団は5日夜、「グッチェンバッハ(現・リーゲルスベルク/ザールブリュッケン北北西7キロ)に向かい、ここから前衛を先発させ、その前哨はザールブリュッケンに対面し、ケラーターレル・ヴァルド森(ザールブリュッケン北郊外の森林地帯)の南縁端を占領せよ」と命じられていましたが、同師団長のゲオルグ・アーノルド・カール・フォン・カメケ中将は6日早朝、前哨騎兵からの報告を受け、それによると「敵はザールブリュッケンのザール西岸における陣地を撤去して、ドラツーク池とスティランヴァルド森との間に些細な後衛を置いているだけ」とのことで、カメケ師団長はデュイスブルクに向けて行軍中のツァストロウ大将の本営に向けて伝令を送ってこれを報告し、続けて「刻下の状況により、敵が再びザールブリュッケン南部を占領する前に、我が部隊をしてザール川を渡河し、この丘陵地を確実に占領した方が良いか否か」と質問したのです。
すると第7軍団本営からは直ちに、「貴官の所見に従って行動せよ」との回答を得るのでした。
第14師団の前衛支隊はブルノ・フォン・フランソア少将(仏語読み。独語ではフランツィスクスですが、第一次大戦の東部戦線で有名となる彼の三男ヘルマン・カールがフランソア将軍で通っていますので、この項ではフランソアと呼びます)でした。
ユグノー教徒の古いフランス貴族の家系で、17世紀末のルイ14世の弾圧でフランスからドイツに亡命した祖先を持つフランソア将軍は、ケーニヒグレーツの戦いで負傷しプール・ル・メリットを受章、この70年7月26日に第27旅団長の少将に昇進したばかりでした。
フランソア少将の支隊は午前9時30分にはグッチェンバッハ(現・リーゲルスベルク/ザールブリュッケン北北西7キロ)に到着しましたが、この6日という日は曇天の一日で、夏の日差しを浴びずに済む行軍には最適な一日でした。彼の部下は早朝よりの行軍でも闘志満々、元気一杯でした。将軍はカメケ師団長にザールブリュッケンまで進みたいと申し入れると、師団長は「先へ急ぎ、ザールブリュッケンとそのザール西岸にある高地帯を占領せよ」と命じたのです。フランソア支隊はそのまま行軍を続け、その後からは師団本隊が続いて行きました。
するとフランソアの前衛はザールブリュッケンの北郊外で、第一軍第8軍団長のアウグスト・カール・フォン・ゲーベン大将の一行と邂逅するのです。
ゲッペン大将は早朝ザール河畔まで騎行し、将校偵察を行った帰り道でした。将軍は偵察の結果、フィッシュバッハ(ザールブリュッケン北東9キロ)まで接近している自軍団の前衛をザールブリュッケンまで進めようと考えていましたが、そこへ現れた同僚第7軍団の前衛が既にザールブリュッケン郊外まで到着したのを見て考えを改めます。ゲーベンは「味方軍団長現る」との報を受け急ぎ前衛にやって来たカメケ師団長と会合し、「第8軍団前衛の前進を一時見合わせ、もし敵が再びザール川まで前進して来たら貴隊に助太刀しよう」と先陣を譲って援護を約束し、自軍団本営へと去ったのでした。
フランソア支隊はザンクト・ヨハンに達すると、ザール川に未だ架かっている二本の橋梁を渡ってザール西岸に入ります。その先鋒である第39フュージリア(銃兵)「ニーダーライン」連隊第3大隊が、第二軍の騎兵たちが先に占領していた、西岸高台上の練兵場に到着したのは午前11時30分でした。すると、それまで散発的に撃って来ていたスピシュラン高地北突出部(ローターベルク「紅い山」と呼ばれます)の仏軍砲兵が本格的に砲撃を開始し、更に支隊の軽砲1個中隊が登ってくるとますます砲撃が激しくなりました。
そこでこの軽砲6門はザールブリュッケン~フォルバック街道の西側にある練兵場高地の南側斜面に布陣して、ローターベルクへの砲撃を開始しました。この練兵場付近とローターベルクまではおよそ1,800mで、この距離では仏砲兵の4ポンドライット砲より普砲兵の4ポンドクルップC67砲が効果の点で有利となります。仏軍は砲8門からなる砲兵でしたが、一部がローターベルク上に、残りはその後方高地上にあって、猛烈に撃って来ましたが普側に損害は少なかったのです。
同じ頃、第39連隊の残り2個大隊(第1と2)は練兵場の左にそびえるレッパース丘に達し、その北斜面で一旦様子を見ます。
後方ではカメケ師団長が師団本隊から歩兵第74連隊第2大隊を抽出、マールスタットとブルバッハ(両方ともザールブリュッケン西の郊外)間の鉄道橋を渡らせ、ザール支流でドラツーク池から流れるプルファー川に沿ったドイチュ・ミューレ地区の鉄道線一帯を占領させて西岸の橋頭堡を拡大、第74連隊の残り2個大隊(第1と3)をフランソア将軍へ増援として送り出しました。
練兵場に先着していた第二軍の騎兵を掌握するフォン・ラインバーベン中将は、ここで第一軍の歩兵と共同作戦を行うことを決断し、フランソア支隊の左翼(東)側、ドイチュ・ミューレを占領した部隊の左に前進し、先に練兵場南側にそびえるガルゲン丘の北斜面を騎兵2個中隊で占領、残りの驃騎兵第17連隊をこの地点へ前進させるのです。
この昼前の時点まで、仏軍の歩兵は一切姿を現さず、騎兵や砲兵もちょうど国境線となるローターベルク(山)とドラツーク(池)の線上より北へは進もうとしませんでした。そのためこのガルゲン丘の北まで普軍が迫った時点まで、戦いは比較的静かに推移していたのです。
こうした状況のため、普軍の前衛となったフランソア将軍やラインバーベン将軍も、正面の敵「後衛」の目的はフォルバック方面から鉄道で撤退する本軍の時間稼ぎをしようとしているだけ、と信じたのでした。
この時、最も先に進んでいた騎兵部隊の報告では、敵後衛の兵力はおよそ歩兵3個連隊としており、これは後にほぼ正確だったことが分かりました。
ザールブリュッケンから逃げ出す仏兵
ところでラインバーベン将軍の上司、フリードリヒ・カール親王大将率いる独第二軍の動きはどうだったのでしょう。
6日早朝、カイザースラウテルンにあった第二軍本営は、騎兵第6師団から上がって来た報告(前節参照)により、敵仏軍がザールブリュッケンのザール川以南市街とザンクト・アルニュアールより撤退したことを知ります。第二軍の首脳陣は前日までの斥候報告や全般の状況を鑑み、「仏軍はフォルバック~サン=タヴォル地区より総退却を行っている」と確信するのです。
これにより司令官カール王子は「今後状況がどう変化したとしても、敵が去ったザールブリュッケンのザール川対岸地区を占領し、敵を追って接触を維持し、早急に攻勢作戦を採った方がいいだろう」と考えます。
親王は午前8時、電信により命令を発し、「騎兵2個師団は退却する敵を追って接触を絶やさぬように。第5師団はザールブリュッケンに進軍し、第4軍団(第7,8師団)は本日中に前衛をホルンバッハ(ツヴァイブリュッケンの南5キロ・国境付近)まで前進させよ」と命じたのです。
これにより、第二軍傘下の各軍団は翌7日の行軍予定地が以下のように変更されました。
○第3軍団 本隊・ザールブリュッケン。前衛・フォルバックまで。
○第4軍団 本隊・ホルンバッハ。前衛・ロアバッハ及びビッチュ前面。軍団左翼は6日ピルマゼンスに到着するはずの第12師団(第三軍傘下の第6軍団)と連絡する。
○第10軍団 ザンクト・イングベルト(ザールブリュッケン北東8キロ)。臨機応変に第3軍団を援助する。
○近衛軍団 アスヴァイラー(ザールブリュッケン東12キロ)。
○第9軍団 前衛をベックバッハ(ノインキルヒェン東郊外3キロ)まで。
○第12軍団 ホンブルク。
この命令を発した後、第二軍本営はカイザースラウテルンを発ち約30キロ西のホンブルクを新しい本営地として鉄道移動しました。
そしてこのホンブルクに到着したカール王子が、直後昼の12時頃にあの「問題」のラインバーベン将軍の電信を受け取り読むのです。
「第14師団がザールブリュッケン占領を目的に郊外へ到着した」
カール王子は怒りに顔を真っ赤にして命じます。
「大至急シュテュルプナーゲルに連絡しろ!」
名門軍人貴族出身のヴォルフ・ルイス・アントン・フェルディナント・フォン・シュテュルプナーゲル中将は、生涯に渡る交友を持ったカール王子の大親友で、普墺戦争でもカール王子の右腕として参謀次長を務めプール・ル・メリットを得ていました。
王子は信頼する親友に軍の先鋒を委ね、参謀本部の描くシナリオに沿ってザール川への一番乗りを目指していたのです。
ところがあの「頑固おやじ」のシュタインメッツがまたもや彼の進路に割り込んで、手柄を横取りしようとするのです。
カール王子は、第3軍団司令のレイマー・コンスタンチン・フォン・アルヴェンスレーヴェン中将(以下C・アルヴェンスレーヴェン)に対し「本日中にザールブリュッケンを占領せよ」と厳命し、同時に軍団長を飛び越して第5師団長シュテュルプナーゲル中将に、「第二軍司令官としての全権を君に委ねるので、ザールブリュッケンに居座ろうとしている第14師団を促し、ザールブリュッケン及びフォルバックまでの街道沿いから退去させてくれ」と命じたのでした。
この6日朝、第5師団はノインキルヒェン付近の野営地からザール川を目指し前進を開始、到達目標をドゥットヴァイラー(ザールブリュッケン北東4キロ)として行軍中です。
師団は第9旅団を右翼、第10旅団を左翼として、第9旅団はノインキルヒェン~ザールブリュッケンの街道を進み、第10旅団は南のザンクト・イングベルト方向へ進んでいました。
しかし、事は既に動き始めていたのです。
第3軍団司令官C・アルヴェンスレーヴェン中将は6日午前、敵がザールブリュッケンから退去したのを知り、独断で第5師団に対し「前衛を至急ザールブリュッケンへ進めて市街を占領し、本隊は市街地の北東郊外2キロまで前進せよ」と命じていたのです。ところが、シュテュルプナーゲル将軍が前進する頃には既に第14師団の前衛フランソア支隊が市街地に到着しており、ザールブリュッケンの南郊外は戦場となっていたのでした。
このようにこの「スピシュランの戦い」では普軍の現場指揮官による「独断専行」が至る所で見られるのです。
第9旅団(第5師団)旅団長、フォン・デューリング少将は6日早朝、独断で部隊に先駆け騎行してザール川を渡河し、ザールブリュッケンの南部高地で敵に発見されずに将校偵察を行い状況を監視していましたが、午前9時から10時にかけて第14師団のフランソア支隊が到着し、ザール川を渡河し始めると仏軍の散兵線の後方、フォルバックの市街地方面から歩兵の縦列が前進を始め、スピシュラン森の中に消えて行くのを目撃したのです。デューリングはこのままフランソアがどんどん南へ進めば孤立して包囲されるのではないか、と危惧しました。そこでドゥットヴァイラー目指して前進中の自旅団に対し伝令を送り、そのままドゥットヴァイラーを通過して休まずにザンクト・ヨハンまで前進するよう命令したのでした。しかし、この「ザールブリュッケン直行」命令はほぼ同じ頃に師団長も独断で命じていたので、命令は正規の師団命令となったのです。
この時第9旅団は前衛も本隊も共に目的地であるドゥットヴァイラーに到着し、前衛は部落とズルツバッハ(ドゥットヴァイラー北西2キロ)に、本隊はビルトシュトックとフリードリヒシュタール(共にズルツバッハ北東3~4キロ)に家屋を借りて宿営を始めたばかりでした。前線の旅団長から命令が届いたのは正午で、部隊は緊急集合して急ぎザールブリュッケン目指して進み始めました。
師団長のシュテュルプナーゲル将軍は命令直後に「第9旅団が先行して進み始めた」と聞き及ぶと移動中の本営から先行して、前衛に追い付くと竜騎兵第12連隊の第1中隊と野砲第3連隊軽砲第3中隊を直卒し、ザンクト・ヨハンに向けて突き進むのでした。
デューリングの同僚、フォン・シュヴェリーン少将率いる第10旅団もこの昼前には第12連隊をノインキルヒェンの街と軍団本営の守備に残した以外、全てがザンクト・イングベルトとシュピーゼン=エルヴェルスベルク(ノインキルヒェン南西4キロ)で宿営準備に入っていました。ところが騎兵第6師団からの通報で、同騎兵師団がエンスハイム~オンマースハイム(ザンクト・イングベルトの南方6~7キロ付近)に集合中で、これは仏軍がブリース河畔に沿って越境するとの情報に対処するためだと聞き、シュヴェリーン旅団長は急ぎ騎兵師団の後方を固めようと旅団を全てザンクト・イングベルト部落へ集めようとしました。しかし、シュピーゼンにいた部隊は午後2時30分ザンクト・イングベルトに到着しますが、ノインキルヒェンの第12連隊は「既に上層部より別命を受けて」いたのでした。
これより前、シュテュルプナーゲル師団長はフォン・デューリング少将からの報告を聞くとこれを直ぐにノインキルヒェン在の第3軍団本営へ転送しました。
第3軍団長C・アルヴェンスレーヴェン中将は直後、独断で重要な命令を発します。
「第3軍団所属の部隊は全て本日中にザールブリュッケンに集合せよ」
軍団長は手始めにノインキルヒェンの本営警備に就いていた第12連隊と、後方ザンクト・ヴェンデル(第一軍本営のあったトーライの東10キロ)に残して来た第20連隊(第6師団所属)の2個連隊を列車に載せ、鉄道で一気にザールブリュッケンのザンクト・ヨハンまで送るよう命じたのでした。
ザンクト・イングベルトに旅団を集めようとしたシュヴェリーン少将は、この軍団長独断の命令を聞き及ぶと直ちに付近にいた第52連隊と砲兵部隊に集合を命じ、1個中隊の歩兵を鉄道警備として部落の停車場へ残すと午後4時、ザンクト・イングベルトを出発し、旅団長自らは騎兵と砲兵を率いて先行、既に戦闘が始まっていたザールブリュッケンへ急ぐのでした。
普軍のザール渡河




