スピシュランの戦い/普騎兵の偵察行
8月2日。ザールブリュッケンで先勝したフランス軍は、そのままプロシア領ザール地方に雪崩れ込むかと思えばそう言うこともなく、ただ国境を数キロ普領側に入ったザール川西岸に沿って布陣するのみで満足し、一向に侵攻の気配を見せませんでした。
仏軍側にとっては威力偵察の名目でザールブリュッケンを攻めてみたものの、結果的に独側主力の情報は得られず、ただ国境の要衝を守っていた旅団クラスの前衛(伯爵ブルノ・フォン・グナイゼナウ少将の第31旅団主幹の支隊)を後退させただけで満足し、その後何と4日間も何ら積極的な動きを見せなかったのです。
ザールブリュッケンの勝利で浮かれる仏兵
一方、ザールブリュッケンの戦いに敗北した普第一軍は、当事者の指揮官たちは逆襲を誓い強気に兵を進め、また一部は混乱状態となって、仏軍主力との早期決戦を望んでいた普大本営=参謀本部の計画を大きく狂わせることとなります。大本営は改めて戦略を立て直し、いきり立った第一軍を引き留めました。
大本営の計画とは、8月6日までに第二軍をノインキルヒェンからツヴァイブリュッケンの線まで進め、第一軍を第二軍の右翼に連ねて、7日と8日を攻勢準備と休養にあて、9日に両軍を以てザール川を渡河し、メッス前面の国境に展開する仏バゼーヌ軍と対決し、同時に第三軍はヴォージュ山脈を越えてナンシー方面からメッスの側面を攻撃する、というものでした。
8月4日にはプファルツ=アルザス国境でヴァイセンブルクの戦いが独第三軍と仏マクマオン軍との間で発生し、独第三軍が勝利したことで普大本営は一息吐くことが出来ました。
ところが、同じ4日にザールでは第一軍が第二軍の行軍進路に入り込み、宿営地で交錯する状態となって大本営が介入、第一軍が第二軍に進路を「空け渡す」こととなります。参謀総長のモルトケ、第二軍司令官のカール親王と第一軍司令官のシュタインメッツとの間に微妙な空気が流れますが、ここではシュタインメッツが引き下がり、トーライに本営を置いた第一軍は第二軍の右翼に下がって第7軍団をレーバッハからリーゲルスベルク、そして前衛をフェルクリンゲンへ、第8軍団をメルヴァイラーからフィッシュバッハ間に集め、ザール川を目指すこととなりました。
大本営としては9日の仏領侵入を成功させるため、まずは攻撃の中心となる第二軍をノインキルヒェン~ザールブリュッケン~フォルバック(独名・フォーバッハ)~サン=タヴォルの街道に沿って進撃させ、この街道「以北」を第一軍の担当区域としたのですが、第一軍司令官シュタインメッツ大将はこの「メッスは第一、第二の両軍で攻囲する」という大本営の思惑を知らされず、また想像もせずに漠然と、カール親王の第二軍はザールブリュッケン「以東」を南西、すなわちナンシー方面(ロレーヌ南部)へ進み、第一軍はメッスを目標に進むのだろう、と勝手に思い込んでいたのでした。
シュタインメッツはカール親王を「優遇」するモルトケに対し内心「見返してやろう」と反骨心を燃やし、第二軍を完全に「ライバル視」していた節があります。
普墺戦争では殊勲甲となったシュタインメッツは、典型的な猛将タイプの負けず嫌いな将軍で、部下が初戦敗退となったザールブリュッケンを奪回するのがライバルの第二軍、という形になったのを嫌い、自らの失態は自らの手で、とばかりにザールブリュッケンを奪還したい、と考えるのでした。そのための先述の布陣であり、先手必勝と前のめりに前衛をザールブリュッケンに向けて進め、必然的に第二軍の第3軍団とザールブリュッケンを巡る「先陣争い」となってしまったのです。
この敵を目前とした軍首脳の「不仲」は古今東西、高名な戦いの敗因になったケースも多い非常に危険な状態と言えます。
普大本営はシュタインメッツの心情を理解していなかったのか、それとも老将の冷や水とばかりに軽視していたのか、第二軍の「露払い」を第一軍にやらせるという無神経な状況を作り出してしまいました。
つまり、ザールブリュッケンを通ってメッツへ向かう街道を第二軍に与えて元々その前方に展開していた第一軍を右翼側(北西)へ移動させ、その後に第一、第二軍が並んで進軍したことで、独仏国境からの第二軍右翼への脅威に対しては敵に近い第一軍に援護義務が生じたのです。
これは仏側にしてみれば敵の縦列が目前で方向転換し、ぐずぐずと横腹を見せている状況で、「どうぞ攻撃してください」と言っているようなものです。しかし仏バゼーヌ軍はそんな普軍側の状況を知らず、南方のヴァイセンブルクでマクマオン軍が独第三軍に敗れたことに注目が集まっていたのでした。
しかしそれ以上に問題だったのは、8月5日夕刻にシュタインメッツが翌日の行動として第一軍に発令し、それを第二軍本営と大本営に通告し了承された「(第一軍と)第二軍との境界線はザールブリュッケン~ラントシュヴァイアー=レーデン(シフヴァイラー近郊)までの間はライン=ナーエ鉄道線を境とし、それ以北はラントシュヴァイアー~マインツヴァイラーの線とする」という軍の境界線でした。
これに従うとザールブリュッケンの町自体は第一軍と第二軍どちらの責任となるかがはっきりとせず、しかもその前方には仏第2軍団という仏軍の有力な前衛がいる、という危険な状況となるのです。
軍の境界というものは、その末端と言うことであり何かと問題が発生しやすい弱点です。この弱い接点の連絡は双方の軍の「信頼と扶助精神」によって成されなければ非常に危険な状況となり、敵に付け込む隙を与えてしまいます。ですからその分担の境界を軍事上重要な町で「引く」等ということは厳に慎まなくてはならないはずです。
今となれば、ザールブリュッケンを「どっちつかず」の状況とし、参謀本部の方針に反して先陣を狙ったシュタインメッツは、自身の名誉を国の存亡より上に置いたとの批判を受けなくてはなりませんし、それを黙認したモルトケの普参謀本部は、軍が危険な状況にあってもそれを放置したとの意味で大いに責められなくてはならないでしょう。しかしモルトケはそうとは考えず、返ってシュタインメッツを誉めるようなことをするのです(後述)。
とにかく、この決定により翌6日、ザールブリュッケンの町は第一軍と第二軍の前衛が先陣争いを演じる的となり、ザールブリュッケン奪還を使命と考えた第一軍前衛は前のめりとなってザール川を渡河し、なし崩しに仏軍前衛へ突進して行くこととなったのでした。
一方、仏第2軍団を率いるシャルル・オウガスタ・フロッサール中将は、8月2日に発生した「ザールブリュッケンの戦い」でザール川に達し、以降ザールブリュッケン南郊外のザンクト・アルヌアール東のザール河畔から西へ、国境沿いの森を経てスティラン=ウェンデル(独名・スティングル・ヴェンデル)~フォルバックの鉄道線までに陣地を構築しました。
この中心となるのは2日にナポレオン3世と皇子が観戦していたスピシュラン(独名・スピッヘレン)の高地で、ここは付近の最高海抜地点となり、ザールブリュッケン南郊にある丘陵、ヴィンター(ベルク)丘(冬山)、ヌス(ベルク)丘(ナット山)、レッパース(ベルク)丘、ガルゲン(ベルク)丘(絞首台山)、そして練兵場のある高台を全て見下ろす形となっていました。
その北・西・東三方の斜面はかなりの急坂で岩石がむき出しとなっており、そのほとんどが森林(全体をスピシュラン森と呼びます)となっていました。
対して高地の西側は平坦となっていて鉄道と街道が並んで走り、その周辺も森で囲まれ、スティラン=ウェンデルの北東、ザールブリュケンへの街道沿いにはドラツーク池があり、更に部落の西は再び森となった踏破困難な丘陵地帯(スティラン森)で、これがザール川付近まで続きます。
つまり、ザールブリュッケンからフォルバックへ向かうには、街道と鉄道に沿った「谷間」を進むのが普通で、幅は狭いところで2キロほど、しかも両側から見下ろされる形となっていました。
また、ザールブリュッケンからフォルバック方面はこの高地帯が邪魔となって見通せず、逆にフォルバック方面からはその東の丘陵に登れば簡単に見通しが効くのです。
この様に、地形の面では完全に仏側が有利となっていたのでした。
スピシュラン高地
フロッサール将軍はこの地形を最大限利用してスピシュラン高地を「要塞化」し、スピシュランの東、ザール西岸付近からスティラン=ウェンデルまで散兵線を敷き、鹿柴や塹壕など防護施設を構築したのです。
また、スティラン=ウェンデル部落は石造りの家屋がほとんどで、その鉄道停車場や製鉄所(両方とも現在の駅周辺)も強固な拠点と成り得ました。将軍は更にフォルバックの西にそびえるカニンヘン(ベルク)山(現・仏国道D31E線沿いの地区)にも散兵線を敷いて北西からの敵接近に備えていたのでした。
8月6日払暁時。独第二軍所属の普騎兵第5と第6両師団は、ザールブリュッケンの西からサルグミーヌ(独名・ザールゲミュンド)の東、ブリース川までの独仏国境の偵察を開始します。その左翼はサルグミーヌ~ロアバッハ(=レ=ビッチュ)の間で数ヶ所鉄道線路を破壊し、右翼、サルグミーヌからフェルクリンゲン(ザールブリュッケン西9キロ)間に放たれた斥候騎兵たちは敵情を報告しました。それによると、前日5日以降敵は総じて退却の兆候を見せ、モルバック(独名・モルスバッハ/フォルバック南西2.5キロ)やフォルバックの停車場では密かに偵察騎兵が見守る前で列車に乗り込む仏兵の列がありました。
騎兵第6師団ディーペンブロイック=グリューター少将旅団槍騎兵第3連隊所属のハンメルシュタイン大尉指揮の一隊が前日5日の夜、ザンクト・ヨハン(ザールブリュッケン東市街)の橋からザール川を渡河し、対岸のヴィンター山付近に達した時には激しい銃火を浴び撤退せざるを得ませんでしたが、翌6日払暁時の騎兵第5師団ヘルマン・フォン・レーデルン少将旅団前哨の偵察では、不気味なほどザール川西岸は静まり返っており、既に仏軍の前衛はザールブリュッケン南部の丘陵から撤退しているのを確認するのでした。
同旅団所属の驃騎兵第17連隊、シュウェップ少尉の小隊は同時刻にザール川を渡河し、この小部隊が銃火を浴びずに前進するのを見届けた後続の前衛驃騎兵中隊も前進を開始します。その時、ディーペンブロイック=グリューター少将旅団所属の胸甲騎兵第6連隊の一小隊が左方より到着、部隊組織を越えて合同し、退却中と思われる敵を求めて更に南下しました。するとドラツーク池を越えた辺りで仏軍の歩兵およそ2個大隊・騎兵1個中隊・砲兵1個中隊からなる支隊と遭遇し、猛烈な射撃を浴びた騎兵たちは急遽後退するのでした。
この騎兵たちの報告を受けた騎兵師団上層部は、斥候が遭遇した敵はフォルバック方面から撤退する敵本隊を援護する後衛だと考え、更に上へと報告するのです。
騎兵第5師団は同僚の騎兵第6師団の北方(右翼)でザール川東岸の警戒任務に当たっていましたが、騎兵第6師団と同じく5日深夜から6日早朝にかけて積極的に斥候を放ち、ザール川を渡って偵察活動を行いました。
アダルベルト・フォン・バルビー少将旅団の竜騎兵第19連隊はフェルクリンゲンからザール川を渡河し、ヴェールデン(フェルクリンゲン西南西2.5キロ)を起点として西へ進み、1個中隊をルードワイラー(フェルクリンゲン南西4キロ)に残すと残り3個中隊は仏第2軍団の左翼(北)に対し偵察活動を行いました。部隊はラウターバッハ(フェルクリンゲン南西10キロ)付近で越境し国境の街、カルラン部落(仏領。ラウターバッハ南西2.2キロ)を越えて進みますが、その西アム=ス=ヴァルベルク(ラウターバッハ西6キロ)の東郊で仏軍騎兵と遭遇、短時間の交戦後に退却に移ります。その際、西側の街道を北西のゲルタン部落へ向けて進む歩兵の縦列を目撃し、また南方遙かサン=タヴォルに広大な野営地があるのを発見したのです。
驃騎兵第11連隊も午前8時頃に一部がフェルクリンゲン付近からザール川を渡河、西方に対する斥候として進みましたが、一小隊は南西に進んでゲルスヴァイラー(ザールブリュッケン西4キロ・ザール西岸)で仏軍が散兵線を解散し後退したのを認め、スティラン=ウェンデルの南に一大野営地があるのを発見しました。また、別の一小隊はゲルスヴァイラーから南下して国境の部落シェーンエック(仏領。ゲルスヴァイラー南1.2キロ)に向かい、午前11時頃スティラン森の北縁で突然銃撃を浴びて死傷者3名という損害を受けて後退しました。
驃騎兵第11連隊長の男爵フォン・エイラー=エバーシュタイン中佐は1個中隊を直卒してルードワイラーへ向かい、部下や同僚部隊が確認したサン=タヴォルやフォルバック付近の野営地や活発な敵の動きを確認しました。更に連隊長は鉄道や街道を望見出来る箇所へ斥候を送り、敵の西への運動を明瞭に認めたのでした。
こうして普軍は6日午前、敵が未だスティラン=ウェンデルやフォルバック、そしてサン=タヴォル付近に強力な部隊を維持しつつも後退を開始している、との確証を得たのでした。但し、敵仏軍は未だにザール川に架かる橋を落としておらず、これは総退却としておかしい、との謎が残ったのです。
第5と第6の両騎兵師団を統括指揮する男爵カール・ヴィルヘルム・グスタフ・アルベルト・フォン・ラインバーベン中将は、敵の退却を報告する斥候が多いことから、自らそれを確かめるべく本営のあったホイスヴァイラーからザールブリュッケンへ騎行し、胸甲騎兵第6と槍騎兵第3それぞれの連隊から1個中隊を抽出するとこれを直卒してザール川を渡河しました。するとスピシュラン高地から猛烈な砲撃が始まりますが、将軍は降り注ぐ砲弾を無視してザール西岸の練兵場を占領しました。
この地で前線の状況を確認したラインバーベンは午前11時、ここまで集めた情報をまとめ、ザンクト=ヨハンの電信所からカール親王宛に電信を送りました。
将軍は報告の最後を次のように結びます。
「仏軍主力は退却中と考える。ただし強力な砲・歩兵部隊がスピシュラン高地に陣を構え、これを維持している。この仏軍散兵線は、スピシュランよりフォルバックの手前高地上まで延伸している模様である」
更にラインバーベンは、それを読んだカール親王の目が釘付けとなった「問題」の報告を付け足したのです。
「なお、先ほど第一軍第7軍団の第14師団前衛が、ザールブリュッケン市街全域の占領を目指して市郊外に到着した」




