表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
Eine Ouvertüre(序曲)
16/534

第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争/最後の戦闘(1864年7月)




☆ ルンドビーの戦い(7月3日)


 この戦い以前、既にユトランド半島北部を占めるユトランド州は事実上D軍から放棄されており、7月1日にはアルス島も陥落、戦争は万策尽きたデンマーク政府が白旗を揚げるのを待っている状態となります。この頃、ユトランド州に残っていたD軍の生き残り約10,000名は、半島から複雑に入り組むリムフィヨルドで遮られた最北の島、ヴェンシュセルチュー(北ユラン)島に逃れ、要港フレゼリクスハウン(コペンハーゲンの北西233キロ)から首都のあるシェラン島へ脱出している最中でした。


 2月以来戦い続け後退する度に員数を大きく減らして来たD第1連隊を率いるハンス・チャールズ・ヨハネス・ベック中佐は、味方の撤退を援護するための後衛として北ユランへの渡渉点・オールボー(フレゼリクスハウンの南西57キロ)とナアアソンビュー(オールボーのリムフィヨルド対岸地区)に部下を展開させていました。


 当時、ベック中佐には忘れられない屈辱があり、それは2月6日・オイーヴァセの戦いの最中、ザンケルマルカー湖畔で部下が戦っている最中に戦場を離脱したとの非難を受けていたことでした。ベック中佐の連隊は湖畔を背に戦っていましたが、敵・墺軍の総突撃により右翼(西)に展開させていた中隊が孤立して包囲され、その多くが戦死傷するか捕虜となり、中佐自身も激しい墺軍の攻撃から辛うじて捕虜とならずに後退したのですが、敗戦に次ぐ敗戦で頭に血が昇っていた国民と政府から「臆病者」に近い言われ様となってしまったのです。ベック中佐はこの屈辱を晴らしたいと考えていたはずで、このことが、「ルンドビーの戦い」の経緯に大いに影響したと言われています。


挿絵(By みてみん)

ハンス・ベック


 一方、ユトランド半島東側を担当戦域とする普近衛混成師団は、アルス島の戦いに普軍が勝利したことを知った7月1日、占領地ホーブロー(オールボーの南46キロ)より北に向けて3つの強行偵察隊を送り、D軍の状況を確認させます。

 ベック中佐は敵の前線近くまで浸透していた前哨斥候より発せられた「敵接近中」との至急報によって同日午後8時30分、P.C.ハンマーリッチ大尉率いる第5中隊・160名と竜騎兵数名を直率してオールボーを発ち、先ずはホーブローへの街道(現・180号線)をエリドショイ(オールボーの南南西13キロ)に向け南下しました。この道中、前哨斥候の一人と接触し、「一旦エリドショイを占領した敵は、夜間行軍を行ってグラヴレフ(エリドショイの南10キロ)まで後退した」との報告を受けました。更にベック中佐は「敵の歩兵2個中隊に騎兵1個小隊からなる別の偵察隊がリグビー(グラヴレフの東13.4キロ)とリンデンボー城(エリドショイの東南東10.3キロ。現存します)を通過して北へ向けて進んでいたので、今頃はガンダラップ(エリドショイの東8.6キロ)に達したと思われる」との別の斥侯報告も受けたのです。


 日付が変わって午前12時30分、エリドショイに着いたベック隊は報告通り部落が無人となっていることを確認すると、午前1時30分ガンダラップに向けて出立しました。

 ベック隊は午前4時にガンダラップ郊外へ到着しますが、オールボーへ至る街道に馬車による新しい轍が北に向かって残っていることを発見、これが報告にあった普軍の偵察隊によるものと確信したベック中佐は竜騎兵数騎を伴ってこの轍を辿って北上することに決め、ハンマーリッチ大尉に隊を連れて続行するよう命じ先行しました。

 中佐らはこの轍がルンドビー(オールボーの南南東10キロ)の南郊までに至ったことを確認すると、敵がルンドビーに留まっていることを地元住民から聞き及びます。中佐が立つこの地はルンドビーの小集落から南へ750mほど街道を下ったところにある小丘の頂点南側で、目前にはコンゲホイと呼ばれる目立つ古墳(現存します)がありました。ガンダラップからオールボーへ向かう街道は、この丘の直ぐ東側を掠めてルンドビーに向かって長く下る開けた傾斜地の中を進みます。やがて中佐を追ってハンマーリッチ大尉が部下と共に到着しました。


 しかしこの時、ベック隊の接近は普軍の偵察隊に発見されており、彼らの正体は6月下旬、休戦終了と共に参戦し普近衛混成師団に加わった普軍第21旅団所属の第50「ニーダーシュレジエン第3」連隊の第1中隊で、フォン・シュルターバッハ少佐が率いる124名でした。シュルターバッハ少佐は70名を割いてルンドビー部落南端と畑地との境界を示す石垣(現存します)の裏に展開させていました。

 ベック中佐もこの時点で敵が既にルンドビーの小集落を完全に掌握し、部落南縁の石垣に散兵線を敷いていることを確認しており、また敵から逃れてやって来た周辺の農民たちから「街道東側に低い渓谷があり、また古墳の西側にも低い斜面となって木柵が続く場所があって、どちらもルンドビーからは見通せないので、このどちらかを辿って部落に接近したら」と提案され、農民の代表から「私が案内に立ちましょう」とまで言われていました。

 ところが中佐は「非戦闘員を先導に立てるのは忍びないし、直線で突撃すれば距離は短くて済む」として断ってしまうのです。

 ベック中佐は厳しい顔でハンマーリッチ大尉に振り向くと「中隊は一団となって最短距離で迅速果敢な銃剣突撃を敢行せよ」と命じるのでした。


挿絵(By みてみん)

ルンドビーの戦い戦場図(中央のkが古墳)


 大尉は命令とあれば、と覚悟を決め、着剣を命じた中隊を二列の横隊にすると一斉に鬨を上げさせて500m程の「死の突撃」を始めたのです。

 迎え撃つ70名の普軍兵士の手には当時世界最新の後装小銃M41「ドライゼ」が握られていました。隊列の先任軍曹は訓練通りドライゼの必中射程である200mを切るまで銃撃を止めさせ、雄叫びを上げるD軍の突撃前列がその必中距離に入ると「フォイヤー!」と叫びます。一斉に放たれた銃弾は前列のD軍兵士の半数以上をなぎ倒し、普軍兵士たちは石垣裏に伏せたまま冷静に次弾を装填すると再び軍曹の号令で一斉射撃を行い、普軍は更にもう一回一斉射撃を行うのでした。この間僅か1分強。前装銃では不可能な早さでした。

 ハンマーリッチ中隊は普軍の散兵線30m手前までで完全に粉砕されます。大尉は後の報告書で次のように述べました。


「揺らぎ無い信念で死を覚悟して突撃を行いましたが、後50歩というところで阻止され、本官は部落内に入ることは最早不可能と判断し、ここで退却を命じました。本官は生き残った一部兵士に援護射撃を行わせると、その兵士たちと最後に後退を始めましたが、味方の方向へ振り向いた途端、右前腕部を撃たれ、突撃中にも肩に銃弾を受けていたためか人事不省となってしまいました。生き残った中隊兵士はH中尉によって誘導され古墳の丘後方に集合しました」(筆者意訳)


挿絵(By みてみん)

ルンドビー・突撃を阻止されるデンマーク軍


 これで完全に勝負あり、ベック中佐は西方へ向かって退却を命じました。一方のフォン・シュルターバッハ少佐も深追いするのを諦め、戦場に残されたD軍瀕死の重傷者を助け出し、捕虜と負傷者を連れてホーブローへ帰るのでした。このD軍負傷者の内、間もなく息を引き取った13名の遺体は途中ガンダラップの住民に弔いを頼んで引き渡されています。


 この「ルンドビーの戦い」で普軍の損害は僅か負傷者3名で、D軍ベック隊は戦死32名・負傷44名・捕虜20名・行方不明2名という完敗(160名中98名。損害70名という史料もあります)でした。

 その後、D軍は完全にユトランド半島から撤退し、終戦間際の7月14日には普墺連合軍の前・参謀長で、ユトランド州の占領地総督に任ぜられていたフォーゲル・フォン・ファルケンシュタイン将軍が、2日前に前遣隊が到達していたヴェンシュセルチュー島最北端・即ちデンマーク王国の最北端となるスカーイェン部落へ少数の護衛と共に騎行し、滞在の証拠として教会の記録簿に日付と署名を残すのでした。


 結局この戦いは第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争で記録すべき最後の戦いになりますが、例えベック中佐が勝利を得ても戦争の結果が覆ることは最初からあり得ないものでした。

 しかも中佐は敵がしっかりとした陣を敷いて待ち構えているところ、遮蔽が全くない広地を500mばかり部下に突撃させるという、誰が見ても無謀な行動を行わせています。しかも相手は短時間で次弾装填可能な最新式の小銃を持っており、逆にD軍は旧来の前装銃でした。

 この点から見ると、この戦闘以前の歩兵戦闘はD軍と同じ前装銃を使用する墺軍が相手の場合が殆ど(ベック中佐が戦ったオイーヴァセでも)で、ドライゼ相手に接近歩兵戦闘に及んだのは本戦争でもこの戦いのみ、と言われています(他の対普軍戦闘は砲撃が主役で接近戦では白兵が殆ど)。


 ベック中佐としては間もなく戦争が終ろうと言う時、最後の戦闘機会と思われたこの戦いでオイーヴァセにおける屈辱を晴らしたかったのかも知れませんが、もしそうであったとしてもそうでなかったとしても、無謀な突撃で死傷した部下たちは全く無駄な犠牲だった訳で、ベックは無能と罵られても仕方がないのではないかと思います。

 しかし当時のD軍幹部や世論はそう思わなかったようで、ベックは敗退したものの「犠牲を厭わぬ積極果敢な指揮官」として賞賛され、戦後大佐に昇進しダネヴェルク堡塁群の指揮官となっています。


挿絵(By みてみん)

ルンドビーの戦い・当時の新聞挿絵


☆ 北フリージア(フリースラント)諸島の占領


 6月28日に休戦が明け、アルス島上陸作戦が普軍の勝利に終わった頃、ユトランド半島の西、北海沿岸に連なる北フリージア諸島でも戦闘が始まります。

 それまでもユトランド半島西側は墺軍の担当戦域でしたが、この短い「第2ラウンド」でも担当域は変わらず、北フリージア諸島のレム島の南部、ズュルト島の北部、フェール島西部、アムルム島全部はシュレスヴィヒ公国に属していない純粋なデンマーク領で住民も多くがデンマーク語話者でしたが、この部分も占領対象となっていました。


挿絵(By みてみん)

北フリージア諸島(19世紀末期地図)


 この頃、北フリージア諸島の防衛を託されていたのは税関長で、航路標識や港湾浮標の査察監でもあったオットー・クリスチャン・ハマー海軍大尉でした。

 コペンハーゲン生まれのハマー大尉は当時42歳直前、15歳で海軍兵学校入学、21歳で少尉任官すると当時はデンマークの植民地だったガーナで原住民の反抗鎮圧に加わり、48年の戦争ではラベ(エルベ)川河口の封鎖任務に従事し、戦争中の50年には北フリージア諸島最北のファーン島で防衛副司令となっていました。この年末にはペルヴォルム、ノルトシュトラントの両島をシュレスヴィヒ=ホルシュタイン軍から奪還する作戦で活躍し、戦争末期ではフリードリヒシュタットの戦いにも参加しています。

 戦後、中尉に昇進したハマーは税関・航路標識・港湾浮標の査察監として北フリージア諸島勤務となり、32歳で海軍に籍を置いたまま正式な税関職員となります。36歳で大尉に昇進すると水先案内や航路標識・港湾浮標の査察監としてアイダー川で勤務しました。64年、戦争が始まると海軍はハマーを再び大尉として招集し北フリージア諸島の防衛を任せるのでした。


挿絵(By みてみん)

ハマー

挿絵(By みてみん)

フレデリクシュタット1850.10.4(ニルス・シモンセン画)


 ハマー大尉は戦争が始まると防衛本部をフェール島の主邑ヴィーク(・アウフ・フェール。当時はシュレスヴィヒ公国領でした)に置き、普墺連合軍の進撃により勇み立ち反抗的となったドイツ系住民の反乱を抑えるため、大尉は心を鬼にしてそれまでの隣人たちを威圧しズュルト島で独系住民が起こした騒乱にも素早く対処しました。彼は武力を行使するより金銭面を押さえてしまった方が反乱の芽を摘み取り易いと考え、敵性地域の税関収入、貯金、郵便為替など島の財源を全て没収するという荒技に出たのです。

 3月3日には、ズュルト島のシュレスヴィヒ公国領に属するカイトゥム部落で、独側協力者の疑いが掛かっていた島の有力者、アンドレアス・アンデルセンほか3名を逮捕し、6月13日には隠れて独への情報提供などを続けていたカイトゥム部落を一斉捜索して8名の反逆容疑者を逮捕させます。その中の一人は地元の詩人クリスチャン・ペーター・ハンセンで、戦後に自著でハマーを「暴虐な連隊を率い国と国民を虐待するバイキング」と記述し、後の世にその悪意を込めた私見を広めてしまいました。


挿絵(By みてみん)

ハマー戦隊


 この厳格なハマー大尉に対した墺軍指揮官は男爵ベルンハルト・フォン・ヴュラーシュトルフ=アーベイル墺海軍少将でした。

 ヴュラーシュトルフ提督は当時48歳。アドリア海や地中海でサルディニア王国やガリバルディの「赤シャツ隊」との戦いに従事し墺帝国議会で海軍大臣格のヴィンス=アミラル(副提督)となった後、1861年に海軍母港ポーラの港湾・要塞司令官に任命されますが、彼の経歴で有名なものはフリゲート「ノヴァラ」艦長として若き海軍総督フェルディナント・マクシミリアン大公(皇帝の弟君)と共に墺帝国初の世界一周(1857~59)を行ったことでしょう。

 第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発しテゲトフ大佐率いる戦隊が出航した後、追って強力な戦隊(装甲フリゲート1、戦列艦1、汽帆走フリゲート1、砲艦2)を北海へ派遣することとなり、その戦隊指揮官としてヴュラーシュトルフ提督が指名されました。戦隊は急ぎ準備をするとテゲトフ戦隊の後を追いますが、デンマーク近海に到着した時には既にヘルゴラント海戦が終わっており、提督は本国からは謂われのない非難を浴びてしまいました。これは「彼の戦隊が間に合ってさえいれば勝敗が双方分かれた海戦に完全勝利したはずだ」というものですが、それを言うならばヴュラーシュトルフ戦隊を待たなかったテゲトフ大佐も同様に責められるべきで、彼と戦隊だけを責めることは不公平に思えます。


挿絵(By みてみん)

ヴュラーシュトルフ


 休戦中は普海軍の母港クックスハーフェン(ハンブルクの西北西91キロ)に碇泊していたヴュラーシュトルフ戦隊は、休戦終了と共に「北フリージア諸島を占領せよ」との命令を受け、急ぎ準備を始めます。普海軍からも2隻の砲艦が戦隊に加わりますが、悪天候のため出航は2日遅れ、戦隊は7月11日に出航して作戦海域に向かいました。


 一方のハマー大尉も本国に対して増援を求めていましたが、艦隊や海軍歩兵の派遣はうやむやにされてしまったため、大尉は手持ちの戦力と浅瀬や砂州が複雑に入り組むユトランド西岸海域を知り尽くした自身の能力だけを武器に戦うしかなくなったのです。


※1864年7月のハマー大尉率いる戦隊


○外輪推進砲艦「リムフィヨルド」60馬力・砲2門

○汽帆走(スクリュー式)船「アウガスト」15馬力・非武装

○砲艇8隻(各種砲1門・乗員17名) 砲1から3門

○各種武装カッター(小帆船で税関・警察任務用)12隻

○徴用民間内海運行船10隻


挿絵(By みてみん)

ヴィーク沖のハマー戦隊(中央「リムフィヨルド」・右「アウグスト」)


※1864年7月のヴュラーシュトルフ戦隊(北フリージア諸島派遣部隊)


○装甲フリゲート 「ドン・ファン・デ・アウストリア」

○汽帆走戦列艦「カイザー」

○外輪推進砲艦「カイゼリン・エリザベート」

○汽帆走砲艦「ゼーフント」

○同「ヴァル」

(以上墺海軍)

○汽帆走砲艦「バジリスク」

○同「ブリッツ」

(以上普海軍)

※普墺艦艇の要目は「テゲトフ提督登場」「プロシア・ドイツの軍備(中・海軍)」を参照願います。

 *海軍とは別動

○墺陸軍第9「シュタイアーマルク」大隊・第5、6中隊

(フランツ・フォン・シードラッハ中佐指揮)


挿絵(By みてみん)

「ドン・ファン・デ・アウストリア」


 艦船戦力を見る限り圧倒的に墺軍有利と見えますが、北フリージア諸島周辺は前述通り浅海で干満の差が大きく、干潮時には本土(ユトランド半島)から歩いて渡れる島もあり、喫水の浅い艦船以外島に接近するのは不可能で、ヴュラーシュトルフ提督は墺海軍虎の子最新の装甲フリゲート「ドン・ファン・デ・アウストリア」や同海軍唯一の戦列艦「カイザー」を作戦に使えないことになってしまいます。

 従って役に立つのは喫水の浅い4隻の砲艦と鹵獲した漁船やボートだけで、4隻の砲艦は墺海軍の「カイゼリン・エリザベート」艦長カール・クロノヴェッター中佐が統一指揮を執るのでした。


挿絵(By みてみん)

「カイゼリン・エリザベート」(同型艦の艦影)


 北フリージア諸島に対する普墺軍最初の攻撃は7月6日、ヴュラーシュトルフ戦隊の出撃前、彼らとは関係なしに行われます。


 目標とされたのはオラント島、ヴィークの東9キロ余り、本土海岸から僅か2キロしか離れていない、しかも干潮時には本土から歩いて渡れる小島で、普墺連合軍本営の参謀ヴァイスナー大尉が9名の猟兵を連れて上陸し占領を宣言しました。この島は当時も今も無人島ではなく、島の西端に小さな集落があるだけの平坦な島ですが、ここを占領するのは軍事的に全く意味はなく、これは象徴的な意味で行われた作戦で、ヴァイスナー大尉も島の住民を脅しただけで2時間後、潮が満ちる前に大急ぎで本土に戻っています。


 7月12日には北フリージア諸島でも中心となる南北に細長いズュルト島に対して半島側から攻撃が企画され、フォン・シードラッハ中佐のシュタイアーマルク猟兵数個小隊が手漕ぎの砲艇(ガンボート)を使って本土側から上陸しようとしました。

 しかしこれは島の周辺を警戒していたハマー大尉の砲艇数隻に発見され、激しい銃砲撃により引き返せさぜるを得なくなります。ところが、ボートで酷い目にあった猟兵たちは「攻撃して来た艦艇の中には墺海軍の砲艦もいた」と報告したため、ちょっとた騒ぎとなりました。これは完全に連携不足で、北フリージア諸島に到着したばかりのクロノヴェッター艦長らにこの作戦が知らされていなかったための「同士討ち」だったと思われます。


挿絵(By みてみん)

北フリージア諸島(現代衛星写真)


 この時、休戦中ズュルト島の牢獄から本土に逃走し、普王国に保護された後にズュルト島が見えるホイヤー・ソグン地区(ヴェィークの北31.5キロのホイヤーを中心とする地域)まで舞い戻っていた「反抗者」、アンドレアス・アンデルセンは、ズュルト島北端のエレンボーゲン岬沖に停泊していたクロノヴェッター隊に「墺陸軍の上陸を支援するよう」命令を届ける手伝いがしたい、と申し出ました。

 シードラッハ中佐はこれを許可し、アンドレアスは3人の士官と共に干潮時、ホイヤー・ソグン地区のジェルプシュテッド(ホイヤーの北6.6キロ)からエレンボーゲン沖の墺砲艦戦隊まで約10キロを歩いて渡り始めます。ジェルプシュテッドの沖には「ヨルドサンド」と呼ばれる砂洲がありその周囲は干潟となっていましたが、深い泥の干潟を干潮の間だけで10キロ踏破するのは慣れている人間でも難しく、墺海軍の錨泊地まで1.6キロの地点に来た一行は潮が満ち始めたため立ち往生してしまい、皆が溺死を覚悟した、という際どいタイミングで墺砲艦「ゼーフント」が現れて救助されるのでした。

 アンドレアスらはここでウィーンからの「海軍は墺陸軍の上陸作戦を援助せよ」との命令書をクロノヴェッター艦長に手渡すことが出来たのです。


挿絵(By みてみん)

墺海軍砲艦ヴァル甲板上(1864年)


 墺海軍の「お墨付き」を得たシードラッハ中佐は翌13日、今度は麾下2個中隊全力でズュルト上陸を企て、満潮から干潮に向かう頃合いで中隊毎二手に分かれて一斉に島を目指しました。彼らのボートは島の沖合で再びハマー大尉の砲艇から銃砲撃を受けますが、シードラッハ中佐らのボートは一斉に近くの砂州に乗り上げ、いくら喫水が浅くとも近寄れないハマー隊の砲艇から避難すると、墺軍猟兵は完全に潮が引きハマー隊の砲艇が去るまで待った後、急ぎ島に上陸するのでした。

 約200名の墺猟兵の内、ホイヤー・ソグンから出発した第5中隊は島中部のカイトゥムへ、ズュルト島に向かって延びる岬の根元に当たるクランクスビュル(ズュルトのカイトゥムの東20キロ)から出発した第6中隊は僅か5キロ先のモルズム岬へ上陸しました。

 墺猟兵たちは元よりドイツ系住民が多数を占める島内で独語話者から解放者として大歓迎を受け、島の北部でデンマーク領となっていたリスト地区を除き殆ど抵抗されることなく一日で島の四分の三を占領しました。デンマークに対する抵抗の象徴となっていたカイトゥム部落の入り口には「独民族の兄弟よ、ようこそ!」と大書された即席の「門」が現れ、モルズム部落で兵士たちは村祭りの最中に入り込んだかのように様々なもてなしや贈り物を受け取り、シードラッハ中佐や中隊長たちは「名誉島民」に祭り上げられたのでした。


 7月14日になると、本土のバラム地区(ホイヤーの北12.7キロ)から墺軍のヴェント大尉率いる一隊がレム島に上陸し、こちらも労せず全島を占領します。

 7月16日にはズュルト島に残ったデンマーク最後の拠点リストが海と陸からの包囲で陥落し、墺猟兵とクロノヴェッター中佐等は墺海軍の砲艦2隻でハマー大尉の拠点フェール島とその隣、アルムル島へ向かいます。


 翌17日、ユトランド半島の西側北海からD海軍が姿を消したため、テゲトフ大佐とヴュラーシュトルフ提督は二つの戦隊により北フリージア諸島から北海への航路を封鎖しました。

 そして墺軍によるハマー大尉らD軍残党への攻撃は、18日午前6時からヴィーク港に集合していたハマー隊の艦船への砲撃から始まり、ほぼ同時にランゲネス島とグレーデ島への上陸も開始されます。


 しかしこの3時間前の18日午前3時、コリングの南・クリスチャンフェルドにおいて普墺連合軍本営から主席参謀グスタフ・フォン・スティール中佐、D軍野戦軍から参謀長ハインリッヒ・フォン・カウフマン大佐が各々代表として出席した休戦交渉が妥結し休戦協定が調印され、7月20日午前12時から全軍全域における休戦が決定していました。

 ヴィークにいたハマー大尉は海上にあった墺軍司令部より早くにこの休戦協定成立を知らされ、「カイゼリン・エリザベート」で砲撃の指揮を行っていたクロノヴェッター艦長に白旗の使者を送って休戦の成立を知らせます。直後に砲撃は止み、墺軍も休戦成立を認めたことが知られました。


挿絵(By みてみん)

ヴィーク沖 海上の戦い


 ところが、墺軍に正式な使者が到着して休戦の発効が20日になると知らされると、クロノヴェッター艦長は19日の朝に「未だ交戦期間中」として砲撃再開を命じたため、ヴィーク港は再び激しい砲撃に晒されてしまいました。やがてヴィークに白旗が上がり、港にいたハマー隊の隊員らは墺軍に投降するのでした。しかし、その中にハマー大尉とその旗艦「リムフィヨルド」乗員の姿はありません。


 その日(19日)の夕方、ヴィークから離れた場所にいた「リムフィヨルド」は密かにフェール島を脱します。島の周囲では普軍の砲艦「ブリッツ」が警戒していましたが、彼らは「リムフィヨルド」の出航を発見することが出来ませんでした。しかし、北フリージア諸島は前述通り墺海軍2つの戦隊によって航路を封鎖されており、北海へ出ることが適わないと悟ったハマー大尉は午後7時30分、艦旗を降ろさせ停船を命じると一等航海士と共に近付いてきた「ブリッツ」に投降を申し入れるのでした。

 ブリッツ艦長のアーチヴォルト・マクラレン大尉は投降を受け入れ、ハマー大尉のサーベルを受け取ると「リムフィヨルド」を拿捕するのでした。


挿絵(By みてみん)

北フリージア諸島の戦い(1864.7)戦場図


 墺軍は士官9名・税関職員2名・下士官兵185名・民間船員51名を捕虜にすると、「リムフィヨルド」と「アウガスト」の他10隻の徴用船、帆走砲艇の「フリードリヒ7」「マリー4」「マリー9」「マリー12」「マリー13」他4隻、小型鉄甲船1隻、小型貨客船2隻、泥炭積載輸送船(民間)2隻、小型輸送船(民間・食糧積載)1隻を拿捕し、「アウガスト」は当分の間、ズュルト~フェール~ホイヤー間の軍用郵便連絡船として使用されることとなりヴィークに残されました。

 20日午後1時には「リムフィヨルド」が同艦の航海士アルブレヒト中尉の操艦指示により、捕虜となった正規軍人や軍属の捕虜たちを乗せて出航しました。シードラッハ中佐の猟兵隊から士官1名下士官兵20名が監視と護衛として乗船します。

 捕虜と護送の猟兵をフースムで降ろしたアルブレヒト中尉は無事に艦をクックスハーフェンへ回航し普海軍に引き渡すと、自身は捕虜になったのでした。


挿絵(By みてみん)

「リムフィヨルド」


 ハマー大尉は占領されたヴィークに連れ戻されると、待っていた普軍参謀本部員のエルンスト・カール・フェルディナント・フォン・プリットヴィッツ=ガフロン中尉によって正式な捕虜となります。ハマー大尉はプリットヴィッツ中尉にダメ元で「最後に家族と会わせてくれ」と頼みますが、意外にもプリットヴィッツ中尉はこれを許し、ハマーは20日から22日に掛けて監視されながらもヴィークの宿舎で家族と別れを惜しむことが出来ました。とはいえ、ヴィーク住民の多くがドイツ系だったため、ハマー大尉の監視員である墺猟兵は島民がハマーに危害を加えぬよう常に緊張を強いられることとなったのでした。

 7月23日にハマー大尉はプリットヴィッツ中尉と共にフースムへ渡ると普本国へ向かい、8月まで捕虜として過ごしました。ウイーンにおいて講和会議が始まると、ハマー大尉は捕虜交換でコペンハーゲンに戻り家族と再会しました。独語話者から「非道なバイキング」と罵られていたハマーに対し、北フリージア諸島のデンマーク系島民たちは、多くの敵性住民に囲まれ劣勢の中デンマークの権利と尊厳を護るため戦った彼に対する感謝の気持ちとしてサーベル一振を贈っています。


挿絵(By みてみん)

プリットヴィッツ


 北フリージア諸島は7月以降3ヶ月に渡って墺軍が占領し、講和条約の結果、最北のファーン島とその南隣のマンデ島だけがデンマークに返されました。レム島とその南に続く島々は普墺が分け合いましたが2年後の1866年、普墺戦争の普軍勝利で全てが普王国領となります。

 更に半世紀経った第一次世界大戦後の「民族自決時代」、住民投票によってレム島だけがデンマークに帰って来るのでした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ