ヴルトの戦い/ズアーブとティライヤール(前)
午後3時。激しい攻防戦の続くフロシュヴァイラー東高地で、B(バイエルン王国)親衛歩兵連隊第1、第2大隊は、後方から新たに参入した友軍から誤って銃撃を受けてしまいます。これは森の中で敵味方が散って戦線が入り組み、錯綜したことが原因と思われました。
このままでは同士討ちとなってしまうため、B親衛の2個大隊は一時撤退を敢行し、ソウルツ川のザーゲ水車場対岸まで退きます。
同じ頃、B第11連隊第3大隊も同様な混乱に巻き込まれ、退却せざるを得ない状況となってしまいました。
このことだけでなく、新たにほぼ1個師団のB軍歩兵およそ9千人余りが参加しても仏軍の陣地線を抜けなかった根本の原因は、遙々北アフリカからやって来たティライヤール兵とズアーブ兵による、恐るべき敢闘精神だったと言えるでしょう。
フランスはナポレオンの退場と王政復古の失政による閉塞感を払拭するため植民地獲得に動き始め、地中海を隔てたアフリカに活路を見出します。植民地経営は1830年代のブルジョア主導によるルイ=フィリップ王の時代から現実となり、この後世紀末にイギリスとの間にファショダ事件を起こすまでに、白人先進国家によるアフリカの植民地争奪戦をリードして来ました。
その第一歩となったのが北アフリカの植民地群で、中でもアルジェリアは地中海を隔ててフランスの対岸と言うこともあり急速に白人入植者(コロンと呼ばれます)が進出、「フランス化」が最も進んでいました。
この、8世紀以来アラブ・イスラム教勢力が治めていた土地の収奪を完成させるため、フランスは積極的に原地住民を教化し「フランス化」させると同時に、本国人を動員して駐留軍を作ってしまうと予算も膨大となるため、多少のことは現地で解決しよう、とばかりに軍隊も自給自足としました。少数のフランス正規軍を中核に、多数の健康な現地民を徴兵で獲得、現地人による部隊を設立して「アルジェリア植民地軍」を創設し、反乱防止や内国警備、植民地獲得の遠征などを行わせたのです。
その結果は予想以上に良好で、純粋で忠実かつ勇敢な兵士から成る植民地軍は、傭兵の流れを汲む「外人部隊」と共に、クリミア戦争での活躍などから「徹底的に戦い抜く恐ろしい部隊」として世界にその名が轟くのです。
しかし、その実フランス帝国軍内では本国部隊より格下と見られ、外人部隊共々「いつでも使い捨て可能な消耗品部隊」としての位置付けから脱することはありませんでした。
彼らは常に厳しい戦いの最前線へと送られ、敵の猛攻に晒され最後の一兵まで戦わされ、いざ反撃となれば捨て身の突撃を行う先鋒とされ、多数の兵士が戦場の露と消えて員数不足となればアフリカから新兵を供給し、消耗と復活を繰り返して来ました。
そんな奴隷扱いの部隊でも、当の下士官兵にとっては「家族」のような場所だったのです。
これは様々な理由で祖国を棄てた人間が集う外人部隊にも共通して言えることですが、ズアーブ兵やティライヤール兵と呼ばれる下士官兵は、元来虐げられ蔑まれて来た「有色人種」であり、植民地の現地人として生まれた彼らは祖国のない根無し草のような存在で、そんな彼らを軍隊は等しく迎え入れて「教育」を施し「養い」、立派な軍人という「地位」を与えてくれるのです。
エスプリを信奉するフランス本国のプライドが高い民間人からすれば、旧弊な軍隊そのものが既に眉をしかめる存在なのですが、それ以上に惨い環境で育った彼らにとって、軍隊は「約束の地」のような存在でした。
違いとすれば、外人部隊はいわゆるアウトローの集団で、自ら望んで入隊するのに対し、植民地軍は基本的には徴兵で強制的に入隊させられると言う部分です。
しかしアルジェリアの植民地もこの普仏戦争当時は仏領となって既に40年が経ち、植民地はすっかり「フランス化」しており、白人入植者も2世の時代、更に3世も現れる状況となっていました。同じく「原住民」も身分こそ一段下と見られてはいるものの、最も古い植民地人の「誇り」を胸に「フランス臣民」の端くれ(本国の人間はそうとは認めていませんが)として生きていたのです。
ですから徴兵と言っても中には進んで入隊する者もいて、既に軍隊でも軍曹や曹長、中には少尉や中尉として勤務する優秀なベテランもいて、忠誠は揺るぎなく本土召集の兵士より「アテ」になる真面目で精悍な兵士の集団となっていたのです。
その北アフリカ出身の兵士たちが、畏怖の念で仰ぎ見るのがマクマオン大将でした。
将軍はクリミアの戦いで植民地兵を使いこなし名声を不動のものとして以来、常にアルジェリア兵と共に戦っていました。兵士には将軍を実の父親以上に尊敬し崇めている者が多く、マクマオンの一声で死地へ躊躇なく飛び込んでいくほどでした。
ほとんどがニグロやベルベル人からなるアルジェリアとチュニジア植民地兵=ズアーブ兵と、アルジェリアやチュニジア、モロッコなどから志願と徴兵で集められたオスマン帝国軍風の「トルコ兵」=ティライヤール兵。彼らは一握りのフランス職業軍人に率いられ、3個大隊の連隊単位でマクマオン軍の各師団に分配されていました。
ズアーブ歩兵第1連隊(第1「デュクロ」師団第2旅団所属)
ズアーブ歩兵第2連隊(第3「ラウール」師団第1旅団所属)
ズアーブ歩兵第3連隊(第4「ラルティーグ」師団第1旅団所属)
アルジェリア=ティライヤール第1連隊(第2「ペレ」師団第2旅団所属)
アルジェリア=ティライヤール第2連隊(第3「ラウール」師団第2旅団所属)
アルジェリア=ティライヤール第3連隊(第4「ラルティーグ」師団第2旅団所属)
このように第1から第4師団までズアーブ歩兵連隊3個、アルジェリア=ティライヤール連隊3個、計6個連隊が仏軍主力としてヴルトの戦いで戦っていたのです。
午後2時30分過ぎ、B軍諸部隊の前に立ちはだかっていたのは「ラウール」師団の第2旅団(第48連隊、アルジェリア=ティライヤール第2連隊)と「ペレ」師団の第78連隊を中核とし、午前中普第5軍団と戦って損耗したズアーブ歩兵第2連隊などの残存兵も加わった「ラウール」師団主力と「ペレ」師団左翼が構築する防衛線でした。
既に「ラウール」師団所属のズアーブ歩兵第2連隊はコロニュー中佐の指揮の下、午前中はヴルトの北西で主力として戦い、午後はゲルスドルフに対するソエ川西岸で戦い、損耗が激しく部隊は文字通り満身創痍となっていました。 部下に率先して勇敢だった中佐は、この会戦で二回銃弾を受け負傷し、二回目は遂に後送を余儀なくされ、そのままでは命の危険があったため連隊の副官が現地で銃弾を摘出しました。
中佐は耐え難い苦痛にも負けず、陥落寸前にフロシュヴァイラーから逃れ、部下と共に馬に揺られてサヴェルヌ(レッシュショフェン南東30キロ)まで無事撤退したのでした。
この午後の攻防戦で戦史に残る戦い振りを見せたのは、「ラウール」師団第2旅団の所属でピエール・スズォーニ大佐が率いたアルジェリア=ティライヤール第2連隊でした。
このクリミアやイタリア、そしてメキシコで戦い抜き、連隊旗には隊に与えられたレジオン・ド・ヌール勲章の略綬が輝く歴戦の連隊が構築した防衛陣地は正に「難攻不落」で、B軍の精鋭、親衛歩兵連隊もどう攻略していいのか分からなくなるほどの強固な陣地でした。
スズォーニ大佐は長らくアルジェリア植民地兵を率いたベテラン士官の一人で、この6日朝、忠実な部下であるアルジェリア人の士官に「必要となれば我らは全員この森で死ぬだろう」と不気味な予言をしています。
この朝、部隊には76名の士官に率いられた2,200名のティライヤール下士官兵がおり、このヴルト北北西およそ1キロの森の中にあった1軒の森林作業用の小屋を中心に塹壕と鹿柴を構え、主に北東から押し寄せるB軍と戦いました。
バイエルン猟兵大尉の戦死(「トルコ兵の家」の戦い)
スゾォーニ大佐らは午前9時頃から午後2時までに至るまで、幾度もB軍の突撃を粉砕し、敵が退けば逆襲に出、再び新手による攻撃を受けて退却するという不毛な戦闘を続けました。この強固な陣地は午後に入ると普軍砲兵にも狙われ、たちまち死傷者は膨れ上がり、午後2時30分、遂にその中の一弾がスズォーニ大佐の間近に着弾し、榴散弾の子弾をまともに胸へ受けてしまった大佐は重傷を負って倒れてしまいます。
連隊は既に次席指揮官、3人の大隊長など佐官の全てを失っており、大尉も全員が負傷か戦死をしていました。それでも連隊は健在だった士官の先任、アングラード中尉が指揮を代わって戦い続けたのです。
ここで後にフランス中に知れ渡ったエピソードが誕生します。
瀕死のスゾォーニ大佐は激戦中、大した手当ても出来ずに横たわっていましたが、古参の部下、モハメド・ビン・デシ軍曹を呼ぶと傍らに手招き、力を振り絞って命じます。
「敵に連隊旗を渡してはいかん。軍旗を護って安全な場所へ脱出しろ……」
モハメド軍曹は数人の軍旗護衛隊を結成すると、既に旗手が倒れ銃弾で穴だらけとなった軍旗を保持し、乱戦となり前線が入り組んで敵味方が錯綜した森の中へひっそりと消えて行きました。
2日後。敵のパトロールの目を盗み、敵が占領する下アルザス地方を横断したモハメド軍曹たち軍旗護衛隊は無事に連隊旗を護り切り、未だフランスが確保するストラスブールの街へと到着し、歓呼に包まれ迎え入れられます。そこには2日前に戦場を脱出した連隊の生き残りも先着しており、彼らはお互いの無事を喜び合ったのです。
この出来事はこの後2ヶ月に渡って籠城するストラスブール防衛部隊将兵の士気を大いに鼓舞したのでした。
スゾォーニ大佐




