ヴルトの戦い/最大の逆襲
仏軍第1軍団を中心とするマクマオン軍は、エルザスハウゼンとその北西台地を失ったことにより、最も重要なフロシュヴァイラー部落を東と南から攻められることとなります。
また、この時点で仏軍側が気付いていたかどうかは不明ですが、レッシュショフェン方向にもおよそ歩兵と騎兵1個連隊(歩兵32と驃騎兵13)が進んでおり、このままでは西側との連絡も失うこととなってしまいそうです。
この戦線右翼(南側)の危機を救うため、マクマオン将軍は持てるもの全てをエルザスハウゼンに差し向ける、この会戦中最も規模の大きな逆襲を命じたのでした。
既にエバーバッハからニーダーヴァルト森で戦い、そしてエルザスハウゼンで損耗した第2「ペレ」師団の残部隊と、フロシュヴァイラーから第1「デュクロ」師団のほぼ半数、1個旅団程度が南下を始めます。
そして南から北独11軍団に押され続けて散り散りとなった第4「ラルティーグ」師団や第7軍団第1「コンセイル」師団、そして高地の東斜面で普5軍団と死闘を演じ続け、損耗して下がって来た第3「ラウール」師団など、既に隊としての体裁を失った雑多な兵士の集団も自然とこの逆襲に加わりました。
これを想像すると、損耗した部隊の兵員を半数としても1万2千を超える歩・猟兵がエルザスハウゼン付近の普軍に襲い掛かったこととなります。
それだけではありません。マクマオンは仏大本営から差配されていた予備騎兵第2師団である「ボヌマン」胸甲騎兵師団(騎兵16個中隊)をもエルザスハウゼンへ突撃させたのでした。
仏軍逆襲の核となったデュクロ師団の集団はペレ師団の残党と共に普軍の右翼、エルザスハウゼンとその東側から北進を開始していた普83連隊フュージリアと82連隊第2の2個大隊、そして第5軍団の一部先鋒の兵士たちに襲い掛かります。
これら普軍の部隊は前述通り疲弊し、員数も充足数から著しく低下しており、指揮官も大抵が戦死か負傷し後送されており、指揮は代理の下級士官や下士官が行っていたので、この仏軍による猛烈な逆襲に対し堂々と立ち向かうことなど不可能でした。
案の定、たちまち粉砕され多くの兵士が倒されて残りは敗走し、ばらばらになった部隊兵士たちはニーダーヴァルト森の北縁へと逃げ込んだのでした。
軍団砲兵隊の騎砲第3中隊などはこの仏軍逆襲時、エルザスハウゼンを迂回しその西郊外に砲列を敷こうと移動中で、そこへ潰走する兵士たちの波がやって来たものですからすっかり取り囲まれて、しばらくは身動きが取れない状態に陥ってしまうのです。
第二線にいた諸部隊も状況は一緒で、この急激な第一線の潰走に釣られてあわてて反転逆走を始め、この頃には戦線の西側からも仏軍歩兵と騎兵が襲い掛かって北西台地に押し寄せたので、遂に普軍全体が動揺し潰走する寸前にまで追い込まれたのです。
正に普軍の攻勢限界点がやって来たか、遂に名将マクマオンの戦史に残る逆転劇が成立か、という決定的瞬間でした。
マクマオン大将
しかし、戦場の歴史を紐解けば度々現れる「人知を超越した闘志と精神力の発揮」、あのテルモピュライでのスパルタ・レオニダス王と300人の重装歩兵のような闘志(実際は2千名前後対2、3万名程度の差だったそうです)がここでも発揮されるのです。
今となっては独側の記録でも「第94連隊の一部」としか記されていない無名の普軍兵士たちが、超人的な闘志で4、5倍程度の兵員差はあったであろう仏軍の突撃に対し、敵の右翼から突撃して行ったのでした。
この瞬間、仏軍側に逡巡が起きます。この躊躇いは全体の動きに俊敏に影響し、ある部隊はそのまま構わずニーダーヴァルトに迫り、またある部隊は右翼側から攻め込んだ普兵と白兵戦を始めますが、仏軍将兵の残り大多数がその場で突撃を中止し、止まってしまったのでした。
決定的瞬間は去り、マクマオン大将は勝利を失いました。
11軍団砲兵部長ハウスマン少将は立ち往生していた騎砲第3中隊とその横に前進して来た軽砲第5中隊に駆け寄ると、直ちにその場で砲を展開させ、榴散弾や霰弾で仏軍の集団を砲撃します。また、退却して来た砲兵中隊を捕まえては誘導し、砲列を敷き始めたのです。
また、騎砲第1中隊は仏軍が逆襲を開始した際にエルザスハウゼンの目前を移動中で、その場所はちょうど仏軍の突撃を横から狙える絶好の位置であり、彼らは味方が怒濤の如く敗走する中踏み止まり、中隊長が銃弾で負傷するほど仏軍の集団に接近し、敵の突撃の勢いを殺ぐ砲撃を行うことが出来ました。
その近くでは第5軍団第9師団の第58連隊第2大隊もエルザスハウゼンの東に接近中で、仏軍の大集団がこちらを見向きもせず、目前およそ1.5キロ先を南へ突進するのに出会うのです。彼らは仏軍が後退し始めると直ちに追撃の先頭に立つのでした。
ハウスマンやブロウニコスキー達が強気で敵前に配置した11軍団の砲兵部隊は、順次エルザスハウゼンの東方に集合し、砲を並べるのももどかしく、仏軍に砲撃を開始しました。こちらも敵が迫る中で雨霰と砲撃を繰り返し、敵までの距離が300mを切る際どい場面もありましたが見事仏軍の突撃を粉砕し、敗走に転じさせることに成功したのでした。
一方、この仏軍逆襲では前述通りこの会戦二度目の騎兵突撃も行われました。
子爵ドゥ・ボヌマン少将指揮の予備騎兵第2師団は、胸甲騎兵第1と第4連隊の第1旅団と、胸甲騎兵第2と第3連隊の第2旅団、そして騎砲中隊とミトライユーズ砲中隊の2個中隊からなる砲兵隊を付属したエリート中のエリート騎兵部隊でした。
彼らは会戦の当初、グロスヴァルト森のエバー(バッハ)川水源地付近にいましたが、普軍の砲兵が前進したことで砲兵援護による榴弾が付近にも着弾し始めたため、位置を東に移し、襲撃時にはエルザスハウゼンの西1キロ周辺にいました。
この地で突撃命令を受けますが、この時の隊形は第1旅団をやや南東に、第2旅団をその左翼として、間隔の開いた中隊毎の縦列で横隊になっていました。
砲兵部隊は既に普軍との戦いで粉砕されています(エルザスハウゼン北西高地)。ボヌマン少将は命令受領後、直ちに全部隊に対し突撃を命じたのでした。
騎兵の襲撃は、仏軍の歩兵部隊が普軍捨て身の突進と砲兵の活躍で敗退し、普軍がそれを追うため集合しエルザスハウゼンの北へ出て来た時に行われたのです。
普軍の前線部隊でボヌマン騎兵師団と戦うことになった部隊を以下、記して置きます。
☆第11軍団
(エルザスハウゼン部落内とその周辺)第94連隊第1大隊、第88連隊フュージリア大隊、第83連隊第1大隊、第82連隊フュージリア大隊と他連隊の混成部隊。
(エルザスハウゼン東)重砲第1、2、5中隊、騎砲第1中隊、軽砲第2、6中隊。
(エルザスハウゼン西)騎砲第3中隊、軽砲第5中隊。
☆第5軍団
(エルザスハウゼン東)第59連隊第5、6中隊、第7連隊第1大隊、第58連隊第2大隊、第50連隊第1大隊と他連隊の混成部隊。
ボヌマン騎兵師団が向かったエルザスハウゼンとその周辺の土地は、あのミシェル騎兵旅団が騎行したモルスブロンヌ北方の高地と全く同じ状況で、台地は畝状に起伏があり、多くの溝が縦横に走っていて、森との間には開けた原野が広がり射界に優れ、かつ疎らに生えた樹木とその切り株などが集団での騎行の邪魔になるのです。
また、受ける普軍にとっては周辺に生垣で囲って断続しているブドウ畑やホップ園が都合の良い遮蔽となっていて、騎兵にとっては非常に襲撃し辛い場所となっていたのです。
前記の普軍各部隊は、突然西から現れた仏軍胸甲騎兵に対し、そのブドウ畑やホップ園に入って戦う者もいましたが、ほとんどはその場で円陣を組んだり方陣を構えたり広がって散兵線を作ったりと、諸隊様々な対応で迎え撃ったのでした。
また、砲兵たちは最初の数射は榴弾を、その後は霰弾を発射して歩兵たちを助けたのです。
結果はミシェル旅団の悲劇、その再現でした。
仏胸甲騎兵第1連隊は中隊単位で襲撃しますが、大地を走る溝に阻まれ、そこで停止したところを普軍から狙い撃ちにされて壊滅的打撃を受けてしまい、最初に戦場から逃走することとなります。
同じ第1旅団の仏胸甲騎兵第4連隊は、第1連隊の左翼(北)より、いくらか平らな場所を見つけておよそ1キロを疾走し、敵を発見し突撃しようとしましたが普軍は全てその進路の左右に展開しており、正に十字砲火を受けてしまった連隊は潰走状態となって、連隊長ブロソレット大佐は負傷し捕虜となりました。
この第1旅団以上に悲惨な状態となったのは第2旅団でした。
仏胸甲騎兵第2連隊で実際の襲撃にまで及んだのは2個中隊だけでしたが、その200騎中、士官5名・下士官兵129名・馬匹を全て(200頭)失うと言う正に全滅状態となり、仏胸甲騎兵第3連隊はほぼ全力(4個中隊分)が襲撃に参加、連隊長のドゥ・ラカール大佐は襲撃の先頭に立ち突撃中に、普軍砲兵の発射した榴散弾に直撃され即死、以下、士官7名・下士官兵70名・馬匹70頭を失い、残った騎兵は四散してしまいました。
こうしてエルザスハウゼンに対する仏軍の反撃は全て失敗に帰したのでした。
仏軍の胸甲騎兵が戦場を去った頃、エルザスハウゼンの南東方ニーダーヴァルト森を越えてW(ヴュルテンブルク)王国師団の前衛、W第2旅団がやって来ました。
このW旅団のエルザスハウゼンに至る行軍を少しさかのぼって見てみましょう。
午後2時過ぎ、W師団長で普軍人のフォン・オーベルニッツ中将は、先行するW第2旅団に同行しグンステットに到着すると、ついさっきまで砲兵がいた郊外北西高地に登って戦況を観察しました。そして北独11軍団が仏軍の反撃を抑えてニーダーヴァルト森林中で戦い始めると、第2旅団の行軍を急がせ、まずは本隊がグンステットに入り、砲兵隊と後衛に対しては速やかに続行するよう命令が下りました。
W騎兵旅団に関しては既に11軍団へ預けられ、ボーズ中将からは2時過ぎにエバーバッハからレッシュショフェンへ進むよう命令が下っています。
W第2旅団がグンステットで隊列を整えた時、戦闘は既にエルザスハウゼン攻略まで進んでおり、このままでは戦闘参加の機会がなく会戦が終了してしまう、と案じたオーベルニッツ将軍は旅団長フォン・スタルクロック少将に対し、「直ちに行軍をしてエルザスハウゼンへ進むよう」命じたのでした。
W第2旅団の前衛はW第5連隊第2大隊で、これにW砲兵第6中隊を付した部隊はブルッフ水車場横の架橋から、その他の部隊は北上してグンステット北西高地の北でソエ川に架かる普軍工兵隊が架橋した仮橋から川を渡りました。
この頃に第三軍本営からの皇太子の命令「W師団はレッシュショフェンに向かい前進せよ」が届けられたのです。
しかし、ちょうどこの頃(2時30分前後)エルザスハウゼンでは普仏の死闘が繰り広げられており、普軍が疲弊しており、また前線の普軍指揮官たちはW師団の戦闘加入を切望していることも聞き及んでいたスタルクロック将軍は独断で隊と共にエルザスハウゼンへ向かうことを決め、行軍方向を北西と定めて隊を急がせ、真っ直ぐにニーダーヴァルト森の東側を突っ切って、煙を上げて炎上しているエルザスハウゼン部落を目標にその南東側へ進出するのでした。
このW第2旅団で最初にエルザスハウゼンの戦線へ到着したのはW猟兵第3大隊とW第2連隊第1大隊の歩兵たちで、彼らは森から広く横隊で接近し、エルザスハウゼン部落の西で散らばる第11軍団諸隊の隙間を埋める役目を果たし、一部は砲兵部隊の護衛を始めます。
その後方はW第5連隊第1大隊とW砲兵第6中隊で、砲兵は普軍の砲兵集団に加入し、歩兵は貴重な予備部隊として集合し、前進する普軍の後方を進むこととなります。
また、W第5連隊第2大隊はフロシュヴァイラーへの攻撃を命令され、エルザスハウゼンの東側砲兵の線を越えると他の普軍諸部隊と共に前進し、W第2連隊第5、6中隊は砲兵護衛のために東側砲兵列線に残留しました。
第11軍団の指揮下に入ったW騎兵旅団はW砲兵第5中隊を引き連れてエバーバッハ部落を過ぎ、普驃騎兵第13連隊の後方からレッシュショフェンへ向かう行軍を続けていました。
このようにW第2旅団は部隊としては分散し、団隊毎の行動となり、大部分が普軍と行動を共にしますが、新たに参加したこの南ドイツの「同胞」に対し、疲弊した普軍の兵士たちは歓迎の声を上げ、ヴュルテンブルク王国師団の兵士たちもプロシア人たちに労いの言葉を返し、肩を並べて戦いを再開するのでした。
そしてこの光景はエルザスハウゼンだけでなく、東部でもほぼ同時刻にB(バイエルン)第1師団が普第5軍団とB第2軍団の戦線に加わり、いよいよフロシュヴァイラーをめぐる最後の戦いが近付いたのでした。
レッシュショフェンのマクマオン大将




