ヴルトの戦い/不屈の第5軍団
キルヒバッハ中将は午後1時過ぎ発令の第三軍命令を待たず、午後12時30分、ヴルト正面の戦いを再開すべく前線予備部隊の第46連隊第1とフュージリア大隊をソエ川に向けて行軍させる命令を下します。
この2個大隊を総予備として攻撃を再開するのですが、これで第10師団の歩兵部隊はゲルスドルフとグンステット守備、そして砲兵部隊の護衛を除き全てがヴルトの西前面に進むこととなり、同時に2日前のヴァイセンブルク戦で主力となったため、今回は第二陣に廻っていた第9師団も即座に攻撃参加出来るよう前進を命じられたのです。
第9師団の第18旅団はシュパヒバッハへ、同第17旅団はヴルトへとそれぞれに向かい、第17旅団の行軍はその右翼(北)を猟兵第5大隊が援護し、この猟兵たちは直後に第4中隊のみ17旅団と行動を共にし、残り3個中隊はゲルスドルフへ向かいました。
その後猟兵はソエ川を渡河すると中隊ごとに分かれ、第1中隊は左側のヴルト北西の丘陵へ、第3中隊は右側のランゲンソウルツバッハ方面へ、最後の第2中隊はアルテ水車場へ、それぞれ第5軍団とB(バイエルン)第2軍団との連絡を図るのです。先述通り、この内の第3中隊がB第11連隊第3大隊と遭遇し、一緒に戦うこととなります。また、第1中隊はこの後B軍と第5軍団の小部隊と混合し、仏軍ラウール師団の恐るべき「トルコ兵」と激闘を繰り広げることとなるのです(後述)。
普第5軍団の先陣として戦った後で大損害を受けた第20旅団を支えるため、ヴルトへやって来た第17旅団は、まずはヴルト部落を通過するのに苦労することとなります。
仮設を含めて橋は破壊され、狭い部落の小路という小路には負傷者と恐れおののく逃げ遅れた住民たちで塞っており、しかも普軍砲兵から狙われつつもゲリラ的に砲撃を続ける仏軍砲兵からの榴弾が破裂する部落は地獄絵図で、ここに新たな部隊が2千人ほど入って来るのですから騒ぎは更に大きくなるのでした。
第17旅団長のボートマー大佐は、第58連隊の第1とフュージリア大隊をヴルトの北西側郊外に集められただけで、第58と第59連隊のそれぞれ第2大隊はソエ川東岸で部落内の混乱が多少鎮まるのを待たねばなりませんでした。
また、この頃(午後1時過ぎ)には第19旅団所属第6連隊第2大隊と竜騎兵第4連隊もヴルト東郊外に達し、部落の街道東口で待機となりました。
第17旅団と共に進撃した第18旅団は、第47連隊を先頭にシュパヒバッハの北でソエ川を渡り、既に午前中からアグノー街道で戦い続ける第20旅団第50連隊の2個大隊(第1とフュージリア)と合流します。第47連隊は50連隊に代わって戦闘の矢面に立ちますが、エルザスハウゼンとニーダーヴァルト森方面へ正に突撃しようと集合した最中に仏軍の一斉射撃を浴び、仏軍(ラウール師団)の逆襲を受けてしまいました。前衛は必死で防戦に努め、第3大隊を一旦東岸へ戻し、退却する友軍の収容陣地を作らせるという緊急事態となったのでした。
第18旅団の残り半分、あのガイスベルクで独軍一の損害を受けた歩兵第7擲弾兵連隊は先に2個中隊(9、11)をシュパヒバッハ北方の高地に送り、援護収容陣地として守らせ、2個中隊(5、6)をシュパヒバッハ部落の守備に残すと残りの8個中隊は一斉にシュパヒバッハを越えて前進、一気にソエ川を渡河し西岸に取り付きます。
この第7連隊渡河の間、第50連隊と第47連隊の4個大隊は仏ラウール師団の猛攻に耐え、アグノー街道の線を守り抜き、仏兵は多大の犠牲を出しながら後退して行きました。しかし普軍もまた損害が大きく、もう一度襲撃を受けた場合の余力は全くない状況に陥ります。
この大激戦中に第50連隊長ミエーヘルマン大佐は重傷を負い、第47連隊長フォン・ブルグホフ大佐は戦死してしまうのでした。
しかし多大な犠牲は無駄ではなく、誇り高く勇猛な第7連隊の到着と、グンステットを第11軍団に「譲った」第50連隊第2大隊が南からやって来たことで第5軍団の左翼(シュパヒバッハ正面)の戦線は厚みを増し普軍有利となります。
第7連隊長フォン・ケーテン大佐は連隊で使える8個中隊を中隊毎の縦隊とし、第1大隊(1から4中隊)を中央に、2個中隊(7、8)を右翼、2個中隊(10、12)を左翼として痛めつけられた第50、47連隊に代わって前進を開始しました。すると後方陣地に残ったはずの2個中隊(9、11)も追い付いて後続し、左翼2個中隊はニーダーヴァルト森へ南進し、中央第1大隊はエルザスハウゼンへ、右翼2個中隊は第47連隊で奮起した一部の将兵と共に街道を越えて斜面を登り、普兵から「ガルゲンヒューデル」=絞首台の丘(独語ヒューゲルは英語のヒル)と名付けられたニーダーヴァルト森北東端を占領することに成功します。
ここはエルザスハウゼンとほぼ同じ高度で、仏軍もここを押さえられると南側の第4(ラルティーグ)師団や西の第7軍団コンセイル・ドゥメスニル師団と、ヴルト正面の第3(ラウール)師団の間に楔を打ち込まれる形となるため必死で逆襲を行います。
ズアーブ兵を中心戦力とするラウール師団第1旅団の恐るべき銃剣突撃を幾度も受け止め、シュパヒバッハに突き出した高地の突端を第7連隊の兵士は必死で守りました。普軍には47連隊の増援の兵士も到着し、この重要な拠点は以降遂に奪い返されることはありませんでした。この高地にはやがて(午後2時30分頃)第11軍団砲兵隊の騎砲兵第1中隊が南側より登って来て砲列を敷き、エルザスハウゼンを砲撃し始めるのです。
B第1師団が戦場に登場した(午後1時過ぎには前衛がゲルスドルス付近)ことにより第5軍団は後方予備を設ける必要が無くなり、B第1軍団長フォン・デア・タン大将との会談の後、キルヒバッハ中将は第5軍団全力を以てエルザスハウゼン~フロシュヴァイラーへの総攻撃を決心します。
他軍団とタイミングを調整し攻撃は「しばらく待て」との皇太子からの命令は既に受け取っており、キルヒバッハは総攻撃の機会を探りますが、午後2時、仏軍ラウール師団第2旅団の一部がヴルトを奪還すべく新たな攻撃を仕掛け、これを58連隊と59連隊が全力で阻止し撃退すると「ここが戦機」と中将は攻撃前進命令を発するのです。
この命令に従い、第58連隊の2個大隊(第1、フュージリア)はヴルト北西から前進、ソエ川西岸河畔のホップ園を占拠するとここで敵の散兵線としばらく銃撃戦を行った後、第1大隊は攻撃隊型として普軍教本通りの縦列横隊となって一斉に突撃、開けた「死の草原」を一気に横断し、続くフュージリア大隊はその左翼(南)に続いてフロシュヴァイラー街道を進み、第1大隊は犠牲を出しつつもヴルト北西の険しい高地に取り付きました。
この北西高地で第1大隊は再び激しい戦いに巻き込まれ、高地線に上がって来た普兵に対し仏軍は隠れていた散兵線から猛烈な銃撃が始まり、普軍も散開してこの敵と銃撃戦を始め、ここでは再び戦線が膠着してしまうのです。
この第58連隊の突撃の左翼側では第19旅団の5個大隊(第46連隊とヴルトの東で待機する第6連隊第2大隊以外の第6連隊)が同時に前進し、フロシュヴァイラー街道を進む58連隊フュージリア大隊を追って本道とその側方をフロシュヴァイラー目指して突き進みます。この集団には第37連隊から2個中隊(3、4)がその左翼に連なって付いて行きました。
第19旅団はヘニング・アウフ・シェーンホフ大佐の指揮で中隊毎の縦隊横隊となり、仏ラウール師団必死の猛射撃の中「死の草原」を横断し、散兵線は高地際の斜面に達しました。
しかし、ここから高地に駆け上がろうとすると北側からの敵の射撃に邪魔されて攻撃はここで頓挫し、19旅団右翼の第46連隊のフュージリア大隊はこの北側の敵を後退させるため突撃を敢行しました。この大隊には攻撃前に軍団参謀長のフォン・デア・エッシ大佐がやって来ると直卒を宣言し、ヴルト北郊外より大隊を引き連れて部落西のブドウ園に潜む敵を排除しようと試み、ブドウとホップの生い茂る斜面を前進して前方の敵散兵線を攻撃、見事に仏兵を後退させます。
エッシ大佐は更に大隊を高地の端まで突進させますが、その高地端にある二つの半月形塹壕土塁から猛射撃を浴びます。大佐も屈せず部下に応戦させ、その間、大隊長のカンペ少佐は残り少ない士官たちと共に部隊を整理し、その先頭に立つと一気に二つの塹壕へ突撃を敢行、この土塁を奪取しました。
勢いに乗った大隊はそのまま逃走する仏兵を追いますが、ここで前方の林から猛射撃が起こり、先頭の兵士や士官はバタバタと倒れてしまいました。エッシ大佐はここで部隊を止め、他の部隊より敵中へ突出したために包囲の危険を感じた大佐は、やむなく後退を命じるのでした。
第46連隊の突撃
こうして普軍がフロシュヴァイラー東の高地縁に達したことで、フロシュヴァイラー東の林に潜んでいた仏デュクロ師団の部隊は猛烈なシャスポー銃射撃を浴びせることで必死に防戦に努めました。また普軍一斉の突撃は普軍砲兵の砲撃を中止させることとなり、普軍の先鋒たちはすかさず前に出て来た仏軍砲兵、特にミトライユーズ砲中隊から掃射を受けることとなってしまいました。このため、第46連隊はこの高地縁で踏ん張り、耐久し始めたことでこの戦線は持久戦の様相を呈するのでした。
この19旅団左翼で同時刻に一人の英雄が生まれます。
第6連隊の中隊長、フォン・ヴォルフ大尉は第9、第12の2個中隊を率い、ヴルトの南西側から撃退した敵をそのまま追う形で前進、周辺で戦っていた散兵を次々に加えてその先頭に立ち、既に防戦中に敵弾を受けて負傷していた身で軍旗を掲げると、再び逆襲して来た敵に対しこちらから突撃して撃退、強靭な体力と精神力を発揮しつつ敵を追って斜面を登ります。そしてヴルトの南西に延びる高地の岬状に突き出した「鼻」に達すると、大尉はここで敵から一斉射撃を浴び、再び重傷を負い倒れたのでした。
ヴォルフ大尉の勇敢な行動は周囲の普軍兵士を奮起させ、第46連隊の第1大隊はヴォルフ隊に続いて高地「鼻」に達し、半数の2個中隊を更に左翼となるエルザスハウゼン方向へ進ませ、これを追って第37連隊の2個中隊もエルザスハウゼン目指して進んで行くのでした。
この普軍戦線の両翼が高地端に拠点を得たことで中央も動き出すことが出来ます。
戦線中央を担当する第6連隊の第1大隊と第46連隊の第2大隊は、フロシュヴァイラー街道沿いに潜んでいた仏散兵を撃退し、遂に街道とエルザスハウゼンの間にある強力な仏ラウール師団の拠点は左右から圧迫され出したのです。
しかし、第5軍団は既に過酷な戦いに投じられてから半日が経過し、ようやく敵の防御拠点に足掛かりを得て、これから本格的な攻勢を掛ける段階となりますが、連鎖し連続する仏軍のタフな逆襲によりダウン寸前のボクサー宜しく正にフラフラの状態でした。
キルヒバッハ将軍は前線指揮官たちから寄せられる悲鳴のような増援要請に対し、遂にソエ川東岸よりその有力な砲兵を前進させて足りない歩兵の助けとしようとしました。この敵味方が交錯した状態では砲兵も撃つことが出来ず、焦燥感に煽られながら味方が戦う姿を眺めるだけでした。キルヒバッハは何としてでも砲兵を、再び敵に対する強力な「鞭」とするべく命令を下したのでした。
これにより、ディーフェンバッハの西方高地からまずは第10師団砲兵(4個中隊)と軍団砲兵の半分(3個中隊)が動き出し、工兵の架橋中隊が敵の銃砲火の下で修理し続けたヴルトの橋を通過して、変わらず混乱したままの部落内を無理矢理に通行しようとしました。続いて第9師団砲兵(4個中隊)と軍団砲兵の残余、軽砲第3中隊と騎砲兵の2個中隊は砲兵の護衛として残っていた第6連隊の1個中隊と共にヴルトからゲルスドルフへ至る街道まで前進します。この砲兵集団は、この後B第1軍団の砲兵を迎えて規模を拡大させました。
更にキルヒバッハは、ソエ川東岸に残留していた歩兵部隊の任務を全て解除し、川を渡河させ第一線を強化しました。
これにより、第47連隊のフュージリア大隊3個中隊(1個中隊は既に50連隊に合同)はヴルトを抜け親連隊が戦うフロシュヴァイラー街道の南方面へ向かいました。第6連隊第2大隊3個中隊(1個中隊は砲兵護衛)は第58連隊第2大隊と共に部落の南で仮橋を使用して渡河し、前者はフロシュヴァイラー、後者はエルザスハウゼン方向へ向かいました。
最後に残った第59連隊第2大隊はヴルト通過中の砲兵部隊援護に回り、橋を渡った先の「死の草原」で砲兵が攻撃を受けぬよう警戒しました。そして全ての部隊が渡り終えた橋からは、工兵架橋中隊がブドウ園の先で苦戦する歩兵たちを助けるため斜面を登り始めたのでした。
このように第5軍団は文字通り最後の一兵まで前線に送り込み、隣接する味方軍団が攻撃参加し第5軍団に掛かる「圧力」を軽減するまで忍耐し、敵の注意を引きつけようとしたのです。
延々続く戦闘は交互に攻勢を取るシーソーゲームで、その都度激しい攻防戦となり、凄惨な白兵戦と神経をすり減らす銃砲撃戦は止むことがなく、お互い死傷者は驚くべき数字となって行くのでした。
それでも状況は次第に数的優位にある普軍有利に傾き始めており、その一歩一歩、数十センチ刻みの前進でじわじわと最終目的地のフロシュヴァイラーとエルザスハウゼンに迫ったのでした。
しかし第5軍団はこの全歩兵部隊をソエ川西岸へ送った時点で、既に部隊指揮官の過半数を失っていたのです。前述の2人の連隊長のみならず、第46連隊長のフォン・ストシュ大佐、第6連隊大隊長のフォン・フォイゲル少佐、第46連隊大隊長フォン・カンペ少佐にあの第17旅団長ボートマー大佐も戦死や重傷を負って後送されていたのです。
この戦いの間中、仏軍は後から湧き出て来るように予備隊が出現し、次々に逆襲して来ました。しかし仏軍は普軍より兵力に乏しく、これは単に普軍が第5軍団のみ正面からぶつかって来たので対処可能な作戦でした。この後、独側の参加部隊が増えるに連れ仏軍の予備はなくなり、包囲されても降伏を拒否する部隊も登場するなど、悲惨な戦いが四方で行われるのです。
仏軍のこの闘志も壮絶ですが、普軍の闘志もまた賞賛すべきものでした。普軍部隊の指揮官を失った中隊なり大隊は、下級指揮官が直ちに指揮を代わり立派に防戦に勤め、そして逆襲に転じていたのです。
普墺戦争では猛将シュタインメッツの下で連戦連勝し、その死傷者もまた普軍一多かった栄光の第5軍団は、この新たな戦争最初の大会戦でも、指揮官の剛胆不屈、そして兵士たちの勇気と犠牲的精神が発揮されることとなったのでした。




