ヴルトの戦い/第三軍の名コンビ
プロシア王国皇太子(実際この時点では「王太子」ですが、この戦争中にドイツ帝国が成立するのでここでは「皇太子」で通しています)フリードリヒ騎兵大将第三軍司令官が午後1時にディーフェンバッハ西の高地で敵地を睨んだ時、独軍の状況は最悪に近いものがありました。
フリードリヒ皇太子が、前日までは戦うと思っていなかった大会戦を経験するのはこれが二度目となります。
4年前の前回は、自身率いる普第二軍が決定的瞬間に間に合うかどうかの戦いでもありました。実際の戦場には戦いの後半から参加し、会戦勝利後は普軍勝利の原動力と讃えられ、戦場で危険な目(敵の騎兵から襲撃を受けました)にも会い、戦後、今も襟元に輝くプール・ル・メリット(皮肉にもフランス語名の普王国戦功勲章)を父王自ら授けられました。
今回は予定外の独断専行を部下が執ったために起こった事態です。さぞ不本意だったことでしょうが、戦争とは不確実の連続であることは皇太子も良く知っています。クラウゼヴィッツの書籍は皇太子も読んでおり「戦場の霧」や「天才の概念(精神と知力)」のことも理解していました。
皇族であり後の皇帝(実に短い治世でしたが)でもあるため「はばかられ」、皇太子の指揮官としての優劣を問う者は当時はいなかったことでしょうし、その後も批判は多く見られません。それでも敢えて「彼は優秀な野戦指揮官だったのか」と問われれば、私は「違う」としか言いようがありません。
しかし歴史家や戦術家たち評論家の中で、フリードリヒ皇太子の指揮振りを責める者は確かにおり、それはあまりにも「普通の」指揮官と同列に見た比較ですから私は同意しかねるのです。
彼らが責める「即断即決がない」とか「成り行き任せで優柔不断過ぎる」、「指揮官先頭の気迫がない」などは、プロシア軍がなぜ皇太子を戦場に立たせるのか、という本来の意味を無視し過ぎていて、皇太子がかわいそうになります。
プロシアは成立以来ずっと「軍国」であり続け、国民は王権が絶対であるという考えに慣れています。もちろん普仏戦争当時、庶民が力を付けた19世紀も後半、反対派もまた多く存在し、共和主義や社会民主主義は多くの国民から賛同を持って迎えられています。それだからこそ、プロシア王(この後にドイツ皇帝)家であるホーレンツォレルン家は、この激動の19世紀に王国を絶対王権国家として統治し、王家を廃絶の危機から救うためには、自ら戦場で指揮を執り、幾多の危機から王権を守った先祖と同じ行動を取らねばならなかったのです。
国民は王家の者が戦場に立ち、自らを危険に晒して勝利を得ることで忠誠と信頼を寄せるものです。そのため国王は戦争となれば常に大元帥として大本営とともに出陣し、皇太子は一軍を率いて敵の銃砲弾が届く場所で指揮を取らねばならなかったのです。
国王ヴィルヘルム1世は祖先の血を引いて、父や伯父たち先代の国王たち以上に武断無骨な軍人として生きて来た王様で、その長男であるフリードリヒはどちらかと言えば母方の血を引いて、開明的で優雅、知的で鷹揚な部分がありました。本当は王宮で賢い英国人の后や子供たちと過ごすのが好きな皇太子が、血塗られた戦場に立って十数万の軍勢を率いているのです。軍人の能力としてだけ見るのなら本営の参謀副長か、各軍団本営で士気を鼓舞する役目の皇族高級士官としての役割がお似合いなのです。
ですから、私から見れば皇太子は実に器用で良くやっていると思える訳で、キルヒバッハやボーズ、そして敵のマクマオン等と同等に見るのは酷に思えるのです。
当然、戦争は勝たねばならず、そのためにボーズ将軍などを序列を無視して登用する普軍ですから「指揮官としては凡庸」な皇太子を使うのはおかしい、という意見もあるでしょう。しかしそれは先の理由「軍国プロシアの皇太子は戦場に立ち軍を率いなければならない」という不文律に譲るわけですし、その中でフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニコラウス・カール・フォン・プロイセンという皇太子は合格点を与えられるだろう、と言うことなのです。
ですから第三軍本営の「まったりした」動きを責めるとしたら、ブルーメンタール参謀長を、となりますが、これにも異論があります。
カール・コンスタンチン・アルブレヒト・レオンハルト・グラーフ・フォン・ブルーメンタールという軍人は、1810年、名門のプロシア軍人貴族の家に生まれます。
折からナポレオン戦争の真最中で父アルブレヒトは1813年、スウェーデン王国のベルナドット王太子とプロシア王国フリードリヒ・フォン・ベロウ将軍率いる連合軍VSナポレオン軍の猛将ミシェル・ネイ将軍とニコラ・ウディノ将軍率いるフランス軍との戦い「デンネヴィッツの戦い」で戦死しています。
成長するとベロウ将軍の後援もあって士官学校へ入学、優秀な成績で卒業後、出世の登竜門・近衛ヒュージリア連隊の少尉として軍人人生をスタートさせました。33年にはプロシア軍大学へ入学、ここも優等で卒業するとコブレンツのラントヴェーア部隊勤務の後、中尉で参謀本部地図課入りし、48年の動乱期にはベルリンで暴徒鎮圧にも活躍して大尉となっています。
49年の第一次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争ではあのフォン・ボーニン将軍の参謀として参戦、同年7月の「フレゼレシアの戦い」で参謀長が戦死すると少佐としてシュレスヴィヒ派遣ドイツ連邦軍の参謀長となります。
戦後参謀本部に戻った彼は中佐に昇進後ヘッセン=カッセル方面の指揮官となり、イギリス駐在武官を経て軍のホープ、カール親王の副官となります。大佐昇進後はカール親王の下で連隊長を二度勤めました。
63年12月の第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争では普第3軍団参謀長として参加、ドゥッペル堡塁攻撃やアルス島上陸作戦などでもカール親王の参謀長・モルトケを助けて尽力し、戦後少将昇進とプール・ル・メリットを獲得しています。
そして66年、普墺戦争で第二軍参謀長として皇太子の下に付き、シュタインメッツの活躍にも助けられ、戦後プール・ル・メリットに「柏葉章」を付け、ホーエンツォレルン王家勲章(騎士位)を授けられ中将に昇進しました。
その後第14師団長を経て、この70年7月の宣戦布告で第三軍参謀長を拝命し、再び皇太子の「知恵袋(そして参謀本部からのお目付け役)」となり(この任命は皇太子が望んだとも言われています)、普仏戦争に臨んだのでした。
このように名門軍人一家の名に恥じぬ(同時期に弟や親戚筋にも多くの軍人がおり、普仏戦争では2人が戦死しています)立派な参謀としての功績があるブルーメンタールでしたが、皇太子の後見としてその指揮振りから同時に陰口も叩かれるようでした。
いわく「慎重紳士」「石橋を幾度も叩く男」「じっくりと後ろで構えているだけで何もしないのに昇進」等々……
しかしこの批判も的外れと言えるのではないでしょうか?
ブルーメンタールは、軍事才能的には「ごく一般的」な皇太子を立てて、その采配中には適所で口を挟みはするものの出しゃばらず、常に後ろに控えていました。当時従軍中の皇太子を描いた絵画には必ずと言っていいほど登場し、必ずその後ろに描かれていることが証左だと思います。
また、普仏戦後に宰相ビスマルクは非常に興味深いことを書き残しています。
「私が見る限り彼(ブルーメンタール)は多くの記事や報告書には登場しない。しかし彼は皇太子殿下の参謀長であり、今次戦争の貢献度で言えばモルトケに次ぐ者であると言えよう。彼はヴァイセンブルクとヴルト、そして後にセダンで勝利を得るが、皇太子殿下は常に彼の作戦計画を素直に認め、干渉せずに自由に行動させようとしていた」
つまりブルーメンタールの作戦計画を忠実に実行に移したのが皇太子で、ブルーメンタールもそれを己の功績とせず、常に陰の存在として皇太子を立て、采配中は邪魔をせず、皇太子もここぞという時には必ず彼の意見を聞き、その通りに従った、そう見る方が自然と言うものです。
また、この二人のコンビは双方の敬愛の情と思いやりで成り立っており、お互いの性格を考慮し熟考の邪魔をせず、必ず相談しあって軍の指揮を執っていたと思われるので、速戦即決・唯我独尊のプロシア軍人たちから見た場合、歯痒いほどの慎重さと優柔不断さに映ったものと思われます。
一部口さがない連中は、皇太子は「臆病」なのか何か事が起きても直ぐに前線へ駆け付けず、参謀や副官に見に行かせるから行動が遅くなった、等と言っていますが、これもいざとなれば「使い捨て可能な」キルヒバッハやボーズと同列に見ているからで、ドイツの次代を担う皇太子は国のために「臆病」であるべきで、そう簡単に銃弾飛び交う前線に出動するなど出来るはずもないのです。当然その掛け替えのない参謀・ブルーメンタールも安易に危険に身を晒すのは愚の骨頂と言えるでしょう。
むしろこの「ヴルトの戦い」で皇太子が本営から出陣し、午後は戦場を臨む位置で指揮を執った方が私には驚きなのでした。
結局、彼らが関わった戦いは勝利に終わっており、それが「奇跡」であろうが「運」であろうが、そのような結末へ軍を導いたのは、
兵士たちが苦しい時に仰ぎ見れば、国を象徴するものとして凛と立っていた皇太子と、
老騎士の風格を持ち、常に冷静で皇太子の後ろに控えるブルーメンタール、
という「名コンビ」だったと思うのです。
フリードリヒ皇太子 ブルーメンタール将軍(第三軍参謀長)
話が長くなってしまいました。そういうことですので、第三軍の指揮は決して怠慢や臆病で遅れた訳でないことを知って頂き、先へと進みたいと思います。
午後1時、既に麾下の2個軍団が退かれぬ戦いに身を投じ、それも苦戦中で敵との間に流れるソエ川を渡っているのはほんの一部分、他はコテンパンにやられたか予備として控えるかのどちらかという状況、これを皇太子は噛みしめるように胸に刻むのでした。
敵マクマオン将軍はさすが名将とあって防護陣地は大変強固で、兵力も予想以上に増援を得て強化され、そこに統一感のない突撃をした普軍は愚かのそしりを免れない状況でした。
希望はB(バイエルン)軍で、第4師団は叩かれたとはいえ再興して戦いに復帰すべく勤め、その後方から増援もやって来ます。同僚のB第1軍団からは第1師団が戦闘準備を完了し戦線に登場、左翼の第11軍団後方からは増援とヴュルテンブルク師団が接近していました。
但し今後戦闘に参加出来そうなのはここまでで、以降の増援は戦いのクライマックスには間に合わない状況でした。
この、北はゲルスドルフから南はグンステットに至る戦線正面には200門に及ぶ普軍の優秀な砲兵が並んでおり、これで多少の敵は粉砕され、普軍の攻勢に対し今まで以上の大きな援護が期待出来ます。
斥候や大本営からもたらされた今朝までの情報では、仏軍マクマオン大将は自身の第1軍団4個師団の他に南の第7軍団から1個師団、西の第5軍団からも1個師団を加える可能性があり、その戦闘員数は6から7万程度とはいえ、その後も時間を経れば経るほど増援がやって来る可能性があり、現在の兵員数の差を思えばドイツ側の有利な状況は日を経る毎に無くなって行く、と言うこともあります。
しかもマクマオンはある程度の防戦で逃げてしまう可能性はあり、フリードリヒ皇太子は、不本意ながらも今日、この会戦を最後までやり遂げようと決心したのでした。
午後1時。皇太子とブルーメンタール中将は「攻撃を統一し増援を必要な場所へ配置するため」以下の命令を第三軍命令として発するのでした。
B第2軍団は仏軍左翼に攻撃を集中し、レッシュショフェンを目標に仏軍後背に圧力を掛けよ。
B第1軍団は主力を迅速に進め、B第2軍団と普第5軍団の間に展開、攻撃参加せよ。
第11軍団は戦線南方よりニーダーヴァルト~エルザスハウゼン~フロシュヴァイラーへ突進せよ。
ヴェルダー軍団のヴュルテンブルク師団はグンステットから第11軍団に続き、バーデン軍団はまずシュルブールへ進むべし。
第5軍団はこの命令を各軍団が実行するまで攻撃を待ち、その後両翼の軍団と協力して攻撃を再興せよ。
この午後1時の時点で第三軍の参謀は、B第1軍団(B第1師団がゲルスドルフ付近で攻撃準備中)と第11軍団(グンステットから更に南へ展開し前進準備中)が攻勢に掛かるにはまだ1、2時間掛かると見積もられ、ヴェルダー軍団が戦闘に参加出来るまで3時間は掛かるだろう、と思われていました。
しかし事態は皇太子ら第三軍首脳陣が考えていた状況より深刻で、前のめりになっていたキルヒバッハ中将は命令を受け取る前には既に行動を開始、午後12時30分、後方からの増援を待たず前線に残していた予備部隊、第46連隊の第1大隊に対しヴルトへ前進せよと命じ、直後に最後の予備部隊、同連隊のフュージリア大隊にも出動を命じていたのです。
皇太子の思うよりも戦場は熱く燃えたぎり、ヴルトの会戦は未だ序盤戦が終了したばかり、独仏の激突はさらに激しく凄惨なものとなって行くのでした。




