ヴルトの戦い/血戦前日
8月5日の午後遅く。
ほぼ命令通りに独第三軍の各軍団が野営予定地に到着した頃、フリードリヒ皇太子は翌日の行動命令を発令します。それによると、
「第三軍は6日、ソウルツの周囲に駐留し、部隊の転換配置を行う」として、
B(バイエルン)第2軍団、普(プロシア)第5軍団はレンバッハとプロイシュドルフ付近でそのまま待機し、
普第11軍団は右旋回してヘルシュロッホ近郊(シュルブールの北西1キロ)に野営地を定め、前哨をソエ川河畔に出してシュルブール~アグノー街道も守備し、
B第1軍団はロブザンヌ及びランベルトロック近郊(共にソウルツ北西方3~4キロ)まで前進し、前哨をホッホヴァルド山(レンバッハ=ソウルツ間の山地)越えでソエ川まで派出、
騎兵第4師団は野営地(ソウルツ北東方)に留まりその正面を南から西に転向、
ヴェルダー軍団はライマースヴィラー(ソウルツ南2キロ)まで進んで南を向いてアグノーの北森に前衛を置き、クーレンドルフ(ソウルツ南東3キロ)付近の街道とオフェン(ソウルツ東3キロ)付近の鉄道には比較的大きな前哨を置いてこれを警備、
軍本営はそのままソウルツにいる。
と、するのです。
当然ながらこれは、仏マクマオン軍がソエ川西方の高地にまとまった数の部隊を展開し、アグノーにも無視出来ない数の部隊が展開しているとの斥候報告から出された命令で、皇太子とブルーメンタール参謀長はこの6日を使って西の敵主力に圧倒する数の部隊を揃え、南の敵アグノー「支隊」にはヴュルテンブルク=バーデン軍で「睨み」を利かす、と考えたのです。
ただ、マクマオンが取り得る作戦はヴルトの西で決戦を待つだけではなく、さっさと西へ逃げてしまう、とか、窮鼠猫を噛むとばかりに前衛の第5軍団を襲う、などと言うことも全くないとは言い切れません。
そこで皇太子は追加命令を出して、先の命令では動くなと命じた部隊に別途命令するのです。
第三軍はハルトマン将軍のB第2軍団に対し追加命令として、ビッチュ方面(西)だけでなくランゲンソウルツバッハ方面(南)にも注意を向け、もし6日早朝以降ヴルト方向に砲声を聞いたなら、直ちに軍団から1個師団を割いて敵の左翼(仏から見て北。ランゲンソウルツバッハ方向)へ前進し攻撃、残りはビッチュ方面からの攻撃を警戒すること、とするのです。
また、情報として普第6軍団がランダウに到着したこと、その内1個師団は6日にビッチュ~ピルマゼンス方面へ前進すること、また別に2個大隊がヴァイセンブルク守備隊として前進し市街地とガイスブルクへ入城するので、B第2軍団は後方の心配をしなくてもよいこと等を伝えています。
B第2軍団長ハルトマン大将はこの命令を受け取るや、ファッフェンブロンヌ(レンバッハ東南東2キロ)付近で野営中の「ヴァイセンブルクの覇者」ボートマー中将指揮するB第4師団に対し、明日6日黎明時に野営地を発つことを命令し、その第7旅団第5連隊の2個大隊と軽騎兵第2連隊の1個中隊で支隊を作り、ソエ川の渓谷に架かるクー・ブリュッケ(以降「クー橋」。レンバッハ街道沿い南南西4キロ。ブリュッケは独語の「橋」)まで進んで橋を守りつつ第5軍団右翼(北側)との連絡を保持、
第7旅団の本隊は軽騎兵連隊と砲兵1個中隊と共にランゲンソウルツバッハの北、マテタル部落の南郊外まで進んで警戒し、
師団残りの第8旅団は砲兵3個中隊と一緒にマテタルの北東にある牧草地へ向かうこととしました。
軍団残りのB第3師団と予備の騎兵や砲兵部隊はそのままレンバッハ~ウィンシャン(独名ヴィンゲン/レンバッハの北)に駐留しビッチュから敵が進撃する場合に備えます。
B第2軍団は6日午前7時30分の時点で、前記配置を完了しました。
闘将キルヒバッハ中将普第5軍団は、6日は休息が取れるものとして5日夜には宿営や野営を整備し、前哨を整えました。
その最右翼(北)に当たる前哨はクー橋の南でB第5連隊と連絡し、その南2キロのゲルスドルフには軍団右翼として第20旅団37連隊第1大隊の2個中隊が、最左翼(南)はグンステットで第50連隊第2大隊と竜騎兵第14連隊の1個中隊が配置に就いていました。
第5軍団の残り部隊はこのゲルスドルフ~グンステット間の約4キロに展開し、本営はプロイシュドルフにありました。
第20旅団主力は騎兵、砲兵各1個中隊と共にディーフェンバッハ(プロイシュドルフ南西2キロ)部落の西に展開し、部落自体は第50連隊のフュージリア(第3)大隊が守備していました。
また、ミッチュドルフ(ゲルスドルフ東1キロ)と本営のあるプロイシュドルフにはそれぞれ第10師団の1個歩兵大隊が守備隊として残り、第10師団の残り部隊と第9師団、軍団砲兵隊はディーフェンバッハの南と東にそれぞれ展開し、ソウルツからヴルトへ向かう街道の南北両側に沿って野営していました。
この第5軍団が対面するマクマオンの仏第1軍団は、ヴルト西方の防御に大変都合のよい高地に展開しており、普第5軍団だけでは突破は困難という独第三軍の判断は実に正しかったと言えます。
例え同等の兵力でも、強固な天然の要衝に籠もるベテランの現役兵がほとんどの兵士とシャスポー銃の優位性を考えるならば、正面からの強行突破は相当な損害を覚悟しなくてはならないでしょう。
その意味でも第三軍の首脳・参謀たちが貴重な一日(6日の日)を使って正面戦力を厚くしようと考えたのは適切でした。また、マクマオン将軍が未だ集合がままならない仏第7軍団から、唯一集合が完結していた貴重な1個師団をアグノーへ呼び寄せることが出来たことで、ドイツ側は1個軍団(ヴェルダー軍団)を南方警戒に充てねばならず、更にファイー将軍の仏第5軍団をここに招致することが可能になれば、マクマオン将軍にも勝利を得るチャンスが出て来たのです。
しかし、実際にはファイー軍団からの増援は1個師団しか期待出来ず、急遽南側に敵を分散させていたアグノー在の第7軍団コンセイル・ドゥメスニル師団をヴルト西方の陣地へ呼び寄せることとなったのでした。
このヴルト西方ソエ川西岸の高原は、ヴァイセンブルクのガイスベルク高地と同様ブドウ畑とホップ畑が広がる丘陵で、ヴォージュ山脈の東縁に当たります。
マクマオン軍が陣取ったのはソエ川とエバー(バッハ)川に挟まれた丘陵地帯で、幅(東西)は平均2キロ、北から南へネーヴィラー~フロシュヴァイラー~エルザスハウゼン~ニーダーヴァルト(林)までの陣地線は長さ(南北)4キロ強ありました。
このソエ川西方の高地は東よりも高度が高く、一ヶ所だけゲルスドルフ付近のみ北東から張り出したホッホヴァルト山が岬状に突き出して西岸と張り合うだけで、その下流(南)東岸は全て緩やかに波打つ地形となり非常に見通しが良く、特にヴルトから下流のソエ川河岸は広く開けていました。
またソエ川の橋はヴルト近郊以南でほぼ全てが落とされていたため、この川を渡る敵は西側高地から必ず発見され、射撃や砲撃を受けることとなります。しかも仏軍はシャスポー銃の長射程(500~1,000m)を計算して河畔からの距離を測って塹壕や散兵線などを設置し、それらは逆にドイツ側のドライゼ銃では川から有効射程(500m前後)に捉えられない位置にありました。また、橋の架かっていた場所や浅瀬は全て高地上の仏軍砲兵部隊の射程内にありました。
この開けた河岸を越えることが出来たとしても、その先は急斜面となった登りで、その斜面は前述通りホップやブドウなどの作物が育てられており登攀は非常に困難、というドイツ側にとっては悪夢のような陣地だったのです。
陣地線のみならず、防衛地帯にある部落もまた難攻でした。
ヴルトの部落は陣地線の中央前衛の位置にあり、ソエ川が分岐する位置にあるため湾曲した川自体が濠の代わりとなっていて、街中にはアルザス地方に多いドイツ風の角度が急な三角屋根と屋根裏部屋を持つ石造りのしっかりした住居が多く、また街には曲がり角の多い路地が多く作られ、これはそのまま防衛拠点にもってこいの形でした。街の西側では街道沿いに家屋が丘陵まで続き、そのまま陣地線につながっていました。
ヴルトの仏軍野営
陣地線沿いの部落もヴルトと全く一緒でした。
アルザス風の住居が続くフロシュヴァイラー(仏名フレッシュウィレル)部落は丘陵の最高地点でもあり、四方が見渡せるこの部落には高い尖塔を持つ教会もあり、そのまま小要塞と言っても過言ではない状況になっていたのです。
そう、フロシュヴァイラーは非常に防御向きの陣地でした。この町は東西南北から街道が集中し、高地西側にある重要な町、レッシュショフェンへ抜ける道も複数あって、部隊が後退する際にも重要な後衛拠点でもあります。
実はマクマオン将軍はこの地を良く知っていたのです。
戦前のフランス軍における幕僚演習において、マクマオン将軍はこのヴルトからフロシュヴァイラーにかけての高地を検討し、満足げにこう言っています。
「いつか私はこの地でドイツ人と出会いたいものだ。その暁にはこの高地では1匹の野ネズミさえも生き残りはしないだろう」
またフロシュヴァイラー南方のエルザスハウゼンは他の拠点より低地にあるものの北方の陣地帯を守るためには理想的な拠点で、付近の地形が起伏と斜面が多いことから散兵戦術を採った場合、伏兵を忍ばせるにはもってこいの場所となり、また部隊の移動を隠すことも出来る重要な場所でした。
この「フロシュヴァイラーの陣地帯」の北西~南西にマクマオンは第2陣として砲兵や予備騎兵、そしてヴァイセンブルクから退却して来た第2師団の残存部隊を呼び寄せ、ペレ将軍に指揮をさせ軍の総予備としたのです。更に戦闘直前にはアグノーから第7軍団のコンセイル・ドゥメスニル師団が到着し、さらに「厚み」を増したのでした。
マクマオン軍のその陣容は以下の通りでした。
○左翼(北) 第1軍団第1師団(デュクロ少将)
右翼をフロシュヴァイラーの東郊外に、左翼をレッシュショフェン東郊外のグロセ・ワル(独名グロッサーヴァルト)森東端に置き、北を向いてレンバッハ方面からの敵の進撃を食い止める役割でした。他にネーヴィラーとヤエーガータール(ネーヴィラー北西3キロ)に各1個中隊の歩兵を前哨として派遣しています。
○中央 第1軍団第3師団(ラウール少将)
第1旅団がフロシュヴァイラー付近の高地陣地帯に、第2旅団は左翼をフォロシュヴァイラーに、右翼をエルザスハウゼンに置いてその間に散兵線を敷きました。
ラウール少将
○右翼(南) 第1軍団第4師団(ラルティーグ少将)
概ねエルザスハウゼンから南へ頂点を東側に置いた緩い湾曲状に展開し、第1旅団はグンステットに面して陣地を作り、第2旅団(1個連隊欠)はモルスブロンヌ=レ=バン(グンステット南西2キロ)に面して布陣しました。
○中央第二陣 第1軍団第2師団(ペレ少将)
予備隊として中央第3師団の右翼後方(西)から第4師団の左翼後方にかけて展開し駐留待機します。
○第二陣 第7軍団第1師団(コンセイル・ドゥメスニル少将)
第4師団後方(西)に待機
○第二陣 ミシェル胸甲騎兵旅団
同じく第4師団後方で待機。コンセイル師団と共に第1軍騎兵師団長のデュエスム将軍が統括指揮を執りました。
○予備 ボヌマン予備騎兵第2師団・セプテイユ軽騎兵旅団
グロセ・ワル森のエバー川水源地付近(フロシュヴァイラー南西2キロ)で待機。
○ナンスティ騎兵旅団
連隊~中隊規模で各師団に分派されていました。
こうしてマクマオンはこの恐るべき防衛地帯に、およそ4万5千の戦闘員を集中させ、更に人員を増やすべく努めていました。
もしも攻勢側の独第三軍がこの状況を知っていた場合(会戦前にはソエ川西高地に敵大軍がいる程度しか分からなかったのですが)、東正面からの正攻法は犠牲が大きく、南からの攻撃も大変な困難を伴い、攻めるとしたら多少行軍が困難なことを無視して北の山地から、となったはずです。
一旦南東に引いてアグノーを大きく迂回し、西からレッシュショフェンを襲って敵の第二陣から片付ける、というナポレオン1世の好みそうな奇手もありますが、アグノー方面からアルザス南部にかけての敵兵力(仏第7軍団)の実力が読み切れない以上、(19世紀初期ならまだしも鉄道のあるこの時代では)背後から襲われる可能性を捨て切れず、この手は危険過ぎました。
また、北からの攻めが優位と言っても、これも仏第5軍団がビッチュにいる以上これを無視して後ろを空けることも不可能で、また北を担当するB第2軍団を(B第1軍団や後方のヴェルダー軍団、第6軍団などで)補強するとしてもそれにはまだ数日掛かり、しかもこの場合は仏第5軍団は独第二軍に相手してもらわねばならず、これではマインツ大本営の戦略とは一致しません。
結局フリードリヒ皇太子の第三軍は準備が整わないまま正攻法で東、そして南から戦う羽目になってしまうのです。




