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ヴルトの戦い/仏ライン軍の分割

  次に、このヴァイセンブルクの戦い前後から「ヴルトの戦い」直前(8月2日から6日朝)までの仏軍第1軍団とその指揮官マクマオン大将の動きを追ってみましょう……と、その前に。


 この後のフランスの動きをある程度誘発したと思われる、あるエピソードを記して置きます。

 それはあのゾイベルト大佐の「遊撃隊」の動きでした(注・「開戦直前のドイツ軍(三)」を参照)。


 ヴュルテンブルク王国軍のフォン・ゾイベルト大佐(同国軍第6歩兵連隊長で、同連隊は当時国内警戒任務に就いていました)は、同国陸軍大臣のスコウ将軍から「臨時編成の支隊を編成し、王国を鉄道で縦断し南進するよう」求められ、自身の歩兵連隊に後備部隊を付属させ国の東端から南端まで行き、バーデン大公国領に入りました。

 8月1日、大佐はバーデン南部の中心都市、フライブルクの南東シュヴァルツヴァルトの山中で南北に長く部隊を展開させていました。

 既に宣戦布告から半月が経ち、間もなく実際の戦闘がザール=プファルツとアルザス=ロレーヌ国境付近で始まるはずです。主力がザール=プファルツにあることを知っていた大佐は、ライン対岸アルザス南部の敵をプファルツ国境に北上させぬよう、ライン上流に引き付け拘置させようと画策し、翌2日、部下を一斉にライン川方面へ前進させます。その中心となった歩兵1個中隊と若干の騎兵をフライブルクへ前進させ、更に敵が神経質になるであろうブライザッハ~ノイェンブルク(・アム・ライン)間のライン河畔に斥候を出没させたのです。


 ゾイベルト大佐自身はある謀略を思い付くとバーデン軍に準備を頼み、2個中隊の歩兵を率いるとスイス国境のヴァルツフートまで行軍します。ここでスイスとの国境を成すライン川沿いに走るバーデン国営鉄道に乗車して西へ向かい、スイス国境の末端駅ラインフェルデンで下車、薄暮の時間帯にフランス、バーデン、スイス三ヶ国の国境が集まるスイスのバーゼルに対面する国境の要衝レラハの街に入りました。


 大佐はこの辺境の地で、盛大な欺瞞作戦を展開しようと企んだのです。


 大佐の支隊は予めバーデン軍を通じて手配し、地元住民や農民たちによって設営された野営地に入ると、大佐は部下に対し、直ちに太鼓を打ち鳴らし、松明を掲げて野営地を何度も往復行進するよう命じます。

 また住民に手伝って貰いながら多数の焚き火を用意して、如何にも大軍が到着し野営をしている風を装うのでした。


 仏第7軍団の前衛となっていた仏驃騎兵第4連隊は対岸のサン=ルイのライン河岸ユナングに到着しライン河畔に姿を表しますが、ゾイベルトの騒ぎに影響されたのか、直ぐに後方へ引き上げてしまいました。

 また8月5日、ブライザッハ対岸で敵の防御工事が始まったと聞いた大佐はこれを妨害しようと画策し、歩兵2個中隊と砲兵1個中隊に命じてブライザッハに急行させますが、6日になって仏第7軍団がミュルーズ(アルザス南部)に集合しライン渡河を企てているらしい、との情報が入り、部隊は至急集合しライン河岸ミュルーズに対面するバーデンの町、シュリーンゲンに集合するよう命令が下されます。

 大佐たちは慌てて7日にシュリーゲンに集合すると、ライン川からの渡河攻撃に対しいつでも受けて立てるよう準備をしますが、緊張してライン対岸を見つめる大佐の前に敵は現れず、やきもきしていると前6日に発生した「ヴルトの戦い」の情報が入り始めました。

 どうやら敵マクマオンの軍団は、ヴルトの敗戦でアルザスからロレーヌ南部へと去って行ったとの情報から、大佐はこのままラインを渡河して越境し、ストラスブールまで行軍してアルザスの主邑を占領しようと考えましたが、この7日夕刻、部隊をまとめてマックスアウ橋(カールスルーエの西に架かる重要な木橋)へ向かい守備隊となるよう命令が届くのです。

 結局、ゾイベルト「遊撃隊」はマックスアウで数日過ごした後、本国への帰還命令が出て大佐の小さな遠征は終わり、ヴュルテンブルク王国へ凱旋したのでした。

 しかしこの「小さな部隊の小さな遠征」がこの後の大局に影響したのではないかと思われるのです。


 フランス皇帝ナポレオン3世は、仏「ライン軍」が敵「南北ドイツ連合」に対し圧倒的な不利にある状況など、誰に言われなくとも痛いほど良く分かっていました。


 2日にザールブリュッケンにおいて旅団クラスの敵を撃破して敗走させたとはいえ、結局敵の本隊の位置やその意図は不明であり、敵だけでなく恐ろしい仏国民の「世論」を背負った皇帝は、攻守どちらの方針でこの戦争を戦うのか未だに決めかねているという、信じられない状態に追い込まれていたのです。

 ですからその命令は朝令暮改で一貫せず、「強行偵察」の名目でザールブリュッケンに攻め込んでは見たものの、その「敵の領土に踏み込んで守備隊を追い払った」という事実のみで満足してしまい、その後の進軍行動を起こすのを躊躇ったのです。


 ザールブリュケンの戦勝に仏大本営が沸いていた8月2日の夜、アルザス南方から皇帝に冷水を浴びせるような報告が届きました。


「敵の大軍、アルザス南部ライン対岸のレラハに現れる」


 この至急報に対し皇帝ナポレオン3世は、遂に「全軍一致してアルザスからラインを渡河しバーデンに侵攻する」つまり攻勢に出るとの基本案を放棄する決断をするのです。

 皇帝はル・ブーフとしばし鳩首会合すると、フェリクス・シャルル・ドゥエー中将(あのガイスベルク城の前で戦死したアベル・ドゥエー将軍の実兄です)の第7軍団をマクマオン大将の指揮下に加え、マクマオンに対しアルザス全体を「防衛せよ」と命じたのでした。


 更に2日後の4日夕刻になると「ヴァイセンブルクの戦い」第一報が皇帝の手元に届き、これで確実に守勢に回ったと感じた皇帝とル・ブーフは、ファイー中将の第5軍団全部隊を速やかにビッチュへ集合させてマクマオンの指揮下で行動するよう命じた後、遂に「ライン軍」を解体し三つの「軍」に分割する命令を下したのです。


 その概要は、

 第1、第5、第7軍団で「マクマオン軍」と成し、

 第3、第2、第4軍団で「バゼーヌ軍」とする。

 近衛軍団と軍の予備部隊は皇帝直轄とし、

 第6軍団はナンシーへ行軍し独立軍団として行動。

 以上と決定され、直ちに実行せよと各軍団に通知されたのでした。


 しかし、これは正に「付焼刃」の拙い決定でした。


 皇帝とル・ブーフにして見ればこれは「一時的な」命令系統の委譲で、離れた戦区で作戦を同時進行で行うための方策に過ぎません。しかし、新設の軍に上級司令部組織を作らず、またマクマオンとバゼーヌはそれぞれ第1、第3軍団の司令官を降りなかったため「軍団」の指揮を兼務することとなり、後方業務を担当する高級幕僚や作戦参謀もいないのでは3個軍団の統合指揮を行うことなど不可能に近く、また、皇帝の大本営からル・ブーフを通じて直接命令が各軍団に出ることに変わりはなく、上級司令部を置いた意味は全くなかったと言ってもよかったのです。

 逆に指揮命令系統が複数となって複雑となり、要らぬ混乱を招くだけだったと言えるでしょう。


 それでも命令通り第5軍団のファイー中将は5日朝サルグミーヌの街を「バゼーヌ軍」に引き受けてもらい、ゴゼ師団とディドレン師団を率いてギョット・ドゥ・ルパート師団の待つビッチュに向かい出発しました。

 マクマオン大将は4日早朝、いよいよアルザスに侵入したドイツ軍に対抗するため8月1日から行っていた準備を急がせ、「ヴァイセンブルクの戦い」が終了した直後の4日夕までに、ソエ川西のフロシュヴァイラー付近に強力な陣地を設営し、ここに第1軍団を進め、ポヌマン予備騎兵第2師団も呼び寄せました。

 また第7軍団のコンセイル・ドゥメスニル師団の歩兵を鉄道でミュールズからアグノーへ送るよう命じ、5日早朝、部隊はアグノーに到着するのです。追って砲兵部隊もコルマール、ミュールズ方面から北上し5日午後に到着、師団はそのままアグノーを発ち6日早朝にフロシュヴァイラー陣地に到着したのでした。


 マクマオンはヴァイセンブルクの戦いが発生するまで、もし敵の第三軍がアグノーやストラスブールを狙って南下したならば、フロシュヴァイラー陣地からタイミングを測って出撃し、敵右翼(西)側面を集中攻撃して撃破しようと考えていました。しかし、ヴァイセンブルクの戦いの結果からその考えを棄て、防御に適したソエ川流域のヴルト部落の西側で、単純な防衛戦闘を行おうと計画を変更したのでした。

 5日朝にはソエ川の東、グンステット周辺に布陣していたラルティーグ師団を後退させて西岸に移し、これでソエ川西岸の高地に、北からデュクロ師団、ラウール師団、ラルティーグ師団と一線に並べ、その後方に第二線としてその他騎兵や砲兵などを待機させたのでした。

 8月5日の午後にはソエ川の東岸にドイツ軍の前衛が集まり出し、マクマオンはソエ川に架かる橋を片端から破壊させて、「非常に強大なる敵及び侮れぬ砲兵とこれから対戦する準備を為せ」と檄を飛ばします。

 同時にメッスの皇帝に宛て、「我が軍は集合し、敵の側面に対し良好なる陣地を占有しております」と報告するのでした。


 しかし、そのマクマオンも翌日の6日に戦う羽目になるとは思ってもいなかった様子です。プロシアの皇太子と同じく、マクマオンも敵が前の戦いから行軍を続けそのまま中1日で攻撃を仕掛けて来るとは思いませんでした。

 その証拠にマクマオンは5日ファイー第5軍団長に対し、速やかに集合して「何日にどのルートを辿って」こちらに合同出来るかと電信にて尋ねています。翌6日に戦う気なら「万難を排し明日夜明けまでにこちらに集合せよ」風な命令となるはずです。


 ファイーは6日朝には2個師団をビッチュ周辺に集合させる目処が立ちましたが、ザールとプファルツの境を西進する敵(普第二軍)が既にツヴァイブイリュッケンやピルマゼンス近郊まで迫っており、ヴォージュ山脈の交通路が交差するビッチュを「がら空き」にするのは危険過ぎると考えていました。そこで5日夜マクマオンに、「ビッチュにあるはギョット・ドゥ・ルパート師団のみ。同師団は第1軍団と合同するため6日朝出立せんものと考える」と回答しました。その他の師団はビッチュに集合次第続行させる、とも約束したのです。


 マクマオン大将はファイーの回答をあっさり受け入れます。その裏には、ファイーの3個師団を第1軍団の4個師団(ドゥエー師団はペレ准将が少将となりペレ師団となりました)と第7軍団からの1個師団に加えることで8万近くの兵員を確保し、攻勢に転じようと考えていた節があります。

 6日早朝、マクマオンは副官をビッチュに向けて派遣し、ファイーに対し明日8月7日に索敵行動を開始するよう命令書を託していました。それによれば、ファイーはビッチュから1個師団を出立させ、レンバッハを経て敵の「裏」から側面を突くように、とのことでした。また、残りの師団も速やかに集合し追って行軍を始めるよう命令しています。

 

 既に記した通り、普第三軍も8月7日以降に会戦を、と考えており、マクマオンも全く同じ7日以降に戦いが発生するはずだと考えていました。この準備に6日という一日が使われるはずだったのです。


 しかし、独仏両軍は前衛がほとんど接するばかりの距離(2キロ程度)で対峙し、会戦準備の行軍や偵察行動でお互いの部隊同士が接触して遭遇戦を始めてしまい、それが複数重なったことで両軍とも上層部の思惑は脆くも崩れてしまい、両軍共に本営の意図に反して1日以上早く戦端を開くこととなったのです。



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