ヴァイセンブルクの戦い/ガイスベルク陥落
午前11時30分過ぎから始まったガイスベルク城(高地)攻略戦は、午後12時を廻って俄然激しいものとなって行きます。
北面アルタンスタットから攻め上がる普第5軍団は、停車場付近から第47連隊の第10中隊を先頭にして徐々に急斜面を上がって来ました。
この先鋒中隊は斜面でシャスポー銃を乱射していた仏前哨兵を蹴散らすと、後続を待つためにそこで周囲を警戒しながら一旦停止します。しかし不運なことにこの序盤の小戦闘において、前衛を直接指揮していた第47連隊フュージリア大隊長ヴィンターフェルト少佐は戦死してしまいました。
ガイスベルクの戦闘
この北面攻撃隊の中心となったのは、歩兵第7擲弾兵連隊(国王を名誉連隊長に仰ぐ伝統のグレナディーア部隊です)で、ほぼ大隊毎に分かれ、待っていた47連隊10中隊の右翼(西)をフュージリア大隊が、左翼(東)を第2大隊が、それぞれ追い抜いてホップ畑の広がる斜面を城目指して登って行きました。また、第1大隊は三本のポプラが並んでいるだけで他は何もない草原となっているガイスベルク西側の丘(ドライ・パッペルン/三本白楊樹高地と呼ばれました)を目標に進んで行きました。
しかし、普兵部隊が登る斜面が次第に緩やかになるに連れ、見通しのよいガイスベルク城とその周辺の家屋の屋根裏部屋に潜んでいた仏兵は普第7連隊の主力2個大隊に向けて一斉に射撃を始めたのです。
辺りはホップ(10m程度に高く延びますが木ではなく蔓草です)ばかりで樹木はまばら、まるで身を隠せるところはなく、普兵たちは地面に伏せて銃弾をやり過ごすしか手がありません。銃撃が他に向いた隙に、僅かな窪地や畝などの頼りない地勢の陰に身を寄せ、長くてかさばるドライゼ銃で反撃しますが、相手はしっかりした家屋や城壁の中から狙って来るのに対し、こちらは泥まみれになりながら水の溜まった窪地などに伏せ大体敵の方向を狙って撃ち、それも仏のシャスポー、普のドライゼという絶対的に不利な条件です。第7連隊に続いて高地に上がって来た猟兵中隊も戦闘に参加しますが、そのくらいでは情勢に変化はありませんでした。
この状況で膠着状態はまずい、と考えた第7連隊のフュージリア大隊長カイゼンベルク少佐は、自隊の2個中隊を率いて突撃を敢行します。それを見た同僚1個中隊も独断で続き、およそ500名の兵士が叫び声を上げながら決死の突進を敢行するのでした。
少佐は先頭に立ってサーベルを振り上げ、兵士たちは出来る限り敵に近付くため勇敢にも射撃を行わず突進します。しかし、仏兵は慌てることなくシャスポー銃の性能に頼り、その速射性と弾丸の正確な直進性により迫る敵を次々に撃ち抜き倒して行くのでした。
結果は悲惨でした。
カイゼンベルク少佐は先に撃ち倒された旗手が差し出す大隊旗を受け取り、軍旗を倒すまいと握り締めながら銃弾を浴びて瀕死の重傷を負ってしまいます。突撃した2人の中隊長も戦死し、大隊の士官はほぼ全員が負傷か戦死してしまい攻撃は頓挫、かろうじて生き残った兵士たちは死者を盾にして必死に安全地帯へ後退する有様でした。
カイゼンベルク少佐の戦死
これを見た同連隊第2大隊長のシャウマン少佐は、性急な突撃を止め2個中隊でガイスベルクの城を包囲する形に展開しようとしますが、見通しのよい場所ではその行動は筒抜けであり、これもシャスポー銃の狙撃を浴びて多数の死傷者を出し、中止となりました。
しかし、運良く第8中隊の一部が城の南面へ回り込むことに成功し、折から南面を攻撃中の第11軍団第87連隊第9中隊の前衛兵とともに隙を突いて城の外庭に突入、これを占拠することに成功したのです。
ようやく城に取り付いた普軍でしたが、本当の戦いはここからでした。
外庭に入ったとはいえ、城の壁は高く梯子なしでは乗り越えられる訳もありません。また城の正門は堅牢で、かなりの量の爆薬で爆破するか、近距離からの砲撃以外では破ることなど考えられない代物でした。
その塔や回廊からは激しい銃撃が直下に向けて放たれ、せっかく城に取り付いたとは言え、兵士たちはその壁に身を寄せ狭い死角に入るやじっと耐えるしかなく、勇気を得て退却しようにも、その瞬間に撃たれるのは確実であり、退くことも出来なくなったのです。
それでも城壁に張り付いた100人程度の兵士たちは出来るだけのことをしようと、狭間からドライゼ銃を差し込んで城の中を撃ったり、火薬包を銃眼の下に積み上げて爆破したりと妨害工作を続けるのでした。
城が見える場所まで高地を登って来たキルヒバッハ中将は、この状況を打開しようと歩兵の数個小隊に命じて城の西側にある小丘を占拠させ、ほぼ塔の窓と同等の高さから城内の兵士を狙撃させますが、その程度では数人を倒すのが精一杯でした。
こうなってしまうと戦いは正しく攻城戦となり、それには大砲の力が必要です。
キルヒバッハは既にアルタンスタットから行軍を始めていた軽砲第2中隊の前進展開を急かしますが、雨後の泥濘はただでさえ砲兵の移動を困難にしているのに加えて、この急斜面の狭い山道です、大変な辛酸難苦が砲兵にのし掛かったのでした。
砲や弾薬前車を引く馬は道の泥沼に足を取られ、一歩、また一歩が亀の歩みのようで、油断すれば砲車や曳馬自体が泥濘にはまり込んでしまい、二進も三進も行かなくなってしまいます。また際限のない過酷な労働は急速に体力を奪い、馬も人もすぐに疲れ果て、動きが鈍くなって行くのでした。
馬を取り替え人を替え、砲車の列は山道を一心不乱に城目指して進みますが、道が緩やかになれば敵の射撃も増してくると言うもの、泥の悪夢の後はシャスポーの悪夢が待っていました。それでも怯まない普軍の固い規律は幾多の犠牲を出しつつ、ついに砲兵たちをして城を直射出来る位置に砲列を敷かせるのでした。
しかし、最初に戦場に着いたのはたった3門の4ポンド軽砲でした。すぐさま城を狙って砲撃を開始しますが、残念ながら4ポンド砲は対歩兵用の軽砲で、攻城砲ではないので砲弾は榴弾か榴散弾で、せいぜい壁を削ぐか隠れた敵兵に破片や散弾を浴びせるだけでした。それでも敵の頭を下げさせて銃撃を行わせない効果は十分にあります。遅れて残り3門もやって来て、砲兵中隊6門はようやくまとまって城への本格砲撃を開始したのでした。
しかし、砲撃が開始されたとなれば城壁にしがみついていた兵士や、南面で前庭を占拠し城の建物で立ち往生していた部隊も友軍の砲弾で怪我をしたくなければ撤退せねばなりません。彼らはせっかく取り付いた城壁から砲撃に気を取られる仏兵の隙を突き、多少の犠牲を出しながらも城を離れたのでした。
1個中隊の砲兵により始まった城への砲撃は、やがて高地へ続行した砲兵たちによって数を増して行きます。
軽砲第1中隊も第2中隊同様の苦労を重ねて山を登ると、城まで500m強の近距離に砲列を敷き砲撃を開始します。
そのすぐ後には軍団砲兵司令ケーラー中佐の指揮で重砲第3中隊が到着します。彼らは4ポンド軽砲部隊とは違い、重い6ポンド砲を考慮して高地の東側へ廻り、比較的勾配の緩い第11軍団の進撃路を譲ってもらって東からの山道を辿り登って来たのです。この重砲6門は軽砲第1中隊に並んで砲列を敷くのでした。
ところが重砲の到着で、いよいよ城攻めがクライマックスというこの時、一大事が発生するのです。
午後1時頃。高台の北面、ホップ畑の縁で騎乗し全軍の指揮を執っていたキルヒバッハ中将が、城から飛来したシャスポー銃弾により頚部を撃たれ倒れたのです。
重傷の軍団長は、直ちにアルテンシュタットに設営されていた軍団の包帯所へかつぎ込まれ、危うく一命を取り留めるのでした。
傍らにいた軍団参謀長フォン・デア・エシュ大佐はすかさず軍団の指揮を代わり、大佐は予め定められた序列に従って第5軍団の指揮を引き継ぐべく、アルテンシュタットから第10師団長フォン・シュミット中将が駆け付けるまで滞りなく指揮を執るのでした。
ヴァイセンブルクのキルヒバッハ将軍
この騒ぎの間に軍団右翼(西)では、「三本ポプラ」の丘を奪取すべく進んだ普第7連隊の第1大隊は、右翼隊の第59連隊フュージリア大隊と並んで丘の仏軍へ攻撃を開始しました。ここにいた仏兵は前哨程度であり、普軍側には後方からレックス支隊の応援が駆け付けたことで僅かな抵抗後、南西側へ逃走したのでした。
三本ポプラの下に集合した部隊は、直ちに後方へ伝令を走らせ、東側500mほどの城が丸見えとなっている丘に砲兵第2大隊を呼ぶのでした。
これでほぼ勝敗は決します。午後1時30分過ぎ、東西北の三方を囲まれ砲兵に狙われたガイスベルク部落では、城以外の家屋や塹壕で戦っていた仏軍兵士らが堪らずに降伏し、またはまだ脱出出来る南西側シャフブッシュ部落の方向へ逃走を始めたのでした。
一方、東と南から攻める第11軍団に目を転じると、仏軍モンマリー准将が手配していた南東方面に延びる散兵線を構築していたおよそ2個大隊の歩兵は、普第41旅団の東と南東からの進撃を見るや戦い僅かで退却を始め、高地の南西側にあるシャフブッシュの部落まで後退しました。
南側の左翼部隊はリートゼルツの北で一部がゼルツバッハ(現ハウザウアーバッハ。バッハとは独語で「川」の意)川を渡河すると、仏軍の哨兵を蹴散らしてリートゼルツ北西の高台を占領し、敵の増援がガイスベルクへ北上するのを牽制しました。残りの部隊は高地の縁を西へ走る街道をシャフブッシュの部落を目指し進んで行きます。
第41旅団の砲兵もこの左翼隊に続行し、敵の抵抗があればその都度臨機に砲列を敷いて歩兵を援護しました。更に11軍団砲兵隊所属の騎砲兵大隊も駆け付けて以降退却する敵に砲撃を加えるのでした。
今やガイスベルクの城に籠る守備隊も風前の灯となりました。
午後2時。城の周りから友軍の消えた城の守備隊は、その少し前から呼び掛けていた普軍の降伏勧告に応え、武器を棄て城門を開き油断なくドライゼ銃を構える普軍兵士の前に列を正して出て来ました。捕虜となったその数は士官数名に下士官兵200人と伝えられています。
ガイスベルク城館の開城
城の周囲やリートゼルツ方面から急ぎ退却した部隊はガイスベルクの南を西へ、シャフブッシュ方向へ進みますが、騎兵を含むほとんどの兵士はここを通り過ぎ、北西側の森林を通ってクリンバッハからレンバッハへ続く街道(現ヴィソンブール=ビッチュ道)へ逃がれ、一気にレンバッハまで潰走するのです。
この退却を援護するため多少の後衛がシャフブッシュの何軒かの農家に残り、前進する普第41旅団兵士と銃撃戦を演じますが、「三本ポプラ」の丘から降りて来た第5軍団の右翼部隊や、ガイスベルクから進んで来た第7連隊の本隊などが加わると、包囲される前に後退して行ったのでした。
午後2時過ぎ。ドイツ第三軍司令官のフリードリヒ・普皇太子がシャフブッシュに到着し、集まっていた第11軍団や第5軍団の部隊を前に「フランスの領土における最初の戦勝を祝する」と述べると兵士たちは一斉に歓呼を上げ、万歳を唱えたのです。
この頃には既に第5軍団の第19旅団と第11軍団の第42旅団はガイスベルク城の周囲に達し、皇太子はB軍第2軍団もガイスベルクと「三本ポプラ」の周辺まで前進せよ、と命じます。
第三軍本営は2時30分に歩兵による敗走する敵の追撃を中止させ、部隊と戦場の整理を命じ、そのままヴァイセンブルク、アルタンスタット、ガイスブルクの周辺で野営することとなりました。
皇太子は同時に騎兵第4師団に対し、逃走する敵を追撃するよう命じますが、泥濘の街道を進んでいたこの騎兵師団は第5、第11の両軍団の進撃にも邪魔されて未だロタ川にも達せず、この任に就くのはとても無理でした。従ってこの命令も後刻取り消されます。
夕刻、第9師団所属の竜騎兵第4連隊長フォン・シェンク中佐からの斥候報告によると、リートゼルツ南西7キロのソウルツ(=ス=フォレ)に敵が集中するのを確認し、敵は市街地周辺高地に展開しているが、リートゼルツからソウレツまでの街道には退却する敵の姿はない、とのことでした。これでドゥエー師団の敗残兵は全て西のヴォージュ山脈方面へ逃走したことが確認されたのです。
B軍の第1軍団はこの日ビエン=ヴァルトの北辺、ミンフェルト(ヴィンデン南東)周辺まで前進し、ここで野営となりました。
また、ランダウまで前進して来た第6軍団の前衛、第24旅団からは2個大隊が支隊として分離され、アインヴァイラー(=アム・トリーフェルス)に残留していた第5軍団第9師団の第58連隊第2大隊と交代し、この大隊はヴァイセンブルク停車場とガイスベルクで奮戦した親部隊に合流すべく国境へ向かう用意をするのでした。
フリードリヒ皇太子ら第三軍の首脳陣がシャフブッシュ部落に入った時、部落のある農場主の屋敷で仏軍が運べずに置いて行ったアベル・ドゥエー将軍の遺体を発見しました。皇太子は横たわるドゥエー将軍の前で冥福を祈ると、しばらく沈痛な表情で黙考していた、と伝えられます。この厳粛な場面は後に王家の御用画家アントン・フォン・ウェルナーがものにしています。
皇太子の黙祷(アベル・ドゥエー将軍の死)
マインツ大本営のヴィルヘルム国王は皇太子軍の戦勝を聞くと大喜びし、息子の勝利を伝えるため、普段は仲の悪いベルリンのアウグスタ妃に宛て電信を送りました。
「8月4日両軍の死闘あり。フランス、ヴァイセンブルクの陣地を我軍攻撃し、第5、第11、バイエルン第1及び第2の各軍団は奮戦、敵の築いた城塞に迫る。フランスの主将ドゥエー戦死し、我将フォン・キルヒバッハもまた傷付く。まこと天佑によりこれに勝利を得たり。歓喜に堪えん」
この「ヴァイセンブルクの戦い」でのフランス軍(ドゥエー師団・戦闘参加は8千人程度)の死傷者・捕虜数は明確になっていません。戦後、大統領にまでなったマクマオン将軍の回想では戦死傷者の合計が1,500名とし、多くの史料は「戦死・負傷1,300名、捕虜900名前後」としています。プロシア参謀本部戦史課は「アベル・ドゥエー将軍の遺体と捕虜約1,000名、砲1門、本営用の幕営全部、1個糧食縦列を手に入れた」としています。
これに対し勝利者であるドイツ側の死傷者は大きく、損害(戦死・負傷)は中将1名を含む士官91名、下士官兵1,460名と発表されています。この内、バイエルン軍(第4師団・戦闘参加はおよそ5千人)は士官16名、下士官兵347名で、残りのプロシア軍将兵(戦闘参加は大体1.5万人)で一番損害の大きかった部隊はガイスベルク城に突進した歩兵第7(擲弾兵)連隊の士官23名、下士官兵329名でした。
これらの死傷者の多くは、ドイツ側がシャスポー銃による銃撃によるものでフランス側がクルップ鋼鉄後装砲によるものだ、という説は、この後に続く独仏の死闘を暗示するものとして興味深いものがあります。
ドイツ連合軍とフランス軍。お互いがこの「ヴァイセンブルクの戦い」をどう受け止め、どう反省し、どう修正して、どう行動したのか。それが普仏戦争の今後に大きな影響を与えたのでした。
「ヴァイセンブルクの戦い」で戦闘に参加した部隊
☆フランス軍
第1軍団(パトリス・モーリス・ドゥ・マクマオン大将)
○第2師団(シャルル・アベル・ドゥエー少将)
・第1旅団(ベルチエ・ドゥ・モンマリー准将)
歩兵第50連隊(2個大隊)※
歩兵第74連隊(3個大隊)
・第2旅団(ペレ准将)
アルジェリア散兵第1連隊(3個大隊)
・第2師団砲兵隊(コーベ中佐)
砲兵第9連隊・第9,第12中隊(ライット4ポンド砲12門)
砲兵第9連隊・第10中隊(ミトライユーズ砲6門)
・工兵第1連隊の1個中隊
○第1軍団騎兵師団(デュエスム少将)
・第1旅団(ドゥ・セプテイユ准将)
驃騎兵第3連隊(4個中隊)
猟騎兵第11連隊(4個中隊)
※第2師団第2旅団の歩兵78連隊はクリンバッハへ派遣(うち2個大隊がヴァイセンブルクへ引き返すも戦闘には部分関与のみ)
※第2師団第1旅団の歩兵50連隊1個大隊と猟兵第16大隊はソウルツ(独名・ズルツ)に派遣中
※ひょっとするとクリンバッハ在の第1師団所属歩兵第96連隊の一部が市街地戦に参加していた可能性があります(市街地周辺の捕虜の中に所属を「96連隊」と答えた者がいたと伝えられています)
☆ドイツ軍
第三軍(皇太子フリードリヒ・フォン・プロイセン騎兵大将)
バイエルン軍第2軍団(男爵ヤコブ・フォン・ハルトマン歩兵大将)
○第4師団(伯爵フォン・ボートマー中将)
・前衛(歩兵第5連隊長ミュールバウル大佐)
軽騎兵第2連隊第3,4中隊
猟兵第10大隊
歩兵第5連隊第3大隊
砲兵第4連隊第6中隊(6ポンド重砲x6)
・前衛右翼(男爵フォン・エプネル少佐)
歩兵第9連隊第3大隊
・本隊(歩兵第8旅団/フォン・マイリンガー少将)
歩兵第7連隊第1大隊
歩兵第11連隊第3大隊
歩兵第14連隊第3大隊
砲兵第4連隊第2中隊(4ポンド軽砲x6)
・師団砲兵大隊(男爵フォン・クライルスハイム中佐)
砲兵第4連隊第1中隊(4ポンド軽砲x6)
砲兵第4連隊第5中隊(6ポンド重砲x6)
・後衛(歩兵第7旅団/フォン・ティールエック少将)
歩兵第5連隊第1,2大隊
猟兵第6大隊
軽騎兵第2連隊第1,2中隊
・右翼山岳警戒隊
歩兵第9連隊第1,2大隊
猟兵第5大隊
※歩兵第8旅団に属する歩兵第1連隊第3大隊は編成直後のため第3師団と共に行動中
北ドイツ第5軍団(フーゴー・フォン・キルヒバッハ中将)
○歩兵第9師団(フォン・ザントラルト少将)
・『レックス』支隊(歩兵第58連隊長フォン・レックス大佐)
竜騎兵第4連隊第1,2中隊
猟兵第5大隊第1,4中隊
歩兵第58連隊第1,3(フュージリア)大隊※
野戦砲兵第5連隊第1大隊軽砲第1中隊(4ポンド砲x6)
第5軍団野戦工兵第2中隊の一部
・『ボートマー』支隊(歩兵第17旅団長フォン・ボートマー大佐/師団長同行)
竜騎兵第4連隊第3,4中隊
猟兵第5大隊第2,3中隊
歩兵第59連隊第1,3(フュージリア)大隊※
野戦砲兵第5連隊第1大隊軽砲第2中隊(4ポンド砲x6)
第5軍団野戦工兵第2中隊本隊
・歩兵第18旅団(フォン・フォイツ=レッツ少将/第10師団長フォン・シュミット中将も同行)
歩兵第7「擲弾兵」連隊第1,2,3(フュージリア)大隊
歩兵第47連隊第1,2,3(フュージリア)大隊
・師団砲兵隊(キッピング少佐)
野戦砲兵第5連隊第1大隊重砲第1,2中隊(6ポンド砲x12)
※歩兵第58連隊第2大隊はアインヴァイラーに派遣中
※歩兵第59連隊第2大隊はロタ川渡河地点警備に残置され、戦闘末期に本隊復帰
カイゼンベルク大隊(第7連隊フュージリア大隊)の攻撃を描いた19世紀の絵葉書
○軍団砲兵隊(野戦砲兵第5連隊長ケーラー中佐)
野戦砲兵第5連隊騎砲兵大隊第2,3中隊(4ポンド騎砲x12)
野戦砲兵第5連隊砲兵第2大隊重砲第3,4中隊(6ポンド砲x12)
野戦砲兵第5連隊砲兵第2大隊軽砲第3,4中隊(4ポンド砲x12)
○歩兵第10師団(フォン・シュミット中将)※直接戦闘機会なし
・歩兵第19旅団(フォン・ヘニング・アウフ・シェーンホフ大佐)
歩兵2個連隊
・歩兵第20旅団(ヴァルター・フォン・モントバリー少将)
歩兵2個連隊
・他騎兵連隊1個、野戦砲兵大隊1個など
北ドイツ第11軍団(ユリウス・フォン・ボーズ中将)
○軍団前衛(歩兵第42旅団/フォン・ティーレ少将)
・旅団前衛(歩兵第82連隊長フォン・ボリス大佐)
歩兵第82連隊フュージリア(第3)大隊
驃騎兵第14連隊第4中隊
野戦砲兵第11連隊第1大隊軽砲第2中隊(4ポンド砲x6)
野戦砲兵第11連隊第1大隊重砲第1中隊(6ポンド砲x6)
・本隊(旅団長直卒)
歩兵第82連隊(2個大隊)
歩兵第88連隊(3個大隊)
驃騎兵第14連隊第2,3中隊
野戦工兵第1中隊一部
○歩兵第21師団(フォン・シャハトマイヤー中将)
歩兵第41旅団(フォン・コブリンスキー大佐)
・右翼支隊(歩兵第80連隊長フォン・コロンブ大佐)
歩兵第80連隊第1大隊
歩兵第87連隊フュージリア(第3)大隊
・左翼支隊(歩兵第87連隊長グローマン大佐)
歩兵第80連隊第2大隊
歩兵第87連隊第2大隊
・予備(旅団長直卒)
歩兵第80連隊フュージリア(第3)大隊
歩兵第87連隊第1大隊
驃騎兵第14連隊第1中隊
猟兵第11大隊
・師団砲兵隊(フォン・ランゲン少佐)※
野戦砲兵第11連隊第1大隊軽砲第1中隊(4ポンド砲x6)
野戦砲兵第11連隊第1大隊重砲第2中隊(6ポンド砲x6)
※アベル・ドゥエー少将を戦死させたのはこの第21師団砲兵隊と考えられています。
○歩兵第22師団(フォン・ゲルスドルフ中将)※直接戦闘機会なし
・歩兵第43旅団(フォン・コンツキー大佐)
歩兵2個連隊
・歩兵第44旅団(フォン・シュコップ少将)
歩兵2個連隊
・他騎兵連隊1個、野戦砲兵大隊1個など
○軍団砲兵隊(野戦砲兵第11連隊長ハンス・ヘルマン・フォン・オッペルン=ブロニコウスキー大佐)
※直接戦闘機会なし
※余談・もちろん最後の第11軍団砲兵隊指揮官の名前に反応した戦車オタの方は多いでしょう。大佐自身はこの戦いでは戦闘に参加していませんが、指揮下の部隊は敵師団長を戦死させるという立派な「殊勲」を上げた訳です。肝心の「例の方」のナニに当たるかは……言わぬが花、として置きましょう。
*Aドゥエー将軍の前で瞑想する皇太子(ウェルナー作品の反対方向を視点とする珍しい作品)




