第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争/1864年のデュッペル
☆ 普軍、デュッペル堡塁群に向かう(1864年2月8日から3月28日)
「1864年のデュッペル堡塁の戦い」は第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争中最も有名な戦いですが、本来、モルトケ率いる普参謀本部が出来る限り避けようとしていた戦闘であり、もし普墺連合軍がモルトケ描く対デンマーク作戦通りに行動し、デ・メザ将軍の思い切ったダネヴェルクからの後退が不可能となっていれば避けられたかも知れない戦いでした。
デンマーク王国が誇るデュッペル堡塁群は本来、独の北上侵攻に対してその右翼を攻撃するための攻勢発起点として計画され、側面攻撃を行うD軍の後方支援と収容陣地として機能する場所でした。近代までのD軍はユトランド半島に侵入した敵をダネヴェルク堡塁群とシュライ・フィヨルドで迎え撃ち、その後機会を得て後退、更に北上した敵の後方連絡線をこのアルス島に向かって延びるサンデヴィト半島の先端に当たるデュッペル前面で断ち切り、反転した敵を強力な堡塁群前で壊滅させるという作戦を描いて来ました。強力なD海軍による制海権確保と支援さえあればアルス島の主邑セナボー(独名はゾンダーブルク)を補給端末と後方支援基地として機能させることが可能となるため、攻める独側は長期に渡る攻略戦と犠牲とを覚悟する必要が生じたのでした。
デュッペル堡塁群のあるサンデヴィト半島先端部は、風車が目立つデュッペル製粉場(デュッペル・ミル。セナボー市対岸・半島先端部の西南西1.6キロ。再建され記念碑的建造物として現存します)付近を最高点(標高68m)に、南北に緩やかな斜面となったほぼ平坦な場所で、堡塁群は製粉場の南南西1キロに位置する海岸線に面した1号堡塁から製粉場方面へ順番に2号、3号と続き、4号はやや東側・セナボーへの街道南縁で製粉場の正面に置かれ、街道を越えた北西側・今はデュッペル堡塁記念博物館近辺に5号、その北に6号と続き、7号は6号の東側に位置してここからアルス・スンド海峡に向かって8、9号が並び、最後の10号は現在の高速道8号線と41号線が分岐するインターチェンジ付近にありました。
このように堡塁群はデュッペル部落の正面・ヴェミングンド湾(デュッペルの南側にある湾)から北東側アルス・スンド海峡までの間2キロ余りに渡って半円弧状に連なる堡塁10個で構成されていました。
シュレスヴィヒの扱いで独系住民や独連邦との間で敵対関係が際立って来た1861年から63年に掛け、D軍は工兵を投入してデュッペル堡塁群の再構築を行います。堡塁は殆どが土塁に囲まれた半月堡で、財政に乏しいデンマークの国情に合わせてコンクリートは一部にしか用いられませんでした。従って兵員の掩蔽部は殆ど深い塹壕と木製の囲いだけ、最終的に弾薬庫のみがベトンで設えられるのです。
堡塁の内7個(1、2、4、6、8、9、10号)は四方を隔壁で囲まれたもの、残り3個(3、5、7号)は小規模な肩墻状で咽頭部は木柵で塞がれました。また各堡塁には少なくとも1つの木製兵舎(肩墻堡塁には衛兵詰所)が置かれていました。D軍は堡塁前にあった全ての家屋を破壊して焼き払い、大地の起伏を均して視界を開き、堡塁間は深さ3.8m、幅6.3mの塹壕で連絡され、堡塁の土壁は高いところで6.3mありました。また、堡塁の後方には第二陣として塹壕線が掘られ、いくつかの砲台も作られました。
堡塁の跡は保存され現在でも空中写真で確認出来ますが、ドイツ領となっていた時代、3号や9号が拡張されたり5、6号を壊して新たな堡塁が作られたり10号が道路拡張で消えたりしており、当時を偲ばせるものは1、2、4、7、8号の跡地だけとなります。
1号堡塁跡(20世紀初頭)
デ・メザ将軍がダネヴェルクから軍を引き下げた後(2月7日)、この堡塁群にセナボー(とアルス島内)には約20,000名の兵員と500騎の騎兵、堡塁に設置した80門の各種要塞砲とその他1,100門の大砲が集合します。
ダネヴェルクの延長8キロ・27個の堡塁に比べ、デュッペルの延長2キロ・10個の堡塁は見劣りしましたが、武器と兵員の集中度を見ればどちらが難攻かは明らかでした。デ・メザ将軍も当初は独軍も北上してシュレスヴィヒ全域の占領を優先し、犠牲を覚悟してまで直ぐにセナボーを目指すことはしないだろうと考え、堡塁群強化の時間はあると信じていたのです。
しかし、この堡塁群の状況は普軍に筒抜けとなっていました。
フランツ・ハインリヒ・ユリウス・ギーズはシュレスヴィヒ生まれの地図専門家で、デンマーク王国の土木技師として働いていた1840年代にシュレスヴィヒ=ホルシュタインの道路建設に従事し、この両公国の地誌を誰よりも詳しく語れる人物となります。彼は第一次SH戦争でSH軍に参加、地図参謀として活躍すると戦後、SH軍が解散させられた後(1852年)に地図部門の参謀として普軍へ入隊(少佐)し、ヴランゲル将軍やボニン将軍など軍の重鎮の下で勤務しました。危機高まる63年には密かに現地へ渡り堡塁群を調査し、第二次SH戦争が勃発すると貴重な現地情報を携えてヴランゲル元帥の本営地図参謀となり、この戦いで大いに役立つこととなったのです。
フレンスブルクを陥落させたカール王子麾下の普軍前哨部隊は2月8日、デュッペル部落を臨む位置まで到達しました。その後、20日までの間に普軍は兵員20,000名、1,200騎の騎兵、各種砲88門をデュッペル堡塁群の前面に展開させます。
2月22日、D軍と普軍は初めて前哨同士が小競り合いを発生させ、その後の数週間に渡って両軍は前哨が時折銃撃を交わし、普軍は前哨監視拠点を移動しつつ強化を続け、D軍は堡塁前に塹壕と木柵を巡らせました(映画「1864」では何故か描かれていますが当時鉄条網は存在しません。最初の有棘鉄線の発明は翌1865年です)。
デンマーク軍を追って・2月9日デュッペル西郊ニボルに到達した普軍
独連合軍は3月15日、エドゥアルト・グスタフ・ルートヴィヒ・フォン・ラーヴェン少将率いる第10旅団(擲弾兵第8と歩兵第18連隊。第5師団所属)を本国より増派され、カール王子はラーヴェン少将に対し、「対壕掘削がある程度進捗成った後にデュッペル堡塁群へ突進するよう命じるので準備を怠るな」と訓令するのでした。
ラーヴェン
対壕はジグザグ状の塹壕交通路で、要塞など難攻な目標に対する包囲攻撃の常套である「正攻法」(銃砲撃を避けるための対壕を掘り進めて要塞に接近する工兵作戦)の根幹を成す作業ですが、普軍は3月上旬からデュッペル部落の南側、セナボーへの街道南縁(現在はレストランになっている元農家の西側)を始点に、ここから2.5キロ先の「堡塁群アーチ」に向けて並行する「南」「北」二本の対壕を同時に掘り進める土木工事を行っていました。堡塁群の南側が狙われたのは1から4号までの堡塁は比較的北側の堡塁に比べて小規模だったことと、後方連絡に近く支援がし易いことにあります。
カール王子はこの日(3月15日)から堡塁群とセナボーへの信号通信場兼監視所となっていたデュッペル製粉場などD軍拠点へ野砲による砲撃を開始するよう命じます。
この砲撃はほぼ毎日一定数の射撃で実施され、特に目立つ製粉所は毎日狙われました。射程ぎりぎり(堡塁群まで3から4キロ余り)からの野砲による砲撃は攻城作戦に使用される要塞重砲に比べて威力が劣りますが、繰り返される砲撃は敵の士気を挫き防衛線の強化作業を妨害するには十分でした。
野砲は対壕が進むに連れて前進し、即製の砲台が対壕脇に設えられ、狙いも次第に正確となり、D軍にとっては「嫌がらせ」以上に気を揉む状態になって行きました。
D軍も黙って見ていた訳でなく3月17日に普軍の前哨線に対し奇襲を掛けましたが撃退されてしまいました。この砲撃によりデュッペルとラゲボル(デュッペルの北1.5キロ)の部落が壊滅的打撃を受けています。
☆ デュッペル最初の攻撃「3月28日の襲撃」(1864年3月28日)
ラーヴェン旅団の攻撃は3月28日「イースターの月曜日」明け方に行われました。
この奇襲攻撃は午前3時に開始されますが、ラーヴェン少将はカール王子から作戦の目的を「堡塁南部の前面にあるD軍前哨線を制圧し1号から4号までの堡塁に接近した拠点を獲る」ことだと訓令されます。
攻撃主体は擲弾兵第8「親衛(Leib/ライヴ)/ブランデンブルク第1」と歩兵第18「フォン・グロルマン/ポーゼン第1」連隊で、普軍でも名門の部類に入る部隊でした。
3月28日の戦闘/普軍の戦場序列展開図
普軍将兵は暗闇の中、対壕の先端から鬨を上げて踊り出し、目前に迫っていたD軍前哨線に突撃を敢行します。しかし警戒していたD軍前哨も必死で戦い、夜が明け次第に明るくなると一部では反撃して普軍兵士を押し戻すのでした。朝靄が晴れると南側のヴェミングンド湾で警戒に当たっていたD海軍の新造装甲艦「ロルフ・クラケ」が砲撃を始め、この思わぬ砲撃(対地兵員殺傷用に積載していた「ぶどう弾」が多数使用されました)によって普軍右翼は大混乱に陥ってしまいます。海は完全にデンマークのものだったため、普軍そして墺軍もこの海域に艦船を派遣出来ていませんでした。この日早朝、「ロルフ・クラケ」は60ポンド砲38発を発射し、自身も陸上より数発の要塞砲弾を被弾しています。
このこともあって普軍の攻撃は午前10時頃に終了し、その一部はD軍の前哨拠点に居残りました。
犠牲は出たものの普軍は対壕掘削の邪魔となるD軍前哨を追い払い、翌日の夜、工兵たちは正攻法の拠点となる最初の平行壕掘削を始めるのでした。
デュッペル沖で援護射撃を行うロルフ・クラケ(1864.3.28)
1864年3月28日の戦闘(当時の絵新聞)
「3月28日の襲撃」はD軍側が「敵の攻撃を阻止したので勝利」とし、D軍に付いて野戦を取材していた英の従軍記者は「普軍の攻撃失敗はD軍兵士に勇気と希望を与えた」との記事をロンドンへ送付します。戦闘は正味6時間と長かった割に損害は少なく、両軍合わせても戦死傷者は200名弱、捕虜は双方数十人ずつ(普軍捕虜は士官1名・下士官兵26名)だったと伝わります。
普軍の堡塁群への突進を阻止したとして意気上がるD軍でしたが、その士気を挫く新たな事態は数日後に発生します。
カール王子はそれまでアルス島攻略の段階まで後置しようと考えていた要塞重砲を前線へ投入することを決意し、重砲は対壕を経由して攻撃の翌日29日に完成した最初の平行壕(「第1平行壕」と呼ばれます)へ運び込まれ、平行壕直後に設置された砲台に収まりました。野砲より威力と射程に優れた要塞砲の砲撃は4月2日に始まり、それまでは射程外だったセナボー市内にも砲弾が降り注ぐようになります。市街地はたちまち炎上し、多くの家屋が被災しました。
また、ヴェミングンド湾を隔てた対岸・ブローガー半島のギャンメルマルク(1号堡塁の南西2キロ。現在はキャンプ場とコテージ群になっています)付近にも4つの重砲砲台(1号から4号と命名されます)を設け、湾に進入するD海軍艦船や対岸のD軍拠点を砲撃しました。
それまで野砲によって嫌がらせの砲撃を受けていたデュッペル製粉場の被害も拡大し風車は倒壊、4月10日には遂に全焼してしまいます。
ブローガー半島の普軍要塞砲台
☆ デュッペル堡塁の戦い(1864年4月7日から4月18日)
デュッペル襲撃(ヴィルヘルム・カンプハウゼン画)
フォン・ラーヴェン少将率いる普第10旅団の攻撃後数週間で、普軍は前述通り3月29日に完成した最初の平行壕(第1平行壕)から更に先へ掘り進め、堡塁群へ向かう対壕はおよそ500m延び、その間に3本の平行壕が完成しました。
掘削は一部を除いて夜間に行われ、カール王子は対壕掘削にほぼ全ての工兵と予備の歩兵を投入しました。季節は春に向かって気温も高まり、雪は溶けて大地も泥濘となっており、普軍兵士は泥濘と化した粘土質の大地を相手に奮闘し、へとへとになるまで働きました。
その結果、4月7日夜から翌8日朝に掛けて新たな平行壕が完成、これは「中間平行壕」と名付けられました。普軍はこれに満足せず、時折D軍から妨害の砲撃を受けながら工事は進み、4月10日夜から11日朝に掛けて「第2平行壕」が完成します。この平行壕については工兵第3と第4大隊から士官3名・下士官兵106名、擲弾兵第2連隊から士官16名・下士官兵510名が選抜されて工事が行われたとの記録が残ります。
この日(11日)の朝は濃い霧が発生し、これは普軍の作業を助けましたが、これに乗じてD軍も午前5時過ぎ第2堡塁から2個中隊を出撃させ一時平行壕手前で激しい銃撃戦となりますが、D軍は霧が薄まると虚しく引き上げています。この日を含めここまで、双方前哨同士の小競り合いで各々数百名の戦死傷者を出していました。
この間、後方でも平行壕の拡張が進み、4月13日までには各平行壕の幅が6mまで広げられていました。
デュッペル堡塁群を観察するカール王子(クリスチャン・セル画)
砲兵たちも休まず砲撃を続けていました。
要塞砲の砲撃は4月7日、迫る総攻撃のための準備砲撃に移行して強化されます。
カール王子の本営はブローガー市街の教会(第1堡塁からは西へ5キロ)にあった2つの尖塔の間に「橋」を渡してここに砲撃観測所を設け、前線にある砲撃指揮所と電信で結んでデュッペル堡塁群砲撃の弾着を観測、砲撃修正を指示させました。
第2平行壕が完成した11日にはこの日だけで4,000発の砲弾を堡塁群に撃ち込みます。D軍は連日の砲撃により各堡塁と塹壕で多くの将兵が死傷し、対抗砲撃の砲煙で常に涙目となった兵士たちは補充兵もなく疲弊し尽していたため、士気は最低に落ち込んでいました。
これを受けてヴランゲル元帥の(実質カール王子の)本営はベルリンに「攻撃の準備は完了した」との報告を送り、総攻撃は4月12日に予定されますが後述する理由でベルリンの許可が下りず、14日に延期された後、再度延期して、漸くヴィルヘルム1世の「総攻撃を許可する」との訓令が下りたのは4月17日、総攻撃は翌4月18日に決まりました。
デュッペル堡塁前の普軍第3平行壕
国王からの攻撃許可を待っていた4月15日。痺れを切らしたのかカール王子は攻撃前夜に掘削しようと考えていた最後の平行壕「第3平行壕」の掘削を命じ、普軍工兵は同夜間から作業を開始、翌早朝までに完成しました。
この第3平行壕の最右翼端(海/南側)は第2堡塁の正面にありその距離約300m、同最左翼(デュッペル部落/北側)は第5堡塁の南220mまで迫っていました。
砲撃と前哨による「いやがらせ攻撃」は17日深夜まで続き、18日の早朝(午前0時から4時)、普軍砲兵は102門の各種重砲を操りD軍拠点に向け7,900発の榴弾、焼夷榴弾、空弾(炸裂火薬を詰めない従来の砲弾。堡塁・砲台など硬目標の破壊に使います)を発射し、塹壕や堡塁に待機していたD軍将兵多数が戦死傷してしまいました。
デュッペル~待機するデンマーク兵(イェルゲン・ソンネ画 1871)
※4月18日「デュッペル堡塁総攻撃」に参加した普軍歩兵部隊
◎普第6師団
アルベルト・グスタフ・フォン・マンシュタイン中将
□第11旅団
フィリップ・カール・フォン・カンスタイン中将
○フュージリア第35「プロシア親王ハインリヒ/ブランデンブルク」連隊
コンスタンチン・フォン・プットカマー大佐
○第60「ブランデンブルク第7」連隊
エルンスト・フォン・ハルトマン大佐
□第12旅団
ユリウス・フォン・ロエーダー少将
○第24「メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世/ブランデンブルク第4」連隊
エミール・フォン・ハーケ大佐
○第64「ブランデンブルク第8」連隊
フォン・ゲッツ大佐
◎第13師団
アドルフ・フォン・ヴィンツィンゲローデ中将
□第25旅団
フリードリヒ・フォン・シュミット少将
○第13「ヘルヴァルト・フォン・ビッテンフェルト/ヴェストファーレン第1」連隊
アウグスト・フォン・ヴィッツレーベン大佐
○第53「ヴェストファーレン第5」連隊
ハンス・ウード・フォン・トレスコウ大佐
□第26旅団
アウグスト・フォン・ゲーベン少将
○第55「ヴェストファーレン第6」連隊
アレクサンダー・ストルツ大佐
○第15「オランダ王太子/ヴェストファーレン第2」連隊
カール・ヨハン・フォン・アルヴェンスレーベン大佐
◎独立予備旅団(第10旅団)
エドゥアルト・フォン・ラーヴェン少将
○擲弾兵第8「親衛(Leib)/国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世/ブランデンブルク第1」連隊
エミール・フォン・ベルガー大佐
○第18「フォン・グロルマン/ポーゼン第1」連隊
カール・フォン・ケットラー大佐
砲撃により破壊されたデュッペル製粉場の風車
※4月18日「デュッペル堡塁の戦い」に参加したデンマーク軍歩兵部隊
◎D第2師団
ペーター・ヘンリク・クロード・デュ・プラット少将
□第1旅団
ゲオルク・ヘンリク・ラッソン大佐
○第22連隊
ファルケンスウォルド中佐/第1、2堡塁守備
○第2連隊
ヴィルヘルム・ドレイヤー中佐/第3~6堡塁守備
□第3旅団
ヨハン・アンドレアス・フィリップ・フェルディナンド・ヴォリスホーファー大佐
○第17連隊
アンドレアス・ベルンストルフ中佐/第7~9堡塁守備
○第16連隊
カール・ヴォラー少佐/第10堡塁~アルススンド海峡までの守備
◎D第1師団
ペーター・フレデリク・スタインマン中将
□第8旅団
パウル・ウルリヒ・シャルフェンバーグ大佐
○第9連隊
スペアリング少佐/後方予備
○第20連隊
ヘンリク・カステンスショルド少佐/後方予備
□第2旅団
ハインリヒ・アウグスト・テオドール・カウフマン大佐
○第3連隊
S.シャック少佐/アルス島前面橋頭堡にて予備待機
○第18連隊
連隊長空席/アルス島前面橋頭堡にて予備待機
*他に元来の要塞守備兵3個中隊、工兵中隊数個と架橋中隊。
アルス島には予備として第4、5、6の3個旅団、近衛親衛隊と砲兵4個中隊が待機し、第7旅団と野砲兵2個中隊はアルス島全域の守備隊として任務に就いていましたが、4月18日にはアルス島在の部隊は全く参戦しませんでした。
デュッペル堡塁群戦闘図(独語)
4月18日午前2時。普軍第1平行壕から第3平行壕とその先100m程延ばされた先端対壕に普軍歩兵37,000名が集合を終えます。彼らは砲兵総指揮官コロミエ大佐が差配する4時間に渡る準備砲撃の凄まじい轟音に紛れてやって来ました。
この準備砲撃は、それまでに激しく叩かれていた各堡塁と塹壕を更に叩き、幾つかの堡塁は防壁が崩されてただの小山状に変わり、80門あった要塞砲の内、稼働するものは18門だけとなってしまいます。
D軍は前日17日に前線部隊がD第1師団からD第2師団に交代し、堡塁群と塹壕線に4,209名、後方に5,524名が待機となっていました。
負傷した兵士たち(ニールス・シモンセン画 1870年)
デュッペル堡塁の戦い数日前の情景です。
堡塁の土塁壁後方、左側大砲に寄り掛かる第1旅団長ラッソン大佐、第2師団長デュ・プラット少将(毛皮の裏地のついたマントを着ている)、本営副官ヘンリク・モルトケ=ホイトフェルト伯爵(双眼鏡を持つ)
普軍歩兵の攻撃は午前10時、朝靄が完全に晴れた晴天下に始まります。
南側対壕の開始地点付近、小丘の上に構えた前線指揮所からカール王子は攻撃開始を命じ、6個の攻撃先鋒連隊約10,000名は一斉に先端塹壕や第3平行壕から「ハイル!」の鬨を叫び飛び出しました。堡塁と塹壕で迎え撃つD軍は約2,200名に減っていたとの記録があります。
南側のヴェミングンド湾で警戒中のD海軍装甲艦「ロルフ・クラケ」は3月28日を再現すべく普軍の突撃に砲撃を加えますが、今回はブローガー半島に33門の普軍要塞砲が援護射撃を行い、「ロルフ・クラケ」は停泊しての砲撃は行えず、照準は前回より甘くなり大した効果を発揮出来ませんでした。
普軍は3月末のラーヴェン旅団の攻撃後に「ロルフ・クラケ」対策としてヴェミングンド湾に漁網多数を漂流させて敵艦のスクリューに絡ませようとしたり、ブローガー半島の海上掃射可能な位置に要塞カノン重砲砲台を設置したりして備えていたのです。この日「ロルフ・クラケ」は前回より多数の被弾を記録し、戦死1名負傷10名の損害を受けますが、陸上に60ポンド砲弾95発を放っています。
デュッペル南方ヴェミングンド湾とブローガー半島(一番下に堡塁の詳細図)
ヴェミングンド湾で普軍を砲撃するロルフ・クラケ
第2平行壕では普軍音楽隊総監のゴットフリート・ピエフケが指揮をする4個隊の音楽隊(第8、18、35、60の各連隊所属300名)が「ヨルク行進曲」を演奏し始め、 音楽隊はその後も勇壮なマーチを演奏し続けて普軍の突撃を鼓舞しましたが、その中の1曲はピエフケ自らこの日のために作曲した「デュッペル攻撃行進曲」でした。戦闘の進展により音楽隊も前進し、前線から400mばかり後方で演奏し続けましたが、ピエフケは指揮の最中、跳弾により指揮棒を弾かれて壊されたため、途中から帯剣で指揮を取った、と伝わります(多分、誇張されたプロパガンダでしょう)。
余談ですが攻撃の最中に軍楽を演奏し鼓舞する伝統は1866年の普墺戦争まで続きますが、その後普仏戦争では鼓手による連打やラッパ手の「号令ラッパ」が多用され、音楽隊は殆どが後方の式典や慰撫などに使われるよう変化して行きました。
3号堡塁を包囲する普軍
普軍の砲撃は突撃の直前数秒前に止んだため、D軍の守備兵たちは殆どが堡塁の待避所か後方の塹壕で身を伏せている状態だったと言います。それでも激しい砲撃に生き残ったD軍兵士は堡塁や塹壕から必死の応射を繰り返しました。因みにD軍小銃の有効射程は200mで、ドライゼ銃とほとんど変わりません。しかし僅か2、300m突進するだけで普軍歩兵は堡塁群に到達し、午前10時6分、早くも3、4、5号堡塁では黒白のプロシア軍標旗が大きく振られ、後続と友軍砲兵に堡塁占領を知らせました。
堡塁の激闘
一方、南端の1号堡塁には1,000名程の普軍将兵が殺到し、守るD軍兵士は僅か70名、隣の2号堡塁も迫る普軍将兵2,000名に対し70名しか守備兵がいない状態でした。
しかしこの二つの堡塁はセナボー方面から要塞砲の援護を受けており、北の堡塁より攻め難い状況でしたが、それでも午前10時10分過ぎには占領されました。
直後に堡塁群後方の塹壕線にも普軍歩兵の波が到達し、午前10時13分頃、塹壕には最初の普軍標旗が翻りました。
この僅かな十数分間で、後に伝説となる二つの出来事が2号堡塁で生じました。
2号堡塁では前述通り70名程のD軍将兵だけが応戦し、これを率いた砲兵士官のヨハン・ペーター・アンドレアス・アンカー中尉は、同僚のカール・ヴィルヘルム・カステンシオルド中尉と共に要塞砲を最大俯角にしてぶどう弾と散弾を発射し続けて普軍兵士の接近を防ぎ、カステンシオルド中尉は普軍兵士が殺到する前に脱出したものの、アンカー中尉らは捕虜となってしまいます。この時、普軍指揮官は他の堡塁より「数分」長く普軍の攻撃を阻止したアンカー中尉を称賛し部下に指揮官を殺さず捕らえるよう命じたと伝えられ、後に中尉の写真が「勇敢な敵士官」としてベルリンの戦勝記念塔に飾られたためデンマーク本国でも英雄と称えられました。
同じく、この第2堡塁への普軍接近を防いでいた防柵に爆薬を仕掛け、突破口を開いたものの自身は爆死したと伝えられた一工兵カール・クリンケもドイツで長らく「軍神」扱いを受けることになりました。
アンカー
最初に普軍が堡塁を占拠した戦闘はごく短かったものの、数分間とは言え4号堡塁でD軍と普軍との間で凄惨な白兵が発生したと伝わります。
堡塁の斜堤を登る普軍兵士
5号堡塁の戦闘(フリッツ・シュルツ画1865)
しかし、戦闘はこれで終了することはありませんでした。
午前10時30分頃。シャルフェンバーグ大佐に率いられ後方予備となっていたD第8旅団約3,000名はセナボーの対岸橋頭堡から反撃に転じ、普軍先鋒が占領したデュッペル製粉所の廃墟を奪い返しました。これで未だ占領されずに抵抗を続けていた7号から10号までの堡塁守備隊が奮起を促され、圧される一方だった戦闘を一時的に均衡することになりました。
とは言え、このD軍反撃も30分程度で勢いを失い、再び普軍による制圧戦闘の局面に至ります。
D第8旅団は必死で抵抗しますが、普軍は予備となっていた4個連隊(1個師団級)を投入したため正午前に戦線は崩壊し、D第8旅団の生存者は既にアルス島に向けて撤退して行った堡塁の生き残りに続いて大きな損害を受けつつ島へ渡りました。
午後1時30分頃にはセナボー対岸の橋頭堡陣地も撤退に追い込まれ、最後のD軍兵士が島に辿り着いた時、セナボーと橋頭堡を結んでいた2本の舟橋は破壊されました。
セナボー前面の舟橋(戦闘の前)
D軍の反撃が中途半端に終わった原因は、当日D軍の総指揮を執ったデュ・プラット将軍が、将兵の疲弊を見て第8旅団の反撃に続く攻撃命令を出すのを躊躇したから、とされます。
解任されたデ・メザ将軍に代わって指揮を執ったゲオルク・ダニエル・ゲルラッハ将軍は3月下旬、落馬事故で入院する羽目になり、次席指揮官のスタインマン将軍もザンケルマルカー湖畔での負傷が中々癒えずにおり、前線では最先任士官だったデュ・プラット将軍が総指揮を執っていたのです。これとは別の記録では、ゲルラッハ将軍が怪我をおして馬車で戦場を訪れたため、指揮権が一時的に混乱したから、とも言われています。
デンマーク第8旅団の反撃(ヴィルヘルム・ローゼンスタンド画 1894)
「1864年のデュッペル堡塁の戦い」におけるデンマーク軍公式の損失は当初、戦死379名・後に多数が戦死と認定された行方不明者646名・負傷1,250名・捕虜約2,500名となっています。普軍は戦死263名・負傷909名・行方不明29名の合計1,201名と言うものが現在では最も真実に近いとされ、デンマークでは戦闘150周年の2014年に「戦死700名・負傷554名・捕虜3,534名の合計4,834名」とされています。
これら戦死者(後日死亡を含む)には高級指揮官も含まれ、普軍のエドゥアルト・フォン・ラーヴェン少将、D軍のクロード・デュ・プラット少将にラッソン大佐、ベルンストルフ中佐もいました。
戦いの後・堡塁の惨状
フォン・ラーヴェン将軍は63年8月12日、ポズナン在の第10旅団指揮官に任命され9月22日に少将に昇進した後、デュッペルに至ります。
4月18日、第10旅団は最初に3、8、9号堡塁を単独で、他の旅団と共に4、7、10号堡塁を攻撃しました。ラーヴェン将軍は騎乗したまま常に前線で指揮を執っていましたが、前衛と共に10号堡塁脇からアルススンド海峡に到達した時、榴弾が乗馬の足元で爆発し将軍は右足首から先を失ってしまいます。副官によって戦場から後方に運ばれ、担架兵がシュレスヴィヒ市北郊のニューベル西にあった聖ヨハネ騎士団の病院(現存します)に運び、ここで右足切断の手術を受けましたが回復せず、4月27日に亡くなります。57歳でした。
ラーヴェン将軍は1813年の対ナポレオン戦「グロースゲルシェンの戦い」で負傷し後日傷の悪化によって死去したゲルハルト・フォン・シャルンホルスト将軍以来、半世紀振りに戦闘が原因で亡くなった普軍の将軍となり、同年5月1日、ベルリンにおいて国王と王太子臨席の下、軍の栄誉礼を以て埋葬されました。
ラーヴェン少将(出征前の肖像写真)
デュ・プラット将軍はこの朝、普軍の攻撃直後にセナボー対岸の橋頭堡にあった第2旅団に戦闘準備を命じた後、参謀長のエルンスト・フレデリク・シャウ少佐を引き連れて前線視察に急行し、敵が1号から4号までの堡塁を占拠したことに気付きます。既に戦意を失っていた多くの兵士がセナボー対岸の橋頭堡に向けて後退中で、後退が潰走になりつつあることを危惧した将軍は手にしていた杖を振り上げ「止まれ、みんな、撃て!」と叫びました。
その後第8旅団に反撃を命じた将軍はセナボーへの街道上で督戦中、迫る普軍から激しい銃撃を受けて瀕死の重傷を負い、同時に傍らのシャウ少佐も斃れ、知らせを聞いて駆け付けた総司令部の主席参謀カール・フォン・ローセン少佐(3月に昇進)までもが銃撃を浴びて翌日死亡してしまうのでした。
シャウ
D第1旅団長のラッソン大佐は旅団と共に堡塁群左翼の7から10号堡塁までを死守し続けますが、正午頃に銃撃を浴びて致命傷を負い、夜に死去しました。
同じく第17連隊長のベルンストルフ中佐は、敵に占拠された7号堡塁の奪還を試み、部隊の先頭に立ちますが腕に銃創を受け、落馬したところで捕虜となり、傷の具合と出血のため翌日ブローガー半島にあった普軍の野戦病院で亡くなりました。
「1864年のデュッペル堡塁の戦い」では、本格的戦闘で初めて国際赤十字社のオブザーバー・ボランティアが負傷者の救命に従事したことでも特筆されます。この戦いではスイスの外科医ルイ・アッピアが普軍側、オランダの海軍軍医チャールズ・ファン・デ・ベルデ大尉がD軍側に参加していました。
1864年の野戦病院
一方、デュッペル堡塁前で普軍が対壕を掘り進めていた頃。
イギリスの仲介でデンマークとドイツ連邦(実質は普墺)との間で休戦に関する交渉を開始しようとする試みが始まりました。
独連合軍指揮官のカール王子が当初4月12日に設定していた堡塁の総攻撃が18日に延期されたことも、この休戦交渉が一因とも言われ、カール王子はヴィルヘルム1世国王から直接「デンマーク王国が交渉のテーブルに着くよう追い込まれるまで攻撃を待つ」旨言われていたとも伝わります。
この時、デンマーク王国政府は「軍事的観点から見れば不利は否めず軍が崩壊してしまうことも視野に入ることは明らかだが、政治的観点からすれば、出来る限り長く抵抗を続けて各国世論を味方に付けるべきである」との決定をしました。
馬による事故(落馬とも馬と衝突したとも)で入院を余儀なくされていたD軍総指揮官・ゲルラッハ将軍は、政府からこの趣旨に沿って戦闘を続行するよう命じられます。しかしゲルラッハ将軍は本営における会議を経て4月11日、コペンハーゲンの政府に対し「デュッペル堡塁群の防衛は既に不可能に近く、全軍アルス島へ撤退する許可を得たい」との要請を出すのです。
しかし政府は世論と首都民衆の感情を察して撤退を許可しませんでした。ゲルラッハ将軍やスタインマン将軍が負傷していたために総指揮を執ることになったデュ・プラット将軍は敵の攻撃が迫る4月16日、ゲルラッハ将軍に対し「アルス島への撤退指揮とその責任を負えるよう、政府に負傷による指揮権委譲を正式に要請するよう」要求しますが、ゲルラッハは負傷を理由とする指揮権委譲を拒否します。但し翌17日、政府に対し再び撤退するための許可を要求することは決心するのです。
しかし最早手遅れでした。普軍は既に翌18日早朝の攻撃のため動き出しており、デンマーク政府も「デュッペルでの抵抗は20日から開催が決まったロンドンにおける休戦・和平交渉の材料となり、国防の象徴であるデュッペルを戦わず放棄した場合今度は国民が黙っていないだろう」として撤退を許すことはなかったのです。
この時点でデュ・プラット将軍と堡塁にあった2個師団の運命が決まり、デュ・プラット将軍を始めとする将兵は壮絶な戦死を遂げたのでした。
デュ・プラット(ペーター・ヘンリク画)
4月20日。ロンドンにてデンマークと普墺の和平交渉が正式に開始されます。デュッペルの喪失はデンマークの立場を決定的に弱めましたが、まだアルス島に軍主力が残されており、シュレスヴィヒ全体を独に渡すまでには至らない、との考えは政府・世論共に強固でした。
デンマーク政府はシュレスヴィヒ公国をドイツ語圏・デンマーク語圏に分割すること(既にホルシュタインとラウエンブルクの放棄は決定的でした)で戦争を終結させようとしますが、あくまでシュレスヴィヒ全域のドイツ連邦加入を狙う普墺は首を縦に振りません。
戦争は結局アルス島の攻防で決着することになるのです。
セナボーにあったデュッペル堡塁戦勝記念塔(現存せず)
5号と6号堡塁跡(20世紀初頭。再建した製粉場が見える)




