ヴァイセンブルクの戦い/師団長戦死
8月4日朝。バイエルン軍が攻撃を開始したヴァイセンブルクの北東ではプロシア軍第5軍団や、その左翼に続く第11軍団はロタ川目指して行軍中でしたが、雨で泥濘が深くなった街道や田園を行くのは相当な苦労でした。
第三軍指揮官のプロシア皇太子・フリードリヒ親王は予告通り午前9時15分、シュヴァイゲン=レヒテンバッハの東にある丘陵で戦いの推移を見守っていましたが、先にヴァイセンブルクの前線に送っていた参謀が帰還し「バイエルン軍苦戦。ボートマー中将は援軍到着まで耐久する覚悟」と報告すると、後続のB第3師団より第5軍団の方が近いと見た皇太子は「第5軍団と第11軍団は行軍速度を高め戦場に至るべし」と命じるのでした。命令は速やかに騎馬伝令により達せられ、両軍団は更に行軍速度を上げ早足となり、泥を跳ね上げながら南へ進むのでした。
ヴァイセンブルクの戦場では午前10時半、東方より砲声が響き、ガイスベルクの山や停車場付近に砲弾が着弾しました。これはプロシア第11軍団の砲兵がガイスベルクの東側高地の淵から放った第一弾で、新型のクルップ後装旋条鋼鉄砲は正確に目標を捉え、山の上のフランス砲兵もたまらず陣地を転換します。
第5軍団歩兵もアルタンスタットに達し、停車場のアルジェリア兵と戦い始めました。ボートマー師団長はこれで東や南側を気にせずに全力で市街地の攻略に取り組むことが出来るようになるのです。
B軍第7旅団のティールエック将軍はプロシア軍が東を引き受けるのを見ると直ちに後方に控えていた全部隊をボートマー師団長が指揮する市街地攻略部隊、第8旅団のマイリンガー少将へ増援として送り出しました。
シャスポー銃の射撃を浴びながら前線でがんばっていた砲兵2個中隊はここで退却し、交代に今までガイスベルクの砲兵に対抗していた2個中隊は、山の上の敵をプロシア砲兵に任せて市街地への砲撃を開始しました。
東「ランダウ」門ではバイエルン兵が殺到し、門の前で塹壕を掘って戦っていたフランスの前衛を駆逐、水濠脇の草むらに隠れて銃撃しますがフランス兵も壁の上から必死に射撃を繰り返し、バイエルンの兵士は次々に倒れてしまいます。門には2回、3回と突撃が繰り返されますが、跳ね橋を引き上げ門を閉ざしたフランス守備隊必死の防戦で、突撃はその都度失敗に終わり、門の前には負傷者が倒れ、うめき声が猛烈な銃声と突撃の叫び声にかき消されていました。
ヴァイセンブルク市の戦い
市街地での苦闘が続く中、東側ではプロシア軍が停車場付近のフランス軍と戦い始めました。ここからは少し時間をさかのぼりプロシア2個軍団の動きを見てみましょう。
午前8時30分にバイエルン軍が市街地で戦い始めた頃、第5軍団のキルヒバッハ中将は前衛を二手に分け先を急がせました。
一つは第17旅団長フリードリヒ・ヴィルヘルム・アドルフ・フォン・ボートマー(B軍師団長と偶然同じ名前ですが関係はありません)大佐率いる歩兵59連隊に猟兵・軽砲兵・竜騎兵・工兵部隊を付けた支隊、もう一つはボートマー大佐の部下で歩兵第58連隊長グスタフ・クレメンス・ヘルマン・フォン・レックス大佐率いる58連隊の2個大隊に同じく猟兵・軽砲兵・竜騎兵・工兵部隊を付けた支隊でした。
ボートマー支隊は左(東)側を行きヴォーグホイザー(ビンヴァルド=ヒュッテの上流1,200m付近・木橋がありました)へ、レックス支隊は右(西)側サン=レミ(アルタンスタットの東2キロ)付近のロタ川に架かる橋を目指します。
先にレックス大佐が9時にロタ川に達しこれを渡河すると、直ぐに東から第11軍団の前衛がやって来ました。この時にヴァイセンブルク方向で激しい砲声が始まるのを耳にするのです。
プロシア第11軍団はシュライタールを占領することで第三軍命令を真っ先に達成すると午前8時30分、これを第三軍本営に報告しました。するとその直後、砲声が西側から聞こえ始めた、と占領したばかりのシュライタールの前衛より軍団本営に報告が入ったのです。第11軍団司令官のボーズ中将は、戦闘に突入したのは自分たちの右翼(西)を行軍している第5軍団に違いない、と判断し、シュライタールに前衛を留めて東と南を警戒させつつ、部隊を西へ進ませる決断をします。
ボーズ中将は第21師団に西へ転進せよと命じた後、その前衛部隊の驃騎兵第14連隊の1個中隊と猟兵第11大隊は直ちにヴァイセンブルクへ向かうよう命令しました。この先西側のどこにフランス軍の前衛がいるか分からないため、猟兵たちは街道の南側森林地帯を行き、騎兵は後から追って来た21師団の歩兵1個大隊と共に街道を西へ急行したのです。
第5軍団のレックス大佐支隊と出会ったのはこの歩兵たちで、「第5軍団前衛と邂逅・連絡せり」との報告を受けたボーズ中将はレックス大佐の上司、第5軍団第9師団長フォン・ザントラルト少将に連絡し、第9師団は正面(北)からガイスベルクの丘陵地帯に対し、第21師団等第11軍団所属部隊はその左翼(東)に連なって南東側からガイスベルクへ向かい包囲することとするのです。
この区処に従い、レックス支隊はそのままローターブール=アルタンスタット街道を西へ進み、前衛に続く第21師団はサン=レミ南でリートゼルツ方面へ左折して、ガイスベルクの南東側から山に向かい始めるのでした。ザントラルト将軍はこの決定を上司の第5軍団長キルヒバッハ中将に伝え事後承諾を受けました。
この午前10時頃、サン=レミ北東4キロのシュタインフェルトでは、キルヒバッハ将軍が第5軍団本隊の先頭で騎乗し先を急いでいました。普墺戦争でシュタインメッツ軍団の師団長だったキルヒバッハは指揮官先頭をモットーにするシュタインメッツ型の猛将でしたが、聞こえ始めた砲声に胸躍らせた将軍は一参謀を西にいるバイエルン第4師団へ走らせ「貴師団の状況は如何か?第5軍団は貴師団に対し有効な援助を為したいが何れの街道を進めばよろしいか?」と問い合わせをしたのです。
B軍のボートマー中将は参謀に対し「我々は市街地で戦闘中なので、我らの東側が危険となっている。停車場からガイスベルクにかけて敵を圧迫してもらえると助かるのだが」と答えました。
キルヒバッハはこれを聞くと本隊(第10師団他)はアルタンスタットへ、停車場付近は第11軍団との取り決めのままレックス支隊が受け持ち、ザントラルト少将は猟兵2個中隊と歩兵第58連隊第1大隊を直卒しレックス大佐と並んで停車場を攻撃、そのままヴァイセンブルク郊外へ突入しバイエルン軍を助けよ、と命じるのでした。
一方、ヴォーグホイザーに向かった第9師団のボートマー大佐支隊は10時30分ロタ川を渡河し街道を西に急ぎます。その後ろからは第11軍団の第22師団本隊が長い縦列でこれを追うように行軍していました。彼らもビエンヴァルド=ヒュッテ付近でロタ川を渡河しボーズ軍団長の命令通りガイスベルク攻撃に向かったのです。
第11軍団の2個砲兵中隊は10時30分以来ガイスベルク城の1キロ東の森林縁から砲撃を続け、城の壁を削り続けていました。
アルタンスタットでは歩兵58連隊の1個大隊と猟兵1個中隊が鉄道堤に沿って南側ガイスベルクに対し、軽砲兵1個中隊も堤に沿って南へ砲列を敷き、高地上に展開するフランスのミトライユーズ砲兵に対抗砲撃を繰り返します。この砲兵にはやがて東からボートマー大佐支隊の砲兵1個中隊が曳き馬を走らせ駆け付け、砲列を並べ砲撃戦に加わりました。
11時前には21師団本隊から第41旅団が側面包囲の形で広がり、東から南東に掛けてガイスベルク高地の斜面を登り始めました。これに対し城周辺のフランス兵もシャスポー銃の射撃を繰り返します。プロシア歩兵も応射しながら進みますが、フランス軍の射撃は凄まじく、なかなか前進することが出来ませんでした。負傷者が増えるのを見た旅団長フォン・コブリンスキー大佐は、増援がやって来るまでその場で持久せよ、と命じるしかありません。
しかし、北と東から砲撃を繰り返すプロシアの砲兵4個中隊は、高地へ撃ち上げる形という不利を補って余りあるほどの効果を及ぼして、フランス砲兵は特にミトライユーズ砲を中々発射出来ませんでした。ミトライユーズ砲兵は数弾発射した直後にプロシアから正確な砲撃を受け、弾薬を運ぶ前車を2両爆破され、砲は1門が直撃され破壊されてしまい、執拗に狙い続ける敵砲兵から逃れるため陣地を次々に転換するしかなかったのです。
またコブリンスキー大佐の苦労もあと少々で解消される予定で、第5軍団の本隊はガイスベルクを北東側から攻略すべくアルタンスタットで展開中、第11軍団の前衛で先にロタ川を越えながらシュライタールに留まった第42旅団も、前進して41旅団の左翼(南)に連なりガイスベルク攻撃に加わるよう命令が下ったのでした。
第11軍団長ボーズ中将は更に街道を西へ進む第22師団や、その後方の森を行軍中の軍団砲兵にもガイスベルク攻撃に加わるよう命じるのです。
また、第5軍団長キルヒバッハ中将もアルタンスタット北のヴィントホーフ部落の家屋で前線の状況を確認し、第9師団の重砲兵2個中隊と軍団砲兵隊に対し、「迅速に前線に到着し軍団長より命令を受けよ」と命じ、第5軍団の砲兵部長グーデ大佐は軍団砲兵6個中隊に第9師団砲兵2個中隊を併せ、高台となっているヴィントホーフの南面に沿って5個中隊の砲列を敷きますが、3個中隊は狭過ぎて配置出来ず、後方に待機させるのでした。
この5個中隊30門の強力な砲兵は午前11時前、ヴァイセンブルクの市街地とガイスベルクに向けて砲撃を開始しました。
11時には第5軍団の第18旅団はアルタンスタットの北に集合、第19、第20の両旅団はシュヴァイクホーフェンの北まで進みました。
いよいよガイスベルクへの最大7個旅団ほぼ2個軍団4万人以上となる攻撃が開始されようとしていたのです。
これを迎えるフランス軍のアベル・ドゥエー少将はヴァイセンブルクにおよそ1個連隊強、その後方に2個大隊が控える状況で、これにバイエルン軍のほぼ1個師団が襲い掛っている状況、自らは1個旅団程度の戦力で2個軍団と戦わなくてはならなくなります。
正に「鶏を割くに牛刀を用いる」の例えのようなドイツ軍に対しドゥエー将軍は置かれた状況を正確に判断していました。
既に午前10時の段階で退却を決意しますが、敵プロシア軍がガイスベルク南側へ回り込もうとしている現状で、現在は開いているものの何時敵が回り込むかもしれないので南へは退却出来ず、西側のヴァイセンブルク市街地では激戦が続き、これを後退させるにはガイスベルクでも敵を引き付け戦い続けるしかない、という悪夢のような状況となったのです。
それでも市街地と停車場で戦うペレ准将はドゥエー師団長の命令を聞くと少しずつ兵を停車場から引き揚げさせ、総退却の命令に備えますが、午前11時頃、増援と弾薬補充を求めてガイスベルクへ送った副官が戻って来るなり「師団長戦死!」と報じたのです。激しい銃撃戦と砲撃が続く中、その場にいた者はみな凍り付いたように動けませんでした。
アベル・ドゥエー少将が午前10時半過ぎにガイスベルク城の前、ミトライユーズ砲兵中隊の横で騎乗し指揮を執っている最中のこと。
丘の東側からプロシア砲兵が突然砲撃を開始し、その内の一弾がミトライユーズ砲の前車に当たり、中に入っていた弾薬を誘爆させ辺り一面に銃弾と破片をまき散らしました。
その銃弾や破片が騎乗していた師団長を貫き、ドゥエー将軍はほぼ即死の状態で戦死したと伝えられています。
ドゥエー将軍の死




