ヴァイセンブルクの戦い/デュクロの誤算
フランス「ライン」総軍参謀長ル・ブーフ大将は8月1日、ストラスブールの第1軍団司令官マクマオン大将に電信にて命令を下します。
「敵ドイツ軍は大軍をプファルツ地方に集合させ、アルザス侵攻を狙っている。貴官は指揮下に属する第1軍団及び第7軍団諸隊により、バ=ラン地方(独名ウンター=エルザス/ストラスブール周辺)からビッチュ地方に通じる諸街道沿いに集合展開させること」
このマクマオン将軍が命令により動かすことが出来たのは第1軍団の諸隊のみで、第7軍団は未だにオ=ラン地方(独名オーバー=エルザス/コルマール周辺)で編成が終わらず動けないままでした。
命令により移動した第1軍団の各部隊は8月4日時点で以下の展開状況にありました。
○第1軍団本営(伯爵マクマオン大将)
アグノー(独名ハーゲナウ)在。
○第1軍団(以下同・略)第2師団(アベル・ドゥエー少将)
ヴァイセンブルク周辺でロタ川(国境)北警戒。
○騎兵師団第1旅団(ドゥ・セプテイユ准将)
ヴァイセンブルク近郊。
○第1師団(デュクロ少将・軍団最先任将官)
レッシュショフェン(独名ライヒスホーヘン)からレンバッハを目標に移動中。
○第3師団(ラウール少将)
レッシュショフェン周辺で宿営。
○第4師団(ドゥ・ラルティーグ少将)
アグノーで軍団本営と並び宿営。
○騎兵師団第2旅団(ドゥ・ナンステイ准将)
ゼルツ近郊で北方警戒。
○騎兵師団第3(胸甲)旅団(ミシェル准将)
騎兵師団本営(デュエスム少将)と共にブリュマト(独名ブルマート)付近で宿営。
○予備騎兵第2(胸甲)師団(子爵ドゥ・ポヌマン少将)
デュエスム騎兵師団と共にブリュマト付近で宿営。
この配置を地図で照らし合わせて見ると、ドゥエー将軍の第2師団が実に危険な状態にあることが分かります。敵の大軍が北方にあると警告されているのに、最前線の国境にただ1個師団で面しており、付近には騎兵旅団が2個とこちらへ行軍中の師団が1個あるだけです。
更にドゥエー師団の内情を見ると、本隊としてドゥエー将軍が掌握していたのは、歩兵8個大隊、砲兵3個中隊(ライット・システム4ポンド砲12門・ミトライユーズ砲6門)そしてドゥエー将軍に指揮権があるセプテイユ騎兵旅団の8個騎兵中隊だけで、本来は師団所属の猟兵第16大隊と歩兵第50連隊の1個大隊はゼルツのナンステイ騎兵旅団に派遣されており、また歩兵第78連隊は4日早朝、デュクロ師団の1個連隊と警戒任務を交代するためクリンバッハへ向け行軍して行きました。
従ってドゥエー将軍が4日午前の時点で増援を期待出来たのは、10キロ西にあるクリンバッハに向かった第78連隊とクリンバッハを出ようとしているデュクロ師団の第96連隊だけで、他の部隊は全て行軍到着に1日以上かかる場所にいたのです。
アベル・ドゥエー将軍
どうしてこのようにドゥエー師団だけ突出したのかという原因は、第1軍団の先任将軍で元来このバ=ラン(仏語でライン下流の意味)地方が任地だったデュクロ将軍に求められそうです。
8月1日、マクマオン大将はデュクロ将軍に対し、国境付近にあるドゥエー将軍の部隊を併せ指揮することを命じました。この時、デュクロはヴァイセンブルク周辺へ前進し展開を命じたドゥエーに対し、「各種の情報を総合するに、敵がロタ川北方に展開している前哨の数は僅かで、敵は積極的な攻勢に出る意志はないものと思う」と楽観的な見方をしています。また3日に国境付近の状況報告をする際、デュクロはマクマオンに対して「プファルツ国境にはバイエルン軍が展開していますが、我が斥候は敵の前哨を一つも発見していません。バイエルン軍が斥候騎兵で我が方の前哨に嫌がらせを行っていますが、この脅しはただのハッタリに思えます」と報告するのです。
確かにプロシアの皇太子は自軍を慎重に運用し、8月2日朝までは攻勢に転ずるのは後方部隊が機能を発揮してからと考えており、そのドイツ第三軍は野営地に留まって前進する素振りを見せていませんでした。
デュクロの状況判断は「1日現在」では正しかったと言えますが、2日先では情報を更新出来ずに考えを修正せずに誤っていた、と言えそうです。
とはいえ、マクマオンも経験豊かな将軍でありデュクロの言を全て信じるほど愚かではありませんでした。各師団に対し「警戒を厳重にせよ」と訓令していますが、最前線指揮官のデュクロが敵の襲来を信じていないのではこの慎重さも空しい結果に終わるのでした。
結局ドゥエー師団には兵力の追加もなく、国境付近に孤独なまま8月3日の夕刻を迎えます。
ところがこの3日夕刻、漸くと言うのかデュクロ将軍は駐屯していたフランス側の要衝ヴェルツ(仏名ウァシュ)に達した報告により「敵の強力な縦隊がランダウ方面から前進しヴァイセンブルクに迫って来る」との情報を得ることとなります。
慌てたデュクロは自分の師団をライヒスホーヘンからヴァイセンブルクの北、これもプファルツからアルザスへ国境を通過する際に通らねばならないレンバッハの町へ向かわせると共に、ドゥエーに対しヴァイセンブルクの町に踏み留まり「敵の挑戦に応じる」よう命令するのでした。
ヴァイセンブルクの町は、北のランダウ、西のビッチュ、南のストラスブールを結ぶそれぞれの街道の交差点として重要な国境の町です。
それ故に過去何度も戦場となり城塞が築かれたこともありましたが、この1870年当時は要塞都市ではなくなっていました。
とは言え市街地の全周には中世以来の塁壁が残されており、その厚さは基部で最大7mもあり、町の入り口としてほぼ東・南・西の方向に三門がありました。それぞれ「ランダウ」「ハーゲナウ(仏名アグノー)」「ビッチュ」門と名付けられています。
塁壁の外には幅7から10m、水深2mの水濠があり、門以外から町への侵入は容易ではありませんでした。
東「ランダウ」門と南「ハーゲナウ」門は堅牢な城門ですが西「ビッチュ」門は壁を切り欠いただけの簡単な造りです。しかし、「ランダウ門」と「ビッチュ門」の塁壁上には銃眼が作られ、門の前には銃眼堡塁が設置されていました。
終点となる鉄道の停車場は町の南東およそ500mにあり、その北にあるアルタンスタットの部落では上流(西のヴォージュ山脈側)から数本に分岐し流れるロタ川が合流して一本となり、その800mほど下流から東は川自体が国境となります。この合流点付近では500mほど北が国境で、アルタンスタットはヴァイセンブルクの市街地と停車場とを守る重要なポイントでした。
また市街地の周囲からロタ川の南岸(フランス側)には、過去の戦争遺構である土塁が延々と続き、これは「ヴァイセンブルク線」と呼ばれる攻撃側には少々厄介な障害物でした。
アルタンスタットの東で合流するロタ川は市街地の中を二本の流れで貫き、町の周囲で渡河可能な場所は限られており、防御側には有利な地形でした。
特に右岸(南)は高地に連なり急な崖となって川を見下ろす形になっており、町から東へ2キロほどは登るのが困難な急斜面がガイスベルク(ジスベル)の部落まで続き、左岸(北)もヴォージュ山脈に続く高地でこちらも行動を抑制する森が続きますが、右岸ほどではありませんでした。
ガイスベルクから眺めたヴァイセンブルクの街(19世紀末)
このようにヴァイセンブルクは防御する側に有利な場所で、寡兵で長時間多数の敵を制御可能でした。
この町以外でランダウ(北)からアルザスに入るには、東のライン川付近ローターブールへ行くか西へビッチュ付近まで迂回するしかないのです。東側の森林地帯や西側の山地にも国境を越える道や渡河点(浅瀬や簡単な木橋)がいくつかありますが、概してフランス側が高地となっておりドイツ側からの侵入は簡単に察知出来、大軍の行動には不向きで、また防御も容易でした。
この天然の要害ヴァイセンブルク地方でしたが、この時フランス軍のドゥエー将軍が使用可能な兵力では限られた範囲でしか防御は不可能で、将軍は仕方がなく東西の渡河点の監視は止め、アルテンスタットや町の北国境ドイツ領の部落、シュヴァイゲン=レヒテンバッハから思い切って部隊を引き上げさせることにします。
ドゥエーはこの形勢不利の中で部隊を区処し、歩兵第74連隊の1個大隊を町の守備に残すと、師団の残り全てを町の南東にあるガイスベルク(仏名ジスベル)高地のガイスベルク城館を中心に集中させました。
ガイスベルク(ドイツ語の「ベルク」は「山」の意)は町の南東にある海抜200mクラスの丘陵で、町から急な斜面を成して見下ろす形となっていました。
高地の中心ガイスベルクの部落にはヴァイセンブルクの領主によって1694年に建造された石造りの城館があり、ここからは遠くドイツ領バート・ベルクツアーバーンまで一気に見通すことが出来、斜面を登る敵が数百mの間で隠れることが出来る場所は、所々に生えている樹木だけという恐るべき防御拠点でした。
フランス革命直後に発生したオーストリアやプロシア、バイエルンらドイツ諸侯の連合軍との戦い(1793年12月)でもこのガイスベルク城はヴァイセンブルクの町共々戦いの焦点となり、革命フランス軍のオッシュ将軍がドイツ連合を破り国境の向こうへ押し返していました。
ここガイスベルクは、例えヴァイセンブルクを落としてもこの山を取らなければ鉄道も街道も市街地も1キロ以内で大砲の射程内にあるという、ドイツ側からすれば絶対に取らなくてはならない拠点だったのです。
ドゥエー将軍は、塁壁と濠で固められた市街地は1個大隊で増援が来るまで守り通せるだろうと考え、重要なガイスベルクの山で持久する作戦に打って出たのでした。
8月4日午前5時30分。
ドゥエーは偵察斥候を北に放ちますが斥候は「北部国境付近に動きなし」と報告し、6時過ぎ、各部隊は安心して炊事や消耗品の補給、馬の手入れなど朝の日課を始めます。しかし、フランスの斥候が敵の動きを見なかったのは当然で、ドイツ第三軍の先鋒、B(バイエルン)第4「ボートマー」師団は、この午前6時、命令通りの時間に国境までおよそ10キロのバート・ベルクツアーバーン南郊外の野営地を発したのです。せっかく夜明けの早い8月に見晴らしの良いガイスベルクに布陣していたフランス兵も、残念ながらこの日は曇天、雨が上がったばかりで視界は悪く、敵の動きを察知することはかないませんでした。
輜重と1個大隊を動員直後として野営地に留め置いたボートマー師団は、1個大隊の猟兵と騎兵斥候たちを西側の警戒に放つと本隊はそのまま南下しました。
午前8時、ヴァイセンブルクの北シュヴァイゲン=レヒテンバッハの部落で師団前衛のシュフォーレゼー騎兵(以降「軽騎兵」とします)中隊がフランス軍の前哨兵と遭遇、わずかな銃撃戦の後、フランス前哨はヴァイセンブルクへ逃げ去りました。バイエルン兵たちが1キロほど南の市街を眺めるに、門は閉ざされ炊事の煙などが町から上がるのが見えました。
ボートマー師団長は直ちに前衛の砲兵中隊に砲撃を命じ、砲兵は泥濘の中必死に展開を急ぎ8時30分、町に向けて砲撃を開始しました。
ここに普仏戦争最初の本格的戦闘、「ヴァイセンブルクの戦い」が始まったのです。
砲撃が始まると不意を突かれた格好のフランス軍は大いに慌てますが、ガイスベルクのドゥエー将軍はすかさず市街地のペレ准将に命じ、アルジェリア植民地軍ティライヤール(以下「散兵」とします)歩兵第1連隊と砲兵1個中隊を率いて眼下のヴァイセンブルク停車場(駅)を確保させたのです。バイエルン歩兵がやって来る前に鉄道停車場を確保したペレは砲兵を駅の前方に繰り出し、また1個大隊の歩兵を「ハーゲナウ門」の前まで張り出させ、守りを固めました。
もう一人の旅団長モンマリー准将は自身の旅団を中核としてガイスベルク高地を固め、残った砲兵2個中隊(うち1個がミトライユーズ砲中隊)をガイスベルク部落の前面に出して北方を狙わせたのでした。
このボートマー師団の攻撃が始まった午前8時30分。
既に早朝4時に野営地を引き払った北ドイツ第5軍団はオーバーハウゼン(バート・ベルクツァーバーン東4キロ)を通過中で、前衛はクラインシュタインフェルト(ニーダーターバッハ南郊外)まで進み、第11軍団の前衛は泥濘の道に苦しみながらも午前7時にはロタ川に達し、ビエンヴァルド=ヒュッテやその近くの水車場付近の木橋が未だ撤去されていないことを確認すると、更に3個の仮橋を架けて後続部隊の進出を準備、途中で民間人の服装をした男から射撃を受け数人が負傷するというアクシデント(謎の男は逃走)はあったものの、ロタ川を渡河し越境して歩兵1個大隊を街道南の丘陵に送り、前衛は渡河点から2キロ南西の仏領シュライタール部落を占領、当初の任務を達成するのでした。
この時点では単独でヴァイセンブルクを攻撃し始めたボートマー将軍は、1個砲兵中隊と猟兵大隊を先行して市街地方面へ進ませ、遅れてもう1個中隊の砲兵を攻撃陣に加えました。歩兵1個大隊をその左翼に付け、ここで塁壁上のフランス守備隊がシャスポー銃の射撃を始め、応射するバイエルン兵との間で激しい銃撃戦となったのでした。
するとここで市街地の西高地上にフランス兵の部隊が北に向かうのが望見されます。およそ2個大隊の歩兵と見たボートマー師団の後衛を担当していたB第7旅団長のティールエック少将は、オーバー・オッターバッハで前進しようとしていた旅団から、歩兵1個大隊半(6個中隊)を割いて西側ヴォージュ山脈のドイツ側プファルツヴァルトのデルレンバッハからゲッテンベルク(オッターバッハ西4キロの山)へ急行させ、更にシュヴァイゲン=レヒテンバッハに前進していた旅団前衛の2個歩兵中隊も転進させ、敵の西からの攻撃に備えました。
後にこのフランス兵は、早朝西へ向かったフランス第78連隊の歩兵2個大隊が引き返して来ものと判明します。
これで後衛がわずか歩兵2個大隊と砲兵2個中隊となってしまったボートマー将軍は、それでも果敢に前進を命じます。
当初から敵の銃撃にさらされつつも砲撃を続ける砲兵が放つ砲弾は、町の塁壁を崩し、門に当たって石の雨を降らせ、町ではあちらこちらと火災を発生させ、効果的な砲撃を続けていました。
逆に停車場前のフランス砲兵はバイエルン軍の歩兵による散兵攻撃で危険にさらされ、また前装ライット砲ではバイエルンの砲列までは距離があり、当たるものではありませんでした。結局、大した戦果を上げることなく、駅前のフランス砲兵中隊は後退するのです。これを丘から見ていたドゥエー将軍は残る4ポンド砲兵中隊に更なる前進を命じ、ガイスベルクから斜面ぎりぎりまで前進したフランス砲兵中隊はバイエルン軍砲兵陣地を狙って砲撃を開始したのです。
バイエルン第4師団のヴァイセンブルク攻撃
今度はフランス砲兵もうまくいきました。砲弾はバイエルン砲兵2個中隊の陣地で炸裂し、バイエルン砲兵は一時砲撃を止め陣地転換しなくてはなりませんでした。本隊と離れて駅の北東側、ちょうど国境上に当たるヴィントホーフの部落へ着いた残りのバイエルン砲兵中隊は、遠距離ながらもガイスベルクめがけて砲撃を開始しました。この砲兵たちはやがてプロシア砲兵と交代しヴァイセンブルク攻撃の本隊へ加わりました。
この辺りからヴァイセンブルク市街での戦いも本格化します。バイエルン軍は市街地侵入を狙い小部隊に分かれて町の水濠まで接近、塁壁からの猛烈なシャスポー銃の射撃で次々に負傷者を出しながらも門を目指しました。猟兵大隊のある小隊は「ビッチュ門」に張り付きますが必死に撃ちかけるフランス兵のために釘付けとなってしまい、小隊長は倒れ、兵士たちも泥濘の中敵の死角を求めながら死闘を繰り返し、ようやく門前の小銃堡塁を確保しました。
第8旅団が町を攻撃している間、後衛の第7旅団は西の守りを固め、わずか2個大隊となった残り部隊は師団の予備部隊となってシュヴァイゲン=レヒテンバッハ南郊外まで前進しました。
その第7旅団右翼支隊はヴァイセンブルク北西の山地を探索し、先ほど北へと進んでいたフランス兵を捜しますが、どうやら敵は越境しないままヴァイセンブルクの南で留まった様子で、安全を確認した部隊はそのまま山を越え11時になってヴァイセンブルク郊外へ達するのでした。
ボートマー師団に続くB第2軍団の第3師団は、ボートマー第4師団より2時間早い午前4時に野営地を発ったとはいうものの、この午前9時前後ではバート・ベルクツァーバーンを通過中で未だ戦場から8キロほど北を行軍中でした。
ボートマー師団長は自らの師団が市街地を攻囲することで精一杯であり、鉄道停車場やガイスベルク高地まで手が回らず、このままでは攻撃がじり貧となってしまう、と危惧します。同国部隊が戦場に着くにはまだ半日は掛かり、期待出来るのは自軍左翼を進んでいるはずのプロシア軍です。将軍は「傲慢で堅物のベルリーナー(ベルリン人)」の到着を待つこととし、それまで攻撃の手を緩めず持久することを覚悟するのでした。




