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ヴァイセンブルクの戦い/秀才参謀の訪問

 プロシア参謀本部総長モルトケ歩兵大将の8月当初における基本戦略は、シュタインメッツ歩兵大将率いる第一軍で北正面のフランス軍バゼーヌ大将率いる10万余りの敵をメッス要塞前面で牽制し、カール親王騎兵大将率いる第二軍を南西へ突破させナンシーの手前で右旋回、メッスの左翼横腹を突いて包囲、この二個軍で合撃するというものでした。一方、皇太子フリードリヒ親王騎兵大将率いる南ドイツとの合同軍・第三軍は、ストラスブールを中心に国境沿いに展開するフランス軍マクマオン大将率いる8万ほどの軍をアルザス地方で殲滅させることが任務となります。

 モルトケはこの先も考え、早くにマクマオンを片付けることが出来たりマクマオン軍がさっさと後退するならば、第三軍はヴォージュ山脈の南側を登覇してロレーヌ地方南部へ侵攻し、そのまま右へ旋回しカール親王の後ろに付くことを考えていました。

 この時に問題になるのはヴォージュ山脈越えで、隘路の峠道を越えるため、当然敵の妨害や様々な困難が予想され、皇太子が広く自由に行動出来るロレーヌの平地にたどり着くまでにはそれなりの時間が必要と見積もられていました。


 この「時間」を稼ぎ余裕を持たせるため、モルトケは皇太子に対して「出来る限り早くアルザスに侵入するよう」要請していたのです。その現れが7月29日に下した命令「敵のライン渡河を阻止するため直ちにライン左岸より南進せよ」で、これに対し皇太子は31日「バイエルン軍を始め部隊の動員集合が終わっていないので無理」と回答したのです。


 この7月31日においては、第三軍の動員・集中は最終段階に入っており、動員令を掛けるのが他国より数日遅れたバイエルン軍を除いては後方部隊を除きほぼ動員が終わり、所属部隊はマンハイム以南でライン川の両岸に集合を終えました。

 しかし8月1日ではこれ以上の動きはあまり見られず、20日前後からライン西岸プファルツの地に展開しフランス軍の侵入を警戒していたバイエルン第2軍団の第4師団に、北ドイツ第5軍団から猟兵大隊1個と騎兵1個中隊が送られるという動きがあっただけでした。


 対象的に、ロタ川とヴォージュ山脈北端が自然の障害となっているプファルツの国境線沿いではバイエルンやプロシア騎兵たちが活発に斥候偵察活動を行っていました。

 これによると、フランス軍はロタ川を越えるとしても僅かで、多少の小部落を占領すると満足したのかそれ以上進出することもない様子でした。

 またロタ川下流の要衝ヴァイセンブルクの南では、アグノー(ヴァイセンブルク南南西20キロ)へ伸びる鉄道が破壊され、町の東方国境のオーバーシュタインバッハ~レンバッハ(ヴァイセンブルク西南西12キロ)には塹壕や障害が設けられていることも発見されます。アルザスの中心都市ストラスブールやノイ=ブライザッハ(ヌフ=ブリザック)の要塞では防御用の工事が始まっているとの伝聞も入って来ました。


 8月2日の斥候偵察では、ローターブールの南南西10キロのゼルツに多数のフランス軍歩・騎兵部隊がいることが確認され、ゼーバハ(ヴァイセンブルク南東8キロ)に槍騎兵部隊が駐屯しているのが発見されました。

 また、ヴァイセンブルクの市街地はこの朝、守備隊は存在せずその4つの門は閉ざされていました。そして町とローターブール間の電信線は切断されているのも観察されます。

 この町の静けさとは反対に町の西側ヴォージュ山脈の森林地帯では、バイエルン第4師団の前哨がいるボーベンタールやノスヴァイラー(両方ともロタ川の北・国境付近)をすり抜けてフォルダーヴァイデンタール(バート・ベルクツァーバーン西北西8キロ・国境からも8キロ余り)付近までフランス軍斥候が侵入したことが報告されました。

 更にプファルツ国境の要衝ピルマゼンスからは「フランス軍大部隊がビッチュよりこちらに前進している」との電信がボートマー師団本営に入り、慌てて増援部隊を送りますが、直後に「こちらに、ではなく国境に沿って西に移動中の間違い」と訂正が入り、増援部隊は胸を撫で降ろして戻るのでした。


 さて、参謀本部のモルトケは2日待ちましたが第三軍は攻勢をとる形を整えつつあるものの、第三軍は全軍が輜重や後方部隊の到着を待っている状態で前には進まず、それもモルトケの眼にはとても急いでいるようには見えませんでした。そこでモルトケは皇太子とその懐刀、常に慎重なブルーメンタール第三軍参謀長に宛て「この任に打って付け」の使者を送ることにします。


 参謀本部の高級参謀フォン・ファルディ・デュ・フェノイス中佐*は「軍事上の状況を説明する」として2日、マインツの大本営からシュパイヤーの第三軍本営へ鉄道でやって来ます。

 かつて上司だった皇太子と小柄で老騎士の風貌漂う参謀長中将を前に、ファルディ参謀中佐は堂々と訴えました。


「大本営の意図は、第一、第二軍を以てザール川を渡河し共同作戦を採るものです。このためには左翼で一刻も早く行動を起こして頂き、アルザスの敵がザール川方面へ北上するのを防いでもらいたいのです。参謀本部では、その後第三軍のヴォージュ越えとロレーヌ平野の北上を構想しております。ぜひ行動のご決断を」


 中佐はモルトケの作戦意図を明瞭かつ丁寧に説明し、トンボ帰りでマインツへと去って行ったのでした。


 普墺戦争では自ら率いる第二軍の優秀な参謀として知遇を得、その後は参謀本部でモルトケの懐刀として知られる参謀が、この一刻一刻と変化する重大な時に駆け付け、大本営が考える戦略を面と向かって知らされた皇太子は「輜重の到着を待たずに」攻勢へ出ることを決断するのです。

 皇太子はブルーメンタールと協議した結果、全軍明後日4日にロタ川を越える、即ち国境を越えるとし、この2日夜電信でマインツへ通告したのでした。


 この時同時に第三軍命令として各部隊に下された、8月3日時点で到達すべき第三軍の配置状況は以下の通りです。


○バイエルン(以下、Bと略します)第2軍団(ヤコブ・フォン・ハルトマン歩兵大将)

 ・B第4師団(ボートマー中将)バート・ベルクツァーバーンへ前進、ランダウ~ヴァイセンブルク街道沿いに展開

○第5軍団(フーゴー・フォン・キルヒバッハ中将*)

 ボートマー師団の1キロほど後方を進みビリヒハイム=インゲンハイム付近へ。

○第11軍団(ユリウス・フォン・ボーズ中将*)

 ロアバッハ付近で第5軍団の東に並んで野営。

○B第2軍団残り

 ランダウの北、ヴァルスハイム付近。

○B第1軍団(ルートヴィヒ・フォン・デア・タン歩兵大将)

 ゲルマースハイムの西近郊(ランダウの東)へ。

○騎兵第4師団(アルブレヒト親王(父)騎兵大将)

 8月1日に集合完結した騎兵はオッフェンバッハ・アン・デア・クヴェイヒの周辺に宿営。

○フォン・ヴェルダー中将「軍団」

 ビュルテンブルク師団とバーデン師団は合同しプロシア軍のヴェルダー中将の指揮下で行動、第三軍の左翼となる。

 ・バーデン師団(フォン・バイエル中将) ライン西岸ハーゲンバッハ付近。

 ・ビュルテンブルク師団(以下W師団・フォン・オーベルニッツ中将) ライン東岸クニーリンゲン付近。ラインに架かる重要なマックスアウ橋には1個大隊の守備隊を置く。


 これは、ヴェルダー軍団を軸に内側から第11軍団、第5軍団、B4師団と並び、その後ろにB軍の残りが付く形ですが、ヴェルダー軍団と第11軍団の間には深い森林地帯のビエン=ヴァルド(ビエンの森)が横たわり、双方の援護は不可能と言えました。

 また、一番西側のB軍ボートマー師団はヴォージュ山脈の北端に入り、山地行軍は困難を極めるものと思われました。


 この命令により、それまで西と南に支隊を送っていた第5軍団はこれをほぼ解消して一つに集合します。同時に7月の展開以来、越境斥候を行っていたB第2軍団のB猟兵第5大隊とシュフォーレゼー騎兵第5連隊*の2個中隊も速やかな原隊復帰を命じられました。

 3日夕刻の時点で第三軍は歩兵128個大隊、騎兵102中隊、砲兵80中隊を数えます。この日はこれに後方から第6軍団と騎兵第2師団が第三軍に編入され参加することとなりますが、このプファルツ=アルザス国境付近の戦いには間に合いませんでした。

 この3日、支隊として外に出されているのは第二軍へ貸し出されている竜騎兵第5連隊(ザールの郷土部隊なので地理に詳しかったのが理由です)と、アンヴァイラーに派遣されている第5軍団の第58連隊の1個大隊だけとなり、第三軍は集中してアルザスのマクマオン軍と衝突することとなったのでした。

 

 フリードリヒ皇太子は3日午後4時、次の重要な命令を下しました。


「ランダウ軍司令部にて 8月3日発

 余は明日、第三軍を以てラウター(ロタ)川に接し先鋒部隊を渡河させようと考える。このため、ビエン=ヴァルド森は4条の林道にて通過し、敵に遭遇したなら直ちにこれを撃退せよ。各縦隊は次の通りに行軍すること。

1・Bボートマー師団は全軍の前衛としてヴァイセンブルクに向かい、同市を占領せよ。師団の一部はベレンボルンを通過しボーベンタールに向かい部隊の右翼側面を警戒せよ。現野営地出発は4日午前6時とする。

2・Bハルトマン軍団の残余(B第3師団ほか)は午前4時に野営地を出発しランダウを避けてインプフリンゲンからバート・ベルクツァーバーンを経てオーバー・オッターバッハへ前進せよ。

3・騎兵第4師団は午前6時に宿営地を出発し、Bハルトマン軍団の東でオッター川河畔に進出せよ。

4・第5軍団は午前4時にビリヒハイム=インゲンハイムを出発しニーダーターバッハを通過して、本隊はシュタインフェルト~カプスヴァイヤー、前衛をシュヴァイクホーフェンの南、サン=レミ付近でロタ川を渡河させ、ローターブール=アルタンスタット街道を臨む丘を占領せよ。輜重はビリヒハイムに止め置くこと。

5・第11軍団は午前4時にロアバッハを出発し、ヴィンデンからシャイトを経て第5軍団の東をビエンヴァルド森林へ進み、林道を通ってロタ川河畔ビエンヴァルド=ヒュッテ(ビヤシワルムル)に本隊、前衛はロタ川を渡河し、対岸のローターブール=アルタンスタット街道を臨む丘を占領せよ。輜重はロアバッハに止め置くこと。

6・ヴェルダー軍団は現在哨兵のいるローターブールへ向い完全に占領、ストラスブール方面に前哨を配置せよ。輜重はハーゲンバッハに止め置くこと。

7・Bフォン・デア・タン軍団は午前4時に野営地を出発し、リュルツハイムを経てフェアバンツゲマインデ・カンデルへ進み本営を置き、その西郊外で宿営せよ。輜重はゲルマースハイムの西近郊に止め置くこと。

8・余は午前中カプスヴァイヤー~シュヴァイゲン=レヒテンバッハ間の高地にて指揮を執る。本営はニーダーターバッハに前進する予定である。

        皇太子 フリードリヒ・ヴィルヘルム 」


 皇太子は最新の騎兵斥候による偵察情報を見て、翌4日には必ず戦闘が発生すると覚悟し、各軍団本営へ参謀や副官を派遣、命令を電信ではなく書面で持参させます。

 その際副官たちは皇太子の訓示「戦闘に至る可能性は高く、諸隊は互いに援助せよ」を特に強調し伝えたのでした。

 これはわずか4年前までは敵、つい半月前までは攻守同盟があったにせよいつ敵味方に分かれるか分からないプロシアと南ドイツ各国の合同軍だからこそ皇太子は強調したかったのでしょう。


 翌4日早朝。命令通り各軍団はロタ川に向けて出発しました。

 生憎とこの日は前日夜から激しい雨が降り、雨は上がり掛けていたものの林道や街道は泥濘状態となり行軍は困難を極める事となります。

 この日は太陽が覗かない薄暗く蒸し暑い一日となり、泥と汗まみれになって進むプロシアと南ドイツ諸候軍は初めての共同作戦を開始するのでした。


※アドリアン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ユリウス・ルートヴィヒ・フォン・ファルディ・デュ・フェノイス(1832~1910)

挿絵(By みてみん)


 ヘッセン公に使えるためフランスからドイツに移住した祖父を持ち(そのため後のアドルフ・ガランドらと同じようにフランス人名)、シュレジエンで生またユリウス・フォン・ファルディは、父がプロシア王国軍に参加して男爵位を得たとはいえ没落して貧困に喘いでいた家族の元を離れ、1844年にポツダムのプロシア士官学校に入学します。

 卒業後、50年に少尉として歩兵連隊勤務を始めたファルディは55年に選抜されプロシア軍大学校に入校、優秀だった彼は卒業後そのまま大学に残り、教官として戦史を研究し教えました。

 61年には参謀本部に引き抜かれ地図課に配属されます。63年にはロシア領だったポーランドのワルシャワに武官として送られ、将来戦場になる可能性もあるプロシアの東方国境を観察し、折から険悪になりつつあったオーストリアと南ドイツ経由で帰国、その報告書はモルトケ参謀総長の目に止まり高評価を受けました。この時に彼が調査したボヘミア=モラヴィアの地勢報告は、この後の普墺戦争での作戦立案に大いに役立ちました。

 その才覚でめきめき頭角を現したファルディは、この普墺戦争でフリードリヒ皇太子の第二軍に参謀将校として配属されてブルーメンタール参謀長の下で活躍し、その頭脳明晰さを買った皇太子は大いに信頼していました。ケーニヒグレーツ戦ではヴィルヘルム国王に第二軍の戦闘詳報を直接報告するという場面もあったそうです。

 普墺戦後、皇太子は参謀の任務を詳細に記した報告書を依頼、この論文も高い評価を受けます。

 中佐に昇格したファルディはこの戦間期も参謀本部勤務を続け、参謀長副官としてモルトケに重用され、その懐刀として対フランス戦の構想を練ります。その本番となった普仏戦争では大本営で最年少の部長として活躍しました。

 戦後もプロシア軍一の頭脳と言われた彼は多数の論文を執筆し、その幾つかは陸軍で教本となります。平時の軍団参謀長や旅団長を経て81年中将、88年に歩兵大将となったファルディは即位したばかりのヴィルヘルム2世皇帝の下で89~90年、陸軍大臣となりますが91年に引退、1910年、第一次大戦を見ることなくスウェーデンのストックホルムで死去しました。

 モルトケの懐刀として活躍した割には高名でないのは、彼が裏方に徹しモルトケが余りにも有名になったためと思われますが、この19世紀後半のプロシア軍の裏方として重要な役割を担った逸材として、プロシア陸軍にとって日本海軍の秋山真之に相当する人物だったと思います。

 ベルリンで妻と共に埋葬されていた彼の立派な墓は第2次大戦で破壊されてしまいますが、2012年復元されています。


※ユリウス・フォン・ボーズ中将ですが、スペルは「von Bose」で実際ドイツ語の日本語表記は「ボーゼ」が多いようです。筆者は普墺戦争編でも「ボーズ」で通しましたが、これは高名な音響機器メーカーを敬愛する筆者の我儘ですのでお許しください。またフーゴー・フォン・キルヒバッハ中将も「キルヒバッツ」と間違えて記載しており、以後訂正させていただきます。

 現在、地名人名が英語読みとドイツ語読み、フランス語読みなどが混在していますが、少しずつ整理して行きますのでお見苦しい点、お詫びします。


※シュフォーレゼー騎兵

 軽騎兵の意味でフランス王国軍が元祖、最初は1498年まで遡ります。

ポーランドやフランス軍の部隊が有名でした。

 ドイツではバイエルン軍独特のエリート騎兵部隊で創設は1682年という伝統部隊です。軽騎兵の中でも最も軽い騎兵で、軽量馬を使用しピストルやサーベルだけという部隊もありました。バイエルン軍はこの1870年では6個連隊持っていました。

 伝統はドイツ帝国でも維持されますが、第一次大戦敗戦でバイエルン王国と共に消滅しました。


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