北独第一軍・8月2日から5日(後)
手回しのいいことに、シュタインメッツはまだコブレンツに滞在していた頃(7月下旬)、ライン州からハノーファー州にかけての後備部隊と補充兵を担当する第二防衛管区総督のビッテンフェルト大将と協議をし、もし第一軍がモーゼル川流域からザール川下流域を空ける場合、総督の配下から後備部隊を派遣することで合意を取っていました。
ビッテンフェルト将軍は4年前、普墺戦争で「エルベ軍」を率いてオーストリアやザクセンと戦いましたが、その時の配下部隊が今シュタインメッツ率いるところの第14、15、16師団でした。現在の防衛管区も同じ第7、第8軍管区を含んでおり、とても他人事ではなかったのでしょう。シュタインメッツの要請に応え、8日を目標に後備(但し旧ラントヴェーア)の歩兵5個大隊と砲兵1個中隊をヴィットリッヒ(トリール北東29キロ)まで送るとの連絡が届くのです。
シュタインメッツはこの後備部隊をトリールまで前進させ、ザールルイ要塞の部隊(第70連隊が中心)と協力させてザール下流を守ることとし、8月5日にコブレンツのビッテンフェルトとザールルイ要塞に通告するのでした。
このように西部国境はザールブリュッケンの戦い以降、不気味な静けさが続き、フランス軍は思い出したようにザール西岸からザールブリュッケンの町を砲撃し、駅を焼いたりしますが5日になるとその砲兵部隊は突然西へと撤退して行きました。
これは南のプファルツ国境で前日4日に戦われた「ヴァイセンブルクの戦い」の影響と思われました。
この戦いの詳細(皇太子第三軍の勝利)はこの5日にシュタインメッツの下にも届き、シュタインメッツの心理に微妙な影響を与えたと思われます。
先に進み過ぎましたので、時計の針を8月4日、午後7時頃まで戻します。
モルトケは4日夜、この日の第一軍の行軍(レーバッハ~トーライ~オットヴァイラー~ザンクト・ヴェンデルの線に展開)に同意を与え「別命あるまで現在地を変更しないよう」釘を差す電信をトーライに発しています。
また、他の二個軍に比べて小規模だった第一軍を強化することも決定され、既に8月に入ってザールへ向かうよう命令が出されていた騎兵第1師団を4日付で、東プロシアの旧都ケーニヒスベルクの名門・第1軍団を5日付で、それぞれ第一軍へ参加するよう命令が下りました。
しかし増員され嬉しいはずのシュタインメッツは、次第に募る憤りを覚えていたのです。問題は、カール親王の第二軍が遂に国境へ動き始め、ザール地方を南西方に向かって行軍し続けていたことに原因がありました。
第一軍は大本営命令によって「ヴァーダーン~ロースハイム集合」を命じられましたがザールブリュッケンの戦いの結果、実際はその線より更に南へ進み、その行動は事後承諾の形で大本営が認めました。その後この4日の線、「トーライ~ザンクト=ヴェンデル」を指示されますが、シュタインメッツ軍は山地ゆえにか野営地の確保のためと思われますが、やや南方オットヴァイラー周辺にも張り出していたのです。
既に3日には第二軍の騎兵部隊、第5騎兵師団前衛のレーデルン旅団がホイスヴァイラーに到着し、第一軍部隊と交錯しました。それ以降、第二軍部隊が西進するにつけ、オットヴァイラーは正にその行軍ルート上にあるものですから、第二軍の騎兵部隊は第一軍の野営地を窮屈そうに通り抜けて行くのでした。
ちなみにラインバーベン第5騎兵師団長率いる第二軍の騎兵集団は、この4日にはほぼ全てが命令通りザール川のラインに到達しており、ザールブリュッケンの北からザールルイ周辺にかけて哨戒線を敷き始め、斥候が活発に行き交っていました。
元より第一軍が展開していたのに、敵の侵入と上からの命令で撤退した場所へ、味方の別部隊がすんなり入って配置に就いていたのです。
シュタインメッツがこの第二軍騎兵部隊の動きを詳細に知っていたかどうか分かりませんが、知っていたにせよ将軍は面白くなかったに違いないでしょう。そしてこの想いが次の「諍い」の種となったと思われるのです。
4日夜、大本営命令が届いた頃と時を同じくしてゲーベン将軍が「オットヴァイラーの我が部隊宿営地を第二軍の第5師団が通過して行った。その目的地はノインキルヒェンだという」と多少皮肉っぽく電信報告を送って来ます。
そして直後にまたテレグラフが受信を知らせます。第二軍本営のカール親王からシュタインメッツ宛てに次の電信通告が届いたのです。
「第二軍は明日北方の部隊をザンクト=ヴェルデル~ホンブルクの線に進めることとなっている。6日には、ノインキルヒェン~ツヴァイブリュッケンの線に移動する予定なので、第一軍は当軍との交錯混乱を避けるため、明日5日右翼方向(西)へ移動することを強く希望する」
カール親王は多分第5師団から「第一軍と交錯した」との報告を受けた上での「要請」だったのでしょう。つまりは「お前らは我々の通り道を塞いでいるのだから、どけ」ということで、ここにカール親王とシュタインメッツとの間に微妙な雰囲気が芽生えたのでした。
シュタインメッツ将軍としても、つい先ほどモルトケ参謀総長から「動くな」と命じられたので「はい、退きましょう」とは言えないのです。当然ながら「王の甥っ子(=カール親王)」の言うことは聞けない、となるのでした。
シュタインメッツは直ちにマインツ大本営のモルトケに宛て状況説明の電信を送り、「このまま原位置に第一軍を留めれば、位置が逆転し第二軍が第一軍の前に出てしまうのだが」と暗に自軍を先陣にして欲しいと訴えたのです。
同じころ、カール親王もモルトケに電信を送り「この混乱と軍の境界に関して裁定を願いたい」と請願するのでした。
大本営のモルトケも眉をしかめたことでしょう。シュタインメッツが命令より「一歩前(南)」に出たから起きたことであり、命令に忠実に従えば起こらなかったことなのです。モルトケは4日深夜冷たく短い電信を両軍本営に送ったのでした。
「第一軍は明日(5日)ザンクト=ヴェルデル~オットヴァイラー~ノインキルヒェンの線(街道)より撤退せよ」
この電信は5日朝、シュタインメッツの下に届きます。この電文には付け加えるかのように「本日を以て第1軍団は第一軍の指揮下に編入する」との一行がありました。部隊が増えるのは嬉しいが、この仕打ちはないだろう……シュタインメッツがそう思ったとしても仕方がなかったのかもしれません。
この「一行」の命令は簡単なようでそうではありません。単に街道に沿った場所を空けて西側に少し動けばよい、というレベルではないのです。
部隊が野営地や宿営を動けば、その動いた先にいる部隊も更に西へ動かなくてはなりません。しかもこの5日には前日に第一軍に加わることとなった第1騎兵師団の前衛がビルケンフェルトで下車しザンクト・ヴェルデルへ向かう予定、との連絡も入っていました。その後第1軍団もここへやって来るのですから、その3個師団(歩兵2個・騎兵1個)とその付属部隊の宿営地も用意しなくてはならないのです。
とはいえ参謀本部総長の命令は国王の命令と並ぶものです。従わない訳には行きません。
シュタインメッツはこの日大わらわで軍を動かし始め、翌6日まで掛って第7、第8軍団と第3騎兵師団の宿営地域を南西方面へ移動させるのでした。
この努力もあってカール親王の部隊は大した混乱もなく、オットヴァイラー~ノインキルヒェン間を南西へ、ザールブリュッケン方面へと行軍して行きました。
この時、移動中の第二軍部隊よりその「軍行軍表(命令)」を手に入れたシュタインメッツは、その第3軍団が6日ノインキルヒェンに至り、7日にはその前衛がズルツバハ(ノインキルヒェン南西10キロ、ザールブリュッケン北東)に入る予定であることを知るのです。
これでシュタインメッツ将軍はモルトケが考えている第一軍と第二軍の作戦境界は、「ライン=ナーエ鉄道」(マインツの西、ビンゲン=アム=ラインから、ライン支流ナーエ川に沿って、クロイツナハ~イーダル=オーバーシュタイン~ザンクト=ヴェンデル~ノインキルヒェンと結んでズルツバハを通り、ザールブリュッケンに達する路線)であろう、と想像するのです。
それだけではありません。このままではザールブリュッケンを第二軍が先に攻撃、奪還してしまう。第一軍が引き上げた町を第二軍が奪い返す。シュタインメッツにとって屈辱以外なにものでもありません。
これによりシュタインメッツは5日夕方、次の命令を下すのでした。
「我が軍は明日、ザール川に向かって行軍する。第7軍団はレーバッハより本営をリーゲルスベルク付近、前衛をフェルクリンゲン~ザールブリュッケン方面へ進ませよ。第8軍団は前衛をズルツバハ西方フィッシュバッハまで出し、その後方(北)クヴィーアシート~メルヴァイラーまで梯団縦列をなせ。
第二軍の第3軍団は明日6日フリードリッヒスタールのビルトシュトックまで進むとのことである。騎兵第3師団はレーバッハ南西に展開し、軍右翼を警戒せよ。軍本営は明日アイヴァイラー東郊ヘレンハウゼンにあり。
第二軍との境界線はザールブリュッケン~ラントシュヴァイアー=レーデン(シフヴァイラー近郊)までの間はライン=ナーエ鉄道線を境とし、それ以北はラントシュヴァイアー~マインツヴァイラーの線とする。第7軍団と第8軍団の境界はルスフュッテ~ヴィースバッハ~エッペルボルンとし、第7軍団と第3騎兵師団の境界はスプリンゲン~レーバッハとする。第1軍団と騎兵第1師団はすべて我が第一軍に編入された」
この命令は自軍だけでなく、マインツの大本営と第二軍本営にも電信で送られ、また第二軍の第3軍団にも送られました。この電信に対する反応は「肯定(受領した)」であり、各高級指揮官たちが了承したこととなります。ですから、この後6日に起きた会戦はシュタインメッツのせいばかりではないことになります。
シュイタインメッツにすれば、モルトケ(=大本営)が無闇に部隊を動かし、前線から遠避け、挙げ句はカール親王に「お先にどうぞ」とばかり全軍の先頭を譲れ、というのですから我慢がならなかったのだ、と思います。そこで、第二軍と「肩を並べて」進軍し敵と戦おうと考え、きっちり「なわばり」を指定して前に進もうと言うのです。
シュタインメッツは「ナーホトのライオン」と呼ばれ、黒、赤両方の鷲勲章を同時に授けられる、というそれまでは誰も成し得なかった栄誉を与えられた英雄でした。
4年前、初夏のボヘミアで次々と敵を打ち破り、1個軍団を率いて次々と敵3個軍団を打ち破りました。あの時も敵を求め退くことなく前に突き進み、その積極性が好結果を生んだのでした。
ところが、今回は進むのではなく、のんびりと待機したかと思えば後退し陣形を変えるだけ、野営地をひたすら変えるだけで、しまいには「じゃまだからどけ」なのです。
シュタインメッツは、そもそも参謀本部のモルトケは、ドイツ軍がフランス軍より先手を取った場合、第一軍をトリールからモーゼル川に沿って西進させ国境を突破、そのまま川沿いにメッスを目指し、第二軍はその南で並進しナンシーを狙う作戦だろう、その場合各部隊の司令官は「委任命令」を以て独立し独断で作戦行動が許されるはず、と想像していました。
確かに敵は事前の想定以上に「弱腰」とは言え、あの勇将バゼーヌ率いる10万余りの敵は、カール親王の第二軍がプファルツからロレーヌへ侵攻した場合、無視出来ない勢力であろう。我々第一軍がその右翼(北)を接近して守り進むことが必要なはず。彼の後背を拝むなどもっての外だ……もう上からの命令はたくさん。敵は前にいるのだからぐずぐずしていないで前に進めばいいのだ。
シュタインメッツが5日の夕方に下したのは、そう言わんばかりの熱い命令だったのでした。
しかし、参謀本部のモルトケの考えはもっと上にあったのです。
モルトケは、フランス軍が積極的に行動しないのは、動員がうまくいかず攻勢に耐えるだけの物資も集積出来ないからだ、と看破していました。しかも4日にはプファルツ南方ヴァイセンブルクで皇太子第三軍が(多分マクマオン将軍指揮の)フランスの「南方軍」と戦い進撃し始めていました。これでフランス軍は南部と北部に分かれて戦うことになりました。
モルトケは敵の行動を読み、これで北部フランス軍は防御に転移するしかなくなり、モーゼル川に沿ってティオンビル要塞とメッス要塞に頼り布陣するはず、と考えるのです。
この敵の布陣に対しモルトケは、第一軍を以てザール川を越えて西進させ敵の正面を押さえ、その間に第二軍を迂回させザールブリュッケン~サルグミーヌから越境して南西へ進ませ、ナンシーの北で90度右へ転進し北上、メッスを包囲攻撃する、という作戦を考えたのでした。
この作戦を実行するためには、既に敵に面している第一軍に対し、第二軍がその左翼に連絡するまで「待った」を掛け、タイミングを見計らって敵と会戦することが必要、と考えたのです。
そのため一時的に第一軍には戦場から離れて貰わねばなりません。
それが「第一軍のトーライ集中」で、シュタインメッツがこの位置にいれば攻撃時には第一軍は45度右に旋回し西を向き、比較的短距離でザール川に正対することが出来、しかも第二軍がその第一軍を旋回軸として大迂回をするため、第二軍右翼の南西への転進が必要となり、第一軍に「道を空けて」貰いたかったのでした。
つまりは敵にも名高いシュタインメッツの第一軍を進ませて注意を引きつけ、南から大軍で進撃し攻撃すると言うモルトケお得意の「分進合撃」です。そうとは知らないシュタインメッツは自分が蔑ろにされている、という思いに駆られてしまっていたのでした。
モルトケは大事(敵とのメッス会戦)の前に命令を頻発したり細かく説明することで各軍の行動を束縛すべきでない、それに師と仰ぐクラウゼヴィッツの「戦場には『霧』がある」、すなわち「何が起きるか分からない」戦場では刻一刻と状況が変わるので「その時」が訪れるまで決めてかからない、との考えから、それぞれの軍が互いの行動を阻害してしまう時以外は命令を控えていたのでした。
しかし、その想いはシュタインメッツには届かなかったのです。これがこの後、ドイツ軍に暗雲をもたらすことになってしまったのでした。
この5日にはザールルイ要塞に本来の守備隊要員の予備役が到着し、臨時に要塞守備隊の一部となっていたグナイゼナウ少将の第31旅団配下、第69連隊の2個大隊はお役御免、この日の午後ザールルイを出立し翌6日、オットヴァイラー西郊外に野営する第16師団に復帰するのでした。
一方、東プロシアやポンメルンで編成のなった第1軍団と騎兵第1師団は2日ベルリン周辺で態勢を整えた後、3日、何十編成もの列車に乗車し、ビルケンフェルト(ザンクト・ヴェンデル北16キロ)、カイザースラウテルン、そしてホンブルク(同じく南東22キロ)の終点まで輸送されました。
最も早く到着したのは騎兵師団の前衛で、その胸甲騎兵第3連隊と槍騎兵第12連隊はビルケンフェルトで5日夕刻下車しています。その後も続々部隊は到着、騎兵前衛に続き(歩兵)第1師団もビルケンフェルトに到着、5日夜にはその前衛がザンクト・ヴェンデル北1キロで配置に付き始めるのでした。
第2師団はカイザースラウテルンやホンブルクという本来は第二軍用の補給端末駅に到着したため、トーライ~ザンクト・ヴェルデルの宿営予定地まで達するには、なお数日を要するものと思われていました。




