北独第一軍・8月2日から5日(前)
8月2日。ザールブリュッケンで普仏が初めて本格戦闘状態となったこの日、前線の後方ではドイツ第一軍の第7軍団がザール地方を行軍し続けていました。
全ドイツ軍の最右翼(北)となる第13師団はモーゼル川にザール川が注ぐコンツ(ザール川に重要な橋が架かっていました)に後衛1個大隊を残し、本隊はルクセンブルクとの国境付近を更にフランス国境に向け前進、前衛は仏国境まで15キロ余りのトラッセム(ザールブルク南西3キロ)まで進み、騎兵を国境付近に斥候として放ち、本隊はザールブルクに到着しました。
第14師団はビットブルク南郊外の野営地を発してトリールに到達します。その夜2個大隊をトリール守備隊として後置し、本隊は長躯ツァーフ(トリールの南20キロ)まで徒歩行軍するのです。この炎暑の8月に一日30キロ余りという速度は見事としか言いようがありません。
第7軍団の直轄砲兵隊はその後方ペリンゲン(トリール南9キロ付近)まで進み、騎兵第7旅団はトリール南2キロ付近に達します。
ザールブリュッケンでグナイゼナウ支隊が交戦した第8軍団は、第15師団のほとんどが命令通りヴァーダーンに達し、驃騎兵第7連隊長フォン・ローエ大佐は、第16師団所属でグナイゼナウ少将に預けられてザールルイの北方国境を護っていた驃騎兵第9連隊と交代すべく、自部隊の3個中隊と猟兵大隊を率いてディリンゲンとレーリング(ザールルイ北)目指し進んで行きました。
グナイゼナウ支隊の親部隊、第16師団はこの日の戦闘結果を受けて大きな反応を見せました。
グナイゼナウ少将は戦闘後深夜にヒルシュ川の線(ホイスヴァイラーとリーゲルスベルク中間)まで後退し、師団本隊はこの日、ヌンキルヒェンからレーバッハまで前進しました。
師団長のバルネコウ中将はレーバッハに到着後の午後遅くに、ザールブリュッケンからグナイゼナウ支隊がレーバッハ南方10キロ付近まで撤退する事を知り、直ちに全部隊を南8キロのホイスヴァイラーまで前進させる準備を命じます。そして自らは騎行して先行し、ヒルシュ川河畔でグナイゼナウ少将と会い、再び敵と接触するに必要な処置を取るようグナイゼナウに命じるのでした。結局この夜、第16師団の本隊は一部をエッペルボルン(レーバッハ東6キロ)、残りをラントシュヴァイラー(レーバッハ南3キロ)まで進ませるのでした。
第8軍団長、ゲーベン大将は8月1日にコブレンツを発してヴァーダーンに本営を設置、2日午後同地でザールブリュッケンの経緯とグナイゼナウ支隊の後退を聞き及びます。ゲーベン将軍もバルネコウ師団長と同様、グナイゼナウが態勢を整えて直ちに敵に向かうよう命令し、また配下の部隊全軍をザールブリュッケンから侵入するフランス軍に対抗させるため、3日に第16師団と騎兵部隊にその前衛をドゥットヴァイラー~ザールブリュッケン~フェルクリンゲンの線まで進ませるよう命じました。更に第15師団本隊についてはレーバッハまで行軍し、第16師団をいつでも援助出来る態勢を整えるよう命じました。
ゲーベン将軍はこの一連の命令を受けて部隊が忙しく行軍準備に入るのを見届けると、この日(2日)にトリールに到着した軍司令官シュタインメッツ大将に宛て「前進してザールブリュッケンを奪還し、フランス軍を追い返したい」と電信で事後承諾を求めました。シュタインメッツ将軍は直ちにこれを承認する電信を送り返したのです。
高級指揮官全てが前のめりに強気の攻勢一本槍なので、敵前から引き上げたグナイゼナウもバツが悪かったに違いありません。あの敵の大軍と優秀なシャスポー銃、そして奇っ怪な「集中する散弾を放つ新型砲」を前に、そのまま踏み止まれば包囲の危険性もあったのですから、グナイゼナウを責める者はありませんでしたが、少将は後ろめたさを感じたに違いないのです。
グナイゼナウは疲れた部下を慰労しながらも後衛を前衛に変えて後退から前進に切り替えます。この2日深夜から3日朝にかけて、本隊を休ませつつ前衛をザールブリュッケン北に広がる森林地帯まで引き返させ、斥候を北はフェルクリンゲン、南はザールブリュッケン市街地のザンクト・ヨハンまで侵入させるたのでした。
3日、グナイゼナウ少将を援助するため第16師団本隊がホイスヴァイラーの北まで進出しました。またこの日には7月29日の第二軍カール親王の命令で行軍していた、第5騎兵師団前衛のレーデルン少将旅団がホイスヴァイラーに到着しました。
同じく3日、第15師団と軍団砲兵はゲーベン軍団長の命令によりレーバッハに到着します。中でも最も北方にいた歩兵第33連隊は、8月1日からこの3日まで炎天下の山間部を25キロ徒歩行軍したこととなります。待望久しい輜重縦列もヴァーダーンに到着して後方支援を開始しました。
この日はザールルイ方面でも動きが出て、手薄だったザール川下流域(ザールルイの北方)を第7軍団の第13師団が担当することとなります。
第13師団は国境北端の警戒から更に南側ザール下流域の警戒に移され、驃騎兵の小部隊を北方に残しザールブルク~国境までを警戒させ、本隊は最初ザール西岸を進んでメトラッハに至り、ここで東岸へ移るとメトラッハに架かる橋を撤去しました。この日は前衛をハルリンガー川(ザール支流・メルツィヒ南3キロ)へ、本隊はメルツィヒ(ザールルイ北西18キロ)に達しました。また小部隊をさらに南のレーリンクに送って、驃騎兵第7連隊の重責を肩代わりし交代しました。また、後衛の1個大隊はコンツを発し、ザールブルクに入ってドイツ軍の最北端となりました。
第14師団はツァーフを発してロースハイムに入り、トリール守備の2個大隊も町を出て南へ向かいました。
その右翼はブロートドルフ(メルツィヒ北東)に、左翼をほぼヌンキルヒェンの北に置いて、ここからブロートドルフとの間に展開し、右翼(西)はメルツィヒの第13師団と連絡、左翼(東)はヌンキルヒェンで騎兵第3師団と連絡する形となりました。
その騎兵第3師団は、半月をザールブリュッケン周辺の防衛で過ごした槍騎兵第7連隊と胸甲騎兵第8連隊がロースハイム~レーバッハ間で集合して騎兵第6旅団となり、トリールの南に展開する騎兵第7旅団と併せ正式に師団編成を完了します。騎兵第3師団は第14師団とレーバッハの第15師団を連絡する形となりました。
これは参謀本部が第一軍に命じた「ヴァーダーン~ロースハイム集合」よりかなり南へ(敵側へ)前進する命令であり、普通の軍隊なら完全な命令違反です。しかし、プロシア軍はモルトケの意向で「委任命令」が活きていることを忘れてはなりません。
シュタインメッツは、大本営の究極の目的は「敵の壊滅」であり、モルトケの命じた「ヴァーダーン~ロースハイム集合」はその過程に過ぎないのだから、状況が変化した(ザールブリュッケンで敵が先手を打った)今、前進して戦うのは本筋の目的を逸脱していない、と考えたのです。
こうしてシュタインメッツ大将は、ザールブリュッケンからモーゼル川方面へ北上が予想されるフランス軍に対する戦陣を固めると、本営をトリールから更に南進させ、ロースハイムに入りました。
そのシュタインメッツ第一軍の本営に次々と騎兵斥候たちの報告が上がって来ます。それぞれの情報を軍の参謀たちがつなぎ合わせ、その結果、フランス軍の動きが炙り出されて行きました。
斥候たちの情報をまとめると、フランス軍のお粗末さが浮き彫りとなってきます。北方シエルク=レ=バンに駐屯していた1個師団はどうやら南下した様子で、ザールルイから北ではこの日、わずか30名程度の猟兵部隊が味方の斥候と銃撃戦を行っただけで、ザール川からは敵の姿は全く消えてしまいました。ザールルイ要塞司令官の伝では要塞の上流(南)対岸には敵の大部隊がいる様子で、その数4万、どうやらクリミア戦争以来の雄将バゼーヌ大将が率いているらしい、とのことでした。また、ザールブリュッケンの西にも未だ大軍がいるらしいのですが、これが全くザール渡河を試みず、対岸の丘に防衛用の陣地を設営しているらしい、とのことでした。
ザールブリュッケンのザール川東岸、ザンクト・ヨハンの街区には電信局がありますが、フランス軍が数百メートル離れた場所にいるというのに、未だ電信線は切断されておらず、また、ザール川対岸のフランス軍砲兵は、たまに市街地に向けて砲撃を繰り返しますが幸いにも電信局付近には着弾する事はなく、勇気ある職員が居残る局からはマインツ始めドイツ軍拠点に向けて敵情が次々に送信されていました。
フランスは積極的に斥候を出さずにいて、このような間抜けな状態となっていたのでした。
シュタインメッツ大将はこうした情報から、フランス軍はこれ以上ザールで騒ぎを起こす気はなく、更に南、プファルツの地から攻撃をするに違いない、と考えます。プファルツではカール親王の第二軍が構えており、また皇太子第三軍のバイエルン軍第4師団も展開しています。シュタインメッツはこれら友軍を助けるためにも敵を牽制し拘置しようと考えるのです。
そのため大将は翌4日をもって自軍をザールルイ~ヘルレンハウゼン(ホイスヴァイラー北)の線まで前進させ、更に5日には第3騎兵師団と第7軍団から抽出した強力な偵察支隊で、一気にザール西岸仏領のブゾンヴィルからブレ=モゼル(同)、サン=タヴォルにまで押し出そうとしました。
しかし、その命令を正に実行しようとした3日午後、大本営から次の電令が届くのでした。
「フランス軍は前進を始めたものの逡巡している様子である。そのため、8月6日を以て第二軍をカイザースラウテルンより西に集合させることとする。しかし、もし敵が予想に反して迅速に行動して東進した場合、第二軍はロタ川の北方へ移動しここで敵と会戦を行うこととしたい。このため第一軍はザンクト・ヴェンデル(ノインキルヒェン北10キロ)かバウムホルダー(カイザースラウテルン北西28キロ)から第二軍の方向へ進むこととする。ヴィルヘルム国王陛下は第一軍に対し明日(4日)トーライ(レーバッハ北東12キロ)周辺に集合すべしと命じられた。第三軍は明日ヴァイセンブルクにおいて国境を越えようとしている。すなわち我がドイツ全軍は明日4日より攻勢に出るものである」
シュタインメッツはこの命令を受領すると直ちに第一軍へ、
「第一軍は明日トーライへ前進する。第7軍団の両師団(第13、14)はレーバッハへ集合せよ。第8軍団、その第16師団はオットヴァイラー(ノインキルヒェンの北7キロ。ザンクト・ヴェンデルよりかなり南)へ、第15師団はトーライへ向うべし。騎兵第3師団はトーライ~ザンクト・ヴェンデル間をつなぐ街道より北に集合せよ。第一軍本営はトーライにあり」
と命じ、これをマインツ大本営に報告するのでした。しかしこの時モルトケは、シュタインメッツの命令で第一軍が、大本営命令より少々南へ寄った陣形となることに対し何も言わなかったのです。
4日。シュタインメッツの命令に従いゲーベン大将は第8軍団本営をオットヴァイラーへ、第16師団前衛のグナイゼナウ少将支隊はヒルシュ川の線からシフヴァイラー(ノインキルヒェン西3キロ)へ、本隊は第32旅団長レックス大佐指揮の下ホイスヴァイラーからシュテンヴァイラー(オットヴァイラー西南西5キロ)へ、それぞれ移動しました。
連日長躯行軍が続く第15師団はレーバッハで一息つく間もなく行軍し、トーライとその東、アルスヴァイラーから南東8キロでオットヴァイラーの西にあるマインツヴァイラーの線上に展開します。軍団砲兵はレーバッハの東、エッペルボルンからその東、ディルミンゲンに宿営します。
また、ツァストロウ大将は第7軍団本営をレーバッハに移し、ロースハイムの第14師団をレーバッハに呼び寄せました。その前衛指揮官は闘志満々のフランソア少将旅団長で、レーバッハの南郊に部隊を野営させます。同じく第13師団は本隊がレーバッハ北西5キロのベッティンゲンに、前衛は名門貴族家のフォン・デア・ゴルツ少将が率い、本隊の南西4キロのヒュッタースドルフで西方を警戒しました。
騎兵第3師団はザンクト・ヴェンデル周辺で第二軍の部隊と連絡を保つ任務を始め、第一軍本営はトーライに至りました。
この日トーライには海軍の重鎮、アーダルベルト親王海軍大将が軍司令部付としてやって来ました。
なぜ海軍の大御所が陸軍の前線に、と思われるかもしれませんが、この時代のプロシア軍は完全に陸軍主導であり、海軍の育成に力を注いだ海軍命の親王とはいえ陸軍国の王族としての立場もあります。海軍部隊の指揮は全て北海艦隊司令長官エデュアルド・フォン・ヤッハマン中将やバルト海方面司令ヘルト少将らに任せていたので、ベルリンやキールにいたら司令部の幕僚は気が散るであろうし、親王自身口も挟みたくなる、ということでヤッハマン中将たちが動きやすいよう距離を置こうとしたのかもしれません。
なお、ザールルイの北ザール川西岸やザールブルクで国境を警戒していた前哨兵たちは全て東へ引き上げ、ヌーンキルヒェンやツァーフ近郊まで下がります。軍の輜重はヴァーダーンにいました。
こうして攻勢から一転、後方へ機動することとなった第一軍ですが、主力全てが国境より東へ後退した形となったため、ザール川流域の防衛拠点としてはほとんどザールルイ要塞だけとなってしまいました。
この3日から5日にかけてフランス軍はティオンヴィルからブゾンヴィル、サン=タヴォルに大軍を張り付けたまま、更に後方から援軍を迎え、明らかに兵員数が増加している気配がありました。
いくら攻撃の気配がないフランス軍とはいえ、シュタインメッツ将軍もこの点が大いに気にかかり、国王の権威下にある参謀本部の命令ゆえに反対こそしませんが、トリールは糧食や補給物資の集積地でもあり、ザール川下流からモーゼル川流域を「ノーガード」にするモルトケのやり方には不安を感じていたのでした。




