ザールブリュッケンの戦い
普仏戦争も仏独動員から半月が過ぎ、盛夏8月を迎えました。
ドイツ軍全体の右翼(北)となるシュタインメッツ大将の第一軍は「8月3日までにロースハイム(=アム=ゼー)~ヴァーダーン間に集合せよ」との参謀本部(=大本営)命令を実行しつつありました。
8月1日、北ドイツ第7軍団(ツァストロウ大将指揮)の第13師団(グリューメル中将指揮)は、元来ザールに駐屯する騎兵第7『ライン』旅団(騎兵第3師団の半分)と共にトリール(プロシア領。モーゼル河畔ルクセンブルク国境付近)に駐屯し、歩兵4個大隊、騎兵4個中隊、砲兵2個中隊からなる前衛支隊を結成、普仏国境を突破してモーゼル川沿いにフランス軍がやって来るのを警戒するため、コンツからザールブルク(いずれもトリール南西街道沿い)付近まで前進させていました。
この日、同じ軍団の第14師団(カメケ中将指揮)はモーゼル川支流キール川沿いを前進中でビットブルク(トリール北北西20キロ)付近にいます。
第8軍団(ゲーベン大将指揮)の第15師団(ヴェルツィエン中将)はヴァーダーン付近まで前進して配置完了、同第16師団(ヴァルネコウ中将)は一部を除きヴァーダーンから更に南へ展開し、本隊はヌンキルヒェン(ヴァーダーン南西7キロ)付近を目指し進みます。
この16師団からはザール河畔へ歩兵5個大隊、騎兵2個連隊、砲兵2個中隊からなる前衛が派遣され、この支隊は偉大な父を持つプロシア軍のエリート、伯爵グナイゼナウ少将が率いていました。
グナイゼナウ(Jr.)将軍
この「グナイゼナウ支隊」の8月2日早朝における配置は以下の通りです。
○歩兵第40連隊の第1、第3大隊(第1~4、第9~12/8個中隊)
ザールブリュッケン市街地から北西2キロにあるラストプフール部落周辺で、驃騎兵第9連隊の1個中隊及び砲兵第8連隊の軽砲兵1個中隊(4ポンド砲6門)とともに森林に沿って陣地を構築
○歩兵第40連隊の第2大隊(4個中隊)
・第6、第7中隊 ザールブリュッケンの練兵場(ザール川西岸にある現在の陸上競技場)とヌスベルク(ヌス丘)~ヴィンターベルク(ヴィンター丘)、ザンクト・アルヌアール部落(いずれもザール川西岸市街地)に陣地を構築
・第8中隊 ブレーバッハ=フェヒンゲン部落(市街地南東)にあってサルグミーヌ方面(南東方向)を警戒
・第5中隊 ザンクト・ヨハン地区(市街地東側ザール川東岸)に野営
○槍騎兵第7連隊(4個中隊)
・2個中隊 ザールブリュッケン周辺の斥候任務
・1個中隊 歩兵69連隊に派遣
・1個中隊 ドゥットヴァイラー部落(ザールブリュッケン北東6キロ)防衛
○驃騎兵第9連隊(4個中隊)
・1個中隊 レーリング部落(ザールルイ北西6キロ)防衛
・1個中隊 ディリンゲン部落(ザールルイ北西3キロ)防衛
・1個中隊 ラストプフール部落防衛
・1個中隊 ホイスヴァイラー(ザールブリュッケン北北西14キロ)駐屯
○歩兵第69連隊の第3大隊(4個中隊)
・第10中隊 ブルバッハ鉄道橋(市街地西2キロザール川に架かる橋)とマールシュタット(同じく西郊外/現在のヴィーゼン通り付近)を警備
・他3個中隊 槍騎兵1個中隊と共にフェルクリンゲン(ザールブリュッケン西5キロ)からヴェールデン(フェルクリンゲンのザール川対岸)付近のザール川渡河点を警戒
○歩兵第29連隊の第2大隊(4個中隊)
ホイスヴァイラーで驃騎兵1個中隊及び砲兵第8連隊の重砲兵1個中隊(6ポンド砲6門)と共に駐屯
※第31旅団の残余、第69連隊の2個大隊はザールルイ要塞に、第29連隊の2個大隊は師団本営と共にヌンキルフェン付近にいました。
余談ですがザールブリュッケンでがんばる本来は第32旅団(レックス大佐指揮)に属する歩兵第40連隊は、プロシア王国の飛び地で、そもそも今次戦争の原因となったスペイン王候補を出したジグマリンゲン家のある王家父祖の地ホーエンツォレルン州のフュージリア部隊です。
これらの部隊を率いるグナイゼナウ少将は、軍団長のゲッペン大将より、敵の攻撃を受けた場合敵が優勢ならばレーバッハ(ザールブリュッケン北北西18キロ。ヌンキルヒェン南南東10キロ)まで退却するも可、と命令されていました。
8月2日朝。フランス第2軍団長フロッサール中将は事前計画通り前線部隊に対しザール川に向けて前進を命じます。
同じ頃、バゼーヌ大将の第3軍団前衛がプロシア領フォルクリンゲンに向けて前進を開始し、ファイー中将の前衛もサルグミーヌの町を出てザール川を渡河し始めました。
フロッサール軍団は10時過ぎになってプロシア軍の斥候に接触され、ほぼ同じ頃、ザール川国境のクラインブリッタースドルフの前進哨から「サルグミーヌの敵、渡河を始める」との至急電が発せられます。
フロッサール軍団の先鋒はバタイユ少将の師団で、その前衛・ファヴァー=バストゥル准将の旅団はスピッヘルン高地を一気に下るとフォルバッハに続く街道の右を突進してザール川を目指し、プジェ准将旅団は同じ街道の左側を敵の練兵場目指して急進しました。彼ら歩兵の前には猟騎兵第5連隊から3個中隊が派遣され、斥候として放たれています。
このバタイユ師団の右翼やや後方1.5kmにはラヴォークペ師団のミシュレ准将旅団が続き、反対側(左翼)の同じ位置にはバージ少将師団のヴァラゼ准将旅団が続いていました。
ミシュレ准将は自分の旅団から1個大隊と師団の工兵1個中隊を割いてザンクト・アルヌアール部落へ向かったバストゥル旅団へ増援として送り、南方より敵が現れた場合の用心としてサルグミーヌ方面に1個大隊を送りました。左翼のヴァラゼ旅団長は2個大隊に騎兵1個中隊を付けて北方にいるはずの第3軍団との連絡を付けるためゲルスヴァイル方面へ進ませました。
このフロッサール軍団の前進を知ったザールブリュッケン前面を護る第40連隊第2大隊の第6、第7中隊は戦闘準備に入り、ザンクト・ヨハンにいた第5中隊は『赤家』と名付けた見通しのよい場所に建つ邸宅を接収すると、にわか仕立ての拠点とし、敵の市街地侵入を待ちました。
第2大隊を指揮するホルン少佐は、敵の動きを斥候が暴いた朝の時点で脅威を受けるであろうザンクト・アルヌアールにラストプフールから砲兵1個小隊(2門)を送る手配をしていました。また第6中隊を指揮するグルントナー大尉も、本隊を率いてザンクト・アルヌアールへ前進します。
そしてこの第6中隊がザンクト・アルヌアールに入った時、急ぎ西郊外から駆けつけた4ポンド軽砲2門と砲を護衛する散兵たちが到着し、折から急進して来た敵歩兵に対し急ぎ砲撃をを始めたのです。
ここに普仏戦争の火蓋が切って落とされたのでした。
ザールブリュッケンの戦闘
プロシア軍のたった2門の軽砲に手こずったフランス側指揮官のバストゥル准将も砲兵を呼び、駆けつけた1個中隊の4ポンド歩兵砲兵が猛烈な射撃を浴びせると、プロシア側も負けずに応じ、一時激しい砲戦となりました。
しかし、やはり攻める側のフランス軍の数は守るプロシア軍の数倍であり、ミシュレ准将の部隊が駆けつけてバストゥル旅団と共に包囲を狙い始めるとザンクト・アルヌアールのプロシア部隊は、(多分軽砲2門を破壊して)手遅れになる前に順次後方へ下がり始めました。
これで前線に穴を開けたフランス軍は第40連隊(プロシア側と同じ隊番号ですがフランス側です)の1個大隊がザンクト・アルヌアールを占領、仏第67連隊はヴィンター丘を、第66連隊はレッパース丘(ヴィンター丘の更に北西ザール川寄り)を目標にそれぞれ進撃するのでした。
プロシア側の第40連隊第6中隊のグルントナー大尉はザール川西岸の部隊を引き連れてザール川に架かる橋を渡り、フランス兵から猛烈なシャスポー銃の射撃を浴びますが何とかザンクト・ヨハンへ退却し、川沿いの民家を拠点に態勢を整えました。
一方、ザンクト・ヨハンにいた普第40連隊の第5中隊長コッシュ大尉は、第6中隊が川向こうから後退して来ると味方の撤退を援護、入れ替わるように敵に対しました。その拠点は例の『赤家』で、ここから1個小隊が出撃して川を渡り、敵がやって来る前にレッパース丘へ登り、ちょうど向いのヴィンター丘へ登る仏67連隊を果敢に攻撃します。中隊の残りも射撃を開始しますがここでも敵は優勢で、またシャスポー銃の命中率と威力は絶大で、ドライゼ銃だと命中が困難な距離から猛烈に撃ち込んで来るフランス兵に対し、非力なドライゼ銃を扱う少数のプロシア兵は苦戦を強いられるのでした。
結局渡河した小隊は負傷兵を連れて退却し、第5中隊の攻撃は頓挫するのです。
第6中隊と共にザール西岸のプロシア軍練兵場付近で野営していた第7中隊は、ローゼン大尉が指揮をしていました。大尉は戦闘が始まるや練兵場にいた前衛を強化し、兵を展開させました。
敵のプジェ旅団は少数のグループに分かれて散兵戦術を採り前進して来ました。そして練兵場まで1,000m近辺まで来ると猛烈な射撃を開始します。ローゼン中隊は反撃が出来ません。何故なら彼らの扱うドライゼ銃の射程は精々600mだからで、敵は自分たちのシャスポー銃の1,100mという射程を頼りにドライゼの射程外から射撃をするのでした。
この援護射撃の中、フランス軍は中隊ごとの集団となって何波もの銃剣突撃を繰り出して来ました。
このプジェ旅団の攻撃は更に左翼(西)へ展開し鉄道線の西にある森を占拠して有利な拠点を得ます。尚もザールブリュッケンの西郊外を目指す部隊もありましたが、これは市街地の西でザール東岸に沿って展開する普第40連隊主力の射撃で阻止されました。
しかしこれにより、正面からの敵の猛攻を至近距離でのドライゼ小銃の一斉射撃で撃退させていたローゼン大尉の中隊は、西進した敵に後方へ回り込まれそうになりました。ローゼン大尉の下には後方から幾度か伝令がやって来ては「敵が逼迫したら直ちに後退せよ」との命令が届きますが、大尉は何度も首を横に降り続け、敵が500mまで迫るまで戦い続けました。この第7中隊の決死の戦いにより、数倍のフランス軍は足止めされてしまいます。
プジェ旅団のフランス兵たちは突撃を止め、伏せてドライゼ銃の射撃をやり過ごしました。ここでローゼン大尉にグナイゼナウ少将からの「撤退せよ」との厳命が届き、大尉ももはやこれまで、と中隊に退却を命じました。大尉は交互に援護射撃を繰り返させながら隊を下流(北西)へ導き、ザール川に架かる「新橋梁」から無事に東岸へ撤退を完了するのでした。
戦闘の当初(午前10時)、グナイゼナウ少将は練兵場で指揮を執り戦闘の経過を見ていましたが、11時には戦況が不利になるのを確信して川を渡り、西郊外の主力から1個大隊(第40連隊第3大隊)と残った軽砲4門を東側のザンクト・ヨハンに移動させました。第3大隊長のホルレーベン少佐は2個中隊で鉄道駅と重要な「新橋梁」を守り、1個中隊(第11中隊)を市街地の西端に置いて西岸にいる味方の撤退を援護させました。この11中隊のお陰で西岸の諸隊は整然と撤退することが可能となり、12時までには全部の部隊が軽微な被害で東岸へ撤退する事が出来たのです。
この正午の時点でザールブリュッケンのザール川を挟んだ西岸地区は全てフランス軍の手に陥ちますが、ザール川に架かる新・旧橋梁と鉄道橋はプロシア側が押さえ、フランス軍も橋の手前で進撃を休止しました。
12時15分になると、フランス軍は占領したレッパース丘に1個中隊6門のミトライユーズ砲を引き上げ、また、つい先ほどまでグナイゼナウ少将がいた練兵場にも1個中隊の砲兵が砲列を敷き始めました。程なく練兵場には12ポンド重砲中隊も到着し、フランス軍は対岸の砲撃準備を急ぎますが、このころ(12時半)には既に銃撃戦は止んでおり、辺りは不気味に静まりかえっていました。
しかしこの自然休戦状態もほんの一時、グナイゼナウ少将は移動途中の軽砲4門を止め、市街地西のマールシュタット付近の丘から西岸を狙わせ、およそ練兵場まで2,000mの距離で砲撃を開始させました。フランス側も負けじと応射し、砲撃戦となります。この時レッパース丘に砲列を敷いたフランス砲兵第5連隊第9中隊は普仏戦争最初のミトライユーズ砲の砲撃を行いました。
一方ザールブリュッケンの西、ブルバッハ鉄道橋からザール下流フェルクリンゲンとヴェールデンを守るプロシア歩兵第69連隊にも危機が迫っていました。
午後1時。フランス軍バゼーヌ第3軍団に属する砲4門に支援された2個大隊がヴァールデン付近の橋梁を急襲したのです。橋は普69連隊の第12中隊が守っていましたがこれに敵は榴散弾攻撃を加え、守備隊がこれに耐えている隙に前進し、砲撃直後、突撃を敢行しました。しかし中隊はこれに耐えてよく橋を守り、フランス軍は攻撃を中止し後退するのでした。
また、朝に至急電で伝えられたサルグミーヌのフランス軍出発でしたが、その後はどうしたことか、フランス軍部隊は渡河しただけで満足し、そこからは一向に動くことはありませんでした。
午後2時になると、砲撃戦こそ続いていましたが敵は次々にザール川西岸に集まり、状況はすっかりプロシア軍不利となって来ました。
ここでグナイゼナウ少将は決断し「全軍ザールブリュッケン市街地を捨て北西郊外のラストプフール部落ヘ移動せよ」と命令を発しました。普第40連隊第2大隊長のホルン少佐は戦闘中止を命じ、部隊を率いて鉄道駅前を通り市街地北西に広がる森まで後退します。
また第3大隊長ホルレーベン少佐も部隊を率い、第10中隊に後衛を任せるとラストプフールへと移動するのでした。この第10中隊も3時まで敵と小競り合いを続けた後、無事に撤退を完了します。同じく砲撃戦を行っていた軽砲4門も後退しました。
ラストプルーフにはブルバッハ鉄道橋にいた第69連隊の第10中隊も合流し、連隊規模になった部隊はここでフランス軍と対峙するのです。
フランス軍はプロシア軍の撤退を見ると砲撃を強め、レッパース丘のミトライユーズ砲は目前を横切る鉄道堤上に敵が見える度に射撃を行い、練兵場の大砲は橋梁や市街地を狙って砲撃を繰り返し、橋は可燃物に引火して煙を上げていました。
ラストプルーフに入ったグナイゼナウ少将は敵の出方を窺いますが、どうやらフランス軍はザール川を渡る気はないようなので、撤退したばかりの東側ザンクト・ヨハン地区に小部隊を向かわせ、負傷兵を回収させることが出来ました。
午後6時になり、グナイゼナウ少将がザール川流域に放った斥候の一人は「敵の大縦隊、ゲルスヴァイラー(ラストプフール南西4キロ・ザール西岸)に向かう」と報告し、敵が広くザール川西岸に広がりつつある現状で夜を迎えることで包囲の危険を感じた少将は、現在ザールブリュッケンからレーバッハへ続く街道沿いに展開する支隊を、5キロほど北へ後退させたヒルシュ川(ヒルシュバッハ)の線で野営警戒することと決めます。
この決定によりフェルクリンゲンの第69連隊を呼び戻し、またドゥットヴァイラー部落で警戒していた槍騎兵中隊も召還し、グナイゼナウ将軍はラストプルーフを後にするのです。
また、ホイスヴァイラーにいた第29連隊の第2大隊や騎兵、重砲兵は既に12時頃ザールブリュッケンに向け前進せよ、とのグナイゼナウ少将の命令を受けましたが、この行軍中、ラストプルーフ南方で撤退命令を聞き、69連隊に続いて後退して行きました。
後退する第40連隊第1大隊の軍旗には、フランス軍の榴弾の破片が開けた穴が開いていました。
最後までブルバッハ鉄橋付近に残っていた69連隊の後衛も午後7時には退却を始め、この部隊は夜を徹して行軍し、翌朝ようやくヒルシュ川の本隊野営地にたどり着いたのでした。
こうしてグナイゼナウ支隊の長い1日は終わったのです。
平時よりザールブリュッケンに駐屯し、フランスの宣戦布告後はザールブリュッケンの防衛隊長となったプロシア槍騎兵第7『ライン』連隊長のフォン・ペステル中佐は、半月の間強力なフランス第2軍団と対峙し、僅か1個大隊に騎兵数個中隊を率いただけで一歩も引き下がらず、グナイゼナウ少将が前進し任務を代わった後も本来の斥候任務を受けて町に残り、その行く末を見て来ました。中佐も部隊と共にヒルシュ川へ後退して行きましたが、馬上の中佐は敵に半分占領された夕暮れの街を振り返った時、どんな思いを抱いたことしょう。
ペステル
ちなみにこの戦いの最中、ナポレオン3世は思春期の皇太子(当時14歳)と共にフロッサール中将の本営を訪れ、騎乗の親子は並んでスピシュランの丘からフランス軍の攻撃を観戦していたと伝えられています。この日の夜、皇帝はパリの皇后へ誇らしげに電信を打ちました。
「ルイ(皇太子)は本日銃砲弾の洗礼を受けた。フロッサールがザールブリュッケン南方の丘より指揮を執り、麾下の軍は敵を攻撃した。交戦幾許もなく敵は退き、すると敵弾がザールの対岸より飛び来たりルイの足元に墜ちた。ルイはこれを拾って眺めていた。左右の近従は皇子の沈着冷静なるを見て賛嘆したものだ」
この話が本物かどうかは不明です。皇帝夫妻の一人っ子で溺愛されていたものの、寡黙で賢く成長し、ナポレオン1世の再来を見たボナパルティストも多かったと言われます。
皇子は後に数奇な運命を辿り、イギリス軍の士官としてズールー戦争に参加、野蛮な現地人の敵兵に囲まれ孤軍奮闘後に戦死(23歳)しているので、勇気のある人だったことは確かです。
ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(ナポレオン4世)
ザールブリュッケンの戦いによる損害(死傷者・行方不明者)は、フランス軍が士官・6名、下士官兵・80名で、プロシア軍が士官・4名、下士官兵79名でした。
この戦いは、この先2ヶ月に及ぶ普仏戦争「前期戦」の端緒となった戦いですが、人的損害では引き分け、戦術的にはフランス軍がドイツ側防衛陣を退却させたのでフランス勝利と呼べそうです。
しかし、ナポレオン3世皇帝やル・ブーフの考えていた「ザールブリュッケンを威力偵察し敵の戦力と意図を明確にする」という作戦目的については、フランス軍のおよそ4分の1程度の兵力だったプロシア軍を5キロほど後退させただけで、敵の本当の戦力も意図も掴めないまま、中途半端に国境を数キロ突破しわずかな占領地を確保しただけに終わるのです。
この戦いは結局小さなものとなったのでほとんどの史書はこの戦いをカウントせず、2日後の8月4日に発生した「ヴァイセンブルクの戦い」を普仏戦争の初戦としています。
ですが、戦略的にはフランスの失敗と呼べるこの戦いは、この先プロシア第一軍の行動に微妙な影響を与え、これが後に大問題となって行くので戦争全体を眺める時、外すことが出来ない戦いと言えるでしょう。
それにしても武器や員数に劣るプロシア軍の善戦が目立った初戦ではありました。
ヴィンター山の普軍捕虜(8月2日)
ザールブリュッケンの戦い・戦闘序列
☆フランス第2軍団
軍団長 シャルル・オウガスタ・フロッサール中将
○第1師団(バージ少将)
*第1旅団(シャルル・レテラー・ヴァラゼ准将)
・歩兵第32連隊
・歩兵第55連隊
・猟兵第3大隊
*第2旅団(シャルル・ジャン・ジョリヴェ准将)
・歩兵第76連隊
・歩兵第77連隊
*師団砲兵隊(シャヴォードレ中佐)
・砲兵第5連隊第12中隊(4ポンド砲x6)
・砲兵第5連隊第6中隊(ミトライユーズ砲x6)
*工兵第3連隊の1個中隊
○第2師団(アンリ・ジュール・バタイユ少将)
*第1旅団(プジェ准将)
・歩兵第8連隊
・歩兵第23連隊
・猟兵第12大隊
*第2旅団(ファヴァー=バストゥル准将)
・歩兵第66連隊
・歩兵第67連隊
*師団砲兵隊(ドゥ・メイテナン中佐)
・砲兵第5連隊第7、8中隊(4ポンド砲x12)
・砲兵第5連隊第9中隊(ミトライユーズ砲x6)
*工兵第3連隊の1個中隊
○第3師団(シルヴァン=フランソワ・ジュール・メルレ・ドゥ・レ・ブルジエール『ラヴォークペ伯爵』少将)
*第1旅団(ドエン准将)
・歩兵第2連隊
・歩兵第63連隊
・猟兵第10大隊
*第2旅団(ミシュレ准将)
・歩兵第24連隊
・歩兵第40連隊
*師団砲兵隊(ラロック中佐)
・砲兵第15連隊第7、8中隊(4ポンド砲x12)
・砲兵第15連隊第11中隊(ミトライユーズ砲x6)
*工兵第3連隊の1個中隊
○騎兵師団(マルミエ少将)
*第1旅団(ドゥ・ヴァラブレーグ准将)
・騎兵第4連隊
・騎兵第5連隊
*第2旅団(バシュリエ准将)
・騎兵第7連隊
・騎兵第12連隊
○軍団砲兵隊(ボードゥイン大佐)
・砲兵第5連隊第10、11中隊(12ポンド砲x12)
・砲兵第15連隊第6、10中隊(12ポンド砲x12)
・騎砲兵第17連隊第7、8中隊(4ポンド騎砲x12)
※バゼーヌ第3軍団の2個大隊とファイー第5軍団の部隊も進撃しますが詳細は不明。
☆北ドイツ(プロシア)第8軍団
軍団長 アウグスト・カール・フリードリヒ・クリスチャン・フォン・ゲッペン大将
○第16師団(男爵アルベルト・クリストフ・ゴットリープ・フォン・バルネコウ中将)
*第31旅団(伯爵ブルノ・フリードリヒ・アレクサンドル・ナイトハルト・フォン・グナイゼナウ少将)
・歩兵第29『ライン第3』連隊(フォン・ブルームレーダー中佐)
・歩兵第69『ライン第7』連隊(バイエル・フォン・カルガー大佐)
*第32旅団(レックス大佐)
・歩兵第40ヒュージリア『ホーヘンツォレルン』連隊(男爵フォン・エーベルスタイン大佐)
・歩兵第72『チューリンゲン第4』連隊(ヘルドルフ大佐)
○驃騎兵第9『ライン第2』連隊(ヒンツマン=ハルマン大佐)
○師団砲兵隊(ヒルデブラント中佐)
・野戦砲兵第8『ライン』連隊第3大隊
軽砲第5、6中隊・重砲第5、6中隊(4ポンド砲x12、6ポンド砲x12)
○騎兵第3師団(伯爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・デア・グローベン中将)※8月2日時点編成未決
*騎兵第6旅団(フォン・ミルス少将)
・槍騎兵第7『ライン』連隊(フォン・ペステル中佐)
○軍団工兵隊
・第8軍団野戦工兵第1、3中隊
ザール川を渡河し退却する普兵




