開戦直前のフランス軍(四)
最前線に向かう兵士たちがこの様子なのですから、後方任務に就いた兵士たちの苦難はそれに倍加するものがありました。
輜重部隊の士官にとって、この7月は「覚めない悪夢」であったはずです。彼らは突然動員の波に晒され、各地に点在する諸材料や物資、武器弾薬を集めようにも馬匹人員共に恐ろしいほどの不足であり、待てど暮らせど所定数の輜重兵や牽引用の馬匹は現れませんでした。それどころか、野戦病院や糧食運搬縦列を組織しようにも混乱は後方にまで波及しておりお手上げの状態で、軍医、看護手、獣医、経理兵も部隊に参集出来ず、経理を始めとする後方業務を束ねる兵站士官や主計士官を欠いたままの師団も続出しました。
第1軍団の経理部長は7月28日付の報告書に怒りを込めて、
「人馬共に欠乏し車輌はあっても動かせず」
とだけ記しています。
糧食も次第に供給困難な状況に陥ります。到着当初から輜重部隊が存在しない部隊では、近所の町や近くの要塞などから食料を手に入れようと奔走しますが、既に普段の人口の数倍に膨れ上がった辺境地帯、食べ物はすぐになくなり、パン焼き窯も数少なく要塞も食料を食べ尽くしてしまいます。前線部隊はカンパンなどの非常携帯食を食べ尽くし、次第に飢える始末でした。
また、必要なものを民間から購入しようにも主計経理士官が到着しない部隊には現金がなく、買いたくても買うことが出来ませんでした。この状態は次第に解消されますが、戦闘を前に余計な心配に翻弄され、兵士たちの戦意は大いに削がれたことでしょう。
おかしなことに、あれだけ優遇されていた砲兵部隊にあっても、いざ本番の出陣時、その弾薬輜重用の牽引用具多数が不良品であることが発覚、慌てた各部隊の輜重隊長は町の鍛冶屋や農器具屋に駆け込み、用具を直して貰うか新たに作って貰うしかなかったのです。
予備の弾薬もなかなか前線に到着せず、新兵器ミトライユーズ砲を手に入れた砲兵中隊は、訓練しようにもその弾薬が全く届かない部隊が数多くありました。
また、待望久しい地図が届いたかと思えば、その荷をほどいた士官が驚くことにそれはプロシア本土や南ドイツの地図であり、今直ちに必要な仏独国境地帯の地図などどこにもなかったのです。
ここまでひどい状態になると、強気で自信過剰のフランス軍高級指揮官たちであっても「ドイツ侵攻」など夢幻に見えてくるのです。
ようやくのことで戦場に到着したマクマオンも、ザール前面のバゼーヌも、そしてル・ブーフですら、ストラスブールからのライン渡河など不可能だ、と思い始めます。まずは国境で持久し兵員物資が揃ってから反撃、とその考えは確かに正しかったのですが、フランス軍は既に、先手必勝とばかりに攻勢作戦機動の最中であることを忘れてはいけません。
防御となれば国境各所に設けた要塞が重要になります。ところが、ただでさえ兵員不足の前線です、攻勢に出るため各要塞はほとんど「空っぽ」の状態にあったのです。
フランス軍首脳がまだ南ドイツへ攻勢に出るものと考えていた7月21日の状況を見るに、アルザス南部ライン川国境にある、かのヴォーバン将軍作として名高いヌフ・ブリサック(独名ノイ・ブライザッハ)要塞では守備兵がたったの50名、他の要塞もことごとくがわずかな人員配置のみであり、第1軍団が入場したストラスブールの要塞ですら優に1万は籠城出来る要塞に2千名だけ、メッスの大要塞は更にひどい状態で、堡塁の強度を補填する土嚢の積み上げなどは一切成されておらず、交通壕や角面堡など整備もされず荒れた状態で、交通壕を結んで連絡する分派堡の入り口も閉ざされたままでした。
「ライン軍」の工兵部長でメッス要塞司令官、コッフィニエール・ドゥ・ノルティエック少将は軍事会議席上「メッスは軍の支援がなければ2週間と持たないであろう」と悲観的に述べています。
モーゼル川に近い北部の要衝ティオンビル(独名デーデンフホーフェン)要塞も5千名定員が千名だけ、その内容もお寒い限りで、護国軍600、税関監視(国境警備)兵90、残りの約300名は雑務をこなすだけで軍事教練を受けていない砲卒や騎卒だったのです。
この要塞の守備兵不足は深刻で、8月に入ると各要塞から後方警備の第4大隊か補充大隊を送って兵員を補填するよう要求が相次ぐこととなります。こうしてプロシアドイツ軍にとって国境地帯の恐るべき障害となるはずだった要塞は、野戦軍団が護らねばならない状況に陥っていたのでした。
これが7月28日にメッス大本営に到着したナポレオン3世が目の当たりにした現実でした。
定員充足した軍団はひとつもなく、作戦に耐えられる補給もなく、一致協同して動くべき諸軍団は前線に長々と、北はシエルク=レ=バンから南はコルマールまで、アルザス=ロレーヌ国境地帯に沿って延々と薄く広く散開していたのです。
これを見ればさすがのナポレオン1世ですら例の胃痛がひどくなって眉を顰め、傍らのベルティエ参謀長に「全軍後方へ機動する(=退却だ)」と一言告げるような状況です。
ところが時は60年後、ナポレオン3世の時代。何も知らない、否、何を言っても聞き入れない沸騰した国民の(特にパリ市民の)声は、皇帝をして想いの反対へ舵を切らせるのです。
ナポレオン3世は最初の計画通り、攻勢作戦を撤回しませんでした。
北海に艦隊を派遣し陸戦隊を中心に北ドイツ海岸に上陸するという陽動作戦も準備が進められ、計画によると海兵およそ1万の他陸兵2万、合計3万名の上陸兵員を海上輸送し、陸兵はスペイン対策で残したあの1個師団を当て、指揮官はトロシュ中将かブルバキ中将とされ準備が急がれました。
この28日時点でフランス大本営はザール地方のドイツ側状況を
「ザールルイとザールブリュッケンに少数の守備隊がおり、その後方にはプロシア第8軍団のみ、その数は4万。しかしトリールには大兵団がおり、まさに出発直前で、その後方マンハイム、ランダウ、ラシュタットにも大兵団がいる」
と、大体正確に敵情を掴んでいました。
このため、皇帝はバゼーヌ軍に対し「第2、第3、第5軍団は7月31日を以てザール・ブリュッケンからサルグミーヌ間でザールを渡河、同時に第4軍団はザールルイに対し攻撃を開始せよ」との命令を下そうとしました。
しかし、これにバゼーヌ始め他の3人の軍団長が「進撃に必要な携行品や糧食がほとんどなく、この攻撃は実行出来ない」と一斉に反論するのです。バゼーヌの説得に皇帝も折れ、一時は攻撃案を引っ込めます。ですが懲りない皇帝はストラスブールのマクマオンに対し「8日以内に南ドイツへの攻撃を命ずる」と電信を打つのでした。
イライラが収まらないナポレオン3世皇帝は、騎兵斥候からの偵察情報が少ないことに噛みつきます。数日前もニーデルブロン(=レ=バン)付近で敵の潜入偵察隊が発見された例など(あのツェッペリン伯の偵察行)を取り上げ、敵は行動的に情報集めをしているのに我が騎兵は何をしているか!と軍団長たちに訓示したりするのです。
結局皇帝の叱咤が物事を動かし始め、第3、4、5の三個軍団はザール川方面に動き始め、横一列に近い状態で国境へ迫ります。同時にメッスからの鉄道がフル回転し、各軍団が待望する物資糧食弾薬を前線に運び始めたのです。
7月31日。皇帝の強い意志によりザール川に一番近い前線に展開していたフロッサール軍団が越境攻撃の準備に入りました。
フロッサールは第2軍団本営をサン=タヴォルから国境の部落フォルバックに前進させ、ラヴォークペ師団をオッチン高地(フォルバック直ぐ南)に展開させ、スピシュランで敵と睨みあう状態のバタイユ師団後方に位置させました。また、ヴァージ師団をラヴォークペ師団がいたベニング=レ=サン=タヴォルへ前進させます。
第3軍団では、バゼーヌ大将がフロッサールと入れ替わる形で本営をサン=タヴォルへ進め、モントドン師団をブシュポルヌに置いたまま、残りの師団を、サン=タヴォル、オーンブル=オーとアム=ス=ヴァルスベルク(それぞれサン=タヴォルの北東から北西にかけての国境沿い)にそれぞれ前進させました。
第4軍団のラドミロー中将は本営と一緒にいた1個師団と共に前進、バゼーヌのいたブレ=モゼルへ進みます。1個師団はブゾンヴィルへ、一番北でモーゼル川国境を睨むシッセ師団は変わらずシエルクを動きませんでした。
第5軍団はサルグミーヌからビッチュを動かず、バゼーヌ軍が全て去ったメッスにはブルバキの近衛軍団が入城していました。
この31日、自軍の騎兵より役立つ外国特派員が報じる新聞報道により、プロシア第7と第8軍団がザール川の後方北東から北へ展開しており、その前衛がザールルイからザールブリュッケンに展開していることが確認されます。また、この2個軍団を束ねるのが「ナーホトのライオン」シュタインメッツ大将だと知らされ指揮官たちは顔を曇らせるのでした。
更にプロシアの主将カール親王の軍に属すると思われる第3と第9軍団がマインツ要塞からカイザースラウテルン目指して進軍中で、未確認としてプロシア軍の攻勢準備は完了し既に強力な前衛部隊がザール川をザールブリュッケンの下流(北)で渡河して待機しており、それがガイスラウテンからルードワイラー(ザールブリュッケン西)付近で見られた、との情報も飛び出しました。
これらの情報に接した皇帝とル・ブーフら幕僚たちは、ドイツ側の意図を推し測るためにもザールブリュッケンに対し威力偵察を行おう、との考えが頭をもたげて来るのです。既に敵の方が兵力に勝り、刻一刻とフランスの不利が見え始めています。ここまで進んでしまったからには、3個軍団が集中して対するザールブリュッケンで一戦交え、国内にも皇帝の強い攻撃の意思を示そう、そういうことだったのでしょうか?
バゼーヌ大将はこの忙しい日(31日)、他の軍団長と会議を行います。そして決したのは、以下の行動でした。
第2軍団はザールブリュッケンに向かい進撃する。
第3軍団の1個師団はヴェールデン(フェルクリンゲン西ザール川西岸)方向へ進撃(助攻)。
第5軍団の1個師団はサルグミーヌから第2軍団右翼を援護する。
この攻撃開始は8月2日とする。
フロッサールはこの決定により31日中にヴァージ師団をフォルバック方向へ前進させて野営させ、架橋資材が未だ到着しないという不安の中、第3軍団の架橋縦列を指揮下に加えるべく要請し許可されました。
第3軍団の架橋資材は未だにメッスに置いたままだったので、直ちに鉄道でフォルバックまで輸送する手筈が整えられます。
また、牽引用の馬匹の不足も深刻だったため、とにかく馬という馬をかき集めて2日後の攻撃に間に合うよう奔走するのでした。
こうしてフランス軍も不完全なまま、我武者羅にドイツ国境へ突進することとなったのでした。
ヌフ=ブリサック要塞
ドイツとの国境、ライン川より3キロほど西にあるヌフ=ブリザックは、そのドイツ(バーデン)領ブライザッハの要塞を1697年に失ったフランス国王ルイ14世が、アルザス地方防衛のために要塞建造と攻城術の天才セバスティアン・ル・プレストル・ドゥ・ヴォーバンに設計、建造させた要塞です。1702年に完成した要塞は正八角形に角面堡を付け、西側に出城の堡塁を設けた非常に美しいもので、要塞内部には街が作られ、東からの侵略に備えました。この要塞はヴォーバンによる要塞設計では最終期に当たり、その最高傑作とも目されています。
要塞は1743年のハプスブルク軍攻撃に耐え、その名を知らしめましたがそれ以降は歴史に登場することはなく、この普仏戦争でおよそ5,500名が籠城したことで再登場しました。この戦争で要塞は壊滅的被害を受けますが、ドイツ帝国領となって以降軍事的には意味を失った(国境はライン側からヴォージュ山脈へ移動)ものの「ラインの守り」として再建されます。
要塞は二度の世界大戦を生き残り、戦争で破壊され崩れ去った部分も現在では復元され、その美しいヒマワリの花に似た姿は世界遺産となっています。
ザールルイ要塞
ザール川の湾曲部にうまくはめ込んだ形の稜堡式星形要塞周辺ががザールルイの街です。
1679年のナイメーヘン和約により獲得したロレーヌとザール地方を防衛するため、翌80年ルイ14世はザール川右岸(西岸)に防衛拠点を設けることを命じ、建設される城塞都市を「サールルイ(ルイのザール)」と命名しました。国王の築城と攻城技術士官だったヴォーバンは、市を取り囲む稜堡式要塞を設計し3年後に完成、王は喜んで市に紋章を与えました。
この要塞はフランスとドイツ国境の係争地にあったため幾度も戦火を浴び、何度も所有者を変えました。名前もルイ王の名を嫌った革命政府はサール・リーブルに、1815年にプロシア領となるとザールルイ、ナチス政権下ではザールラウテルン等と変わりますが、ザール地方共々フランスの手から逃れて晴れてドイツ領のまま今日に至っています。
要塞はヴォーバン初期の典型的な星形要塞として、角面堡こそ消えましたが今日でもその面影を留めています。
同じような要塞の跡はフランス全土やベルギー、オランダなどに多く残り(例えばダイナモ作戦で有名なダンケルクやブルタング)、これらの遺構はグーグルアースなどで簡単に見分けることが出来ます。お試しください。




