表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・動員と展開
130/534

開戦直前のフランス軍(三)

 7月23日。フランス皇帝ナポレオン3世は皇后ウジュニーを摂政に任じ、政務一切を任せます。皇后は以前、たとえばイタリア独立戦争(59年)でもこうして摂政を受けており、皇后は聡明で勝ち気だったので女性とは言え侮れぬものがありました。

 右腕と頼んだル・ブーフの代わりにドジャン将軍を陸軍大臣に任命し、いよいよナポレオン3世は大本営となったメッス要塞へと出陣するのでした。また、出発に先立ち護国軍の編成と義勇兵組織を創設するための法律を定め、これは直ちに下院が承認しました。


 皇后に主権を渡した後も色々理由を付けてはパリ出発を先延ばしにした皇帝ですが、ようやく7月28日を以てメッツ要塞に構えた大本営に入ります。

 皇帝はいよいよ決戦と気を引き締めてやる気を奮い起こしたことでしょうが、この日メッスに入るなりル・ブーフや側近からフランス軍動員の現状を聞くや愕然としたのではないでしょうか?


 この時、フランス軍は予定された攻勢に出るには甚だ兵力不足で、第一線を任せる第1、第2、第4軍団はじめ第3、第5軍団の集合状態は現役兵のみ定員の7割程度で、追って集合する予備役や各種装備などを待っている状態、きちんと揃っているのは近衛軍団のみで第6、第7軍団に至ってはほとんど軍団の体を成しておらず、予備騎兵第1、第3師団や砲兵師団は未だ姿形がありませんでした。

 

 予備役のいない状態で歩兵大隊を700人前後、騎兵連隊を500人程度と計算し、半分程度の第6軍団や、ほとんど1個師団となってしまった第7軍団、そして雑多の騎兵部隊を参入すれば、この7月28日の時点で前線に展開するのは机上の計算上、歩兵22万4千名、騎兵2万6千5百名となります。しかしその実体となると、ナポレオン3世は後に自伝で「この7月末のフランス軍はザール河畔に10万、マクマオンの配下が4万、シャロンのカンロベル軍団は2個師団のみ、予備騎兵も予備砲兵も未だ集合出来ない有様だった」と回想する体たらくだったのです。


 戦後フランスが公式に発表しているこの7月末の戦闘員数(歩・騎・砲兵全ての着任数)は以下の通りです。


 近衛軍団 20,500

 第1軍団 37,000(第7軍団の集合途中の2個師団を加算)

 第2軍団 23,430

 第3軍団 35,800

 第4軍団 26,000

 第5軍団 23,000

 第6軍団 29,900

 第7軍団  9,900(集合途中の2個師団は含まない)

 予備騎兵  4,400

 予備工兵  450

 合計   210,080

 このうち、

 バゼーヌ軍(左翼/第2・3・4・近衛軍団)105,730

 マクマオン軍(右翼/第1・5・7軍団)69,900

 予備軍(第6軍団と予備兵) 34,450


 焦った皇帝は後方に残した部隊も速やかに前線へ召集せよ、と命令しますが、混乱した国内交通事情は簡単には解決出来ず、またスペインやイタリア対策に残した軍勢や植民地からの召集は危険であるとの異論が相次ぎ、諦めて取り消さざるを得ませんでした。

 代わりに、ものは試しとパリにいた護国軍のうち3個大隊をシャロンまで前進させ、カンロベル将軍に閲兵させましたが「全く訓練がなっていない」との評価で、とても前線で使える状態にはなかったのです。


 さて……

「実際の戦闘はまだか?」と辛抱する読者の方にはまことに申し訳ないのですが、今少しフランス軍の混乱を記させて頂こうと思います。もう記している方もげんなり、なのですが、この度重なる不手際と混乱を反面教師として「こんどこそ」しっかり活かさねばならないと思うからです。


 熱した頭で隣国を罵り、怒りのまま自らを失い、自国の軍隊の状況も知らずに「戦争だ!」と政治家を煽り、また煽る政治家なり声高に叫ぶアジテーターなりに乗せられたごく平凡な国民が、有無をいわせず軍の背中を押してしまうと一体なにが起きるのか。

 自国軍は強いはず、などと調べもせず盲信し事実を省みず、逆に戦争はいやだいやだと軍を嫌悪し反対、政治家の都合や国民の「雰囲気」で適度な軍備予算も削り新鋭武器を与えなければ、いったいどんな災疫が国に降りかかるのか。


 日本は過去これと同類の過ちをしているのですし、このフランス軍の惨状とそれが招いた結果を詳しく学んだはずの「優秀なる頭脳集団」が全く同様の行動をとっているのです。

 忘れてはなりませんし、現在平和のただ中で「いまそこにある危機」を実感しない日本人は「諸外国から見れば嘲笑される国民」だということを知っておくべきだと思うのです……


 話を1870年に戻します。


 7月最後の一週間。フランス国内交通の混乱は続き、総延長2万3千300キロになる国内鉄道輸送が大混乱に陥り、運行が全く止まってしまった地方も出始めました。


 プロシアにおいて鉄道網は全て軍事利用を睨んで計画され、路線や機関車、車輛の設計に運用や製造などには全て軍の意向が反映していました。

 しかし、フランスの鉄道網はライバル同士の民間事業者が競って敷設したもので、皇帝政府の後押しもあって商業的な目的重視で路線が計画され、商業都市や工業都市、鉱山や炭鉱を結ぶ目的で敷設されました。

 従って今回前線となるアルザスやロレーヌ北部モゼル地方へ通じる鉄道はメッスへ通じる路線以外には直通が少なく、何度も迂回ルートを取り乗り換えも尋常な数ではありませんでした。

 プロシアと違って軍部には鉄道課のような組織はなく、軍は列車ダイヤを統制することなど想像だにしませんでした。お陰で動員担当の士官が各自勝手に列車を徴発し、調整もせずに勝手に運行先を変えたりするものですから路線が集中する町では兵士を満載した列車が何本も立ち往生し、目も当てられない様相を呈していたのです。この混乱を収める責任を負う者、負おうとする者などはついに現れませんでした。

 駅は予備役兵士で埋まり、腹を空かせた兵士たちは食料探しに町をうろつき、駅前や街頭で途方に暮れる兵士の姿はフランス中で馴染みになってしまいました。


 また、プロシアの軍管区に点在する連隊の駐屯地はクライス(円)と呼ばれる連隊区の中心に置かれ、それは常に主要都市の周辺部に相当、ほとんどの予備役はこのクライス内で生活しており、自分の連隊駐屯地まで1日以上掛る兵士はごく僅かしかいませんでした。

 しかしフランスでは前述通り連隊は動いてしまうので、予備役はまず自分の連隊がどこへ移動してしまったかを知るところに始まり、装備一式を受け取るため数日掛けて反対方向にある補給廠に向かい、再び数日掛けた長旅の末やっと連隊の駐屯地にたどり着くありさまでした。しかも、ようやくたどり着いてみれば既に連隊は前線へ出立した後だった、ということが続出するのです。

 

 一難去ってまた一難。補給廠に無事たどり着くことが出来た予備役の兵士たちは、次は自分たちを待たずに前線へ向かった部隊を見つけなくてはなりません。ところが補給廠の中には部隊の現在地を確認出来ない所が多くあり、また、連隊からの連絡が途絶えた所もありで、ここでも兵士たちは停滞してしまいます。

 ル・ブーフ参謀総長は自分に代わったばかりのピエール・シャルル・ドジャン陸軍大臣に対し、

「補給廠からの報告によれば、予備役に装備一式を渡したが一体どこへ向かわせればよいのか、未だに命令一つ届いていない」と、まるで自分に責任は無いかのように現場の悲鳴を伝え、至急改善するように要求するのでした。


 南仏の港町マルセイユの動員召集担当からは、次の電文が陸軍省宛に発せられます。

「予備兵9千名が当港に到着しました。しかし本官は彼らをどこへ輸送すべきか命令を受けておりません。従いまして本官としましては混乱を避けるため、彼らを在泊輸送船に搭乗させアルジェリアへ逆戻りさせるしかありません」

 慌てた陸軍省の担当が大急ぎでそれを止めさせたのは当然といえば当然でした。


 這々の体で前線の自部隊に到着した兵士のなかには、寝袋や携帯天幕はおろか飯盒や水筒すら携行していない者が続出し、野営すらままならない状況に27日、ル・ブーフは再度陸軍大臣に対し、

「出征し到着する兵士の装備武器一切の携行は未だに不完全であるので、これを至急防止して貰いたい」と重ねて要求する始末でした。


フランス軍の階級について


 ナポレオン1世時代など19世紀初期までのフランス軍の階級は他の国の軍と違い、指揮をする部隊の規模により「職域」で決められていました。ですから、その職を離れると身分も失うと言う不安定な状態でした。

 これが近代的になったのは1834年5月19日に陸海軍士官の階級に関する規定が法制化された時からで、これにより士官は身分を保障され、安定した部隊運営が可能となりました。

 それでもフランス軍の階級制度は変わったところがあり、特に将軍職の「少将・中将・大将」という区別はなく、最上級階級は他国の「少将」に当たるGénéral de division(海軍はVice-amiral/副提督)で、それ以上の「中将・大将・元帥」については「少将」に与えられる「栄誉」や「称号/地位」となります。

 ですからフランス軍では少将も元帥も本来は同じ「少将」で、元帥は「少将」のうち高成績や戦歴を挙げた者に与えられる「名誉・地位」という考え方です。


 階級の呼称は、その地位に相当する職名から付けられたもので、他国とは少し違い、

 元帥をMaréchal de France /フランスの元帥(海軍・Amiral de France/フランスの提督)、

 大将をGénéral d'armée /「軍」将軍(海軍・Amiral/提督)、

 中将をGénéral de corps d'armée/「軍団」将軍(海軍・Vice amiral d'escadre/「戦隊」副提督)、

 少将をGénéral de division /「師団」将軍(海軍・Vice amiral/副提督)、

 准将をGénéral de brigade/「旅団」将軍(海軍・Contre-amiral/准提督)と呼びます。

 職務がそのまま階級なので、例えば師団長は「師団」将軍=少将と、分かりやすいと言えば分かりやすいですね。


 佐官階級は、陸軍では大佐が「コロネル」中佐が「リュートナン=コロネル」少佐が「コマンダンテ」と、割に英米式の階級に近いものがありますが、少佐の「コマンダー」は英米海軍では「中佐」で陸軍では単に「指揮官」を示し、少佐は「メジャー」。この「メジャー」はフランスではずっと下の階級「准尉」となる訳で、この辺は複雑です。

 この佐官、海軍では職務名がそのまま階級という伝統が生きており、大佐はCapitaine de vaisseau /カピタン・ドゥ・ヴェッソ(艦の長)、中佐はCapitaine de frégate/カピタン・ドゥ・フリゲト(フリゲートの長)、 少佐はCapitaine de corvette/カピタン・ドゥ・コルベット(コルベットの長)となります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ