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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
Eine Ouvertüre(序曲)
13/534

第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争/ユトランド州侵攻・フレゼレシア


☆ ユトランド侵攻(1864年3月8日から3月21日)


 フリードリヒ・フォン・ヴランゲル元帥の「暴走」が止められた2月18日、普参謀本部総長モルトケ中将は現地の状況と今後の作戦行動を協議するため、急ぎシュレスヴィヒからベルリンに戻ります。

 ベルリンの3巨頭(ヴィルヘルム1世、ビスマルク、ローン)は、今後どのような作戦を採るかについて墺帝国に異存がなく軍事的見地から正しいと納得出来れば否定はしない、との考えで一致しました。

 何よりも元来宿敵に近い普墺が共同一致して軍事作戦を遂行しているのです。意見の相違が大きな場合、戦場での仲違いから重大な危機を迎える可能性も否定出来ません。

 特に今回、シュレスヴィヒ公国までの占領で戦争を終結させたい墺と、ユトランド州へ踏み込みコリングからフレゼレシアを占領するとの考えがある普王国との間でお互いの腹を探るような動きが見られ、内心では普を信用していない墺皇帝フリードリヒ・フランツ1世は普の真意を質すため参謀総長のヨハン・カール・フォン・フィン中将をベルリンに急派しました。


挿絵(By みてみん)

 フィン


 墺皇帝と同政府はユトランド州への戦争拡大は英仏始め欧州各国の反発やスウェーデンの介入を誘発するとして反対しますが、フィン将軍自身も軍事的に見てユトランドにガブレンツ軍団が侵攻すれば、デュッペル攻略に突き進むカール王子ら普軍との物理的距離が離れ、その気になればD軍が各個撃破を狙うのではないか、と危惧していました。

 これに対しモルトケは、現状からシュレスヴィヒだけの占領では表向きの戦争目的である「シュレスヴィヒ=ホルシュタインにおけるデンマーク王国の影響力排除」という目標達成が難しい、と訴え、現在のD軍を見ても総兵力34,000名・この内最大でも27,000名が前線にあると見積もられるのに対し、普墺連合軍はコリング方面だけで31,000名、デュッペル堡塁群前に29,000名を宛てることが可能で、更に5,000名がホルシュタインに待機している、と話し、更にデュッペル攻略は普軍だけで成し得ますので墺軍は助太刀不要、としてフィン将軍を安心させました。


 フィン将軍がベルリンにやって来るのとほぼ同時に、普軍事内局長で国王お気に入りのエドウィン・フォン・マントイフェル少将がウィーンに派遣されフランツ・ヨーゼフ1世に謁見します。マントイフェルはヴィルヘルム1世の親書を国王直々に預かっており、またビスマルクの親書も皇帝へ届けました。これらはヴランゲル元帥の暴走によって生じた普墺間の分裂を修復するための行動でした。

 このビスマルク2月21日付の親書は心配性の墺皇帝を安心させるための甘言がふんだんに盛り込まれており、特に外国からの干渉について次のように記されています。


「今、普墺が互いに満足する合意に基く行動を取らなければ、それは諸外国から見た場合、普墺の対デンマーク戦が間違いだったと思われてしまいます。

 本官は英国と信頼関係に基く本戦争への中立を勝ち取りましたが、普墺が一枚岩である限り、英国を始めとする諸国が普墺を非難し攻撃するとは考えられません」


挿絵(By みてみん)

フランツ・ヨーゼフ1世(1863年の肖像)


 マントイフェルは個人としても「現在デンマークは非常にショックを受けた状態で意気消沈しており、ここでD軍に復活の機会を与える休息を与えるべきではありません」と、戦争の継続とD軍への圧力を掛け続けることの重要性を強調しました。

 しかし、ネガティブな皇帝は、このまま普墺軍が戦争を継続すれば墺帝国に加わるであろうありとあらゆる外交上の不利益を並べ、戦争継続(=ユトランドへの侵攻とデュッペル攻略によるD軍の完全撃破)に難色を示すのでした。

 マントイフェル将軍はこの後、皇帝の説得に4日間を掛けます。

 しかし、この間に英仏で話し合いがもたれ、英国首相パーマストンが仏皇帝ナポレオン3世と協議した結果、英国が求めていたデンマーク戦争への干渉をナポレオン3世が拒否した、とのニュースがウィーンにも伝わりました。

 これによりフランツ・ヨーゼフ帝もユトランド州への侵攻に同意するのです。2月29日のことで、正にD軍の総司令官が交代した日でした。

 しかし、墺皇帝はその条件として、「普王国からの正式正確なユトランド占領に関する説明と、その行動に対する欧州各国への釈明の内容を示すよう」求めます。

 マントイフェルは皇帝の要望をベルリンに至急報として送り、これを読んだビスマルクはその日の内に返信しました。

 ビスマルク曰く、今後の作戦には3つの意味がある、といいます。


 ○ デンマーク海軍による独連邦籍(普王国に他なりません)船舶の拿捕に対する報復

 ○ デンマーク陸軍の分離(ユトランド方面とデュッペル方面)・各個撃破による早期戦争集結

 ○ ロンドン議定書違反状態で11月憲法を引っ込めないデンマークを休戦交渉の場に引き擦り出す


 このビスマルクからの電文を手に再びフランツ・ヨーゼフ帝の説得を行ったマントイフェルは、ようやく皇帝から正式な承諾を得ると、ベルリンへフランツ・ヨーゼフ帝が納得したとの電文を送り、ベルリンからの返信で「今後の軍事措置に関する普墺の協議、妥協は貴官に託する」とのお墨付きを得るのです。

 3月1日、マントイフェルは普墺の外交官と妥協点を探り、以下の合意を得ました。


「今後の戦争目的は、先ずデュッペル保塁群とアルス島の占領とし、同時にフレゼレシアから援軍がデュッペルへ向かうことを阻止するためユトランド州へ侵攻する。連合軍は現在海上においてデンマーク海軍による経済封鎖を受けており、ここで占領地を拡大することは独船舶の拿捕等に対する報復として認知されるべきである。欧州各国には連合軍の最終目的がホルスタイン、シュレスヴィヒ、ザクセン=ラウエンブルク各公国のみの解放であり、デンマーク本国領の割譲ではないことを説明しておく。同時にデンマーク政府が求めるのであれば、何時でも停戦協議の用意は出来ている」


 3月6日。ヴランゲル元帥の本営にシュレスヴィヒ公国とデンマーク王国ユトランド州との国境を越える許可が下ります。ヴランゲル元帥はユトランド半島全域の占領にあたり東西2つの集団で臨むことを命じ、翌7日に東側を普混成近衛師団が、西側をガブレンツ将軍の墺軍団がそれぞれ担当することとなりました。

 東側の混成近衛師団は手始めにフレゼレシアを攻囲しフュン島への交通を遮断した後、支隊が北上してユトランド半島最北部を目指し、墺軍は近衛師団の西をそのままヴェイレまで北上し、近衛師団がフレゼレシアを攻略中は背後を突かれぬよう警戒、その後西海岸まで進み出る作戦でした。

 3月8日。近衛師団はフレゼレシアの南でフュン島への渡渉点、スノゴイ(フレゼレシアの南南西5.3キロ)に向かって国境を越え、その直ぐ西側ではガブレンツ将軍が北上し第一目標のヴェイレ(コリングの北25キロ)に向かいました。 


挿絵(By みてみん)

フレゼレシア要塞の堡塁


 この作戦が進行中、普墺連合軍では指揮権の大きな変更が起こります。

 3月中旬より、それまで連合軍第1軍団(普軍)を率いていたフリードリヒ・カール王子が対デンマーク王国全作戦の実質責任者とされ、ヴィルヘルム1世はこの甥っ子に「特別な権限」なるものを与えたのです。


 戦争の経過の過程でヴランゲル元帥はモルトケ参謀総長が立てた作戦を恣意的に「改変」し、モルトケはその都度軍部に稚拙な作戦変更の危険性を指摘していました。デ・メザ将軍がダネヴェルク堡塁群から思い切って後退した時もモルトケはヴランゲルの本営に出向きしばし元帥と論戦になります。いくら権限が弱いとはいえ、国王も一目置き始めていた参謀総長の声に、現場からも同調する声が囁かれ始めていました。即ち「老害目立つヴランゲルは引退すべき」と。


 3月30日。ヴィルヘルム1世は独断でヴランゲルに対し「以降、貴官は軍事命令を発してはならない」との勅令を発しました。その命令書はヴランゲル個人に宛てて極秘として達せられましたが、ヴランゲルはこれを幕僚の前で声に出して発表してしまいます。その末尾には「この命令は貴官のみを対象としたもので、極秘扱いにしなくてはならない」とありました。元帥はこの末尾を読まないまま幕僚を前に読み上げてしまったのか、元帥が怒りを込めて命令違反を問われることも厭わず読み上げたものかは分かりませんでした。

 いずれにせよ、ヴランゲル元帥の威光もこの時点で失墜し、5月12日に最初の休戦協定が調印された時、元帥は既に飾り物となっていた連合軍総司令官職を辞任し、同月18日には失意の内に現地を去ってベルリンに帰りました。

 ここでヴランゲル元帥の正式な軍歴は終わりを告げますが、その偉功は晩節を汚したことだけでは消し難く、国王と軍は元帥が亡くなるまで「英雄」として丁重に扱い続け、普仏戦争でも戦場後方に特別な「本営」を設けてヴランゲルを招いたのです。


挿絵(By みてみん)

正装するヴランゲル(1865年のスケッチ)


 後日談としてビスマルクとヴランゲルとの諍いが語り継がれています。

 それは例の「絞首刑こそふさわしい」との大失言が原因で、ビスマルクはそれが自分を指したものとして認識し、以降ヴランゲルを忌み嫌い、ベルリンに帰還したヴランゲルに対面し「あれは私に宛てたものですね」と断言したと伝わります。ヴランゲル自身はビスマルクだけを名指しした訳でなく、モルトケを含めてヴランゲルを嫌う人間全てに宛てたものだったのでしょうがビスマルクは和解せず、以後王宮などでヴランゲルとすれ違っても無視を決め込み元帥が亡くなるまで挨拶をしなかったと伝わります。

 ある王宮の晩餐会の席上、首相の無視に耐えられなくなったヴランゲルはビスマルクに声を掛け「貴殿は本官のあの発言を忘れることが出来ないのか」と尋ねたと言います。ビスマルクはただ一言「いいえ」と否定しますが、冷淡な態度を崩さないビスマルクを見たヴランゲルは再び「私を許せないのか」と問い糺しました。するとビスマルクは満面に笑みを浮かべ皮肉を込めて「心の底から」と答えたため周囲の人間に緊張が走りますが、ヴランゲルは黙って引き下がったとのことです。


☆ ヴェイレの戦い(1864年3月8日)


 ユトランドへの侵攻命令が発せられると、墺軍司令官ルートヴィヒ・フォン・ガブレンツ将軍は軍団を2個の「師団」に分け、ノスティッツ旅団とゴンドルクール旅団を「第1師団」、トマス旅団とドルムス旅団を「第2師団」として、第1師団を直率し、第2師団を墺から視察にやって来た名門貴族の伯爵エルヴィン・フランツ・ルートヴィヒ・ベルンハルト・エルンスト・フォン・ナイペルグ中将に任せました。


挿絵(By みてみん)

 ナイペルグ


 3月8日午前6時。墺軍は右翼側の普近衛師団と並列した形で北上を開始し、程なく国境を越えると共にコリング目指し進軍します。

 行軍は順調でコリングにもD軍守備隊は無く、墺軍は殆ど抵抗を受けずに市街を進みましたが、D軍はコリング市街を流れるコリング川を堰止めていたため郊外で洪水が発生しており、ガブレンツ師団の後方を進んだナイペルク師団はコリング通過に手間取り、ここで夕方を迎え行軍を止めねばなりませんでした。

 一方のガブレンツ「師団」は目標のヴェイレに接近し、午前11時、先鋒の竜騎兵第14「ヴィンディシュグレーツ親王」連隊がD軍竜騎兵連隊と遭遇し、ここで短時間ですが激しい騎兵戦が発生しました。この戦闘は地の利と先手を得たD軍に軍配が上がり、墺竜騎兵は一旦後退し主力を待ちます。


挿絵(By みてみん)

 墺軍竜騎兵第14連隊の戦闘


 午後1時。ガブレンツ師団本隊はヴェイレ南郊の森林地帯に到達し、市街地北方にある丘陵地帯にD軍が構えているのを望見しました。ガブレンツ将軍は師団を連隊毎にペダースホルム、ソンダーマルク、モルホルム(それぞれヴェイレ中心地から南南西1.8キロ、南3キロ、南東2.5キロ)に展開させ戦闘態勢を採らせます。


 ヴェイレの街は南北両側を丘陵に挟まれ、ホアセンスへの街道(現・デンマーク国道170号線)は両側に丘が迫る細い谷間を通っており、この街道両側の丘陵地帯に塹壕を掘ったD第4師団のD第1、第11、第7連隊が散兵線を敷き、貴重な野砲2個中隊も配置されていました。これらの将兵は後方待機していた二線級部隊ではなくダネヴェルクから撤退し、既に一部は戦闘を経験した*D軍でも強力な部隊でした。

 街中を流れる小河川も堰き止められて架橋が必要となっていたため、通行はヴェイレ・フィヨルドに沿った街道部分だけで、当然ながらここはD軍の十字砲火を浴びやすい場所となり、正にチョークポイントと呼ぶことが出来ました。


※D第1、第11連隊は元第7旅団所属で、ケーニヒス・ヒューゲルやオイーヴァセで墺軍と戦っています。


挿絵(By みてみん)

 ヴェイレの戦い戦闘図(青・墺/赤・D)


 しかしガブレンツ将軍は強気で、犠牲を覚悟した上で正面からの攻撃を命じます。

 先鋒としてペダースホルムからノスティッツ旅団の第14「ヘッセン大公」連隊第1大隊が前進、市街地に入ります。丘の上のD軍は一斉に銃砲撃を開始しますが、この時点で墺軍に犠牲を強いることが出来るのは野砲だけでした。ヘッセン大公連隊兵は丘の上のD軍砲台から榴散弾攻撃を受け、損害を出し始めましたが構わず前進し、市街地入り口に設置されたバリケードに到達しました。

 戦闘はここで激しい白兵市街戦に移行します。

 第1大隊の後方からは同連隊第2大隊と猟兵第9大隊が進み、第1大隊が切り開いた突破口から市街へ入るとD軍守備隊を蹴散らしながら港に近い市場を占領しました。市街地には予備となっていた第27連隊「ベルギー国王」連隊も進み、攻撃を強化しました。

 小一時間程続いた市街戦は次第に墺軍がD軍を追い込み、午後4時には市街は完全に墺軍の手に落ちるのです。


挿絵(By みてみん)

戦闘指揮中のガブレンツ将軍と幕僚


 ガブレンツ将軍は勝利を祝いますが、直ぐに厳しい態度で幕僚に「北の丘にいるD軍を潰さなければ市街の確保は難しいだろう」と語り、予備となっていたゴンドルクール旅団が郊外に到着すると、北方丘陵のD軍を追い払い、丘の尾根を占領するよう命じるのでした。


 午後4時30分、軍団砲兵の8ポンド青銅製前装滑腔砲2個中隊が砲列を敷き、北方丘陵に砲撃を開始します。

 ガブレンツ将軍は北方の敵を側面から攻撃するため第9と第18猟兵大隊に対し、北方丘陵へ前進してソフィエンルンドを占領、D軍の右翼側を占めるよう命令しました。

 しかしD軍はこの時、丘陵後方にあった予備まで投入しており余裕はありませんでした。砲撃による損害も大きく将兵に動揺が広がっていましたが、それでもD軍は前線に立った墺軍1個旅団4,000名に対し小型師団級7,000名の兵士が展開しており、有利なことには代わりありませんでした。しかし、墺軍猟兵が進み出たソフィエンルンド方面には陣地がなく、墺軍は易々と有利な敵側面、D軍が逃走路に使いそうな内陸部への道を押さえたのです。


 ガブレンツ将軍は午後5時30分、丘に向けて全面総攻撃を命じました。

 迫る墺軍歩兵に対しD軍は優位な高地から激しい銃砲火を浴びせます。塹壕から前装銃を突き出すD軍歩兵はしっかりと銃を固定して発射することが出来ますが、墺軍は遮蔽が極端に少ない斜面を登りつつ時折片膝を突いて射撃を行うため狙い撃ちされ、多数の兵士が倒されました。

 しかし、しっかり統制が取れていた墺軍は怯まず前進を続け、やがて動揺が広がったD軍はドミノ倒しの如く後退するのです。


 完全に後退局面に入ったD軍は墺軍猟兵によって内陸部を押さえられていたため海岸沿いにホアセンス方向へ遁走しました。辺りは完全に夜陰に沈み墺軍歩兵も疲弊が激しく、戦いはここで終焉を迎えます。

 戦闘による損失は墺軍92名に対しD軍200名と伝わります。


挿絵(By みてみん)

 ヴェイレの戦い


 「ヴェイレの戦い」は殆ど墺軍が単独で戦った「ケーニヒス・ヒューゲルの戦い」と同じく規模は小さいものの戦争の行く末に影響する戦いとなります。

 ヴェイレはシュレスヴィヒ市と同じく内陸に深く切り込んだフィヨルド(ヴェイレ・フィヨルド)の先にあり、ここを押さえるとユトランド半島北側は首都方面から完全に遮断され増援や物資を海から送り込まねばならなくなります。逆にコリングも押さえていた独連合軍は、フレゼレシア要塞都市をユトランド半島側から遮断したことにもなりました。


 D軍はユトランド州に第4師団(と騎兵師団)を展開させましたが、この戦いにより師団はほぼ半数ずつに分断され、ユトランド州は歩兵3個と騎兵3個連隊で広い平坦な大地を守らねばならなくなります。独軍はそれぞれ(ユトランド州とフレゼレシア)に1個師団以上14,000名以上の兵力を宛てがうことが可能で、勝利は確実視されたのです。

 ガブレンツ将軍は自身任されたユトランド州の制圧を確実なものにしようと騎兵斥候をホアセンスからスカナボー、オーフス、そしてシルケボーへと送り込みますが、どの斥候も「道中そして目的地に敵なし」を報告するのです。実際はスカナボーへ引き下がっていた第4師団本営は麾下連隊が薄く広く散ってしまったため師団として機能しなくなっており正しく打つ手無しの状態でしたが、そんなことは知らないガブレンツ将軍は、敵の行方がわからない半島北部の制圧を後回しにして、戦争の勝利に欠かせないフレゼレシア攻略を開始した普近衛師団の後方を援護するためしばらくヴェイレに残ることにするのでした。


挿絵(By みてみん)

ヴェイレ市街に集合する墺軍(1864)


☆ フレゼレシアの包囲とD軍守備隊の脱出(1864年3月19日~5月3日)


 ガブレンツ将軍は3月19日、ノスティッツ、ゴンドルクール両旅団からなる第1師団をヴェイレからフレゼレシアに向けて出立させます。既にナイペルグ将軍率いる第2師団はフレゼレシア要塞前に展開し、要塞攻略のために砲台を建築中でしたが、本格的な包囲網の構築は行われませんでした。

 墺軍は要塞砲を持っていませんでしたが、手持ちの8ポンド青銅砲は野砲としては強力で、土塁が主となる要塞には通用すると考えられていました。

 この墺軍の砲台はフレゼレシア要塞の南西側に設置され、普近衛師団の6ポンド野砲が西、12ポンド砲が北西にそれぞれ4キロ前後に布陣します。これは18世紀由来の古い青銅要塞砲しかないD軍が応射出来ない距離でした。独連合軍は砲撃準備を完了すると要塞に白旗の使者を送り降伏を勧告しますが、これは拒否されます。


挿絵(By みてみん)

フレゼレシア要塞市街(1900年)


 翌3月20日、前線まで出張った「名目上の総司令官」ヴランゲル元帥臨席の下、普墺合計42門の大砲が火を噴き、要塞地区の砲撃を開始しました。要塞内の兵営は直ぐに火災を発生させ、多くの木製家屋が短時間で焼け落ちてしまいます。一方的な砲撃はこの日一日深夜まで断続的に続き、翌朝も再開しますがこれは直ぐに止みました。

 ヴランゲル元帥は再び使者を送り降伏勧告を行いますが、要塞司令官ニールス・クリスチアン・ルンディング少将は「本官は元帥閣下のご提案に対しお答えすることは出来ないと考えます」と回答し、48年の戦争でも要塞指揮官としてフレゼレシアを守った老将軍の答えに独側は誰も驚くことは無かったと言います。


挿絵(By みてみん)

フレゼレシア砲撃(1864)


挿絵(By みてみん)

 ルンディング


 ヴランゲル元帥は要塞攻略には包囲網を構築するしかない、と考え部隊を再編成するよう命じましたが、同じ頃、フォン・デア・ミュルベ将軍率いる混成近衛師団にデュッペル堡塁攻撃のため南進するよう命令が届き、これには普軍砲兵も同行したため包囲は墺軍だけで実行することとなってしまいました。

 この21日以来砲撃は止み、墺軍は監視だけに留めるようになります。これはデュッペル堡塁群攻撃の結果を待ち、これに独側が勝利すればフレゼレシア要塞にも白旗が上がる可能性がある、と考えられたからでした。


 この自然休戦状態の中、D軍は休まず要塞の強化を続け、3月29日には遊動隊がヴェイレの東郊、アセンドルプ部落(ヴェイレの東北東8.3キロ)で墺軍の驃騎兵巡察隊を待ち伏せし駆逐するという事件も起きています。


 しかし戦況はD軍に不利となって行きます。

 

 4月18日、デュッペル堡塁群が普軍による総攻撃で陥落しました。

 これでフレゼレシア要塞にデュッペルから普軍が戻って来ることとなり、要塞守備隊は進退窮まったかと思われました。普混成近衛師団は要塞砲兵と工兵隊から先に到着し、墺軍の包囲網も強化されます。

 ところがこの頃、フレゼレシアでは密かに撤退作戦が進行していたのです。

 4月27日から28日の早朝に掛けて、フレゼレシア要塞からD軍守備隊が迎えに来た海軍艦船に乗り込み脱出します。ルンディング将軍はこの作戦を墺軍に覚られぬよう細心の注意を払って実行し、敵の目を欺くため防衛施設の強化工事を敵の包囲陣から目立つように行い、これは28日の朝まで行われていました。

 この朝、要塞地区にはニールセン中尉を隊長に僅か100名だけが残っており、中尉らも28日夜から29日早朝に掛けてフュン島に向け脱出するのでした。


挿絵(By みてみん)

要塞からの守備隊撤退を発見する墺軍


 4月28日の朝。墺軍の前哨に2名のD軍脱走兵が捕縛されます。彼らは「既に本隊は海に逃れた」と告白しますが、墺軍はこれを謀略と考え本気にしませんでした。

 ところが日が高くなるにつれ要塞内部に居残っていた市民が複数包囲網に訪れ、D軍が去ったことを知らせるのです。確認のため墺軍は斥侯隊を要塞稜郭に接近させますが、警告の銃撃もなく要塞は全く静かな有様でした。

 翌29日。既に無人となっていた要塞へ墺軍が入城し始めます。最初に入城したのはリヒテンシュタイン驃騎兵連隊で、次いでノスティッツ旅団が第14連隊、第27連隊の順で要塞に入り市街を占領し、最後に普混成近衛師団の要塞砲兵と工兵隊が入城したのでした。


挿絵(By みてみん)

砲撃後のフレゼレシア市内の惨状


挿絵(By みてみん)

墺軍のフレゼレシア入城(1864年4月29日)


 要塞市街では3月の砲撃で多くの家屋が瓦礫と化しており、被災した市民が細々と暮らしているのが発見されます。

 城塞では206門の84ポンド、48ポンド、擲弾投射機、小型臼砲などが鹵獲されますが、その殆どが火門に大釘を差し込まれ、使用不能となっていました。

 フュン島に面した小ベルト海峡側の堡塁や稜郭は普軍工兵たちによって直ちに再建されますが、4月25日に始まっていた和平交渉・ロンドン会議が休戦を決定しそうになると、デンマーク本国に属するフレゼレシアから普墺連合軍が撤退する可能性が高まり、5月3日、要塞の主要施設は爆破されるのです。

 しかし文化施設や彫像などの破壊は行われず、彫刻家のヘルマン・ヴィルヘルム・ビッセンの手になる「三年戦争」を象徴する銅像「デンマークの兵士」はそのまま残され、これは現在も無事に同じ場所に立っています。


挿絵(By みてみん)

デンマークの兵士(1853)


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