開戦直前のフランス軍(二)
こうしてフランス軍は悪戦苦闘で動員を進めつつ、8つの軍団はそれぞれ部隊の集合地点を定め、配下とされた連隊は集合地点を目指し行軍を始めました。
各軍団の集合地点(本営所在地)は以下の通りです。
第1軍団(マクマオン大将)ストラスブール
第2軍団(フロッサール中将)サン=タヴォル
第3軍団(バゼーヌ大将)メッス
第4軍団(ラドミロー中将)ディオンビル
第5軍団(ファイー中将)ビッチュ
第6軍団(カンロベル大将)シャロン陸軍野営場
第7軍団(ドゥエー中将)ベルフォール
近衛(第8)軍団(ブルバキ中将)ナンシー
これらの野戦軍を「ライン軍」と称し、その指揮はナポレオン3世自らが握ります。皇帝の前線到着まではバゼーヌ大将が全軍の指揮を執る事となっていました。
これら軍団の集合は7月15日の動員一日目より開始され、それは予備役を待たず、アルジェリアからはるばるやって来る兵士や既に兵営にいた現役兵たちは船や列車に乗せられて一路アルザス=ロレーヌを目指しました。
ザール前面に配置され全軍の先鋒となる第2軍団は、まずシャロンの一大野営地に集合し、ここで騎兵師団の中核となる胸甲騎兵1個旅団を残置すると早くも18日夜には前衛がサン=タヴォルの町に入り、以下、後続は次々と到着して行きました。この地は対面するザール河畔にザールブリュッケンとザールルイの町があり、プロシア軍の強固な拠点となっていたので、ル・ブーフ参謀長はフロッサール軍団長に対し「主力はサン=タヴォルより東に進出させず、支隊を選んで国境線に展開し敵情を探るよう」命じました。フロッサールはこれに応えて19日、もっとも早くに集合したバタイユ師団とヴェラブレーグ猟騎兵旅団をフォルバックまで前進させました。フロッサールの素早い行動を聞いたル・ブーフは「早まって戦闘を始めぬように」釘を刺しています。
この軍団では他にラヴォークペ伯爵師団がベニング(=レ=サン=タヴォル)に、本営のあるサン=タヴォルにはヴァージ師団と軍団砲兵隊、工兵部隊などが待機しました。
21日になると、パシュリエ竜騎兵旅団がサン=タヴォルからベニングへ差配され、バタイユ師団は兵力を裂いてスピシュランに一支隊を送り、敵の斥候が盛んに現れると増強されてこの支隊は旅団クラスになりました。フロッサール将軍は更に南の第5軍団との連絡のため、サルグミーヌに歩兵1個連隊と砲兵を送ってこの交通の要衝を固めています。
フランス北部に常駐していた部隊で組織されたラドミロー中将指揮の第4軍団は第2軍団を左翼に連絡しディオンヴィル周辺に集合しました。
また、その後方メッスの要塞地帯にはパリ周辺からメッスに駐屯していた部隊からなるバゼーヌ大将直卒の第3軍団がおり、同じくパリ周辺に展開していた近衛軍団は第3軍団の南、ナンシー周辺に集合します。
動員直後の7月16日。バゼーヌ大将はパリから「トリールからシエルク=レ=バン(モーゼル川国境付近フランス側)を目指すプロシア軍の侵入迫る」との情報を受け、第4軍団に命じシッセ師団をモーゼル川国境へ向かわせましたが、やがて誤報と判明します。シッセ師団はそのまましばらく普仏国境北端で警戒することとなりました。
ロレーヌのバゼーヌ軍とアルザスのマクマオン軍の連絡となったファイー中将の第5軍団は南仏リヨン周辺の駐屯部隊を中心に編成されていました。この部隊も他の軍団同様、常備軍の現役兵のみ列車に飛び乗って集合地点に急ぎ、17日には歩兵17個大隊(およそ3個旅団)がビッチュ周辺に集まりました。残りの部隊も北上し前線を目指しますが、結局この軍団は開戦までに全部隊集合が間に合いませんでした。
ファイー中将は元来このヴォージュ山脈からストラスブールにかけての国境地帯を管轄していたデュクロ少将にギョット・ドゥ・ルパート師団を預けてアグノーに展開させ、第1軍団との連絡を任せます。
ブラオー騎兵師団の内、ベルナン騎兵旅団はニーデルブロン=レ=バン周辺に展開し、モンティエール騎兵旅団は分割されビッチュとロアバッハ=レ=ビッチュに1個騎兵連隊ずつ派遣されました。
ストラスブールに集合を命じられたマクマオン大将の第1軍団はフランス東部の部隊を中心にアルジェリアからの援軍を得て編成されます。
軍団長であり南部ドイツへ真っ先に侵攻する予定の指揮官マクマオン大将は当時アルジェリア総督で、アルジェリア植民地軍から引き抜いた部隊に先行しても22日にならないと現場に到着出来ないこととなっており、その間はデュクロ少将が代行することとなります。
この部隊はフランス軍主力として南部ドイツを攻略する重要な役目を担っていたわけですが、総指揮官や部隊のほぼ4分の1が北アフリカからやって来るというどう考えても納得のいかない編成により、兵力不足のまま戦争に突入しました。アルジェリアに常駐する軍は植民地において反乱部族などの制圧など日常茶飯事であり、よく鍛えられ精悍だったので最前線で使いたかったのはよく分かりますが、間に合わないのでは元も子もありません。この点、前線から遠い部隊(第1、2、6軍団など)を当初は予備として扱ったドイツ側と対照的な情景と言えるでしょう。
第7軍団はドゥエー中将指揮下でスイス国境に近いベルフォール集合を命じられ、予定ではマクマオン第1軍団とバゼーヌ軍の後に従うこととなっていました。しかし、フランス南東部の諸部隊から編成された軍団はなかなか動員が終了せず、混乱に巻き込まれ集合が遅れに遅れます。あの優秀なプロシア参謀本部の「クラウゼ情報班」がこの軍団の組成や状況を「不詳」としたのも当然、7月末に至っても動員は亀の歩みで続いていたのでした。
ドゥエー将軍は仕方なく先行可能な部隊のみで前進させようと、比較的兵員が揃ったデュモン師団に、リヨンからなかなか出発出来ないでいる騎兵師団から1個旅団を引き抜いてこれに付け、やっとのことで出発させますが8月12日になってようやくベルフォールに現れる始末。結局この軍団は部隊所在地で編成するのでなく、リエベール師団、デュスメール師団はコルマールで、騎兵や砲兵など残りの部隊をベルフォールで直接編成することとなりますが、編成がやっと終わった頃には戦争の形勢は決してしまっていたのでした。
フランス中部並びに西部駐屯部隊で編成されるカンロベル大将の第6軍団は総予備としてフランス陸軍の一大演習駐屯地シャロン(=アン=シャンパーニュ)付近で集合し待機と指定されていました。
しかしパリ周辺から近衛部隊が前進すると首都は慣れない護国軍の警備に任せられてしまいます。これでは大いに不安があったため、ベヴィエ胸甲騎兵旅団と1個歩兵師団をパリ近郊で集合させることとなりました。他に1個師団をパリ北東のソワソンに置き、軍団はほぼ予定の半分の兵力が徐々にシャロンへ到着するという状況でした。
独立した予備の騎兵師団のうち、ボヌマン胸甲騎兵師団は第1軍団と合流すべく前進し、フォルト騎兵師団の半分はロレーヌのリュネヴィル、残りはポンタ=ムッソンで編成されます。北アフリカからやって来るバライル猟騎兵師団はバゼーヌ軍に合流するためメッス集合を命令されますが、かなりの遅れが予測されました。
野戦砲兵第13連隊と騎砲兵第18連隊は「予備砲兵師団」となり、それぞれの駐屯地であった中仏ブールジュと南仏ツールーズで動員を完了しました。
また、各軍団に所属した砲兵団のうち、ライットシステム4ポンド砲を装備していた軽砲部隊は8月中旬までにメッス周辺で強力な重砲(しかし変わらず旧弊な)ライットシステム12ポンド砲と交換されました。
7月20日、メッス要塞のバゼーヌ大将はパリにいる皇帝に対し敵ドイツ軍の集中につき以下の報告をしました。
「プロシア軍を中心とする北ドイツ軍はマインツ近郊において一大会戦を期するかのようにライン川にそってマインツからコブレンツ前面に展開している様子である。これだけの大軍が狭いザール=プファルツ後方に集中すれば糧食や消耗品が不足し、補給が次第に困難となるであろう。もし今戦争がこの状態のまま2、3ヶ月に及べばこの地方は一切の食料もなく荒廃するであろうことは想像に難くない。我らは18歳から36歳までの精悍なる男子徴兵のみで軍団を構成しており、事務や後方業務のため虚弱なる者を後方に残留せしめた」
7月23日、パリ在の参謀総長ル・ブーフ大将は諸軍団の集合地について変更を加える以下の命令を発します。
「バゼーヌ大将の第3軍団はメッスよりブレ=モゼル(メッス東北東13キロ)方面へ移動しフロッサール第2軍団、ラドミロー第4軍団の後方と連絡保持せよ。ラドミロー中将はその1個師団をブゾンヴィル(ザールルイ西13キロ)へ派遣せよ。ファイー中将はビッチュに集合した2個師団を以てサルグミーヌへ進み、現在サルグミーヌに駐屯するフロッサール中将の支隊は本隊に帰還せよ。また、アグノーにいるギョット・ドゥ・ルパート師団は第1軍団の1個師団と交代し、ビッチュへ移動せよ。近衛軍団はナンシーより徒歩行軍によりメッツへ至るベし」
この命令は、錯綜し始めていたマクマオンとファイー両軍団の境界(ヴォージュ山脈北端・プファルツとの国境山岳地帯)を整理して責任を明確にする目的(デュクロ少将が代理指揮するマクマオン軍団がストラスブール周辺以南、ファイー軍団はサルグミーヌからビッチュを経てライン川までの国境線)と、フロッサール軍団がザール国境へ突出した状態の解消(バゼーヌ軍団の前進とラドミロー軍団との連絡)を図るのが主な目的です。
命令は24日から数日掛けて実行されて行きました。
フロッサール中将はサルグミーヌをファイー中将に任せてザールブリュッケン国境突出部に専念し、越境攻撃準備を急がせます。
バゼーヌ大将は本営をブレ=モゼルへ前進させ、同じくカスタニ師団、軍団砲兵、騎兵師団も本営周辺に展開させます。第3軍団の残り部隊、モントドン師団はブシュボルヌ(サン=タヴォル西北西)、メトマン師団はテテルシャン(ブレ=モゼル北東6キロ)、ドカエ師団はベッタンジュ(ブレ=モゼル北7キロ)へ、それぞれ進出しました。
ラドミロー中将は1個師団を引き連れてブゾンヴィルへ進み、ディオンヴィルの東モーゼル河畔で国境に対していたシッセ師団をシエルク=レ=バンに残しました。
ファイー中将は自らの本営を国境の要衝サルグミーヌへ進め、ここに命令通りゴゼ、ディドレンの2個師団を呼び寄せました。ベルナン騎兵旅団は変わらずニーデルブロン=レ=バン周辺で第1軍団との連絡を維持し、モンティエール騎兵旅団も分派された歩兵1個大隊と共にビッチュからロアバッハ=レ=ビッチュ周辺を守り、配下の驃騎兵第5連隊の4個中隊をばらばらにして第5軍団の歩兵師団へ1個中隊ずつ送りました。
マクマオン軍団を代理指揮するデュクロ少将は、ファイー配下のルパート師団が引き上げたアグノーへドゥエー師団を前進させ追ってセプテイユ騎兵旅団から猟騎兵第11連隊を割いてドゥエー少将に預けました。騎兵師団は分割されて驃騎兵第3連隊はソウレツ=ス=フォレ(アグノー北東ヴァイセンブルク間)へ、また槍騎兵第2連隊はアッタン(アグノー北東)へ送られます。デゥエスム騎兵師団残余はブルマト付近に野営しました。
この騎兵師団の分割をまとめると、
第1軍団第1師団(デュクロ少将直卒)に驃騎兵第3連隊、同第2師団(ドゥエー少将)に猟騎兵第11連隊、同第3師団(ラウール少将)に槍騎兵第2連隊、同第4師団(ラルティーグ少将)に竜騎兵第10連隊、騎兵師団残余は槍騎兵第6連隊とミシェル胸甲騎兵旅団、となります。
7月25日。ル・ブーフ参謀総長は幕僚を引き連れてパリを発し大本営所在地に指定されたメッスへ入ります。皇帝を迎える準備に追われた後、27日、パリのナポレオン3世に宛て以下の電文を送信しました。
「以下状況を報告します。マクマオンの第1軍団4個師団はアグノーからストラスブール付近で編成をほぼ終えております。更に第1軍団にはドゥエーの第7軍団からリエベール、デュスメール両師団を割いてコルマールより北上させ合流させることにしましたので、これでマクマオンはアルザス方面に強大な兵力を持つに至りました。
未だ動員が続くリヨンからストラスブールに続く鉄道はますますその重要度が増しておりますので、南仏鉄道の警備を増したいところですが、護国軍は動員を始めたばかりなのでなかなかうまく行っておりません」
マクマオン軍の4分の1に当たる北アフリカからの軍勢到着はずっと先であるのに、なぜかル・ブーフはそれに触れず皇帝に編成が終わったとの印象を与えてしまっています。
この報告を受けてナポレオン3世はアルザス方面をマクマオンに任せるため第7軍団を正式にマクマオン指揮下にしました。
こうしてフランス「ライン軍」は動員集中が不完全な状態のまま7月最後の一週間に入ります。この27日の時点では既にドイツ側がフランスより正面の戦闘員数に勝っていたのに、未だフランス軍首脳は敵を先制し国境を突破することを夢見ていました。
とはいえ、さすがにストラスブールの第1軍団では当初の予定「ストラスブール北方カールスルーエ前面でバゼーヌ軍と合同しラインを渡河する」のは絶望的、との空気が流れ始めており、せいぜい第1、第7軍団の合同によってアルザス防衛に専念すべし、との意見が見え隠れし出すのです。
またバゼーヌ軍はこの時点でマインツ方面に敵プロシアの一大集団軍がいることを知っていたので、それを無視して南下するわけにも行かず、メッスを出てザール前面に集中するしか手がなくなって来ました。
また、先のル・ブーフの命令もこの考えに沿っているものと思われるのです。
こうしてフランス軍は二つの大きな「塊」、マクマオン軍が南部ライン川沿いアルザス地方、バゼーヌ軍がザール前面と次第に「形」が見えて来たのでした。




